幸せの裏野ハイツ(102号室の隠れ里 もしくは箱舟)
101号室 亀井洋二 東証一部上場企業 取締役技術開発本部長 52歳
「君は『惑星ソラリス』を観たことが有る?」
亀井本部長は笑顔で私に尋ねてきた。
「タルコフスキーですか。学生時代に名画座のレイトショーで挑戦しましたが、結局寝てしまいましたから、観たとは言えないですね。」
私が亀井本部長の自宅を訪ねたのは、本部長が夏風邪をこじらせて、珍しく会社を休んだためだ。
本部長は総務課に電話連絡で会社を休む旨を伝え、ついでに私に伝言を残していた。
『あの研究に進展が見られたならば、手数だが資料を持ってブリーフィングに来てくれたら有り難い。』
勤勉でせっかちな本部長らしい。
私も早く報告を上げたい気分だったので、出張から戻った足で伝言を聞くと、旅費精算も行わないまま、本部長の自宅に向かう事にした。
総務課の女の子から住所のメモをもらい、社用車を借り出そうとすると
「本部長のご自宅は、地下鉄大江戸線H駅前だから、地下鉄が一番早いですよ!」
とアドバイスをくれた。
H駅D出口を出て、左手に10分間ほど歩いた所らしい。
裏野ハイツ 101号室。
「もしかして、本部長の自宅って、駅近アパートなの?」
「はい。本社や研究所への通勤にも、生活にも便利過ぎて他所へ動けないって、おっしゃておられます。」
いかにも、合理主義者である本部長らしい言い分だ。
なんならば、研究所に住み着こうか、という勢いの人だったから。
地下鉄のホームを上がって、短いが活気のある商店街を通り抜け、緑の少ない雑然とした住宅街を歩く。 暑さで顔から汗が滴り落ちる。
時刻は午後4時を回っているが、夏の日差しはまだまだ厳しい。
道に迷ったら堪らないな、と思ったが、10分も経たずに目的の裏野ハイツを見つけた。
築30年とか聞いていたのだが、リフォームして小まめに手入れもされているようで、瀟洒なアパートだ。
しかし、東向きの物件だから、西にあるドアの前に立つと、西日にガンガン炙られる。
私はタオルハンカチで汗を拭うと、ネクタイを直して、101号室のインターフォンを鳴らした。
「ハーイ。どちら様でしょう?」
若い女性の屈託のない声が問いかけてくる。
本部長の娘さんかな? と思いながら私は「研究開発部の川上です。本部長に資料を持参致しました。」と自己紹介をした。
「あ、お疲れ様です。主人を起こしますので、少々お待ちください。」
「川上君、お疲れの所、無理を言ってすまなかったね。それに少し具合が悪かったもので、こんな格好で失礼するよ。解決法が見えたとなったら、居ても立っても居られなくなってね。」
いつもは研究所の作業着姿の本部長が、浴衣姿で私に謝罪した。
通されたダイニングはエアコンが効いていて、心地よい。
何だか少女みたいに若い本部長の奥さんから、冷たいおしぼりと麦茶を勧められながら、私はダイニングの椅子に腰を落ち着けた。
「どうか、上着とネクタイをお外しください。この暑さだと、熱中症が心配だわ。」
私はお言葉に甘えて、気楽な格好にさせてもらう事にした。
奥さんは麦茶のお代わりに、今度はアイスティーを出して
「それでは、どうぞごゆっくり。何か有りましたらお声をおかけ下さい。」
とニッコリ笑って、奥の部屋に入って行った。
私はブリーフケースから資料を取り出すと、無駄な前置き無しで、検証結果の説明を始めた。
本部長と研究の話をする折には、何時もこんな感じだ。
「じゃあ、二酸化炭素の処理には目途が付きそうだね。」
本部長は説明を聞きつつ、忙しくデータのハードコピーを捲っていたが、一発で全てを飲み込んだようだ。
「はい。人工的に白潮を起こして、コッコリスの形で炭酸カルシウムを回収します。人工白潮の発生にはゲフィロカプサSPを使い、白潮の処理はシオミズツボワムシに食わせる所までは成功していましたが、ゲヒィロカプサとシオミズツボワムシの混合比の最適化が出来ました。」
白潮というのは赤潮の一種で、円石藻という炭酸カルシウムの殻を作る海生植物プランクトンによって引き起こされる。
白潮は海中での視界不良を起こしてしまう難は有るが、毒性は無い。
円石藻の作った炭酸カルシウムの殻は、円石藻が死ぬと分解されて二酸化炭素に戻ってしまうが、動物プランクトンに食われて糞として排出されると、そのまま堆積する。
そうして出来た地形が、ドーバー海峡のチョークの壁や、カルストだ。
ドーバーの崖や秋吉台は、太古は海底だったのだ。
シオミズツボワムシは海生動物プランクトンで、植物プランクトンを食べて生きている。
そして生まれたばかりの幼魚の餌となる。
例えば、海で生まれた稚アユは、川を登り始めるまで、このプランクトンを餌にしているし、真鯛の完全養殖をする時には、孵化したての幼魚にこのプランクトンを与えている。
現在は餌用シオミズツボワムシの養殖には、酵母菌やクロレラが餌として与えられている。
円石藻の一種であるゲフィロカプサと、生育スピードの速いシオミズツボワムシ培養株とを混合培養し、水中の溶存二酸化炭素の固定と養殖魚の餌の生産を同時に行おうというのが、当初の目論見だった。
ところが実験を始めると、実験用にスクリーニングを行って得たゲフィロカプサの特異株が、ビオチン投与下では驚くほどのスピードで、コッコリスを生産し始めた。
水中の二酸化炭素を消費し尽すと、水面に膜の様に浮かび、直接大気中の炭酸ガスを吸収する性能を有している事が判明したのだ。
計算上では0.22アールの水面が、1ヘクタールのC4植物と同等の炭酸ガス固定能を持つ事になる。
大ざっはに言えば、1㎡の海面が毎時450㎡のトウモロコシ畑と同じだけ、二酸化炭素を吸収する。
内湾を区切るなり、メガフロートを浮かべるなりしてスペースを確保すれば、日本は炭酸ガス市場で排出権を高い金額を払って購入するコストが減り、同じく排出権確保に苦しんでいる国に、技術を有償移転する事も可能だ。
この時点で餌用シオミズツボワムシの生産は二次的な主題となり、大気中の炭酸ガス固定が最大の目的となった訳だが、やはりシオミズツボワムシに特異株を食べてもらわない事には、特異株が生きている内に遠心分離で回収する手間とコストが必要だ。
だから日本酒の生産で、麹菌と酵母を同時に培養して並行複式発酵を行うように、ゲフィロカプサとシオミズツボワムシの混合培養の最適解を求めていたのだ。
ブリーフィングは20分足らずで終了し、私は少し温くなったアイスティーで喉を潤した。
「これ、秘密保持範囲はどう設定している?」
目を通した資料を私に返却しながら、本部長が訊ねてきた。
「ベンチテスト段階では、ウチの人間オンリーでやっています。話はNEDOの上の方と四谷教授には通してありますが、詳細は特許申請後で了解を貰っています。産業スパイ対策のために、『餌用シオミズツボワムシの低コスト生産方法』が表向きの主題です。」
「手堅いね。」
「スパイが、特異株の環境漏出リスクまで理解した上で、パクるのならまだしも、見かけの炭酸ガス固定能だけを見て類似技術に手を出すと、逆に環境破壊に手を貸す事になる可能性がありますから。」
「炭酸ガス固定にだけ注目して、無節操に環境放出を起こせば、大気中の炭酸ガス濃度の大幅減少を引き起こすかもしれないね。そうなると、農業生産物の収量減を引き起こす事に成るかもしれない。食料危機の到来の可能性がある、か。それ以前に、特異株の占有した水域では他の藻類は生育が難しくなるから、大規模な磯焼けは必至だね。海の生態系が狂ってしまう。」
「そう成らないためのビオチン要求性なのですが、その意味を理解出来るかどうか……。」
「よく分かった。君が『メールでは資料を送れない。』と言った意味も納得だ。」
「君は『惑星ソラリス』を観たことが有る?」
亀井本部長は笑顔で私に尋ねてきた。
「タルコフスキーですか。学生時代に名画座のレイトショーで挑戦しましたが、結局寝てしまいましたから、観たとは言えないですね。」
「ソラリスはそれ自身が巨大な知的生命体なんだ。人類とコミュニケーションする意思が有るのか無いのかは分からないが、ヒューマノイドタイプの分身を、人類の前に送って来る。」
本部長は、急に奇妙な話題を振って来た。
何と答えてよいのか、私が困惑していると
「温室効果ガスによる気候変動が、人間の手に負えないと判断したら、僕はその処理を家内に頼んでみようかと考えていたんだ。」
「奥さんに……ですか?」
私は、少女のような本部長の奥さんの姿を思い出して、混乱した。
あの奥さんが、人類以外の知的生命体だとでも言うのか?
本部長は軽くうなずくと
「私の話だけで、信じろと言っても無理な事くらい解るよ。隣の102号室も見せてもらったら良い。家内に案内させよう。」
本部長が奥さんを呼ぶと、とても非人類の生命体だとは思えない奥さんが、部屋に入って来た。
「お話は、お済ですか。」
「川上君は優秀な男でね。炭酸ガスの処理に目途を着けてくれたよ。君の手を煩わせずに済みそうだ。ついては、川上君を大石さんに紹介して欲しいのだが。」
「あら、大丈夫なのかしら?」
「川上君は口の堅い人物だし、機密保持の何たるかを心得ている。大局観も持っているし、裏野ハイツの敵にはならないよ。」
・・・・・・・・・・
102号室 大石信二 無職 個人投資家 46歳
亀井本部長の奥さんが102号室のインターフォンを鳴らして「大石さぁん! 亀井の家内です!」と呼びかけると、ドアが開き、日に焼けて引き締まった顔の男が姿を見せた。
「何だよ? バアちゃん?」
バアちゃん? この男は誰に向かって言っているのだろう? まさかと思うが、本部長の奥さんに? 本部長は奥さんを、人類以外の生命体だと言っていたが……。
「信二、言葉に注意しなさい。この人に部屋を見せて欲しいの。主人も承知しています。」
奥さんは、言葉に注意しろと警告したが、バアちゃんと呼ばれた事に怒ってはいないようだ。
何だか釈然としないが、要領を得ないまま、私は男に挨拶をした。
「はじめまして。川上雄二と言います。亀井本部長の下で、主任研究員をやっています。」
「あ、亀井さんの所の人。亀井さんの紹介じゃ否も応もない。なんてったって、義理の祖父ですからね。」
……? 今度は、何だって?
「それでは信二、よろしく頼みましたよ。川上さん、私は念のために部屋へ戻っていますね。」
通された部屋には、タワー型のパソコンが二台と六枚のモニターが壁際に並んでいた。
モニターには、株価や為替、商品価格のリアルタイム表示が映し出されている。
ダイニングテーブルの上には、ハード・ノートパソコン。
窓には全て遮光カーテンが掛かっている。
「大石信二です。株の売買でメシを食っています。ちゃんと納税もしてるのに、個人事業主登録をしていないから、職業区分では無職です。」
大石さんが笑いながら自己紹介をした。
「本部長の、義理のお孫さんと言うのは、本当なのですか?」
「ああ、急にそんな事聞いても、意味分かんないですよね。論より証拠、『隠れ里』を直接見てもらった方が話が早い。」
大石さんは奥の部屋へ続くドアを開けた。
奥の洋間にベッドは無い。
大量の缶詰と非常食の段ボール箱、救急医薬品セットやアウトドア用品が、所狭しと並べてある。
この部屋の窓にも、遮光カーテンが掛かっている。
この男、サイコ系のサバイバリストなのか? とも考えたが、本部長を義祖父と言ったり、奥さんを祖母と言ったりした事さえ除けば、言葉や行動に異常性が感じられない。
また、サイコパスなのであれば、本部長が私に紹介したりなど、しないだろう。
「カーテンは、紫外線による備蓄品の変質を少しでも抑えるためでね。見てもらいたいのは、こちらです。」
彼はそう言うと、部屋の右手側の壁に作り付けの、物入れの扉を開けた。
物入れの中には、何も置かれていない。
しかし、奥にもう一つ扉がある。
間取り的には、103号室に繋がる非常ドアなのか? とも思えるが不可解な造りだ。
見返して101号室との境の壁を眺めても、それらしいドアは無い。
大石さんは、物入れの奥の扉を無造作に開けた。
扉の奥は、どこか懐かしい感じのする、畳敷きの座敷に続いていた。
座敷の先には縁側があり、生垣越しに、遥か遠くの青い山が見えた。
見えている山は、まさか富士山?
関東平野から見える独立峰は、富士か筑波。
しかし、東向きの物件で右手側を見れば、方角は南になるはず。
東京の南側に独立峰は存在しないのに。
もしかすると、方角が狂っている?
そんな事より、そもそもH駅は都心からは外れているとはいえ、雑然とした住宅街だ。
こんな長閑な場所が、近傍に有ろう筈はない。
私が言葉も無く立ち尽くしていると
「秘密基地、いや、やっぱり隠れ里かな。ようこそ、この場所へ。」
大石さんが、静かに茶化した。
「亀井さんはこの現象を、人外の知的生命体の意思だと考えているけれど、僕は単に平行世界との接点に裏野ハイツが建っている為だと考えています。亀井さんも僕も、確たる証拠を出せる訳じゃないから、憶測でモノを言っているに過ぎないのだけれど。」
大石さんと縁側に並んで座り、暮れ始める空と入道雲を眺めながら、風を受けていた。
夏の暑さは『こちら側』でも感じるのだが、ヒートアイランド現象の、何もかもを融かし尽すような容赦の無い暑さではない。
彼は草履をつっかけると、庭の菜園から良く実った胡瓜を二本もぎ、一本を私に渡しながら話を続けた。
「義理の爺ちゃん、いや亀井さんと意見が一致しているのは、ここがシェルターに成り得る、という点です。僕の考えるシェルターは、来るべき第二次関東大震災用で、彼が考えているのは地球規模の破滅的被害なんだが。」
彼は小気味良い音をさせて胡瓜をかじりながら、震災時の避難誘導と、その際に起こり得る懸念について話を始めた。
「見てもらったら分かるでしょうけど、ここだったら千人どころか万単位の人間が逃げ込めます。102号室の洋間に備蓄した物資の他に、こちら側の建物や納屋にも、肥料や燃料をはじめとして、様々な物資の備蓄を進めています。少しずつではありますが、畑も広げています。知ってますか? 今はブタンガス・カートリッジで動かせる小型耕運機も売られている。全部通販で買えるから、外出しないでも済むのが有り難い。お陰で、無職の引きこもりなのに、こんなに日焼けして、筋肉も付いちゃいました。」
「お金は、どうして捻出しているのですか?」
「株の売買で出る利益を、全部これに突っ込んでいます。だから市場が開いている間は、パソコンの前から動けません。今は時間外取引までは、やっていられないから、全部現物取引ですね。」
「凄い……。個人事業ですか……。」
「H駅周辺は、住宅密集地ですから、地震で大規模火災でも起これば逃げ場が無い。炎にまかれる人が、きっと出てきます。そんな人達を、一人でも多く助けたい。……ただし、懸念も有るのです。もし、『あちら側』の裏野ハイツが燃えて、両方の世界を繋ぐ扉が使えなくなってしまったら、『こちら側』で生き残った人達に、何と言って説明をしたら良いのでしょう? 善意のつもりで始めた事ですが、『地獄への道は、善意で舗装されている。』という言葉が、時折頭をかすめます。迷いが無いわけじゃない。……もう一つ、見てもらいたいものがあります。」
私たちは一旦座敷に戻り、『こちら側』の板の間に歩を進めた。
板の間には、炊事場と古風な水屋がある。
水屋の横には、床下の室に通じると思しき板戸が有るが、それは釘を厳重に打ち付けて塞いであった。
「バアちゃんは、この扉から隠れ里に逃げて来ました。」
大石さんがポツリと言った。
「この先は、太平洋戦争の時の防空壕に続いています。防空壕の外は、空襲で燃えている東京の街です。」
「今でも、燃えているままなのですか?」
私の問いかけに、大石さんは一つ溜息を吐くと、
「今でも、燃えているままです。……と言うよりも、時間軸がその時と繋がったままと考えたら良いのでしょう。バアちゃんと、子供時代の父を背負ったバアちゃんの連れ合いとは、空襲の大火災の中を逃げ惑っていました。至近に落ちた焼夷弾のせいで、バアちゃんと連れ合いは離れ離れになり、バアちゃんは焼け死ぬ寸前で無人の防空壕に転げ込む事が出来たそうです。防空壕の出来るだけ奥へと逃げたバアちゃんですが、熱気と息苦しさは耐え難い。ふと上を見上げると板戸がある。どうせ死ぬのであれば、地中で蒸し焼きになるより、外で死にたいと、板戸を押し上げると、ここに出たのだそうですよ。」
「そうすると、板戸の下は。」
「そうです。一度、板戸を開けてみようとしたら、熱気と煙が噴き上がってきましたよ。慌てて、二度と開かないように、釘付けにしましたが。」
「川上さん、裏野ハイツの不思議を、信じてもらえますか?」
背後から、落ち着いた女性の声に呼びかけられた。
振り返ると、野良着を着た三十路前の美しい女性が微笑んでいる。
微笑んだ表情には、見覚えが有るのだが、誰だか思い出せない。
息子さんなのだろうか、三歳くらいの男の子の手を引いている。
遊び疲れたのか、男の子は眠たそうだ。
「川上さん、何だかボンヤリしちゃっているけど、『こっち側』のバアちゃんですよ。亀井さんの奥さんでいる時よりも、少し老けているけど。」
先ほどのシリアスな感じから、少し調子を取り戻したらしい大石さんが、お道化て言う。
「まあ、何ですか。老けてるなんて、口の悪い。」
「ごめん、ごめん。誠君を座敷か寝間で、一眠りさせてあげた方が良いのじゃない? 今にも眠り込みそうだよ。」
「そうしましょう。河原で魚を追いかけて、さんざんはしゃいでいたから。」
『こちら側』の本部長の奥さんは、男の子を抱き上げると、板の間を出て行った。
男の子は直ぐに寝入ってしまうだろう。
「もしかすると……あの少年は、大石さんのお父さん?」
「いえいえ、お隣103号室の、竹崎さんとこのお子さんでね。誠君ですよ。竹崎さんの奥さんが、商店街のお総菜屋さんでパートに出ている間、バアちゃんがベビーシッターをしてるんです。竹崎さんとこが『パートが決まりそうなのに、保育園に空きが無い。』って困っていたのを、201号室の小西の婆さんが、『保育園が決まるまで、預かってあげる。』って気安く引き受けたんだけれど、子供ってやたらと元気でしょう? 直ぐに音を上げて、ウチにやって来ると、バアちゃんに押し付けちゃったんですよ。バアちゃんは、子供と生き別れになって苦しんでいたから、自分の子供の様に可愛がっていますよ。誠君もバアちゃんに懐いています。」
「じゃあ、103号室の人も、201号室の人も、『隠れ里』の事を知っているのですね。」
「知っています。竹崎さんとこは、誠君を預かるうえで、話しておかなければならないと思って、打ち明けたんですが、『隠れ里』を見て、ビックリしてましたねぇ。ま、無理もない。でも、保育園に空きがない以上背に腹は代えられないって事と、子供が伸び伸び生活するのに良い環境だからって事で、納得してもらっています。もっとも竹崎さんは、103号室の隠し扉が、斜め上の空き部屋の、202号室に繋がっているのを、既に発見していたようで、隠し扉が別の場所に繋がっているのは、ご存知でしたよ。『102号室は、こんな良い所にに繋がっているのね!』って言ってたから。」
「随分、肝の据わった人ですね。」
「竹崎さんの奥さんは、雨続きなんかの時には、202号室で洗濯物の室内干しをしているみたいなんだなぁ。時々上から足音がします。ちょっと笑っちゃいますね。小西の婆さんに至っては、当然の様に知っていましたよ。誠君を連れて来たのは、バアちゃんにとっても、竹崎家にとっても、為に成ると最初から確信犯的に考えていたようですね。善人だが中々食えない婆さんです。」
「本部長の奥さんが、本部長の家と、この『隠れ里』とで、年齢が違っているのは、どういった訳なのでしょう?」
「まあ、想像でしかありませんが、次元というか世界が違うからだと、勝手に解釈しています。僕は今46歳で、親父は71になります。親父は、地下鉄と私鉄を乗り継いで、1時間半ばかりの所で、お袋と共に健在ですよ。親父はバアちゃんが二十歳の時の子供だから、バアちゃんが仮に『あっち側』の世界で順調に年齢を重ねていれば、バアちゃんはもう91になっているはずです。元の世界に、91歳のバアちゃんがそのまま存在していたら、『こちら側』のバアちゃんも、亀井さんの奥さんも、存在していないのかもしれない。」
数字的には平仄が合うのだろうが、私はその事実を消化しきれずにいた。
「大石さんが、先ほどの女性と本部長の奥さんとを、実の祖母だと認知出来たのは、何故なのです?」
「親父がね、母親の形見だと、大切に持っていた一枚の写真です。子供時代の親父と、まだ20代の祖父・祖母が三人で写っていました。親父にとって、母親を思い出す縁に成るものは、その一枚の写真しか残っていなかったのですね。」
「お爺様は、その後ずっと独身で?」
「終戦後は、男手一つで子育てと仕事を両立させるには、厳しい時代だったようです。知人の勧めもあって戦争未亡人の後妻を貰っています。親父の継母は子供さんを亡くしていたから、親父はすごく可愛がられたみたいですね。継祖母の事は、僕は淡い記憶しか無いのだけれど、物静かな優しい人でした。親父はバアちゃんの写っているその写真を、自分が大事に持っているのを、継祖母が知ったら傷付くかもしれないと思って、ずっと隠していたみたいですね。継祖母の一周忌が終わった後に、何気なく見せてくれました。僕はチラッと見ただけのつもりだったのですが、記憶に焼き付いていたのでしょうね。……法事が終わって、部屋に帰って来たら、洋間の物入れの奥に、それまで存在しなかったはずの扉を見つけました。……開けてみると、今にも倒れそうな女性がいました。その女性を見て、脳がハレーションを起こしました。彼女は、実のバアちゃんだっ! てね。」
「無かったはずの扉を見つけたり、中に別世界が広がっていたりする高ストレス下で、目の前の女性が写真で見た祖母と同一人物だというのは、思い違いだ出来過ぎている、とかは考えなかったのですか?」
「そう、思おうとしましたよ。世界には同じ顔の人が、三人は居るっていうし、生まれ代わりとかタイムスリップなんて、おとぎ話だ、とね。隠し部屋に潜むサイコパスだとか、長年棲み付いている怨霊だとかいう方が、まだ現実味があるような気がしますよね。」
「…………。」
「バアちゃんが、ここで少し落ち着いてから、僕は親父を裏野ハイツに呼びました。『あの写真を持って来て欲しい。』と。」
「来てくれたのですね。」
「はい。来てくれました。バアちゃんは、薄々察していたかもしれないけれど、親父には不意打ちだったから、一瞬石像みたいに固まってましたね。……その後、二人して抱き合って、オイオイ泣き出したんだけど、いい歳をした親父が、遥かに若い女性にしがみついて『母ちゃん、母ちゃん。』って泣いているのを見るのは、だらしなくて滑稽だと思っても、不覚にも僕も泣き笑いが止まりませんでしたよ。」
「お父様は、こちらに越しては来られないのですか?」
「裏野ハイツには空き部屋が有るし、別にここじゃなくても、スープの冷めない距離に越して来てくれれば、僕も安心なんですが、親父は『俺は継母の墓を守るから、お前は母ちゃんを守れ。』って。……だから、引っ越しては来ないでしょうね。それで、年末年始の二日間は、僕の方から必ず実家に行くって決めました。実家のお袋は、『あんたが正月帰って来なければ、おせち料理作らなくて済むのに!』って嬉しそうにボヤイています。」
「お父様が越して来られない理由は、何故なのでしょう?」
「親父の継母に対する義理立て、じゃあないでしょうか。親父は、子供としてはバアちゃんと過ごした時間よりも、継母と過ごした時間の方が長いわけだから。ほら、『生みの親より育ての親』って言葉もありますしね。……それと、バアちゃんが親父に、バアちゃんの連れ合いだった爺ちゃんのその後を、訊ねたんです。『あの人は、あの後、どうだったの?』って。親父は爺ちゃんが再婚した事と、継母にとても大事にされた事、二人とも亡くなった事を、淡々と話しました。バアちゃんは、爺ちゃんが再婚したと聞くと、少し寂しそうに、仕方がないよねぇ、と言いましたが、その後平穏な人生だったことを喜びました。そして親父に『お前、継母さんとの思い出を、大切になさい。』と微笑みました。親父は黙って、うなづいてましたね。」
「それでは、その後は、お父様と『こちら側』の本部長の奥さんとは、お会いになってはおられないのですね?」
「会ってないでしょう。『こっち側』のバアちゃんは、『あっち側』の世界には、行こうとしないから。ここに一人というのは、随分と寂しいと思うのですけどねぇ。僕が出来るだけ顔を出すようにしているけれど。この頃は、昼間に誠君が来てくれるから、ちょっとは賑やかになってますけどね。夜になって、竹崎一家が花火なんか持って、遊びに来てくれる事もあります。バアちゃんは、嬉しそうに西瓜なんか切ってね。」
「……ここには、他には誰も居ない?」
大石さんは、こめかみを揉みながら、私の疑問に答えた。
「民話や伝説に出て来る隠れ里には二パターン有って、一つは里に里人が住んで平和なコミュニティを作っているタイプ。もう一つは、里は有るのに住人が居ないタイプ、いわゆる『山中の迷家』タイプですね。『こっち側』では現在の所、バアちゃん以外の人に遭遇した事が無いから、ここは、マヨイガタイプとも考えれます。でも、それにしちゃ、広すぎるんですよ。……まさか、とは思うんだが、マヨイガが、隠れ里を成立させて維持するための、里人すなわち労働力を、集めようとして裏野ハイツの超常現象を創る事にしたんじゃないかと、疑っているところも、正直ありましてね。だから、『地獄への道は……』の言葉が忘れられない。蟻に巣を作らせて、観察するキットなんかが、売っていたりするでしょう?」
「亀井本部長とは、その疑問を共有していらっしゃるのですか?」
「ええ、何度となく。亀井さんの考えは、単純明快です。『大災害が起こるのが確定的ならば、救助できる人間は救助したら良い。無駄に死ぬよりマシだ。その後の算段は、その時の事。弱ったアザラシの幼体が、そのまま死ぬのと、水族館に保護されるのと、その個体にとって、どちらが幸せだと思う?』とね。合理主義……なのですかね?」
私は、大石さんの質問に、明確な返答をする事が出来なかった。
私にも、妻と娘がいる。
いざとなったら、何よりも守りたい二人だ。
しかし、守る代償が、一生二人をこの隠れ里に囲い込む事になると知った上で、その決断を下せるかどうか……。
黙り込んでしまった私に、大石さんは
「川上さん、まだ焦って決断を下す必要は無いのじゃないか、と思いますよ。こっちの世界の広さが、全然分かっていないし。大きな川が有るんだが、下れば海まで行けるかも知れない。こっちの世界は、まだ探検出来ていないのです。もしかしたら、手付かずの地球が、丸々存在するのかもしれない。新しく『やり直し』が出来るのだとすれば、喜んで『こちら側』に移住しようとする人もいるでしょうし、僕が見付けていないだけで、既に人々が暮らしている集落が有るのかもしれない。」
大石さんは、目を閉じて自分に言い聞かせるように
「ドローンを注文したんです。高価くて高性能なヤツをね。限界まで飛ばして、探索してみるつもりです。何時の日か、バアちゃんに相応しい連れ合いが、『こっち側』の世界で、見付かるんじゃないか、と期待を持っています。」
希望に満ちた言葉ではあったが、私はふと違和感を覚えた。
「大石さん、お祖母様は、『あちら側』の私達が生活している世界では、亀井本部長の奥さんとして、今存在しているのですよね? 亀井本部長は、いつ結婚したのです?」
「亀井さんの奥さんは、戸籍上では死亡扱いになっているから、正確に言えば内縁関係なのですが、事実婚をしたのは、ここでバアちゃんと親父を引き合わせてから、しばらくして、ですね。」
「だから、奥さんが『こちら側』よりも、若いのか……。」
大石さんは曖昧にうなづくと
「僕も、そうなんじゃないか、と思います。亀井さんが新妻を連れて、裏野ハイツ内に挨拶回りをしたときに、初めて若くなったバアちゃんに会ったのですが、バアちゃんじゃないか! と気付くと同時に、あれっ? と感じました。…………バアちゃんっぽさが、薄いというか、上手く説明出来ないんだけれど、距離がちょっと遠いっていうか……。爺ちゃんと結婚する前の、娘時代のバアちゃんの様な気がするのですね。話をしてみると、知識や意識は連動しているんだけれど、考え方に『既婚・子持ち』と『未婚女性』の、微妙な差異が有るような……。あるいは、亀井さんと結婚する事で、亀井さんの物の考え方の影響を受けているのかも。『知識をコピーされたクローン』、そんな気がちょっぴりしました。亀井さんには内緒ですよ?」
「この建物の、所有関係はどうなっているのですか?」
余りにも異質な、アパート過ぎる。どこの誰が所有しているのだろう?
「あれ? 知りませんでした? 亀井さんの所有物件ですよ。亀井さんは結婚した時に、裏野ハイツを居抜きで買ったのです。蓄え全部と、退職金を前借してね。ボロアパートだったのだけれど、立地が良いから凄く高価でした。僕も買おうと思っていたんだが、手を出せませんでしたね。亀井さんが貧乏になっちゃったから、耐震補強リフォーム代は僕が出しました。まあ、義祖父と義孫の関係だから、問題は有りません。そろそろ、戻りますか?」
戻ろう。そして、確認したい事も有る。
「大石さん、洋間には、物入れは二か所有りますよね?」
・・・・・・・・・
201号室 小西房江 年金生活者 71歳
102号室の洋間に戻った私たちは、『隠れ里』に続く物入れの隣、もう一つの物入れの扉を開けた。
案の定、奥に扉がある。
「どうして気が付きました?」
「大石さんが、正直だからです。あなたは、出来るだけ誠実に、私に対応してくれました。言い難い話も有ったでしょうに。」
103号室の扉は、斜め上の202号室に繋がっているという。
それならば、元から有った102号室の扉は201号室に繋がっているのではないのだろうか?
もしそうだとすると、「小西の婆さん」が102号室で起きた、本部長の奥さんの出現を『当然の様に知って』いても、なんら不思議は無い。
大石さんが、女性の介抱に手慣れている様には思えないから、今にも倒れそうな女性を発見したら、思わず「小西の婆さん」に助けを求めたのではないのか。
また、大石さんが隠れ里に『出来るだけ顔を出すようにしている』のであれば、彼が102号室に不在の時に、通販の品物を受け取ってもらう人物が必要だ。
大石さんは荷物の受け取り人名義を、「小西の婆さん」にしていた筈だ。
受け取った荷物を、階段を使って201号室から102号室へ運ぶのは大変だろうが、隠し扉を使えば洋間から洋間へ移動させるだけで良い。台車を使えば簡単だろう。
「そして何より、あなたのお父様の言葉です。『俺は継母の墓を守るから、お前は母ちゃんを守れ。』この言葉が『俺は継母の墓を守るから、お前はバアちゃんを守れ。』だったら、全く気が付かなかったと思います。いや、お父様が間違って言葉を使っているというのでは、ないのです。息子にとっては『バアちゃん』が自分にとって『母ちゃん』なのは、正しい。しかし、息子に向かって言って聞かせるのであれば、息子目線の『バアちゃん』の方がしっくり来る。……だから、その場にもう一人『母ちゃん』に当たる人物が居たのではないか、と仮定すると何となく理解出来ます。継母は二人居るのです。お父様の継母と、あなたの継母と。あなたが『お袋』と呼んでおられる、現在お父様と一緒に住んでいられる女性は継母様ですね?」
「その通りです。実父・継母と実母は、憎しみ合っている訳ではないのですが、一緒に住むのは流石に無理そうですね。それでは、その場に居た『母ちゃん』に当たる人物は、誰だと思います? もう、お分かりなのでしょうけれど。」
そう、次を促す大石さんの声は、穏やかだった。
「201号室の小西さんは、あなたの実のお母さまですね?」
「育児の辛さに、子供を捨てて離婚した女です。本当ならば、信二に母などと名乗れよう筈はありません。」
102号室の、もう一つの隠し扉の向こうで、小西さんは私たちを待っていた。
なんとはなしに、ガサツそうな老女を予想していたのに、現れたのは品の良い老婦人だった。
「誠ちゃんを預かって、子供の面倒を見ることにチャレンジしてみようとしましたが、やはり無理でした。早々に音を上げて、信二の一家に押し付けてしまいました。」
「かあさん、もう良いんだよ。親父も、お袋も、僕が裏野ハイツに住むことに納得してくれている。それに誠君をウチに連れて来てくれたのは、バアちゃんの事を考えてくれての事だろう?」
小西さんは、私に向かって
「川上さん。この子は、少し甘過ぎるのです。……私を探し出すと、身寄りが無いのを心配して、このアパートに住み着いてしまいました。」
「甘いのではなく、情に厚いのですよ。いいじゃありませんか。」
今の返事では、本当に言いたいことを言い尽くせてはいない。だが、他に掛けるべき適切な言葉が思い浮かばない。
「かあさん、誠君が、この部屋で遊んだ時に、悪戯をして、かあさんが大事にしている写真を持って帰ってしまった事があっただろう? 竹崎さんが慌てて返しに来て、かあさんは『孫の写真だ』って受け取ったはずだ。かあさんは、親父と別れてから、再婚していないから、孫が居ようはずはない。かあさんが大事にしていたのは、僕には見せてくれないけれど、僕の写真だね?」
「竹崎さんに、聞いたの?」
「この前『隠れ里』で、花火をして西瓜を食べた夜に。かあさんはバアちゃんと話し込んでいたから、気が付かなかったかもしれないけど。竹崎さんが『小西さんは、お孫さんがいらっしゃるのね。可愛らしい男の子の写真を大切に持ってらっしゃったわ。それを誠が悪戯して、ウチに持って来てしまったの。』って。」
「あの写真だけは、捨てられなくってね……。」
私は201号室を辞去する事にした。
靴を置いているのは102号室の玄関だから、隠し扉を通って102号室へ出る。
一度『隠れ里』へ行って、奥さんに挨拶をしてから101号室へ向かおうかとも考えたが、誠君を起こしてしまうかもしれないと思い、そのまま外へ出る。
玄関の鍵はオートロックだから、問題は無い。
・・・・・・・・・・・
再び 101号室
101号室のインターフォンを鳴らすと、亀井本部長がドアを開けてくれた。
本部長と向かい合わせに、ダイニングのテーブルに着く。
「本部長、奥さんは?」
「家内は、洋間の奥の扉の向こうで、休んでいるよ。建物の外に出るのは、まだ疲れるようだ。」
隠し扉が斜め上の部屋と繋がっているという法則が、101号室にも適応されるのであれば、101号室は存在しない200号室と繋がっている、と言う事になる。
「本部長、200号室は、どんな部屋なのですか?」
「あの扉は、家内があそこから出て来るまでは、どうやっても開かない扉だった。フェイクのインテリアか、と思っていたよ。ある日、扉が開いて、震える少女が部屋に入って来た。少女は消え入りそうな声で『この世界での道連れになって下さい。』と頼んできた。……家内は、あの奥を見てもらいたくないらしい。私は、開けない、と約束したよ。」
「知りたいとは思わないのですか?」
「興味が無い訳ないだろう。……しかし君、『鶴の恩返し』は知っているよな? 異種婚姻譚において、両者が共同生活を維持しようとするならば、契約は守られればならない。約束を破るのは、契約破棄と同義だ。」
「…………。」
「……分かったよ。中を覗いたわけではないが、中の様子を、家内に聞いてみた事は、ある。」
「奥さんは、話してくれましたか?」
「『海が広がっています。』ただ、それだけだった。生命の揺りかごたる海なのか、生存競争の海なのか、それとも私の概念とは全く異なる海なのか、何一つ分からない。しかし、それを答えてくれた事こそが、家内の精一杯の好意なのだと思う。」
「奥さんは、『隠れ里』に逃げて来た女性と、同一人物と言えるのでしょうか……。」
「一卵性の双生児ですら、細胞が分かれた瞬間から、二つの別の人格だ。あの二人の成立過程は、それよりも異質だ。もし、仮に二人が対立する事になれば、私は家内に味方する。大石君も素晴らしい男なのだが、最大でも地域コミュニティレベルの避難までしか、頭に無い。それで、いざという時に文明が維持出来ると思うかい? 文明の維持には準国家レベルの疎開が必要だとは、思わないか?」
「国家レベルで、『隠れ里』に疎開する、と?」
「君の、炭酸ガス処理プロジェクトは、この国と交渉を開始するための足掛かりに、ちょうど良い。プロジェクトか軌道に乗る頃には、家内も外の世界に慣れて来るだろう。そうしたら、彼女もプロジェクトに参画させる。首脳部にも疎開に理解を示す者も、増えて来るだろう。」
「閉じた『隠れ里』に、皆を囲い込むつもりですか?!」
「どちらが囲う方かなんて、主観の問題に過ぎないね。第一、どちらの宇宙が広いのか、どうやって比較する? こちらの方が、あちら側の内側に閉ざされた世界なのかもしれないぞ?」
本部長の反論に、私は何も言い返せなかった。
どちかの宇宙が広いのかなど、矮小な人類が比較できる話ではない。
こちら側の方が人口が多い。ただそれだけの話だ。
「じゃあ、本部長は疎開が始まったら、真っ先に『隠れ里』側に行かれるのですね……。」
私が絞り出せたのは、そんな捨て台詞みたいな駄々でしかなかった。
しかし本部長は苦し気な顔になり、
「私は、いや私と家内は、あちらに行く事は出来ないだろう。」
と、言った。
「あちら側には、もう一人の家内が、既に存在している。ウチの家内があちらに行くためには、その存在と痕跡を、完全にデリートする必要がある。私にも家内にも、そのような真似は出来ない。こちらの世界で一生を終えるよ。こちらの世界が滅ぶならば、私は家内と一緒に、その運命を受け入れるつもりだ。……その様な事態になったら、家内が200号室の海に誘ってくれるかもしれないがね。」
私は会社に「今日は直帰します。」と電話を入れ、地下鉄に乗った。
地下鉄も、乗り換えたJRも、いつもと同じく非常に混んでいる。
次第に我が家が近づいてくる。
今日は酷く暑かった。
明日も同じくらい暑いのだろう。
妻に何から話をするか、私の頭の中は、その心配だけがぐるぐると渦巻いていた。