2015年
2015年7月21日(火) 天気:雨 最高気温:29.3℃
姪っ子の梨乃ちゃんが、雨を憎たらしそうに見ている。7歳の彼女にとって、夏の雨ほど邪魔な存在はいないだろう。大きくなるにつれて、どんどん邪魔が増えてくるのだが、そのことはまだ内緒にしておこう。
「町子おばちゃん、つまんない」
雨が降ってつまらないことを、私という人間がつまらないかのように梨乃ちゃんに言われても、ムカついたりはしなかった。今日、実家に帰ってから、もう12回も「おばちゃん」と呼ばれているが、それも許容範囲だ。実家で聞く雨音には安心感があったから、私の気分はそれほど悪くはない。
東京で20代のOLや、女子高生を見ると、若くて羨ましいなと思うこともあるが、梨乃ちゃんを見ていると、また7歳から女としてやり直すのは正直しんどいなと思う。一度だけでいい。女として生きることは、男性には理解できないほど大変なことなのだ。
「町子おばちゃん、つまんない」
それにしても、どうして子供は同じことを何度も言うのだろうか。兄も義姉も、毎日このようなことを聞かされて、よく正気でいられるものだと感心する。
「町子おばちゃん、つまんない」
私は無言でタバコに火をつける。
「ゴホッゴホッ」
梨乃ちゃんは、蚊取り線香の煙を嫌がる蚊のように、私の視界から消えて行った。やっぱり、実家で吸うタバコの味は格別だ。
梨乃ちゃんの言う通り“つまんない”時間が流れていたので、冷蔵庫からビールを出して、テレビをつけた。これが意外とおもしろかった。東京では土曜日のゴールデンタイムに放送されている番組が、沖縄では平日の夕方に放送されていて、その番組は既に見ていたのだが、おもしろかったのはCMのほうだった。素人が度々出演していて、方言丸出しのローカルCMが愛らしく、私は番組そっちのけで、CMの時間を楽しんだ。
「お腹空いた」
と梨乃ちゃんが、その言葉しかしらないかのように連呼するので、まだ17時過ぎだったが、母が作ってくれていた焼きそばを食べることにした。もちろん、味付けはケチャップだ。
「おいしいね」
「ママの焼きそばのほうがおいしいよ」
「そうかな」
「そうさー。ママの焼きそばのほうがおいしいってばよー」
「おばあちゃんの焼きそばだっておいしいよ」
「ママの焼きそばのほうがぜーったいにおいしい!」
「そんなことないさー」
私と梨乃ちゃんが箸を止めて、視線をぶつけていると、いいタイミングで俊が顔を出しに来た。
「ヤーよ、子供相手に大人げないなー」
涙目になっている梨乃ちゃんを見て、俊が私を責めてくる。しかし、これは負けられない闘いなのだ。義姉の和子さんがどんなに料理上手とはいえ、母の味を超えることは、娘として絶対に認めるわけにはいかない。
俊は持って来てくれた小魚の唐揚げをテーブルに置くと、慣れた感じで泡盛とコップを持って来て、梨乃ちゃんの隣に座って飲み始めた。
「梨乃、これ好きだろ」
「うん。俊が来てくれてよかったよー。町子おばちゃん、つまんないさー」
梨乃ちゃんは嬉しそうに小魚の唐揚げに手を伸ばす。当然のことだが、俊にはおじちゃんがつかないで、私にはおばちゃんがしっかりとついていることが腹立たしい。
それに、梨乃ちゃんと俊と食卓を囲んでいると、なんだか親子で食事しているようで、こそばゆい感じがする。
「いつになったら、町子おばちゃんと俊は結婚するわけ?」
梨乃ちゃんのませた質問を聞いて、泡盛を飲んでいた俊が思わずむせかえる。
「フラーか、ワンが町子と結婚するわけないさー」
「私は別にいいけどね」
意外だったのか、私の言葉を聞いて、俊がまたむせかえる。
「ヤーよ、何言っているばー」
「だから、私は俊と結婚してもいいわよ。俊が東京に来てくれるならねー」
「ワンが東京に行くわけないだろう」
そうなのだ。そこが問題なのだ。俊は幼馴染みだが、一度も木下で待ち合わせをしようと言わなかった。まあ、狭い島だから待ち合わせの必要がないのだが、とにかく俊はそういう“つまらない演出”をしない男であることは間違いない。ケンカをしてもすぐに仲直りするし、浮気の心配もいらないだろう。それに、俊に抱かれてみたいとも思っている。
「住めば都って言うでしょう」
「東京なんか人が住む場所じゃない。ヤーが島に戻ってくればいいさー」
「そうさー。町子おばちゃんが帰って来たらいいばーよ」
梨乃ちゃんは血の繋がっていない俊側についている。遠くの親戚より、近くの他人とはこのことか。梨乃ちゃんと俊の間には確かな絆が存在している。
「俊、明日釣り教えてー」
「どうしようかなー、梨乃はすぐ帰ろうってうるさいからなー」
「明日は言わないからー」
「わかった。わかったから、頬っぺたつねるのやめれ」
「わーい!」
わかっている。俊はこの島で暮らすことが一番幸せなのだ。もし、俊が東京に来てくれても、私はその俊に対して魅力を感じないだろう。この島で暮らしている俊が好きなのだから。かといって、日が暮れると懐中電灯を持って歩かないといけないこの島に私が戻って来ることもできない。私はいつの間にか島を離れ過ぎていた。
夕食を食べ終え、梨乃ちゃんがお風呂に入ると、俊にそそくさと帰られてしまった。私としても、子供がいないと会話に困る夫婦のように、俊と二人きりになったら何を喋っていいのかわからない。私と俊は大人になりきれずにいた。
2015年7月22日(水) 天気:曇りのち晴れ 最高気温:32.1℃
なんとか午前中に目を覚ますと、私は歯を磨く前に、タバコをくわえて火をつけた。兄たちが帰って来ると吸えなくなるから、今のうちに2、3本吸っておこう。
元気な泣き声だ。タバコを吸い過ぎて気持ち悪くなった私がトイレから出てくると、生まれたばかりの甥っ子を抱っこした兄と、少し太った和子さんが帰って来た。一緒に那覇の病院まで迎えに行っていた父と母は、甥っ子の雄大くんにメロメロの様子だった。
「町子、お前またタバコ吸ってからに、だから結婚できないばーよ!」
偏見に満ちているが、実際に独身のままなので言い返す言葉が見つからない。もうすぐ35歳になるのに、タバコを吸い過ぎてトイレで吐くような女と結婚してくれる男は、そう簡単に見つからないだろう。
「久しぶりね、町子ちゃん」
「おめでとうございます。お姉さん」
「梨乃は?」
「あっ、梨乃ちゃんは俊に釣りを習いに行きました」
「そう……」
「待っているようにと何度も言ったんですけど……」
実際は、一度だけ「待っていたほうがいいんじゃない?」と軽く言っただけだが、梨乃ちゃんは返事もしないで出かけてしまった。
「町子のタバコが臭すぎて、家にいたくなかったじゃないのー」
なるほど、確かにそうかもしれない。さすが、ベテランの母だ。子供の気持ちがよくわかっている。
「だから、町子に今年は帰って来なくてもいいって、言っておけばよかったさー」
満面の笑みを浮かべて雄大君の顔を覗きながら、父が残酷なことをさらっと言った。
「あんたよ、思っていても娘にそんなこと言えるわけがないさーねー」
母もさらっと追い打ちをかける。
「なんねー、せっかく帰って来たのに。明日の船で東京に戻るからねー」
私がいじけても、誰も反応してくれない。
「和子さんに似てよかったさー。将来は絶対にイケメンになるさーねー」
「そうなるといいですけど。元気に育ってくれたらそれで十分です」
「そうよねー。それが一番さーねー」
兄と和子さんが結婚した当初は、和子さんの料理が上手過ぎると言って不満そうにしていた母だったが、すっかり意気投合している。私は、孫という存在を侮っていた。苛立ちを抑える為に私がタバコをくわえると、
「ヤーはフラーか!赤ちゃんがいるばーよ!」
と兄にげん骨をされた。情けないこの歳になって、兄から本気のげん骨をくらうなんて。それに、赤ちゃんの前でタバコを吸おうとした自分が本当に情けない。私が自己嫌悪の底に落ちた時に、
「ただいまー」
と元気な声を出して、梨乃ちゃんが帰って来た。
「はい、これ」
梨乃ちゃんは重そうに持っていたバケツを和子さんに渡した。
「すごーい、梨乃が釣ったの?」
「うん!ゆうだいのために釣ってきたの!」
バケツの中には、40cmを優に超えるクロダイが入っていた。
「梨乃、ありがとう」
和子さんが梨乃ちゃんをギュッと抱きしめる。
「りっぱなお姉ちゃんになったね」
と兄も涙目になりながら、梨乃ちゃんの頭をなでる。
「こんなにかわいい孫に恵まれて、私たちは幸せ者ねー、お父さん」
「やっさー、神様に感謝しないとね」
母と父も、私の成人式の時に見せた笑顔を超えて、顔をクシャクシャに笑みを浮かべている。
ホームドラマさながらの光景を目の当たりにして私は悟った。ここはもう私の実家ではないのだ。
2015年7月23日(木) 天気:晴れ 最高気温:33℃
愛に愛される人たちと私はどこが違うのだろう。家族に別れも告げずに黙って東京へ戻ることができる点か。生まれたばかりの甥っ子を見ても、別段グッとくるものがなかった点か。中絶したことを一度も後悔したことがなかった点か。
誰にも見送られることなく、船に乗って島から出て行くのは、今回が初めてだった。そのせいか、心のすべてのドアのカギが外れていた。
あの時、私が妊娠したと知った時、佐藤君は喜んでくれた。そう、喜んでくれたのだ。だから、困ってしまった。私は佐藤君が困惑すると決め込んでいた。それなのに、佐藤君は、私の妊娠を知った1分後に、
「町子、俺と結婚してください!」
とプロポーズをした。しかも、その1分は子供を授かった喜びを抑える為に必要だった時間で、私の妊娠を知った瞬間に佐藤君はプロポーズすることを決めていたのだ。
ムリだと思った。我慢しようとしても、ついタバコを吸ってしまう。飲みの誘いも辛うじて断ることができたが、冷蔵庫に残っていたビールを飲んでしまった。22歳で母親になることが怖かった。だから、タバコを吸って、ビールを飲んで、自分には無理だと口実を作った。
「子供を産んで大変な思いをするのは、女の私のほうなんだから!」
私は佐藤君を責めた。授かった子供と一緒に幸せな家庭を築こうとした佐藤君を、涙も流さずに責めることができる女だったのだ。そして、中絶することを理解してくれない佐藤君が許せなかった。これからは妊娠に気をつけて、数年後に結婚をしてから、子供を産んだほうがいいに決まっていると思っていた。
今、そこにある幸せが“悪い出来事”にしか見えず、あるかないかもわからない将来の幸せばかり見ようとしていたのだ。
佐藤君が婚姻届を準備していたことも知っていた。名づけ辞典を3冊も買っていることも知っていた。親子三人で暮らせる引っ越し先を探していることも知っていた。
それでも、私は中絶をした。大切な人の手を離してしまった。
親友の薫とも会えなくなった。薫の目をまっすぐ見ることができないからだ。
行為としては最低だが、判断は間違っていなかったと思っていた。未熟な母に育てられても、子供が可哀想なだけだと思っていた。
違う。そうじゃない。全て言い訳だ。本当は、私は、佐藤君のことを愛していなかったのだ。イケメンの佐藤君と付き合うことで、周囲から羨ましがられることに酔いしれていただけなのだ。
だから、プロポーズされた時、私は泣いてしまったのだ。佐藤君は、私のことを本気で愛してくれていることを知って、涙が止まらなかったのだ。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめんなさい……」
と謝り続けることしかできなかったのだ。
愛する人を間違っても、愛される人を間違ってはいけない。相手を傷つけてしまった傷は一生治らないのだから。
懐かしい香りがする。私をギュッと抱きしめてくれている。どうして、あなたがここに居るのよ……。私は彼の口づけを拒むことができなかった。
彼に愛されることが怖いくせに……。