2004年
2004年8月13日(金) 天気:曇りのち雨 最高気温:21.4℃
この日から私は、13日の金曜日に大切な用事を入れないようになった。
成田空港で搭乗ゲートに入る直前に、彼の携帯に仕事の電話がかかってきた。私が生理であることを知った彼が、知人にかけさせた電話である。
「ごめん、急に仕事が入っちゃった」
ドラマでよく聞く台詞を残して、彼はそそくさと“仕事”に向かった。
「せっかくだから、町子ちゃん一人で楽しんでおいでよ」
と言われたが、初めての海外に一人で行く勇気はなかった。
フランス、イタリア、ドイツを周る過密スケジュールだったのに、生理になったがために16日までの予定が見事に白紙になってしまった。
幸い、『アイキャッチ』の同僚には、この旅行のことを内緒にしていたので、ヨーロッパ旅行のお土産がないと言われる心配はない。
さらに幸運なことに、テレビ局のプロデューサーをしている40過ぎの独身男の彼に遊ばれているだけだと今回のことでよくわかったので、きっぱり別れることができる。
私から別れ話を切り出しても、彼はまったくへこたれないだろう。彼と付き合うことにしたのは、その点だけは信用できたからだ。
さてと、4日分の荷物が入ったキャリーケースを持って、成田からどこへ行くべきだろうか。せっかく荷づくりしたのだから、どこかに旅行に行きたいものだ。
沖縄の実家に帰ろうかとも思ったが、この時季飛行機の空席があるわけがない。今から羽田に向かってキャンセル待ちしても、無駄骨になることだろう。
考えていてもらちが明かないので、一先ず成田エクスプレスのホームへと向かうことにする。当然だが、外国人が多く、なるべく目を合わせないように歩いていたら、大きなバックパックを背負った青年に声をかけられた。
恐らく道を尋ねられているようだったが、どこに行きたいのかまるでわからない。近くに、他の日本人がいないか探して見るが、時計を見ながら早歩きで進んでいる人ばかりで、声をかける隙がない。
青年はバックパックからスケッチブックを取り出すと、一枚の絵を私に見せた。
「おいしそう……」
スケッチブックには、日本各地のラーメンのイラストが描かれていた。
「オイシイ、ソウ、ラーメンオイシイ」
私が英語を喋られないことを理解した青年は、日本語でのアプローチに変更したようだった。
「ユー、オイシイラーメン。アー、ナンバーワン、ラーメン」
ラーメンを食べるジェスチャーをしながら、青年は片言の日本語で懸命に伝えようとしている。
その熱意からか、私は青年がオススメのラーメン屋さんを聞きたいのだと理解した。
「沖縄そば。沖縄そば、ベリーデリシャス」
特別好きなラーメン屋さんがなかったので、私は麺類で一番好きな沖縄そばをすすめることにした。
「オキナワソバ?」
「イエス。麺類、ナンバーワン、沖縄そば」
「オー、テンキュー!」
青年は笑顔を浮かべて私にハグをすると、爽やかに手を振って去って行った。私も、青年に向かって大きく手を振った。彼のおかげで旅行先が決まったからだ。
私は成田エクスプレスに乗って品川まで戻ると、京急線に乗り換えて羽田空港へと向かった。そして、福岡、山形、北海道のどこかに行ける飛行機を探すと、運良く新千歳行きの便で空席が見つかった。
“お仕事に向かった彼”に、別れのメールを送ると、ラーメン店めぐりをするべく、私は北海道へ飛び立った。
「夏なのに涼しい!」
それが、北海道の大地に降り立った私の第一声だった。ラーメン店めぐりには、ちょうどいい気候だ。いい旅になりそうだ。すべてはスケッチブックを見せてくれたあの青年のおかげだ。今頃、おいしい沖縄そばを食べてくれているといいが、都内にある沖縄料理店には当たり外れがあるので、急に心配になってきた。とはいえ、私にできることは何もないから、レンタカーを借りて心置きなくラーメン店めぐりをすることにしよう。
「ウソでしょ!」
車から降りて、倒れている牛を見ても、今起こったことが信じられない。延々と続く真っ直ぐな道を気持ちよく運転していたら、突然道路に出て来た牛と衝突したのだ。
エアバッグが作動し、車のフロントは大きく凹んでいた。
牛は生きていたが、脚の骨を折ってしまったようで立ち上がることができないでいた。
JAFかレンタカー会社か警察か、いったいどこに連絡をしたらいいのかわからない。とりあえず、勇太に電話をかけてみるが、案の定留守電になっていた。日中に勇太が電話に出ることはまずなかった。両親に電話をすると心配をかけてしまうだろうし、頼りになる俊に電話をしても、牛をひいた時の対処法を知っているわけがない。
そんなこんなで困っていると、“お仕事に向かった元彼”から電話がかかってきた。私は迷わず電話に出た。状況が状況だ。恥を忍んで、力を借りることにしよう。
30分ほど待っていると、ピックアップトラックが走って来て、私と牛の死体を追い越して停車した。
そして、ピックアップトラックから、やけに体格のいいおじいちゃん3人と、髪をブロンドに染めた運転手の若い女性が降りて来た。
「ここの牧場のオーナーに電話をしたら、誕生日祝いにこの牛くれるって言うから、もらっていくよ」
ブロンドの女性がそう言うと、マッチョな老人たちが牛を持ち上げて、ピックアップトラックに積み込んだ。
「車のほうも保険に入っているから心配ないさ。また空港まで戻るのもつまらないだろうから、札幌の店舗で新しい車に変えてもらえるように手配したよ」
ブロンドの女性はそう言っている間に、手際良く私が借りたレンタカーとピックアップトラックを連結した。
「それじゃ行こうか」
ブロンドの女性は私の返事も聞かずに、運転席に乗り込んだ。そして、3人のおじいちゃんが後部座席に乗り込んだので、私は助手席のドアを開き、
「すみません。よろしくお願いします」
と言って、助手席に座った。
ブロンドの女性は私がドアを閉めると同時に、ピックアップトラックを発進させた。
何を離せばいいのかまったくわからない。ブロンドの女性は、“お仕事に向かった元彼”の浮気相手だ。正確には、元彼だから、浮気相手だった人になるのか。いや、本命は彼女のほうで、私が浮気相手だった女なのかもしれない。そんな相手といったい何を話せばいいのだ。彼の女癖の悪さを慰め合うか。もう会うつもりはないと伝えるべきか。彼女と2人だけならまだしも、後部座席で沈黙している3人のおじいちゃんも気になって、この状況の会話にふさわしい言葉がまったく出てこない。
すると、彼女が突然、車を止めた。荷台の牛が跳ねた衝撃が伝わってくる。
「私がブロンドだからって、見下してんじゃないわよ!」
彼女は怒った口調で私にそう言うと、
「さっきから黙ってジロジロ見て、そんなに私のことをバカにしたいわけ?」
と続けた。
「そんな、バカにするなんて……。助けていただいて感謝しています。ジロジロ見ていたのは、何を話していいのかわからなくて……。あの、ブロンドだから、見下すって、どういうことですか? すごく似合っているのに」
「はあ……。あなた、何も知らないで彼と付き合っていたのね。いい、彼は髪の色で自分の女をランク分けしているのよ。単なる遊び相手がブロンドで、本命候補が黒髪、そして本命に選ばれると赤髪に染めさせるの。つまり、私よりあなたのほうがランクが上だったってことよ」
「今から、彼をひきに行きませんか?」
私が真顔で言うと、
「ワッハッハハハ。さすが、黒髪だけあるね。本当、できるものならひいてやりたいね」
彼女は初めて笑顔を見せると、再び車を発進させた。今回は随分と丁寧にアクセルを踏んでいた。
「私の名前は、葉月。下の名前は気に入らないから、教えないよ。あなたは?」
「木下町子です」
「いい名前だね。なんだか似合っているよ」
「ありがとうございます」
名前のことを褒められるのは滅多にないことなので、素直に嬉しかった。
「あの、後ろのおじいさまたちは?」
「ワッハッハハハ。おじいさまだって? そんなにご立派なじーちゃんたちじゃないよ。口数が少ないのは、喋られないことが多いからなんだ」
詳しいことはよくわからないが、おじいちゃんたちについて詳しく知らないほうが身のためだということがよくわかった。
「察しがいい子だね。気に入った。今日、家でバーベキューをするから、泊まっていきなよ」
「えっ?」
「ホテルとってあるのかい?」
「いえ、まだですけど……」
「それなら決定だ。まあ、ホテルを予約していても、キャンセルさせていたけどね」
葉月さんが、悪戯っぽく笑う。ドキッとするくらい、かわいい人だと思った。こんなに素敵な女性を弄んでいるなんて、海外旅行をドタキャンして“仕事に向かった元彼”がますます許せなくなった。
「そんな怖い顔しないの。町子ちゃんにはその顔は似合わないよ」
「でも……」
「あんなバカ男だけどさ、コンビニで買い物した後は必ず募金していること知っているだろ?」
「まあ……」
「それも女を落とすためのテクニックの一つかもしれないけどさ、私は思うんだ。一人で買い物する時は恥ずかしくて募金ができないけど、私たちと一緒にいる時は、遠慮なく募金できているんじゃないかって。だってさ、あいつがお釣りが出ないように買い物をするところを見たことがないもん」
言われてみるとその通りだった。いつも、買い物してお釣りをもらって、募金箱に入れていた。
「でも、もう惚れたりしちゃダメだよ。バカ男には違いないんだから」
「フフフッ。はい、もう会うこともありません」
「よろしい。やっぱり町子ちゃんはあのバカ男にはもったいない女だよ」
「フフフッ。フフフッ。」
「何がおもしろいんだい?」
「だって、葉月さん、バカ男の話をするとき、嬉しそうなんですもん」
「そ、そんなことないさ。誰があのバカ男を……」
スケッチブックを見せてくれた青年のおかげで、こんなに素敵な出会いに恵まれるなんて思ってもいなかった。根拠はないが、あの青年は絶対に当たりの店で沖縄そばを食べている気がした。きっと人生は、そんな感じで進んで行くのだろう。
2004年8月14日(土) 天気:晴れ 最高気温:25.5℃
昨晩は、葉月さんに牛のさばき方を教えてもらったり、牛タンの丸焼きを食べさせてもらったりして、とても楽しい時間を過ごさせてもらったはずである。
断定できないのは、葉月さんに北海道の地酒をいくつもすすめられ、倒れるほど飲み続けてしまったので、記憶が定かではないのだ。
葉月さんも私も、3人のおじいちゃんたちもひどい二日酔いで、感動の別れとはならずに、
「またおいでよ」
「はい。お世話になりました」
と短い挨拶だけして、なんとか吐くのを堪えて、アーリーアメリカンな葉月さんの家を後にした。
レンタカーを借り直していたが、とても運転できる状態ではないので、私はバスで移動することにした。レンタカーは葉月さんが返してくれる。下の名前が花というのは意外だった。でも、自分らしく太陽に向かって輝いている葉月さんに、よく似合っている名前だと思う。誰が教えてくれたのかは覚えていないが、葉月花という名前はしっかり覚えていたし、もう忘れることもないだろう。
バスに乗って札幌の市街地に到着すると、私は公衆トイレに駆け込んだ。嘔吐しても、なかなか吐き気がおさまらず、肉を食べ過ぎたこともあり、腹痛も激しかった。
1時間くらいして、他の利用者の視線が痛かった、思い出の公衆トイレを後にすると、私はとてつもない空腹感に襲われた。何か食べよう。何か食べてしまえば体調は一気に回復する。20歳になった時にはどうしてこんなに頭が痛くなるものを好んで飲むのか理解できなかったが、今となっては二日酔いとも上手に付き合えるようになっている。
キャリーケースを引きずりながら、トボトボと市街地を歩いていると、匂いに誘われて、ラーメン店の『味噌雷神』に辿り着いた。まだ10時半なので、開店まで1時間も待たなければならない。道路の反対側には、立ち食いそば屋さんが見えた。朝ご飯なのか、昼食なのかわからないが、スーツ姿のサラリーマンがおいしそうにそばをすすり、スープを飲んでいた。
ここは一先ず、そばを食べて体調の回復を優先するべきか。それとも、ラーメン店めぐりのために北海道までやってきたのだから、『味噌雷神』の開店まで待つべきか。正解は後者だ。『味噌雷神』の店先で2分ほど思案していると、もう『味噌雷神』のラーメンを食べるしかないと思えてきた。まだ仕込中なのに、これほど食欲をそそる香りを漂わせているのだ。そんじょそこらのラーメンではないことは明白だった。
10分ほど、私がキャリーケースにもたれるように屈んで開店を待っていると、勢いよく扉が開いて、ベリーショートの髪型が素敵な女性が、
「入りな」
と言ってくれた。
中で休憩させてくれるのだと思った私は、
「ありがとうございます」
と礼を告げると、店内に入った。ヨダレが止まらなくなるほど、旨味に満ちた匂いが私に襲いかかってくる。
「これ使って」
と言うと同時に、店に入れてくれた女性が、私にエプロンを投げた。
「えっ?」
「暇なんでしょ。だったら、手伝ってよ。その分、早くラーメンを食べさせてあげるからさ」
「わ、わかりました」
私はエプロンを着けると、厨房に入った。葉月さんと似た匂いがする女性は、
「私の名前は、凛。ここの店主さ。急にバイトさんが来られなくなってね、そこの棚にある器を全部洗っておくれよ」
「えっ? でも、ここの器、キレイですけど……」
「ウチは食べた後と、開店前に器を洗うことに決めているんだ。並んでくれるお客さんに気持ち良く食べてもらいたいからさ」
やっぱり行列ができるようなラーメン屋さんだったのだ。二日酔いで研ぎ澄まされた私の嗅覚に狂いはなかった。
「ほら、さっさと手を動かして」
「は、はい」
私は髪を結ぶと、棚から器を下ろして、一つひとつ丁寧に洗った。
「そんなんじゃ開店時間に間に合わないよ」
なんだかよくわからない流れで食器を洗ってやっているのに、文句を言われたのでムカッとした。なぜ、私は今、出会って5分も経たない相手に、こき使われているのだ?
「水は大目に出していいから、こんな感じで丁寧且つ素早く洗っていくんだ。ほら、やってみて」
私が渋々、凛さんに負けない早さで食器を洗うと、
「ほら、やればできるじゃん。人間って、思っているよりもずっとよくできているものさ。どんどん洗っておくれよ」
男っぽいところは葉月さんに似ているが、凛さんの場合は上からくる感じが鼻に付き、生理中の私をさらにイライラさせた。バイトさんは休んだのではなく、辞めてしまったのではないだろうか。
「だから、早く手を動かしなって。ウチのラーメンが食べたくないのかい?」
「わ、わかりましたよ」
凛さんの作るラーメンをどうしても食べたいという弱みを握られている私は、難しく考えないで食器を洗うことにした。ラーメンを入れるドンブリ、トッピング用の小皿、コップなど店内にある全ての食器類を私は29分56秒で洗ってやった。多分、それくらいだったと思う。
ようやくカウンター席に座らせてもらうと、私が洗ったピカピカのコップに、凛さんが水を入れて渡してくれた。
「おいしい」
水を一口飲んで、自然と言葉がこぼれた。
「ハハハッ。おいしいはまだ早いって」
凛さんは愉快そうに笑いながら、特製の味噌ラーメンを作ってくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
カウンターテーブルに置かれたラーメンは、具が何も入っていない素ラーメンだった。
「ウチは初めて食べる人には、これをおすすめしているんだよ」
「い、いただきます!」
私が洗ったレンゲを使って、スープを口に入れる。その瞬間に、頬っぺたが痛くなるくらい、旨味が体中を突き抜けた。雷に打たれるとこのような感覚になるのかもしれない。濃厚だけど後味がさっぱりしていて、特製味噌の豊かな甘みとコクを思う存分堪能することができる。中太の縮れ麺をすすると、スープとよく絡んでいて、目を閉じて噛み締めずにはいられない。
何という満足感だ。一杯のラーメンを食べただけなのに、歴史的な偉業を達成したかのような満足感がそこにはあった。
「ごちそうさまでした」
私は合掌をして、空になったどんぶりに向かってお辞儀をした。そして、厨房にどんぶりとコップを持っていくと、またキレイに洗った。説明することは不可能だが、まさに心が洗われるような体験だった。
「今日は助かったよ。お礼にこれあげる」
凛さんはゴミ箱に捨ててあった箱を拾い上げると、中に入っていたバタフライエフェクトのサングラスを私に渡した。
「でも、これ、お高い……」
「いいからもらってよ。捨てるよりはマシだからさ」
私が受け取らないでいると、凛さんは私にサングラスをかけた。
「うん。やっぱり、町子ちゃんに良く似合っている」
「そうですか?ちょっとハデじゃ……」
「大丈夫、大丈夫。あっ、ちょうど来た」
凛さんはそう言うと、私のキャリケースを持って、店から出て行く。慌てて私も店から出ると、いつの間にか大勢の行列ができていた。
そして、店の前には黒塗りのハイヤーが停車していた。
「兄貴にメールして迎えに来てもらったんだよ。好きなところに連れて行ってもらいな。お代は後で私が出すからさ」
「えっ、でも……」
私が戸惑っていると、並んでいるお客さん達がざわつき始めた。
「芸能人じゃない?」
「えっ、誰?」
「あのおでこ、芸人さんかな?」
「あんなサングラスして、ラーメン屋にハイヤーを呼ぶなんて、有名な女優さんに決まっている」
そんな声が聞こえて来て、私はたまらなくはずかしくなった。意外と小柄な凛さんのお兄さんが運転席から降りてくると、後部座席のドアを開いて、私をエスコートしてくれた。私は逃げるようにハイヤーに乗り込んだ。
3秒だけ本当に女優さんになったような気分に浸ると、窓を開けて、
「もう一度、よく考えてみてください」
と言って、凛さんにサングラスを返した。
「はいはい、わかりましたよ」
凛さんが参りましたという表情で笑顔を見せた。
「また来ますからね」
「わかったって。しつこい女は嫌われるよ」
「お幸せに!」
と言って、私は窓を閉めた。それが合図だとわかってくれた、凛さんのお兄さんが車を発進させた。
バイトさんは、凛さんの彼氏だったのだ。きっと、些細なことでケンカになってしまったのだろう。だから、凛さんの機嫌が悪かったのだ。
「それでは町子さん、どちらへ行かれますか?」
凛さんのお兄さんに尋ねられ、次の目的地を決めていなかった私は答えに困ったが、それ以上に、どうして私の名前を知っているのかが気になった。凛さんがメールで教えたのだろうか。そもそも、凛さんに私は名前を教えていなかった気もする。
凛さんのお兄さんの表情を探るべくバックミラーを見ると、謎はすぐに解けた。私の額に“I LOVE MACHIKO”と書かれていた。おまけにハートマークまでついている。
目的地はすぐに決まった。
凛さんのお兄さんに、葉月さんの家まで送ってもらうと、さっさと用事を済まして、バス停へと向かった。
ちょうどバスが来たので、どこに行くか決めていなかったけど、そのバスに飛び乗ることにした。
葉月さんの家の前を通過する時、ご自慢のピックアップトラックの前で膝をついて崩れている葉月さんの姿が見えた。
フフフフフッ。愛の告白にはちゃんと返事をしなければ失礼だ。私も葉月さんを愛していますよ。ヒッチハイクをすることになるかもしれないと思い、空港でマジックペンとノートを買っていて大正解だった。
それから、私はバスを乗り継ぎ、ヒッチハイクデビューを果たし、なんとか稚内に辿り着いた。時刻は23時を過ぎていた。ラーメンめぐりについては、バスの中で数人の自分と協議した結果、『味噌雷神』を超えるラーメンを食べたいとは思わないので、もうやめることにした。
夏とはいえ、夜の北海道は随分と寒かった。とりあえず、コンビニで暖かい飲み物を購入してから、ヒッチハイクさせてもらった漁師の熊田さんに教えてもらったビジネスホテル『宗谷第一ホテル』に向かった。新しくできた隣のホテルにお客さんをとられて、ほとんどの部屋が連日空室になっているそうだった。
『宗谷第一ホテル』に着くと、遅い時間にも関わらず、フロントの後藤さんが笑顔で応対してくれた。来週にもお孫さんが産まれるそうで、まだ40代だけどおじいさんになっちまうと、嬉しそうに話してくれた。私はいつになったら、両親に孫の顔を見せることができるだろうか。それに、孫の顔を見せたとしても、母は別として父は後藤さんのように喜んでくれるだろうか。父が赤ちゃんを抱っこして、デレデレしている姿が想像できなかった。
部屋に入ると、広めのツインの部屋だった。空室があったので、好意でグレードアップしてくれたのだろうが、海外旅行をドタキャンされたことを思い出してしまい、結局、お風呂に入りながら涙を流すことになってしまった。
あと1日、生理が遅れていたらと思ったが、フランスまで行っても、私が生理になったと知ったら、彼はやはり“お仕事”のために、私一人を残して日本に帰国していたことだろう。フランスで置いて行かれるくらいなら、やっぱり昨日から生理になってよかったのだと思える。
明りを着けたままベッドに潜り込むが、寝付けなくなってしまったので、漁師の熊田さんの金歯に対して、本当に何もつっこまなくてよかったのか、考えてみることにした。個人の好みの問題だから、家族ならまだしも他人がとやかく言う必要はない。しかし、熊田さんの場合は、田村正和似のイケメンだった。あの金歯が邪魔しなければ、日本一ダンディーな漁師さんになるはずだ。やはり、普通の刺し歯にしたほうが素敵ですよと言うべきだったのかもしれない。でも、今日会ったばかりの私がそう思うのだから、家族や友人の方たちだってそう思っているはずである。その中の誰かが、金歯はやめたほうがいいと言っているに違いない。それでも、金歯のままでいるということは、熊田さんにとって譲れないものなのだろう。だがしかし、知人から言われうと意地になってしまうが、まったく知らない人に言われると、意外とすんなり直せることだってある。私の出番だったのだろうか。見ず知らずの私を車に乗せてくれた熊田さんに、正直に話して恩返しすべきだったのではないだろうか。答えが見つからないまま、私は日本最北端の市にある老舗のビジネスホテルのツインルームで、おやすみなさいも言えずに独りぽつんと眠りについた。
2004年8月15日(日) 天気:晴れのち曇り 最高気温:22.7℃
6時から、もう2時間近くも国道沿いでヒッチハイクを試みているが、止まってくれる車が一向に現れない。
犬の散歩をしていたマダムが、
「日曜日は市場がお休みですからね、ヒッチハイクは難しいんじゃないかしら」
と言っていたが、本当にそうなってしまった。
お腹が空いていたので、一旦ヒッチハイクを中断して、100mほど先に見える牛丼屋さんに向かおうとした。
すると、通りかかったレクサスが止まり、助手席の窓を開けて、犬の散歩をしていたマダムが、
「まさかとは思ったけれど、まだ頑張っていたのね。そんな恰好で寒かったでしょう。さあ、早くお乗りなさい」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
と礼を言いながら、私は助手席に乗り込んだ。そして、シートベルトを締めようした時に、『グー』っとお腹が鳴ってしまった。
「オホホホホッ。もうしばらく辛抱してね。この先にある、おいしいラーメン屋さんに連れて行ってあげるから」
マダムは私を見て上品に微笑みかけると、思いの外勢いよく車を発進させた。
「それで、行ってみてどうだったの?」
「えっ、何がですか?」
「何って、宗谷岬に決まっているでしょう」
「ああ、宗谷岬には行っていないので、わかりません」
「行ってないってあなた……。それじゃ、ここまで何しにやって来たのよ……」
マダムが若干、引いたような表情を見せた。
確かに日本最北端の場所である宗谷岬を見るために、ここまでやって来た。しかし、いざ宗谷岬まであと500mとなったあたりで、私の中に一つの疑問が生まれた。
沖縄出身の私が、日本最西端の場所である与那国島の西崎に行く前に、宗谷岬に行ってしまっていいのだろうか?
12分ほど協議した結果、答えはNOだった。やはり、先に与那国島の西崎へ行くことが筋だと思ったので、宗谷岬はその後に訪れることにした。
「どう、おいしいでしょう?」
「はい、すごくおいしいです」
マダムに連れて来てもらった高級中華料理店で、鶏白湯ラーメンをごちそうになった。笑顔がひきつっていなか不安でたまらなかった。なんであの時、お腹が鳴ってしまったのだろうか。もっと早く朝食をとっておくべきだった。そうすれば、親切にしてくれているマダムに対しておいしそうに食べる演技をしなくてもすんだのに。
もちろん、1杯2,700円もする鶏白湯ラーメンはおいしかったのだが、これより何倍もおいしいラーメンを昨日食べたばかりだったので、リアクションが極めて難しかった。
「あなた、大したものね」
「えっ?」
「ここのラーメンを食べて、満足しない人に会うのは、あなたで3人目だわ」
「す、すみません」
「謝ることはないわよ。それより、ここよりおいしいラーメン屋さんを知っているのなら、教えてちょうだい」
私は正直に、『味噌雷神』での出来事をマダムに話した。マジックペンで額に“I LOVE MACHIKO”と書かれていた話は割愛した。
「町子ちゃんに会えて、私はラッキーだわ」
とマダムは嬉しそうに言ってくれた。よっぽどラーメンが好きなのかと思ったら、
「町子ちゃんは、素敵な人たちと出会うのが上手なのね。だったら、私も素敵な人ってことになるでしょう。素敵な1日になりそうよう。ありがとう」
と感謝されてしまった。
それなのに私は、「はあ……」としか答えることができなかった。車に乗せてもらい、高価なラーメンをごちそうしてもらい、逆にありがとうと感謝までされたのに、なぜ私は「はあ……」としか言えなかったのだ。
旭川までマダムの車に乗せてもらい、ろくな返事ができなかった謝罪の意味も込めて、何度もお礼を告げて、マダムと別れ、釧路行きの高速バスに乗ってからもずっと考えているが、あの時、どのうように返せばよかったのか、正解がまるで見つからない。
すやすやと眠っている他の乗客たちが羨ましい。私はもやもやを抱えたまま、6時間後に釧路に到着した。
21時を過ぎて、すっかり暗くなっていたが、お目当ての店はまだ営業しているはずである。
まず私は、駅前のビジネスホテルで、シングルルームを確保した。どこからどう見ても、お一人様用のシングルルームだった。バスで眠ることもなかったし、今晩はぐっすり眠れそうである。
荷物置いてホテルから出ると、私は早歩きでお寿司屋さんの『大野』へと向かった。大将が作った卵焼きとお弟子さんが作った卵焼きを最初に出されて、大将が作った卵焼きを当てた客だけが、大将の握るお寿司を食べることができる店があると、職場の先輩から聞いていて、一度訪ねてみたいと思っていたのだ。
途中から小走りしたこともあって、なんとか閉店までに間に合った。『大野』の店内はカウンター席だけで、50代くらいのほっそりとした大将と、昔はヤンチャだったことが想像できる20代のお弟子さんの二人で切り盛りしているようだった。
私の他にお客さんはご年配の紳士だけで、大将の握ったお寿司を食べていた。どうやら、大将が作った卵焼きを当てることができたようだ。
そして、私にも二つの卵焼きが出された。見た目に違いはない。
「いただきます」
私は二つの卵焼きを立て続けに食べた。なるべく意識して、一つ目の卵焼きを食べてからすぐに二つ目の卵焼きを食べた。味の違いがまるでわからない。これで、疑問に思っていたことの謎が解けた。
「どちらも大将が作った卵焼きですね」
私がそう答えると、
「これはこれは、大したもんだ、お嬢さん」
とご年配の紳士が褒めてくれた。
この卵焼きのテストの話を聞いた時に、私はどうしてお客さんを選ぶほどお寿司にこだわりを持っている大将が、お弟子さんの作った卵焼きをお客さんに出しているのだろうと疑問に思った。いくらテストとはいえ、大将のお寿司を食べたくて訪れたお客さんに、お弟子さんが作った卵焼きを出すことは失礼なことであり、そんなことを『大野』の大将がするとは思えなかったのだ。
「お客さんがどちらを選んでも正解するようになっているんですね」
と私が笑いかけるが、大将は無反応のまま、お寿司を握り始めた。
「そうそう。たまに外れと言う時は、態度の悪いお客を返すための口実なんじゃよ」
とご年配の紳士が教えてくれた。
「はいよ」
大将が真鯛のお寿司を出してくれる。
「いただきます」
私は箸を使わずに、真鯛のお寿司をつまんだ。今日、初めてカウンターデビューする私にとって、衝撃的な美味しさだった。日本人に生まれてよかったと心の底から思い、思わず目頭が熱くなった。おいしさはもちろんだが、引き継がれてきた日本の食文化に深く感銘したからだった。何人もの職人さんが腕を磨き、やがて弟子へと技法を継承してきたおかげで、私は今、こんなにも贅沢なお寿司を食べることができているのだと思うと、グッと胸に込み上げてくるものがあった。
「おいしいです」
真鯛のお寿司を食べて大分経ってから、私はようやく言葉にすることができた。
「ほっほっほ。いい食べっぷりじゃ。大将、このお嬢さんにたくさん食べさせておくれ」
「へい」
「今日はいい夢を見れそうじゃよ」
と言い残して、ご年配の紳士は店から去って行った。
ハマチ、エンガワ、ハモ、サバ、ホタテ、マグロの赤身、中トロ、大トロ、イクラ、ウニ、カニミソ、アナゴと覚えきれないくらい、次々と大将が握ってくれるお寿司を私は食べ続けた。
そして、お腹一杯になった時に、その言葉が目に飛び込んできた。大将におまかせで握ってもらっていたので、メニューを気にしていなかったが、ほとんどのネタが“時価”と書かれていた。
私はこっそりと財布を確認したが、一万円札は入っていなかった。近くのコンビニでお金を下ろしてきますと言って、信じてもらえるだろうか。人質として置いて行けるような、高価な物も持ってはいない。私が挙動不審な行動をとっていると、
「お代は、史郎さんが払ってくれますから大丈夫ですよ」
とお弟子さんが言ってくれた。
「史郎さん?」
「はい。先ほどのご老人です。お客様にたくさん食べさせておくれと受けたまわっていますから」
確かにお店を出る前に、史郎さんはそんなことを言っていたが、そういう意味だったとは……。
「ごちそうさまでした」
私は日本の食文化と、それを支えている方々に感謝して、あらためてお辞儀をした。顔を上げると、一瞬だけ、大将の笑みが見えた。私も今日はいい夢を見られそうだ。
2004年8月16日(月) 天気:雨 最高気温:22.1℃
この日は、自分の歯が全部金歯になっている夢を見て目を覚ました。稚内で漁師をしている熊田さんにもう一度会いに行こうかとも思ったが、ホテルのロビーにあるパソコンで調べてみたところ、釧路から羽田行きの昼過ぎの便に空席があったので、釧路からそのまま東京へ帰ることにした。明日から、また終電生活が始まるから、早めに帰って少し休む時間も必要だ。
ホテルをチェックアウトして、近くの喫茶店で朝食を食べようとしたところ、店内がほぼ満席になっていて驚いた。お客さん達のお目当ては甲子園大会で、3回戦に進出した南北海道代表の駒大苫小牧高と西東京代表の日大三高の試合を観戦していた。
私は席に着くと、モーニングセットとナポリタンをオーダーした。食べ物がおいしすぎるので、北海道に来てから食欲が決壊している。
「東京もんに負けるな!」
「道産子の強さを見せてやれ!」
テレビ画面に食い入るように、お客さん一体となって駒大苫小牧高を熱狂的に応援している。
沖縄出身だし、帝京高校のファンだから、特別意識はしていなかったけれど、完全にアウェー状態だ。この熱気の中で、東京から来たことがばれたらどうなってしまうだろう?
先にモーニングセットのたまごサンドとホットコーヒーが運ばれてきたので、水で流しこむようにして、たまごサンドを完食する。しかし、ナポリタンがなかなか運ばれてこない。
駒大苫小牧高のチャンスになると、拍手をしたりして、周りのお客さん達に合わせた。ナポリタンはまだか。こんなに緊張感を持ってナポリタンを待つ日が来るとは夢にも思っていなかった。
駒大苫小牧高の攻撃が終わったところで、私の荷物を見た白髪の女性が、
「お姉さんはどちらからいらしたの?」
と尋ねてきた。他のお客さん達の視線も、一斉に私に集まる。
「沖縄からです」
「あらま、随分と遠いところから来てくれたのね。どうもありがとう」
「いえ、素敵な人たちと出会えて楽しかったです」
日大三高の攻撃が始まると、白髪の女性や他のお客さん達の視線は、再びテレビに注がれた。
「どこから来たの?」という質問に、あらかじめ「沖縄から」という回答を準備していて正解だった。誰か一人くらいは、東京から来たんじゃないの? と疑われたかったが、どうやら私はまだまだ垢抜けていないようだ。
とにかく、東京から来たことがばれなかったので、ようやく運ばれてきたナポリタンをゆっくりと味わうことができる。それに、私は喫茶店でナポリタンを食べている自分が好きだった。根拠はないが、センスのいい女に見られている気がするのだ。脚を組んで座り、自分に酔いしれながら、これぞナポリタンという味のナポリタンをできるだけ上品に食べた。
するとそこに、『大野』のお弟子さんがやって来て、私に気付いて挨拶してきた。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね、町子さん。今日、東京に戻られるのですか? もう一度、町子さんが大将の寿司を喰うところを見たかったなー」
お弟子さんは気付いていないが、“東京”という言葉を聞いた、他のお客さん達の冷たい視線が私に集まっていた。
私は脚を組むのをやめて、半分ほど残っていたナポリタンを3口で食べ切り、ケチャップがついた唇を拭きもせずに、キャリーケースを引きずってレジへと向かった。
「128,000円です」
「えっ?」
「冗談よ。冗談。ウフフフッ。1,280円になります」
店員さんがそう言うと、他のお客さん達も愉快そうに笑っていた。
「町子さん、覚えていないのですか? 俺と鈴木さんと加藤さんと、昨日海鮮焼き屋の『潮騒さん』で一緒に飲んだじゃないですか」
お弟子さんにそう言われると、猫背がひどい鈴木さんと、頬のほくろがセクシーな加藤さんに、見覚えがあるような気がした。私が東京から来ていることを知っていて、黙っていてくれたんだ。
「町子さん、また来てくださいね」
とお弟子さんが言うと、
「町子ちゃん、バンザーイ! 町子ちゃん、バンザーイ!」
と猫背がひどい鈴木さんが言い始め、なぜだかわからないが、
「町子ちゃん、バンザーイ! 町子ちゃん、バンザーイ!」
とお客さん達全員にバンザイをされて私は見送られた。喫茶店から出ても、「町子ちゃん、バンザーイ!」と聞こえてくる。きっと、私はお弟子さんの名前を聞いているのだろうが、まったく思い出せない。また訪れた際には、シラフの時に名前をさりげなく聞いてみることにしよう。できれば、連絡先も交換できるといいな。ああ、愉快な旅だった。白い恋人を買って帰ろう。