2014年
2014年7月11日(金) 天気:晴れ 最高気温:34.2℃
昨年、危うく夏休みをとれなくなるところだったので、今年は大分早めに夏休みをとってしまうことにした。
とは言っても、遊びに出掛ける予定はない。先週末、哲郎さんと浅草に飲み歩きのデートに行った際に、
「町子さん、貫禄が出てきましたね」
と言われた一言が胸に刺さった。仕事のストレスで、去年哲郎さんと出会った頃よりも、3.5kgは確実に太っていた。
私が怒ると、哲郎さんは「そういう意味で言ったわけではない」と否定した。しかし、私は自分が太ったことが原因だとしか考えられず、哲郎さんの否定をバッサリと却下した。
昨年から悩まされていた痛風も原因の一つだ。昨年末に、痛風を治すために食事制限をした。その反動で、お正月休みは好きな物を好きなだけ食べてしまい、思いっきりリバウンドしてしまった。
それからは、痛風の治療は薬に頼りっきりで、リバウンドという恐怖のリスクを伴う食事制限をしないことにしていた。
しかし、恋人に「貫禄が出てきた」と言われて、女として何もしないわけにはいかない。休むことができそうな14日までに、4kg痩せてみせると決めたのだ。大幅なダイエット成功者の母を持つ私にできないわけがない。
予定通り6時に起床すると、サウナスーツを着てジョギングに出かけた。
田舎育ちなので運動はそれほど苦ではない。仕事が忙しくて、運動する時間がなかっただけである。階段ではなく、エスカレーターを必ず使うのは、身だしなみのために汗をかかないように心がけているだけだ。
結構走ったと思い時計を見てみるが、まだジョギングを開始してから7分しか経っていなかった。距離も800mしか走っていなかった。
まあ、体がなまっているから、最初はこんな感じでもしかたがない。体が軽やかに走る感覚を思い出すまでの我慢だ。
「もうムリ……」
たった12分間、1100m走っただけで、私の脚は止まった。サウナスーツを着ているとはいえ、あまりにも情けない。
そして、私が止まった場所は自動販売機の前だった。カロリーゼロのドリンクも売っていたが、私の喉は幼き頃から飲んできた本物のコーラを欲していた。ここで、コーラを飲んでしまったら、僅かではあるがジョギングで消費したカロリーが台無しになってしまう。
私は非常用として500円玉を1枚持って来たことを後悔した。お金さえ持っていなければ、自動販売機の前で立ち止まることもなかったのに……。
それに昨晩、冷蔵庫に残っていたビールを、キッチンの流しに捨てたりしないで、五臓六腑に染み渡らせればよかった。ダイエットは今日から始めるのだから、昨日は飲んでいてもセーフだったのだから。
そんなことを考えていたら、喉がビールを欲するようになり、コーラへの欲求がいつの間にかおさまっていた。おかげで私は、カロリーゼロのスポーツドリンクを買うことに成功した。第一関門突破だ。
気分を良くした私は喉を潤すと、ジョギングを再開した。ジョガーが増えていることは知っていたが、経堂近辺でこんなにたくさんの人がジョギングを楽しんでいるとは知らなかった。日焼けして引きしまった体をしている老人に、次々と抜かれて行く。
そんなに痩せているのなら走る必要がないでしょうと思うが、毎日走っているから痩せているのだと思い直す。つまり、続けることが大切なのだ。夏休み期間の14日までに4kg痩せようとしている私の行為は愚行でしかない。そもそも、一年間で最も心を解放できる夏休みにダイエットなどしないといけないのだ。哲郎さんだって、私が太ったという意味で、貫禄が出てきたと言ったわけではないと否定していたではないか。ジョギングをやめて、コンビニでビールを買って家に帰ろうと思ったが、
「スゥスゥ、ハァハァ。スゥスゥ、ハァハァ」
2回吸って2回吐き出すジョギングの呼吸法を、いつの間にか体が思い出していた。先ほどまでより随分と楽に走ることができている。
知らない景色を楽しみながら走っていると、大きな公園に出くわした。まさかと思ったが、紛れもなく代々木公園だった。時計を見てみると、走り始めてから92分も経っていて、10km以上も走っていた。
心地良い疲労感に浸りながら、代々木公園を軽くウォーキングしてから、また走って経堂の自宅へと戻った。したたる汗が、シャワーを浴びるより、何倍も気持ち良かった。俊と一緒に、島を1日に3周も走っていた頃を思い出した。ジムに通っても長続きしなかったのは、体の中に刻まれている、外の空気を吸いながら走る心地良さがなかったからだ。
電車に乗ったらすぐに空席を探すようになったのはいつからだろう。ジョガーを暇人と見下していた理由はなんだったのだろう。季節が変わる旅に温泉に行きたくなるほど疲れているのはなぜだろう。
運動をしていないからだ。日々、体を動かしていないから、疲れが溜まってしまうのだ。お酒を飲んでゲラゲラ笑って、心の疲れをとっても、体の疲れが増すから、それがまた心の疲れに繋がってしまうのだ。
今度、哲郎さんに会う時には、引き締ったボディで、たっぷりとサービスをしてあげよう。
ジョギングで浄化された私は、自宅に戻ると、シャワーを浴びて、バナナを1本だけ食べた。
そして、ネットで注文していたヨガマットをリビングで広げ、お手本のDVDを観ながら、ヨガに挑戦した。
心と体がどんどん軽くなって来る感じがして、何とも言えない心地良さだった。
想像以上にリフレッシュできたヨガを終えると、私はテレビを観ながら、休憩をとることにした。その判断が間違いだった。『ヒルナンデス』を観ていたのだが、出演者が真っ昼間から軽井沢でおいしそうにビールを飲んでいたのである。
すぐにテレビを消したが、ダメージは大きかった。真っ昼間から軽井沢で飲む地ビール。言葉が出ないほどうまいに違いない。
私はリビングに飾ってある、ひまわりの絵に目をやった。30歳になった夏に、久美子さんが送ってくれた絵で、とても気に入っていた。元気がない時でも、上を向こうという気持ちにさせてくれた。
せっかくの夏休みなのだから、軽井沢にいる久美子さんに会いに行こうかな。先ほど観た、芸能人が軽井沢でビールを飲む映像は、私に軽井沢に行けというサインだったのかもしれない。
とりあえず、準備だけはしてみようと思い、旅行鞄に荷物をつめることにした。軽井沢だから、持っていく服には神経を使う。クローゼットの奥から、白のスキニーパンツが出てきたが、2年前に試して脚が入らなかった。いつか着られるようになると思い、捨てることができなかったのだが、この際、捨ててしまおうと思った。お気に入りのパンツだったので、最後に足首だけでも通してみようと思ったら、もう少し痩せたら履けそうなくらいのサイズ感だった。私は旅行鞄につめていた荷物を元の場所に戻した。
テレビは怖いので、クローゼットから出てきた『Wii Fit』をして時間を潰すことにした。1日でクローゼット行きとなったゲームソフトだったが、ジョギングで浄化された私は、楽しんでプレイすることができた。ダイエット効果はそれほど期待できないだろうが、食べ物やお酒のことから気を紛らわすのには最適だった。
夜、一人で走るのは怖かったので、18時に再びジョギングに出かけた。多少、クラクラしたが、空腹感が気持ちよくなってきていた。
1時間ほど走っている最中に、酔っ払っているサラリーマンとすれ違ったり、飲み屋さんの前を通ったりしたが、お酒を飲みたいという欲求に襲われることはなかった。
まるで、アスリートになったかのように、できる限り良いコンディションを維持しようと意識するようになっていた。
自宅に戻り、シャワーを浴びて、バナナを1本だけ食べると、私は20時前に眠りに落ちた。枕の下には睡眠中にお肉を好きなだけ食べられるように、焼肉特集の本を仕込んでいた。
2014年7月12日(土) 天気:晴れ 最高気温:32.8℃
残念ながら、お肉を食べる夢を見ることはできなかったが、5時半にセットした目覚まし時計が鳴る前に、清々しく目覚めることができた。太陽の日差しを感じたかったので、カーテンを開けようとしたが、苦痛で顔が歪んだ。極度の筋肉痛で腕が上がらない。脚に至っては、ちょっと動かしただけでつりそうなくらい痛かった。特にふくらはぎが、今すぐにでもつりそうな気配を漂わせている。
湿布を貼ってから眠ればこんなことにはならなかったのだろうが、運動後の体のケアまでは考えが及ばなかった。
少しずつ、腕を動かして、脚をマッサージする他ない。気のせいかもしれないが、ウエスト周りが、結構すっきりしているように思えた。
入念にマッサージした甲斐あって、1時間後にはなんとかベッドから下りて、歩けるようになった。
さっそく、体重計に乗ろうかと思ったが、あまり減っていないとショックを受けてしまうので、最終日の14日まで体重を量らないことにした。
7時になってしまったが、ゆっくりでも走ったほうがいいと思い、サウナスーツを着てジョギングに出かけた。今日、走るのをやめてしまったら、昨日走ったことが無駄になってしまいそうな気がしたし、たった1日でジョギングをやめてしまうことを、浄化された私の心が許さなかった。
無理しすぎて、リタイアしてしまわないように、朝のジョギングは片道5kmで切り上げた。
その分、自宅に戻ると、2時間たっぷりとヨガに没頭した。休憩中は、汗を拭いながら、いい女になっている感がして、何度も姿見を見てしまった。一昨日までは姿見を見る度に、ため息をついていたのがウソのようだった。
それから、『Wii Fit』で時間を潰して、ようやく12時になったので、ジョギング帰りにコンビニで購入したアサイーボウルを食べることにした。
「いただきま……」
と言いかけた時に、哲郎さんからLINEにメッセージが届いた。
『今日は、秋葉原に飲み歩きに行きましょう!』
私はまだ契約期間が1年以上も残っているiPhoneを、思わず床に投げつけそうになった。
なんとかそれを堪えると、すぐに哲郎さんに電話をかけた。
「あっ、町子さんおはよう。何時に待ち合わせする?」
こんな時間に、のん気な声でよくおはようと言えるものだ。
「とっくに起きているわよ! どうして私がダイエットしているのに、飲み誘うわけ! 本当に信じられない」
「えっ、ごめん。町子さんがダイエットしているなんて知らなくて……」
それはそうだ。ダイエットのことは哲郎さんには一切話していない。痩せた姿を見せて、驚かせようと思っていたのだから。
「とにかく、しばらく連絡してこないで!」
一方的に電話を切って、電源をシャットダウンした。アサイーボウルに涙がこぼれ落ちる。わかっている。こんな女だから、結婚できないのだ。貫禄が出てきたと言われたくらいで取り乱してしまうのだ。自分に自信がなさすぎるのだ。
窓の外を見ると、快晴の空が見える。私はiPhoneの電源をオンにした。
『あんなに怒るくらい、町子さんが必死にダイエットしているのに、飲みに誘うなんて俺は本当にバカだ。でも、わかってほしい。俺は、今のままの町子さんが好きなんだ』
と哲郎さんからLINEにメッセージが届いていた。着信履歴も6回残っていた。優しすぎるよ、哲郎さん……。こういう時は、怒ってくれていいのに……。すぐに哲郎さんから電話がかかってきたが、私は出ることができなかった。
哲郎さんと一緒にいると、私は幸せになることができる。でも、私は叱ってくれない哲郎さんに甘えてばかりで、哲郎さんを幸せにすることができない。
ちょっと考えてみれば、アルコールとニコチンと脂で汚れた私の心が、そう簡単に浄化されないことくらいわかることだった。
私は哲郎さんと付き合い始めてからやめていたタバコに火を付けた。しけっていてクソ不味かった。空腹だったので吐き気にも襲われた。それでも、心が落ち着いていくのがわかった。
今日、哲郎さんと会って、話さないといけないことがある。
今日の天気は、雨だったらよかったのに。
2014年7月13日(日) 天気:曇り 最高気温:28℃
昨日より筋肉痛が残っていなかったので、6時からのジョギングを心置きなく楽しむことができた。まぶたが腫れているのでサングラスをかけることにしたが、アスリート感が増して心地良く走ることができた。これからはサングラスをかけて走るようにしよう。
これで良かったのかと問われたら、正直言ってわからないと答えるしかない。10年後の私だろうが、30年後の私だろうが、その答えが変わることはない。
一緒に歩む道もあったかもしれない。歳を重ねるごとにどんどん太りながらも、幸せに暮らせることができたかもしれない。生真面目な子供に恵まれて、子育てで苦労することもなかったのかもしれない。
でも、それでは、私という人間が消えてしまうことになる。もがいて、もがいて、もがいて、一日一日を過ごしてきたのが私だ。浮き輪にもたれて、プールの中を漂うような毎日の中には、私は存在し得ないのだ。
この日からは、ヨガの後には、腕立て伏せと腹筋運動を追加することにした。運動して体重を減らすだけではなく、年齢とともに低下している基礎代謝を高めるためである。
そして、リバウンドしないように、食事は3食摂るようにした。とは言っても、以前のように食べたいものを気分次第で食べるのではなく、丸の内のOLのように、ヘルシーな食事を摂ることにした。
今、一番問題なのはなかなか寝付けないことだ。良質な睡眠はダイエットに欠かせないが、そう簡単に吹っ切れるものではない。ベッドに入ると、どうしてもいろいろと考えてしまう。
ひどい女だ。自分のことしか考えていない。それでいて、特技は自己嫌悪だから困ったものだ。自分のことしか考えていないのに、自分のことを好きになれないでいる。
夜や雨の日でも走れるようにランニングマシンを買うことにしよう。走っている時は、現実から逃げることができるから。
2014年7月14日(月) 天気:曇り 最高気温:32.9℃
早朝のジョギング、ヨガ、筋肉トレーニング、Wii Fit、夕方のジョギング、心地良いメニューをこなし、午前0時になったところで、体重計に乗った。努力のすべてが数字に表れることはなかった。でも、それでかまわない。4日間続けた達成感があることはもちろん、これからも続けていける自信が何よりの収穫だった。
そして、白のスキニ―パンツを履けるようになっているか試してみようと思った時に、インターホンが鳴った。この時間に尋ねて来る人は一人しか知らない。電話がまったくなかったのも、そういうことだったのか。私のダイエットが終わるのを待っていてくれたのだ。
やっぱり、優しすぎるよ。ありがとうって、ごめんねって言いたいけど、インターホンに出ることができないよ。どうして……、どうして、花束なんか持っているのよ。




