2013年(4)
2013年9月2日(月) 天気:晴れ 最高気温:33.1℃
お腹がペコペコだった私は8時前にホテルを出て、喫茶店『すばる』へと向かう。右足の甲の痛みは治っていた。何か硬い物を蹴って、骨にヒビでも入っているかと思っていたが、安心した。
やった。今日は営業していた。喫茶店『すばる』に私が入店すると、マスターの奥さんと思われる女性が、不愉快そうな顔をする。
マスターは頬に絆創膏を貼っていた。夫婦喧嘩でもしたのだろうか。気まずい時に来てしまったと後悔した。
奥さんが水を持って来て、やや乱暴に置く。
「ご注文は?」
「モーニングセットで、ドリンクはオレンジジュースをお願いします。あと、ナポリタンをください」
私がそう言うと、奥さんは目を大きく開いて、
「本日のナポリタンは終わりました」
と言うと、私の反応を待たずに、マスターにオーダーを伝えに行く。
マスターは奥さんに返事をしない。まだ開店したばかりなのに、もうナポリタンがないとは、よほどの人気メニューなのだろう。
月曜の朝に、ここのナポリタンを急いで食べて、元気をつけてから出勤する人たちの姿が目に浮かんだ。
今日で私の夏休みは終わってしまうが、機会を改めてまた訪れることにしよう。往復の電車代を払っても食べる価値がある。思い出しただけでよだれが垂れてきそうだ。
『すばる』で朝食をとると、私は赤羽一番街商店街をぶらついた。わざわざ海外に行かなくても、非日常を満喫することはできる。
赤羽暮らしも今日で最終日か、センチメンタルが顔を出し始めた。また無茶苦茶なギャラで、無茶苦茶なスケジュールで、無茶苦茶な修正依頼が入りまくる日々に帰っていかないといけない。
仕事のことを考えてしまい、足取り重く歩いていると、
「あっ、町子さん!よかった、また会えて」
ブルーのオックスフォードシャツにホワイトのハーフパンツ、オフホワイトのストローハットが似合っている青年が話しかけて来た。
「どこのどちら様ですか?」
なんとなくどこかで会ったような記憶もなかった。30過ぎの女に近づいて騙す詐欺師ではないかと思った。
「もう、からかわないでくださいよ。昨日は勤務中だったので、連絡先を教えることはできませんでしたが、今日は非番なので問題ありません!LINEを交換しましょう!」
青年はスマホを取り出して私に向ける。
勤務? 非番? 良い予感は当たらないのに、私の嫌な予感は当たる。
「もしかして、警察官の…」
「そうです。この格好ではわからなかったですか?町子さんみたいにキレイな方に逆ナンされるなんて、本当は飛び跳ねたいくらい嬉しかったのですが、なにせ勤務中に逆ナンされたのは初めてだったので、どうしたらいいかわからなくて」
それはそうだ。警察官を逆ナンする女なんて、女子会でも合コンでも聞いたことがない。
「この辺りを歩いていたら、町子さんにまた会えるんじゃないかと思って捜していたんですよ。コーヒーでも飲みませんか?この先においしいナポリタンが食べられる喫茶店があるんですよ」
「すみません。これから仕事があって…」
「そうですか、残念だなあ」
逆ナンした警察官の青年とLINEを交換すると、私はその場から逃げ出した。
スマホがブルッと震える。さっそくメッセージが届いたのか? 今は読める気分ではない。
逆ナンをして、一回り年下の青年に喜ばれたことはまんざらでもないが、国家権力を相手に私は何をしているのだ。歩けば歩くほどに、テイラー・スウィフトが遠のいていく。
もう一つの謎をはっきりさせるために、まだ10時半だったが、『でん介』へ行き、並ぶことにした。さすがに東京人でも、まだ並んでいる人はいなかった。
苛立っていた私が、足踏みしながら待っていると、店員さんが出て来て、声をかけてくれた。
「すみません。開店は、11時30分からで…」
「わかっています。ちょっと聞きたいことがあるので、並ばせていただいています」
「聞きたいこと?」
「一昨日の夜、私はこちらのお店にお伺いしたのですが、飲みすぎたようで記憶が残っていなくて。騒いだりして、ご迷惑をおかけしてはいませんでしょうか?」
「一昨日ですか…ちょっと、お待ちください」
店員さんが店内に戻ると、しばらくして店主の親父さんが出て来た。
「おや、町子ちゃんじゃないかい。昨日、夜も来ると思って待っていたのに。皆、がっかりしていたぞ」
「それじゃ、私、一昨日の夜は何も…」
「俺は知らねえ歌だったけど、町子ちゃんがアメリカの歌を歌って、踊ってくれて、常連さんも喜んでいたよ。覚えてないのかい?」
「はい…」
町子ちゃんと呼ばれるほど、親父さんと距離を縮めていたとは…。
「ハハハッ。町子ちゃんらしいや。そういえば、騒ぎと言えば、喫茶店の『すばる』さんのシャッターを叩いて、ナポリタンを食べさせろと騒いでいた女性がいたみたいだな。確か、一昨日の夜だったとはずだぜ」
「アハハハッ。はた迷惑な女もいたもんですね」
「まったくだ。マスターと奥さんは夜中に店までやって来てそれは大変だったそうだ。昨日は休業して、年齢的にもそろそろ喫茶店をやめるかどうか、夫婦で話し合ったって言っていたな」
「お気の毒に…」
「町子ちゃん、今日は夜も来ておくれよ」
親父さんは私の肩をポンと叩くと、店内に戻って行った。
今すぐこの場から逃げ出したいところだが、並んでしまった以上、ランチを食べるまでは逃げ出すことができない。
昨日1日お酒を我慢したので、今日飲むお酒はさぞかしおいしいことだろうと思っていたが、今日もお酒を飲むのをやめよう。
並んでいる間に、一昨日の私の愚行を見た人と遭遇しないか、気が気ではなかった。いっそ、一生酒を断とうと8秒ほど考えたが、無理だなと却下した。
バッグにマスクが入っていたことを思い出し、マスクをつける。1時間後、開店時間を待たずに、私は熱中症で倒れた。