雪の女王
鉄腕アトムの漫画は勇気をくれる。
理由は解らないが、何となく、そんな気がする。
アトムの親友に「ひげ親爺さん」がいた、「ひげ親爺さんは立派な人だ」
それに引き換え、古本屋の禿げ親爺には「さん」を付ける気にならない。
いつも古本屋では、禿げ親爺の桟はたきで叩かれる、本当にムカつく。
ムカついても、未来男はまたあの古本屋に来ていた。
そして、アトムの漫画を拡げては、桟はたきで叩かれ、
鉄腕アトムの漫画を拡げたまま、眠りについた。
「ミキ」と大きな低音の声で呼ばれた。
「? ミキって誰の事?」
上空でアトムがクスクス笑っている。
ミキは5歳、体重は500kgの男の子、マンモスではほんの幼児だ、
マンモスは3歳までに乳離れすることが多いが、
甘えん坊のミキは乳離れできていない。
お母さんのシビルはミキに乳離れさせようと、
ミキが近づくと向きを変え、乳房を遠ざける、ミキはシビルの乳房を追いかける、
草を食べてみたがシビルの母乳ほど美味しくない、オッパイが飲みたい、
ミキはシビルに纏わり付く、追い払われてもまた追いかける。
シビルは120頭のマンモスのリーダーだ、
群れの運命はシビルに託されている。
シビルの体長は9m、この島のマンモスの雌としては大きい、
雄のマンモスの身体と殆ど差が無い。
時は紀元前2000年、ここは北極海のウランゲリ島、極北のマンモス生息地。
この辺りのマンモスは島と言う閉鎖された環境のため、
一般のマンモスより小型化した、小型とはいえ、今の象よりは大きい、
マンモスは野生動物に天敵は存在しない。
マンモスは雌がリーダーの群れで、子供が中心の社会、
雄は繁殖期以外群れにいない、
雌の発情期になると何処からともなく集まってくる。
シビルは子育てをしながら、大きな群れを守らなくてはならない。
島は昔乾燥した厳寒の地だった、マンモスの好きなイネ科の植物やヨモギが
いたるところに生え、食べるに困らなかった。
シビルの時代には地球は温暖化し、島は湿潤化して、一年の半分は大雪、
植物の生育に適さない土地へと変わっていた。
シビルは群れと子供たちを抱え、主食であるイネ科の植物を求めて
島の彼方此方を移動しなくてはならなかった。
ミキがシビルの下に潜り込んで乳首に吸い付いた、シビルはミキを押しのけた。
「向こうに行って、草を食べなさい。」
ミキはシビルの大きな鼻で押しのけられた。
お姉さんのディーマは5歳年上、もうじき10歳になる、体重は10t、
お母さんよりは小さいが、ミキより遥かに大きい、
ディーマは世話好きだ、弟のミキが可愛くてならない、いつもミキの傍にいる。
ミキはディーマのオッパイを吸おうとしたことがある、母乳は出なかった。
ミキもディーマが大好きだ、悪戯好きのミキをよく遊んでくれる。
ミキはディーマの周りを走り回り、ディーマのお尻に体当たりする。
ディーマはビクともしない、鼻でミキの頭を優しく撫でてくれる。
ディーマがミキの後を追いかけた、ミキは必死で逃げる、捕まった。
二人の笑い声が絶えない、楽しい、幸せな家族だ。
マンモスは5年に1回くらい、1回に1頭しか子供を産まない。
ディーマの兄弟はミキだけ、上の兄たちは群れを出て、独り立ちした。
シビルの妹のエルザは妊娠している、既に20ヶ月、
後2ヶ月でエルザに子供が産まれる。
今年は大雪が続いて、草の育ちが悪い、
シビルの子供ミキはもうすぐ乳離れできるが、シビルはエルザを心配していた、
子供を産んだ後、エルザに母乳が出るだろうか?
シビルは群れの安全に気を配り、食料を心配し、子育てに追われ、
心が休まる時が無い、ストレスが溜まっている、愛していても、
乳離れできないミキに苛立つ時がしばしばある。
周りにはホッキョクグマが生息しているが、普段はマンモスの敵ではない、
ホッキョクグマは熊の中では最も肉食性が強いが、マンモスを狙ったりしない、
彼らホッキョクグマの標的はアザラシだ、
群れから見える処にホッキョクグマの親子がいるが、シビルは気にしていない。
長い間、北極海のマンモスに天敵はいなかった、
天敵がいないのは北極海のマンモスだけではない、
マンモスの仲間達はユーラシア大陸、南・北アメリカ大陸、アフリカまで、
ほぼ世界中にいた。
恐竜が絶滅してからは、マンモスがは食物連鎖の頂点と言って良い存在だった。
その食物連鎖の頂点に君臨するマンモスに、突然天敵が現れた、人間だ!
石器を発明してから、人間はマンモスを食料として狙い始めた、
クロビス石器を発明した人間に、シビル達マンモスは標的とされるようになった。
シビルは人間を最も警戒している。
マンモスの足の裏は繊細で、足が捉えた刺激は耳まで繋がっている、
30~40km先の音を足の裏で捉える事ができる、
足が捉えた音で歩いている人間が、男か女かまで区別できる。
マンモスは鼻の臭覚も優れており、
鼻を高く上げれば、風が運んでくる遠くの匂いを嗅ぎ分けられる。
突然、シビルの遥か後方で、群れが乱れ始めた、
勢子と呼ばれる人間の追い立て係が大きな音を立て、
シビルたちマンモスの群れを追い立てている。
人間はマンモスの習性を学習し、音や匂いが解り易い場所には隠れない。
マンモスの不意を突いて現れる、追い立てられた後ろの群れは興奮状態になった。
シビルは息子のミキをディーマに任せ、大きな体で後方へ走った。
「落ち着け、落ち着け、冷静に成れ!」
5mもある大きな牙を振りかざし、興奮状態の若い雌たちを落ち着かせた。
シビルには解っている、これは罠だと。
「危ない処だった。」気が付いたのが早かったので、群れの興奮を抑えられた、
群れは元の落ち着きを取り戻した、勢子が幾ら追い立てても、群れは動じない。
人間達は諦めた、シビルの群れは、ゆっくりその場を離れた、
誰も人間の獲物にされなかった、殺された者はひとりもいない。
シビルはマンモスの中で一際大きい、
人間は罠にかけない限り、戦ってシビルに敵わない。
落とし穴に落とせなかったシビルを取り囲んで、8人がシビルに殺された。
人間達は大きな体で、賢いシビルに敬意を払って
シビルを「雪の女王」と呼んで、恐れた。
ディーマは母親のシビルが自慢だった、
ディーマはお母さんの様に成りたいといつも思っていた、
ディーマは弟のミキを愛し、わが子のように可愛がった。
ミキは父親の顔を知らない、父親は何処にいるのか、会ったことが無い、
しかし、ミキは温かい家族に囲まれ、いつも幸せだった。
エルザの出産が近づいてきた、
マンモスは男の子だと、生まれた時には200キロ前後の体重に育っている、
エルザの子供は男の子なのだろうか?
大きなお腹を抱えて、エルザは歩くのさえ苦しそうだ。
ミキは今日もシビルのオッパイを吸おうとした、一生懸命、力を込めて吸った、
シビルの顔が苦痛で歪んだ、「痛い」、母乳は数滴こぼれただけだった。
シビルは5日間、何も食べていない、母乳が出難くなっていた。
「この子はやがて草を食べる様になるだろう、早く草を見つけなければ。」
シビルは群れの食料が心配だが、エルザの事も心配でならない、もうすぐ出産だ、
シビルは十分に草を食べていない。出産に耐えられるだろうか、
エルザにお乳はでるだろうか?
シビルのお婆さんの頃、このマンモスの群れは500頭いた、
この島では最大の群れだった。
大きな群れは安全だ、人間の標的にされない、
マンモスは群れが小さい程人間の標的に成り易い、危険が増す。
人間達は大きな落とし穴を掘って、勢子を使って、
マンモスの群れを脅し、混乱させ、落とし穴の方へと追いやる、
穴に落ちたマンモスは自分の体重で後ろ足を骨折し、動けなくなる。
人間達はクロビス石器で作った槍を、穴に落ちたマンモスへ投げ、
動けなくなったマンモスに止めを刺そうとする。
マンモスは集団意識が強いので、
落とし穴のマンモスを助けようと、人間に襲いかかる、
穴に落ちたマンモスの周りでは、マンモスと人間の死闘が起こる。
人間がマンモス襲う時は、マンモスの群れの全滅が鉄則だ、
マンモスを取り残すと、生き残ったマンモスに人間が殺される。
少ないマンモスの群れは人間に狙われ、全滅させられ、人間の食料にされる。
大きいマンモスの群れは滅多に人間に襲われない。
シビルの群れから行き倒れになるマンモスが出て来た、
行き倒れになるのは、母乳だけに頼る乳児が一番早い、弱いものが先に死ぬ、
群れは何時の間にか百頭を切っていた。
シベリアの冬は長く、厳しい、辺り一面が大雪で大地が見えない、
シビルたちマンモスは前足を使って、雪を掘り、草を探す。
雪の下に草が残っていた、シビルたちは久しぶりの食べ物ありつけた。
やがてエルザは出産した、大きなお腹から出て来たのは、元気な男の子だった。
エルザのお乳が出る、シビルはほっと胸を撫で下ろした。
10年の月日が流れ、ミキは15歳になっていた。
身体は8mほぼ大人のマンモスの身体になった、独り立ちの時期が近い。
お姉さんのディーマに赤ちゃんが生まれた、女の子だ。
ディーマはもうミキの遊び相手をしてはくれない。
ディーマは自分の最初の女の子の子育てに一生懸命だ。
シベリアの大雪は長い、雪深い大地をシビルたちは草を求めて移動して行く。
大雪で食料の草が少なく、群れは50頭にまで減っていた。
人間がシビル達を狙う機会が増えて来た、10年の間に20頭が人間に殺された。
マンモスの寿命は長くて80年、シビルは67歳になっていた。
57歳で産んだミキがシビルの最後の子供だ。
シビルは耳が聞こえにくい、鼻の具合が良くない、足の裏はひび割れも酷い、
感覚が鈍って、リーダーとしての役割を果たすのが年々苦しくなっていた。
雪の女王と呼ばれたシビルは、人間達から絶えず狙われている。
シビルを倒さなくては、あのマンモスの群れを手に入れることができない。
冬になる前のシベリアは暗い、もうじき雪の季節になる。
まだ辺りには草がある、シビル達は冬になる前に少しでも脂肪を蓄えようと
毎日、草を見つけては食べる事に夢中になっていた。
食事に気を取られ、人間が近づく臭いに気づかなかった。
いきなり大勢の勢子が現れ、その音に群れは大混乱になった、
マンモスたちは逃げ惑った。
シビルは不自由な身体で人間に立ち向かって行った。
罠だった、人間たちはシビルを狙っていた、シビルは人間の罠に堕ちた。
人間が掘った大きな落とし穴に落ち、シビルは足が折れた、動けない。
シビルを何十人もの人間が取り囲み、クロビス石器の槍が雨の様に、
シビルに降って来た、シビルは鼻を持ち上げ戦おうとしたが、足が折れて、
穴を出られない、シビルに何十本もの槍が刺さった、
シビルが振り上げていた鼻がだらりと落ちた、
雪の女王と呼ばれ、恐れられたシビルは、人間が掘った穴の中で息絶えた。
シビルが死んだのを見届けると、シビルを残して人間は急いで立ち去った、
残ったマンモスとの死闘を避けるためだ。
マンモスの群れは動けなくなったシビルの周りに集まり、長い間泣き崩れた。
シビルの妹エルザはシビルの5歳下、もう若くはない、
シビルの後はディーマが群れを率いて行くことになった。
マンモスの群れはシビルとの別れを惜しむように、
泣きながらその場を立ち去って行った。
マンモスの群れが去ったのを見届け、人間が集まって来た。
シビルの周りは人間たちの歓声に包まれた、憎いシビルを倒せた、
大きな獲物だ、当分肉に困らない、人間達はシビルを囲んでお祭り騒ぎだ。
ミキは涙が止まらない、ディーマの後を追いながら泣き続けた。
程なく、ミキはディーマからマンモスの群れを追い出された、
独り立ちしろ、との合図だ。
ミキは一人になった、周りには遊び相手も、優しかったディーマもいない。
自分で食べ物を探し、自分の身は自分で守らなくてはならない。
ミキの旅は続いた、島ではホッキョクグマと良く出くわす、アザラシも見かける
しかし、マンモスの群れや、ミキと同じ雄のマンモスは滅多に見かけない。
ディーマや群れは無事だろうか?
ミキは自分の事よりも、群れがどうなっているか、何時も気がかりだった。
ある日、ミキは海岸近くの草場で食事をしていた、
大きな音がすぐそばで始まった。
「勢子だ。」
ミキは冷静だ、勢子に追われた時はどの方向に逃げれば安全か、
シビルから教わっている
ミキは落とし穴には落とされなかった、人間達は執拗にシビルを追いかける、
人間がうっとうしくなって、シビルは走った。
「あっ」と気づいたときは遅かった。
ミキは氷河の割れ目に落ちた、ミキの身体が氷河に沈んでいく。
「助けて」
ミキの声は誰にも届かなかった、
薄れる意識の先にシビルやディーマが見える。
ディーマの群れは生き残っていた、その先300年、群れは生き続けた。
紀元前1700年、マンモスの最後の群れがウランゲリ島で死に絶えた。
地上でマンモスの勇姿を見ることは、永遠になくなった。
「冷たい、俺はまだ生きている。」
未来男が気づいた所は、古本屋の冷えた床だった。