逃避
私、妻、そして娘2人の4人全員がテーブルに腰掛ける。
私はスパイスが放つ豊潤で清浄な香りに身を寄せつつ、眼の前を走る波とも、光とも捉えようの無い、それらを右へ左へ追いかけたり、凝視したりしながら、スープを慎重に測りつつ口に運ぶ。
踏み切りで電車の通過を待つよりも謙虚に、逝った友を見送るよりも寡黙に、その中でただ、事物となり、背景に溶け、色に滲みるように漂っていた。
ふいに、波は大きな龍とも大型貨物とも思える乱れを見せ、光は一群の太陽のような怒涛の熱を帯び初めた。始まった。幾度と無く繰り返され、始まりとも終わりともつかない輪の様な凄惨がふいに私の前を覆い、前途、退路、全ての進行方向を塞いで視力を奪っていった。
遥か遠く、隣室とも異国とも判断が覚束ない金属音の様な声だけが微かに聴こえてくる。
私は見えない眼を覆い隠し、耳を塞ぎ、全ての感触を体内の同心円状に配置された器官から全て切断し、硬直したまま逃避した。それは、どこにでも、のべつ無く、歴史で使い古された古紙のような淡い惨劇であったし、そこまでに現れる全ての”項”はどれも正確で穏やかだった。
第1項と第2項は奔放にして自然な舞いであったし、第3に至っては大地から湧き出た定理とも思えるようなものであった。
ところが、私から湧き出る大量出血にも似た第4項は、加算でも減算でもなく、またそれを過熱させる事も宥めることも無い情事であった。
無限にも思われる中から唯一の間違いとも思われる選択を必然の彼方から引き抜き、捏ね、投げてしまうのである。
「ゼロ・ディバイド」ともいえる混沌である。
しかし、暴走や混乱や失策を産むこともなければ、停止し凍結し堕ちる事もない。
門灯の朧ろな光だけを頼りに外へ転がり出て、商店の軒でキャスターに火を点けつつ第1の項について精査し、郊外の散歩道で薄い茶色の紙に包まり空をただ仰ぐだけの人々を眺めながら第2と第3の項について点検した。そして、再び門灯の光の下に戻った時は、第4の項だけを、赤子をあやす様な姿勢で丁寧に抱えて、いつもの様に呆然と立ち尽くしてしまうのである。
ダイニングに、あの赤み掛かった火の様な空はなく、沈黙の残土や茉莉の残香だけが残されている。
階段を駆け上がりベッドに滑り込み、身を隠しつつ、宙に浮かんで不快な音を立てる秒針を辛うじて捉えた。
その音は午後11時を告げていた。