誘う声と供に
階下から伝わる振動と供に不安が一気に駆け上がってくる。
うつらうつらしながら、夢とも現実とも付かぬ境界で独り白く柔らかい何かを、練ったり捏ねたりしている刹那をドアの隙間から差し込む生暖かく容赦ない光が、焦燥と汚濁の散乱する世界へ引き戻す。
「パパ・・・ごはんだよ」
一昨晩からの勤務で身体の内の同心円状の唯一点に溶け落ちて焦げて、咽る様な煙を立てながらも酒と煙草と心に引っかかって外れない”何か”に促され辛うじて目を開け、人と形容できるであろう具現の棺に戻りつつ、深呼吸をして、顔をドアの向こうへとやる。
「あぁ・・・」
返事とも唸りとも分別がつかない、その声を聴いて娘は階下へ後退していく。
私は体のバランスを熟考して立ち上がり、周到に念押ししながら室の一点へ焦点を引っ掛ける。
年の暮れ、これらの倦怠が不意に発作として、または春に咲く桜や秋に実る稲穂のように、溶けて沈んで、回転と明滅の最中に襲ってくる。
こんな時は、起きること、決められた時間に食事を摂ること、風呂に入ること、一切が苦痛で鈍重に思われ、特に人と話すことが、どれほど難解で奇怪な数式の一項を解くことよりも辛く、冷淡で非情で一瞬の忘我も許すことなき業だとか荷だと感じさせるのである。
冬の冷たさを無言で吸収し押し黙っている手摺を握り階下へ降る。
暗い長い螺旋階段の道すがら、私の中に懇々と沸いて弛まぬ闇ともいえるべき何かは、
息を潜め、その同心円状の一点に波紋1つ起こさず、潜り込み定着する。
水面を走る帆船は何も見ぬフリをして滑っていく。
薄闇の中で輪郭が朧になったドアを開けて、鼻を抜ける香辛料の成熟した、甘くもあり軽やかでもある芳醇な香りで全身を満たしつつ、明るく照明の灯る暖かな室へ滑り込む。
何時からか死んだ様に鳴かなくなったダイニングの時計は午後8時を告げていた。