ジュブナイルを世話する鉄則事項
寒い寒いと嘆く人間が最近増えてきた。そんな奴らに雑ざって、もちろん俺も嘆いてるわけだけど。あーさみぃ。
十一月下旬のある日の夜。俺はいつものように歩き慣れた帰路に着いている。辺り一面銀世界になっているわけではなく、枯葉が鮮やかに舞い散っているわけでもなく、至って平凡な町並みだ。
そんな住み慣れた世界を歩いていると、ふと前方から声をかけられた。
「……あっ……おーい! まーさしーっ!」
意識して音声の発生源を注視すると、ブレザーにスカートという制服姿の女子高生が、こっちに向かって手をぶんぶん振っていた。
振り返すのは面倒臭いのでとりあえずスルーを決め込む。そして完全シカト体勢に入って横を通り過ぎようとした。が、それは失敗に終わる。
「こらー! 無視すんなー!」
捕まりました。わー大変。
そいつはすかさず俺の腕をがっちり組んで包囲すると、並んで隣を歩き出した。そして、女特有のキンキンと高い声を鼓膜に突き刺してくる。
「かわいい妹が待ってたんだぞー、もっと喜んでよー!」
「やったー綾はすっごくかわいいなー嬉しいなー五月蝿いなーわーい超幸せ」
「うんうん! それでよし!」いいのかよ。
実は、これは俺たちにとってはいつも通りの展開なわけで、つまり俺たち兄妹の習慣だったりする。この年になって実の妹と腕組んで帰宅なんて、正直恥さらしもいいとこだ。
「今日の夕飯はね、なんとなんと薫司が大好きな焼魚のムニエルなのだ!」
「はいよ。じゃあさっさと帰ろ」
「うん!」
いつも通り、自宅へと歩き出す。
今日も俺たちは日常真っ最中です。
自宅に着き、玄関を開ける。恐らく誰もいないだろう屋内に向かって「ただいま」と口にしてみると、隣の綾から「はい、おかえり!」と返される。俺たちはそのままリビングに入り、消されていた電気を点けた。
「ねーねー! ご飯が先? お風呂が先? それとも、あ・た……」
「そういう新妻ネタはノーサンキューだから。そんでもって選択はお風呂で」
風呂場に向かうべくリビングを後にする。その際に後ろから「愛が足りないぞー!」と抗議の声を浴びせられたが、滅相もない。俺の心はいつだって妹へのラブでいっぱいなのです。うん、そうだといいね。
服を脱いで、浴室に入り込む。そして、いつも通り先にシャワーを浴びて体を流し、いつも通り先に体を洗って、いつも通り先にシャンプーしてから、いつも通り最後に浴槽に体を浸らせる。
全ていつも通り。全て日常通りだ。そしてここまで日常に忠実だと、恐らくこの直後に……
「―――やっほー! 私も入るー!」
……勢いよくドアを開けられて、そこから勢いよく妹の体がこんにちは。
頭を始点に、徐々に視点を下に持っていく。最初に可愛らしく形作られた顔が見えて、そして細くてか弱い首。さらに視線を下げていくと、頭に『乳』がつく二つの首が目に映る。そして小さく鎮座しているへそを通って、次には薄く発生した体毛。その先は細い足が二本あって……
生後十七年の瑞々しい女体が、一糸纏わずに浴室に侵入してきました。
ただ注意すべきは、これもいつも通りだということだ。全国の日本男児、甘いぜ。俺たち兄妹は、これくらいは日常の範疇なのさ。
「ざぶーん!」
綾が浴槽に飛び込んでくる。そして、背中を俺に預けてきて……
……その際に見えた綾の背中が、俺に最悪を回帰させた。
「……おおう? どったの?」
気づけば俺は綾の身体を抱き締めていて、その背中を自分の胸で覆い隠していた。
いつもこうだ。俺は、いつだって現実と過去から逃げ出す。臭いものには蓋をする、とはよく言ったものだ。
「まさしー? お湯ぬるかった? 鳥肌ぶつぶつだよ?」
「……いや、平気。綾の美しい身体を前にして、俺の体がエクスタシーを感じ始めたんだ」
心にも思ってないことをうそぶく。すると、綾は嬉しそうに顔を綻ばせながら、「えへへー、そうだろそうだろー」と自慢げに返答を繰り出した。妹を誤魔化す鉄則その一、ジェントルライを駆使すべし。
体勢的に、肩越しに綾の体が丸見えだった。綾の肩に顎をかけて、目下に広がる体躯を眺める。胸部を見て、高校生にしてはふくよかなんじゃないか、と俺の乏しい女体標準比率表が評価を下していた。実際、豊満とは言えないまでもそれなりに房が出来上がっていて、男性視点では満足満足。
「大きくなったな、綾も」
発育的ではなく成長的な意味だ。十二年前では想像もつかなかっただろう。ここまで立派に一人の女性として育ってくれると、やっぱり兄としては嬉しい。
「あはは、薫司がいてくだすったからだすよそれは」
未開の方言に挑戦した綾が、照れ笑いを浮かべながら俺の横顔に自分の頬をくっつけた。これが恋人同士だったら俺の体もビンビンに反応するんだけどなー。
「薫司がいなかったら、今の私はきっと成り立ってないよ。お兄ちゃんさまさまだね」
こうなると、いよいよ俺も照れてしまう。不幸にも照れ隠しの技法を兼ね備えていなかったので、俺は綾の体を離し、浴槽から出ることにした。
「ふぇ? もう出ちゃうの?」
「もう出ちゃうの。綾も早く体洗って出な。腹減った」
俺が浴室のドアを開けると、綾は駄々っぽく引き留め出した。
「えー!? もうちょっと一緒に入ろーよー!」
「だーめ。もう終わり」お前の場合、ちょっとがちょっとじゃないからな。
「じゃあさじゃあさ、体洗って?」
「アホ抜かせ、ガキじゃないんだから」
「むーっ! だったら今だけ頭脳を子供にするから洗ってー!」
「いやいやコナンくんの逆パターンは世間一般で言うクズ人間だから。……いいからちゃっちゃと洗う。そしたら体拭いてやるから」
「ほんと!?」
「ホント」
「やりぃ! じゃあすぐ洗う!!」
人間として当たり前の行動にようやく奮起してくれたようなので、俺は浴室を後にした。
まったく……どうにかなんないのかなー、この体だけ育っちゃったジュブナイルは。
「―――洗ったー!」
リビングのソファに寝転んでいると、綾が水滴を撒き散らしながらタオルを手に走ってきた。
そして、俺に向かっ「拭いてー!」
この時点で、綾の体の前面の水っ気は俺の部屋着が吸いとった。手間は省けたけど服はびっしょりだ。どうしてくれるんだこんちくしょー。
「ほら、タオル貸して」
「はーい」
一度濡れてしまえば今さらどうしようもないので、俺はこのままの状態で綾の背面を拭き取ることにした。そして、必然的にその背中に目を落とすことになる。
肩口から臀部にかけて痛々しく残る、大きな裂け目が俺の目に入った。
「……ねーえー、早く拭いてー!」
「あぁ、わり……」
タオルを広げて、綾の背中を優しく撫でる。水分をくまなく拭き取り、次には頭にタオルをかけてわしゃわしゃした。
「髪の毛ちゃんと拭いてね? 痛んじゃうから」
「わかってるよ」
綾の髪を、タオルで挟んで細部まで拭き取る。しばらく繰り返して、柔らかくしっとり感を残して拭き取りを終了した。
「はい、もういいよ」
「えへへ、ありがとー」
「どういたしまして。早く服着ろよ?」
「えー、お風呂出たばっかで暑いからいいよー」
「だめ。湯冷めしたら風邪ひくから」
「ひかないもん! 私は無敵なんだもん!」
恐らくこのまま言い続けても無駄なので、強行作戦に出ることにした。俺はタオルを放り投げて綾ごと体を起こし、和室に行ってたんすから綾の部屋着を取り出すと、リビングに戻って、綾に無理矢理着せてやる。
「……んもう! いいって言ってるのに!」
馬耳東風に反論するという無意味なことはせず、そのまま食卓の席に着く。
「早く夕飯お願い。お腹空いてるんだ」
「あ、ちょっと待っててー」
とてとてと台所に走っていく綾。
その姿を見ながら、俺は夕食の品が出るのを待った。
深夜十二時。
「おやすみー」
「はい、おやすみ」
一つのベッドに二人で入って寝るのは、もはや長年のしきたりのようなものになっている。夏場こそ地獄だが、今は時期が時期だけに、お互いに暖をとれるから願ったりだったりする。
綾は決まって俺の胸に顔を擦り付けながら就寝する。そして俺は、そんな綾の頭を優しく撫でながら、自分が微睡みに浸るまで綾を抱擁し続ける、というのが俺たちの平生の就寝スタイルだ。
しかし、このスタイルだと毎日が快眠というわけにはいかない。
「……い……いよ……」
……始まったか。
「……おと……さ……おかあ……さん……いたいよ……」
綾が、俺の胸元で恐怖を吐き出した。
「……まさし……すけて……いた……こわいよ……」
俺は綾の頭に手をやり、自分の体に抱き寄せた。それでも、胸元のか細い悲鳴はなくならなかった。
現在、俺たちの両親は服役中だ。罪名は幼児虐待及び殺人未遂。
母親と父親は兼ねてから不仲で、争いや家庭内暴力が当たり前だった。二人が争うのに理由なんてなかった。それが日常だったのだ。二人はいつものように喧騒を繰り広げ、不幸にもそれは常に俺たちに飛び火した。
当時五歳だった綾と小学二年生だった俺は、身体中に痣をつくりながらも、ずっと両親の暴力に耐えていた。俺は家庭環境の悪さにうんざりして両親のことなど目もくれてやらなかったのだが、その点、綾は優しすぎた。
『……も……もうやめて! ケンカしないで!』
殴り合い真っ只中の二人の前に飛び出して、自らを奮い起たせ、声を張り上げたのだ。
それが、二人の逆鱗に触れた。自分達の間に邪魔が入ったのだとわかると、二人はこのときばかりは意気投合し、綾を仕留めにかかった。
そして、台所から包丁を取り出し……
一部始終を見ていた俺は、包丁が綾の背中を大きく切り裂いた瞬間、飛び出していた。父親を蹴り飛ばし、母親の手に噛みついて包丁を手放させた。
気づけば、包丁と電話の子機を手にしていて、綾を背に庇って、包丁をぶん回しながら110番に通報していた。
そして、現在に至るわけだ。
「……ま……し………まさし……」
「大丈夫だよ」
聞こえていないとわかっていても、とりあえず言葉をかけてやる。
きっと、現在綾の頭の中では、酷悪と暗黒に満ちた悪夢が繰り広げられているのだろう。
綾が時折、悲痛な寝言を譫言のように言うようになったのは、実は十二年前の虐待のすぐ後からだ。これほど長い期間が過ぎても、綾の身体に染み付いた恐怖は消えずにいる。
時間が経てば解決するなんてのは嘘だ。恐怖というのは、心理の最も深層の部分に最悪を植え付ける。そしてそれは、恐らく一生、消えてなくなることはないだろう。十二年も苦しんでいる綾がその証拠だ。
「……まさし……い……いで……」
辛酸の中に埋もれていたメッセージに耳を傾ける。
「……いなく……ならないで……」
綾の不安が、希望とともに露呈されていた。
「……ずっ……といっしょに……そばで……」
「当たり前だろ。ずっと傍にいるよ」
本心だった。恐らく、今後俺が綾から離れることはないだろう。たとえわがままでうるさい妹でも、か弱くて大切な妹だから。
たぶん俺ってシスコンのトップランナーだろうなー。そんでもって綾はブラコンの金メダリストだ。
でも、きっと後悔はしない。
確信はないけどね。
……確信、ないんだよなぁ。
〈了〉
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