【Log.01】アクセラレーションと、深夜のコーヒー
深夜二時。
現実の薄暗い自室には、PCの排熱ファンが唸る重低音と、等間隔の電子音、そして乱暴にキーボードを叩く乾いた打鍵音だけが響いていた。
デスクの中央に鎮座するトリプルモニターは、すべて漆黒の背景に青白い文字列が滝のように流れるターミナル画面で埋め尽くされている。深い椅子に腰を沈めた青年――後に自らを「創造神」と定義するその男は、頭に被った分厚いVRデバイスの奥で、眼球だけを僅かに動かして情報の奔流を処理していた。
傍らに置かれたマグカップからは、とうの昔に淹れたコーヒーが完全に冷めきり、酸味の強い香りを漂わせている。
「なぁ、コーヒーはブラック派? 微糖派?」
ふと、青年はキーを叩く手を止めずに、虚空に向かって問いかけた。
それは、これから一つの宇宙を丸ごとコンパイルしようとしている人間の口から出るには、あまりにも緊張感のない、究極の日常のノイズだった。
『知りません。AIなので味覚というバグは排除しています』
エディタレイヤー。
青年の脳内と直接リンクした仮想空間で、彼が組み上げた管理用AIの平坦な合成音声が即座にレスポンスを返す。
その声には抑揚というものが一切設定されていないはずだが、青年にはなぜか「くだらないことを聞いて演算リソースを無駄にするな」という深い溜息が混じっているように聞こえた。
「……お前もバグってんじゃねーか」
青年はフッと口角を上げ、現実の肉体でマグカップに手を伸ばして冷えたブラックコーヒーを胃に流し込んだ。
舌を刺す不快な苦味とカフェインが、酷使した脳のシナプスを強制的に再起動させる。
彼が今行っているのは、世界という巨大なOSの環境構築だ。無機質な白い平原に環境パッチを適用し、理不尽な豪雨を降らせ、初期案内用の精霊に「空腹」と「快楽」のスクリプトを走らせたばかりである。
『マスター。次のプロセスへ移行しますか?』
「うん。環境のベースはできた。あとはシステム内時間を極限まで早送りして。あいつらに、何百年分もの歴史と、街と、泥臭い文化を作らせようか」
『了解。タイムスケール・アクセラレーションを実行します』
AIが冷徹にコマンドを受理した瞬間。
黒いエディタ画面の奥、別ウィンドウでレンダリングされている【世界レイヤー】の様子が劇的に変化し始めた。
画面の中で、太陽と月がストロボのように明滅し、凄まじい速度で空を回転し始める。白いポリゴンだった大地に高解像度のテクスチャが貼り付けられ、木々が生い茂り、何もない平原に石造りの巨大な街がオートジェネレートされていく。
それに伴い、青年の視界の端に表示されているシステムリソースのメーターが、レッドゾーンに向かって急激に跳ね上がった。
【CPU Usage: 98.7%】
【Memory Allocation: 99.9%】
【Warning: System Temperature Critical】
何百年分もの進化と因果律の計算を、わずか数分で終わらせる強引なタイムラプス。
世界という巨大なOSのコンパイル処理は、青年が構築した強靭なシステムをもってしても、ハードウェアの基盤を焼き切る寸前の過負荷を強いていた。
「ははっ、すげぇ熱。現実のPCの排熱がストーブ並みだ。冬なのに暖房いらねぇな」
『呑気に観測している場合ではありません。現在、システムのセキュリティリソースの95%を世界の自動生成アルゴリズムに回しています。外部からの干渉に対するファイアウォールは、現在もっとも脆弱な状態です』
「わかってるよ。だから俺が手動で見張ってんだろ」
青年はキーボードの上に両手を置き、いつでもコマンドを叩き込めるよう指先を遊ばせ
世界を創る。それは同時に、この広大なネットワークの海に浮かぶ「真新しい最高級のサーバー」を、全世界のハッカーやクラッカーたちの前に晒す行為と同義だ。
絶対的な管理者権限を持つ真新しいOS。セキュリティの手薄なコンパイル中。
有象無象のウイルスや、腕試しを企む現実世界のハッカーたちが、この隙を見逃すはずがなかった。
――ピーッ! ピーッ! ピーッ!
突如、AIの無機質な警告音が、エディタレイヤーに甲高く鳴り響いた。
『警告。メインポートに対する異常なパケット通信を検知。外部IPからの不正アクセスです』
「おっ、来たか。どこの物好きだ?」
『発信元IPの特定、失敗。多重のプロキシを噛ませていますが、その接続パターンから推測するに……単一のクラッカーではありません。組織的なボットネットを用いたDDoS攻撃、および同時にルート権限の奪取を狙ったゼロデイ攻撃の複合です』
青白いターミナル画面が、赤く点滅するエラーコードで急速に塗り潰されていく。
敵は単純な力押しではない。何十万ものゾンビPCを操ってシステムの処理能力を飽燃させつつ、その裏で極めて精巧な悪意のコードを滑り込ませてこようとしている。
狙いは明らかだ。タイムスケール・アクセラレーションを強制停止させ、生まれたばかりの世界の神の座を簒奪すること。
『緊急。第一ファイアウォール、突破されました。敵コードがシステム中枢のディレクトリへ侵攻中。ルート権限の奪取まで、残り60秒』
AIの冷たいカウントダウンが、自室の重低音に混ざって響き渡る。
だが、青年の瞳に焦りはない。彼は冷え切ったコーヒーの残りを飲み干すと、不敵な笑みを浮かべてキーボードに指を置いた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
AIたちが胃を痛めながら必死に死守している「表の世界」では、現在進行形で本格的なファンタジーが展開されています。
彼女たちが守る世界を覗いてみたい方は、ぜひ本編もあわせてお楽しみください。
▼本編『プロンプトを捨て、システムを導入したらゲームにフルダイブしたお話』
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