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第2話 おっさん、異世界を散歩する

目を開けると、青い空があった。


本物の空だ。ただ、広くて、青くて、気持ちのいい空。


エアコンの風でも蛍光灯の白でもない。

どこまでも澄んだ群青に、見たことのない形の雲がゆっくり流れている。


背中に柔らかい草の感触。

鼻をくすぐるのは土と青草と、どこか甘い花の匂い。

遠くで鳥が鳴いている。聞いたことのない、透き通った高い声だ。


「…………」


アクロスは、仰向けの状態で目覚めた。

しばらくそのまま、動かなかった。


動けなかった、のではない。動きたくなかった。


空が、あまりにも綺麗だったから。


雲が形を変えていく。

風の音。

草が擦れ合う音。

虫の羽音。


一つ一つが別々の楽器のように重なり、世界そのものの呼吸を奏でている。


こんな空は転生前の人生では、見たことがなかった。


通勤電車や社内の窓から見る空は、いつもビルに切り取られていた。

現場から見上げる空は、鉄骨の隙間から覗くだけだった。

あの世界の空はだいたい、いつも何かで隠されている。


「…………はー」


長い、長い息を吐いた。


それだけで、肺の中の濁りが全部出ていくような気がした。


「いやー、来ちまったな」


やっと声に出した。


---


上体を起こして、まず自分の手を見た。


「――おお?」


肌の色が違う。


元の肌よりわずかに浅黒く、だが日焼けとは違う質感。

仄かに青みがかった、冷たい金属を思わせる色調。

指先から手の甲にかけて、薄い黒紫の紋様が血管のように浮かんでいる。

脈拍に合わせて淡く明滅するそれは、刺青でもなければ傷でもない。


「これは……魔力の血管…?回路みたいだな…」


髪を一房、目の前に引いた。

黒は黒だが、根元に赤紫の光沢が混じっている。

長さは肩にかかるほど。


耳に触れると、先端がわずかに尖っていた。


近くに水たまりはないか探してみる。

あった。覗き込む。


映ったのは――

まったく知らない顔ではなかった。


佐伯航の面影がある。

彫りの深い目元、通った鼻筋。

だが瞳の色が変わっている。右目が深い琥珀色。左目が鮮烈な紅。


オッドアイ。


口を開くと犬歯がほんの少し鋭い。

外見年齢は三十そこそこ。

渋さと若さが同居する、妙な凄みのある顔になっていた。


「…………」


水面の自分と、しばらく見つめ合った。


「これ…いいじゃん…」


間を置いて出た感想がそれだった。


元の顔の延長線上にあるから違和感が少ない。

中身はおっさんなのにツルツルの美少年になったら精神がもたない。


次に服装を確認する。


黒地に暗紫の裏地がちらつくロングコート。

高い立襟が首筋まで覆い、前合わせは斜めに走って太い黒革のベルトで留められている。

下には炭色の詰襟風インナー。

厚い胸板と広い肩幅のシルエットがそのまま出ている。


腰に太い黒革ベルトが二本交差。

左腰に小さな革ポーチ。

下半身は黒の軍用風カーゴパンツ。

膝から下を黒革のロングブーツが覆い、銀の金具が光っている。


両手首から前腕にかけて、黒いバンテージのような布が巻かれ、その下で魔紋が脈動している。


どこからどう見ても、やばい魔族。


「…………」


アクロスは自分の姿を上から下まで三回見て、くるりと回って裾の翻り具合を確認し。


「かっこいいじゃん」


勘違い野郎の独り言でも…誰も見てないので恥ずかしくない。

いや、むしろ見てほしい。

それくらい、このビジュアルはアクロスの厨二心をバチバチに刺激していた。


「黒コートにオッドアイ。腕に魔紋。

……中学の時に落書きしてた、理想の自キャラそのまんまだわ」


水面に映る自分に向かってにやけている四十三歳。

客観的に見ればイタい光景だが、異世界に来たてで浮かれない方がどうかしている。


---


ひとしきり自分の姿を堪能してから、ようやく周囲を見渡した。


見渡す限りの草原。


緑の丘が地平線まで続いている。

左手の遠方に青黒い山脈が霞んで見え、右手には深い緑の森が壁のように広がっている。

背後は――また草原だ。


人の気配はない。

建物も、道も、煙も見えない。


風が吹いた。


草原全体が波打った。緑の波が丘を越え、どこまでも走っていく。


「――おぉ…」


立ち尽くした。


風に乗って、甘い草の匂いが鼻を撫でる。

遠くで鳥が旋回している。

翼が光を受けて金色に光った。見たことのない種類だ。

大きい。

鷲くらいあるかもしれない。


空を見上げる。


太陽が――

二つあった。


白い太陽がやや高い位置に。

もう一つ、少し小さい金色の太陽が地平線に近いところにある。

二つの光源があるせいで影が二重に伸びて、草原の凹凸が複雑な模様を描いていた。


「太陽が……二つ…」


ここが地球ではないという事実が、初めて実感として胸に落ちた。


ファルティシアの言葉は聞いた。

スキルも貰った。

死んで転生するところまでは、頭では理解していた。


だがこの空を見上げた瞬間――

二つの太陽に照らされた瞬間に。

佐伯航は本当に死んで、自分はアクロスとして生きるのだと、全身で感じた。


「…………」


しばらく黙って、太陽を見ていた。


白い方と、金色の方。

どちらも温かい。だが日本の四月の太陽とは温度も色も違う。

肌に当たる光に、ほんの少しだけ甘い重みがある。


「いい天気だ」


それだけ言って、歩き出した。


---


行き先はない。地図もない。

この世界の東西南北すらわからない。


だが急ぐ理由もない。


「とりあえず、散歩だ、散歩」


草原を歩く。ただ歩く。


足元の草は膝下くらいの高さで、細くしなやか。

踏むとふかふかした弾力がある。

時折、草の中に紫の小花が混じっていて、踏むと甘い匂いが立った。


「いい匂い……なんだろ、ラベンダーに似てるけど違うな」


しゃがみ込んで花を観察する。

花弁が六枚。中心に星形の雄しべ。

地球には存在しないであろう花。


摘まない。

ただ見て、嗅いで、指で触れてみるだけ。


立ち上がって、また歩く。


体が軽いことに気づいた。

いや、さっきから気づいてはいたが、歩くほどにその「軽さ」が際立ってくる。


まず腰が痛くない。

三十代後半から付き合ってきた慢性腰痛がない。

朝起きた時の「よっこいしょ」がいらない腰。


肩が軽い。

デスクワークと現場の往復で凝り固まっていた肩甲骨周りが嘘のようにほぐれている。


膝が鳴らない。

階段を降りるたびにパキパキ言っていた膝が、完全に沈黙している。


「これが若い体か……いや、人間の体じゃないから比較にならんか」


試しに軽く跳んでみた。


ふわり。


自分の背丈の倍近く飛んだ。二メートル以上。


「うおっ」


着地。衝撃は膝にほとんど来ない。


「……もう一回」


跳ぶ。今度はもう少し力を入れた。

三メートルは超えた。空中で草原が一望できた。


着地。問題なし。


「はは……すげ!」


笑いが漏れた。止められなかった。


走ってみる。全力で。


風景が流れた。

草原が緑のラインになり、風が壁になって顔を叩く。

コートの裾がばさばさと翻る。

靴底が草を蹴る感触が小気味いい。


速い。たぶん時速五十か六十は出ている。車並みだ。

そして息が切れない。


百メートルほど走って止まった。


心拍は上がっているが、苦しくない。

むしろ気持ちいい。

体の中を血が巡り、新しい力が隅々まで行き渡っていく感覚。


「すげえ……この体、すげえ……」


両手を広げて空を仰いだ。


二つの太陽の光が胸に降り注ぐ。

風が黒紫の髪を攫う。コートの裾がはためく。


嬉しかった。


理屈じゃない。

体の底から湧き上がる純粋な喜び。

ガキの頃、校庭を意味もなく全力で走った時のあの感覚。

大人になって忘れていた、体を動かすことの原始的な快感。


「この世界、最っっっ高!!」


叫んだ。

誰もいない草原に、おっさんの歓喜の雄叫びが吸い込まれていった。


---


ひとしきり走り回って落ち着いた後、丘の上に座って景色を眺めた。


南の方角――太陽の動きから推測して――

うっすらと煙が見える。

集落か町があるのかもしれない。

北には山脈。東に森。西は草原がどこまでも。


今は町がどうとか、は考えない。


「今日はただの散歩だ。何もしない。どこにも急がない」


自分に言い聞かせるように言って、立ち上がる。


東の森が気になった。

草原は開放的で気持ちいいが、おっさんの冒険心は「暗い場所」に惹かれる。

森の中には何があるのか。

木があるのか。川があるのか。動物は。魔物は。


「行ってみるか」


草原から森の縁へ。


森の入り口に立った瞬間、空気が変わった。


涼しい。


樹冠が頭上を覆い、日光が遮られている。

だが暗くはない。

木漏れ日が差し込み、地面にまだら模様の光を落としている。


そして匂いが違う。

草原の甘くて開放的な匂いから、濃密で湿った匂いに。

苔。土。落ち葉。腐葉土。樹液。全部が混ざった、森だけの匂い。


「……いいな」


一歩踏み入れる。

枝を踏む音がぱきりと響いた。


木が太い。

幹の直径が二メートルを超えるものがざらにあり、根が地面を這って隆起している。苔に覆われた岩がごろごろ転がり、蔦が幹を覆っている。


紫に光る苔があった。


「おぉ……苔が…光ってる」


近づいてみる。

薄い紫の燐光を放っている。

触れるとひんやりして湿っている。

指についた光は数秒で消えた。


「面白えな。夜はもっと綺麗に光るのかも」


なんとなくいいなと思い、少し剥がしてポーチに入れておいた。

理由はない。光る苔を持ち歩きたいだけだ。

ガキの頃に、きれいな石を見つけたら持って帰っていたのを思い出した。


さらに歩くと、人の顔ほどの大きさのキノコが生えていた。

傘の色は鮮やかな橙で、白い斑点がある。

いかにも毒々しい見た目。


「食えそうにはねえな……」


触らずに通り過ぎる。


その隣の木の根元には、逆に地味な灰色のキノコが群生していた。

匂いを嗅ぐと、ほんのり出汁のような香り。


「こっちは食えるかも……? でも自信ないからやめとこ。

キノコは素人が判断すんなってテレビでも言ってた気がするし」


---


森の中を歩いていると、水の音が聞こえてきた。


さらさらという、穏やかな音。


音を頼りに木の間を縫っていくと、ほどなく小川に出た。


幅は二メートルほど。

透明な水が浅い岩場の上を流れている。

底の小石が見えるほど澄んでいて、水面に木漏れ日がきらきらと踊っていた。


「おお……」


しゃがみ込んで手で掬い、匂いを嗅ぐ。

変な臭いはない。


一口含んだ。


「つめたっ……うまっ」


冷たい。甘い。

ミネラルウォーターなんて目じゃない。

山の湧き水、体の隅々に染み渡る清冽さ。


ごくごくと飲んだ。

喉を通るたびに体が潤っていく。


「水がうめえってだけで、こんな幸せなもんか」


コンビニの缶コーヒーが恋しくならないと言えば嘘になる。

だが、この水には缶コーヒーでは味わえない「自然で生きている実感」がある。


小川沿いに歩いてみる。


川べりには背の低い茂みが多く、よく見ると赤紫色の実をつけた低木がいくつもある。

拳大で表面はつるり。

鼻を近づけると、桃とマンゴーを混ぜたような甘い匂い。


「食えるのかこれ…てかすげえうまそう」


迷った。

異世界の見知らぬ果実だ。

毒があるかもしれない。


だが匂いが、あまりにもいい匂いすぎる。

きっと魔族の体だし、多少の毒なんて効かないだろ。

勝手に納得した。


「……食欲には勝てん」


意を決してひと齧り。


果汁が口に広がった瞬間、目が見開かれた。


うますぎる。


甘い。

酸味がほどよく、果肉はみずみずしくて歯ざわりがいい。

桃ともマンゴーとも違うが、両方の良いところを持っている。


「なんだこれ。うっま…」


二口目、三口目。

あっという間に一つ平らげた。


「もう一個。いやあと三つ。五つくらいいっとくか」


大人のくせにがっつく姿は見せられたものではないが、幸い誰も見ていない。


---


果実を五つほど食べて空腹が落ち着くと、余裕が出てきた。


小川沿いをさらに上流へ歩く。

地形が少し険しくなり、岩が大きくなってきた。


やがて、水の音が変わった。

さらさらではなく、もっと重い、落下する音。


岩場を回り込むと――


小さな滝があった。


高さは三メートルほど。

水量は多くないが、滝壺の周囲に水飛沫が霧のように舞い、虹がかかっている。


「――おお」


足が止まった。


ここだけ空間が開けていた。

滝壺の手前に平たい岩がいくつか並び、腰かけるのにちょうどいい。

木漏れ日が水面をきらきら照らし、苔むした岩の緑と水飛沫の白のコントラストが美しい。


「いい場所みつけた……」


平たい岩に腰を下ろした。


ブーツを脱いで、足を滝壺の水に浸す。


「っ……つめたっ」


だが気持ちいい。

冷たさが足の裏からじんと沁み上がってくる。


しばらくそのまま足をぶらぶらさせた。


水飛沫が顔にかかる。

細かい霧。

ひんやりして、でも不快じゃない。


ここにいると、時間の感覚がなくなる。


滝の音がすべての雑音を消してくれる。

考えなくていい。何もしなくていい。

ただ、水の音と光と冷たさだけがある。


「……はあ」


深い溜息が出た。幸せな溜息だ。


今まで、こんな自由な気持ちで、

こんなにぼんやりした時間を過ごしたことがあっただろうか。


工場ではラインが止まれば電話が鳴った。

会議室では次の議題が待ち構え、家に帰れば家事と子供の宿題。

休日でも家庭を持つものにとっては休日とはならない。

離婚はしたが、家庭のこともちゃんとやっていた自負はある。

自由な時間というのは、夜中にこっそりラノベを読む時間くらい。


いつだって何かに追われていた。


締め切り。納期。予算。年度末。査定。ローン。離婚調停。養育費。


全部、置いてきた。


全部、向こうの世界に置いてきた。


「…………」


ここには何もない。


ノルマも上司も部下もない。

会議もメールも電話もない。

ローンも税金も生活経費もない。


あるのは滝の音と、二つの太陽の光と、冷たい水と、甘い果実の後味だけ。


「……ずるいなぁ、こんな世界」


呟いた。


こんなに気持ちいい場所を体験したら、

帰りたくなくなるに決まっている。


帰りたくても、帰る場所は、もうないのだけれど。

こども達の笑顔がもう見れないことだけは、

悲しいかな。


---


どのくらいそうしていただろう。


白い太陽が傾き始め、木漏れ日の角度が変わった。

金色の太陽も少し位置をずらしている。

この世界の午後は、光が二段階で傾いていく。


腹が再び空いたので、さっきの赤紫の実をもう二つ食べた。

水は目の前に無尽蔵にある。


岩の上に寝転がって、滝を見上げる。


水が落ちてくる。

白い筋が重力に従って落ち、滝壺に沈む。

それだけの繰り返し。

何十年、何百年だろうか、すっとそうだったであろう、ただの物理現象。


だがそれが、とても、綺麗だ。


「……こういう時間が、欲しかったのかもな」


ぽつりと呟いた。


魔王になりたいと言った。

それは本当だ。

自分で決めて、自分で動いて、自分の王国を作りたい。


だがその前に。


こうして一人で、何もない場所で、何もしない時間を味わうこと。

それが必要だった気がする。十年、二十年、張り詰めていた何かを、ほどくための時間。


「明日から頑張る。……いや、明後日からにしよう」


怠け者の本性が出た。

だがそれでいい。

急ぐ理由がない。


---


小川沿いを下流に戻りながら、帰り道で色々なものに目が止まった。


青い小花が絨毯のように地面を覆う場所。

空気が甘い。

しゃがみ込んで見ると、花弁が透き通っていて、向こう側の茎が透けて見える。

ガラス細工みたいだ。


蝶に似た虫が飛んでいた。

だが羽が四枚ではなく六枚。

色は虹色で、飛ぶたびにきらきらと鱗粉が散る。

触ろうとしたら逃げた。


「六枚羽の蝶か。蝶じゃねえけど。……綺麗だな」


茂みの奥には水色の兎のような生き物がいた。


体の大きさは普通の兎と同じだが、耳が三つある。

左右の二本に加え、頭頂部にもう一本、短い耳がぴんと立っている。

毛皮は淡い水色で、もふもふしている。


丸い黒目がこちらを見ている。

鼻がひくひく動いている。

逃げない。


「…………可愛い」


しゃがみ込む。

兎もどきは三本の耳をぴくぴく動かし、アクロスの指先の匂いを嗅いだ。


そして、もそっと膝に乗ってきた。


「……えっ。お前、人懐こいな」


もふもふ。温かい。

水色の毛皮が信じられないほど柔らかい。

下の方にきめ細かな綿毛がびっしりある。

重さはほとんどない。


「めちゃくちゃ触り心地いい」


しばらく撫でていた。

兎もどきは目を細めて気持ちよさそうにしている。


やがて、ぴょんと膝から降りて草の中に消えていった。


「……行っちまった」


膝が寂しい。


「食べねぇよ。また撫でさせてくれよな」


誰に言うでもなく呟いて、歩き出した。


---


森の縁まで戻り、草原に出た。


西の空が茜色に染まり始めていた。

白い太陽が山脈の稜線にかかり、金色の太陽がそれを追う。


二つの夕陽。


草原全体が琥珀色の光に包まれている。

草の一本一本が金色に縁取られ、丘の稜線が赤く燃えている。


「…………」


言葉が出なかった。


どんな高画質のテレビでも、どんな映画のスクリーンでも、この色は再現できない。空気ごと染まっている。

光が肌に触れる温度まで含めて、この景色だ。


風が吹いた。

草が波になって、金色に光りながら丘を越えていく。


「……きれいだな」


それだけ。


だがその「きれいだな」を素直に口にできること。

贅沢だな、と思った。


会議中に窓の外を見て「きれいだな」と思っても、口には出せない。

飲み会の帰りに夜空を見上げて「星が綺麗だな」と思っても、酔っ払いのおっさんは空を見上げているだけ。

きっと俺だけではないと思う。


ここでは違う。


思ったことを、そのまま声に出せる。

見たいものを、好きなだけ見ていられる。


自由だ。


「……ファルティシア。いい世界じゃねえか」


聞こえるはずのない相手に向けて呟いた。


---


夜の準備をする。


と言っても、大したことはしない。

森の縁で、風を防げる大木の根元を見つけた。

落ち葉が厚く積もっていて天然のクッション。

頭上を樹冠が覆い、多少の雨なら凌げそうだ。


枯れ草と枝を集めた。


「……火、つけてみるか」


ここで初めて、今日一日考えないようにしていた「力」に意識を向ける。


散歩の間、スキルのことはあえて考えなかった。

まずはこの世界を、この体を、五感で味わいたかったから。


右手を開く。

意識を胸の奥に向ける。

三つの力が脈打っている。


原初の奔流。魔の創造。リミットレス。いずれも★3。


(魔の創造。★3。基礎的な魔法の創造が可能。

――火をつけるくらいなら、いけるはずだ)


イメージする。

炎。小さな炎。

ライターの火程度でいい。


指先に意識を集中すると――熱が生まれた。


ちり、と。


人差し指と親指の間に、豆粒ほどの火が灯った。


だが色が違う。

赤でも橙でもない。

黒紫の小さな炎。


「おっ」


枯れ草に近づけると、じわりと煙が出て、ふっと息を吹きかけると――

橙色の普通の炎が灯った。

黒紫の種火から、普通の焚き火が生まれた。


「魔法のライターだ。便利」


炎がぱちぱちと育ち、温かい光が大木の根元を照らした。


残しておいた赤紫の実を三つ並べ、夕飯にする。

火で炙ったら甘さが増すかと試してみたが、ぐちゃっと崩れただけだった。

生で食う方がうまい。


食べながら、空を見上げる。


二つの太陽が完全に沈むと、東の空から月…のようなものが昇ってきた。


三つある。


青白く大きな月が一つ。

赤みがかった小さな月が二つ。


「月が三つ……」


三つの月が並ぶと、草原が青白い光に包まれた。

昼間とは全く違う表情。

草が銀色に光り、森の輪郭が黒いシルエットになり、空には見たことのない星座が散りばめられている。


「すげえな」


焚き火の橙と、月光の青白。

二つの色が混じり合って、幻想的な空間を作っている。


遠くで獣の遠吠えが聞こえた。

低くて長い声。

狼か、それに似た何かだろう。


怖くはなかった。


焚き火の温かさと、果実の甘い後味と、草と土の匂い。

そして三つの月。


「…………」


目を閉じた。


疲れてはいない。

体はむしろ元気だ。

だが心が満ちていた。


初めての異世界の一日。

戦いもなく、出会いもなく、事件も起きなかった。

ただ歩いて、走って、水を飲んで、果物を食べて、滝を見て、兎を撫でて、夕陽に見とれて、月を数えた。


それだけの一日。


でも、経験したことのない、人生で一番いい一日だったかもしれない。


(明日は……もう少し力を試してみるか。変身とか、魔法の実験とか。

★3でどのくらいできるのか確かめたい)


焚き火がぱちぱちと爆ぜる。

三つの月が天頂に向かって昇っていく。

虫の声が夜の帳を満たしていく。


異世界最初の夜。


おっさんは穏やかな闇の中で、静かに眠りに落ちた。



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