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第18話 ここからが、始まり。

儀式を終えて二人で外に出て笑いあった。


まだ午前中半ばの森。二つの太陽が木漏れ日を落として、足元に金と白の斑模様を作っている。

クロが先に飛び出し、フレスがリーネの肩で羽を広げた。


アクロスは足を止めた。


体が、前と違う。


空気の匂いが鮮明になった。地面に落ちた露の匂い。苔が湿気を含む匂い。

三十メートル先に小動物がいることが、気配でわかる。

木漏れ日の一筋一筋が、太陽の角度と葉の形で作られた幾何学の模様として見えている。


探知を展開した。


半径百二十メートルが限界だったのが、すっと広がった。

二百メートルほどになった。範囲内の生き物や地形が全部、頭の地図に浮かぶ。


「リーネ。お前も何か変わってないか」


リーネが目を閉じ、胸に手を当てた。


「……魔力の流れが太くなってる。回路が広がったみたい」


右手に氷の槍。

四十センチ。昨日より長く、透明度も高い。


アクロスは胸の奥を確認した。原初の奔流★3。魔の創造★3。

そして――


「リミットレスが★4に上がってる」


★4の恩恵。

成長補正が倍近くに。

蛇口が三割五分に広がった感覚。

リーネへの共有効果も増し、☆三つの天井の窓がさらに大きくなっている。


「二人とも底上げされた」


リーネがアクロスを見た。

深紅の瞳に驚きと、それより深い何かが混じっていた。

鼓動を重ねて誓いを交わした。


そして――ふっと力を抜いた。


「ねえ、アクロス」


「ん」


「今日はのんびりしない? 二人と二匹で」


反対する理由はなかった。


--


一日のんびり、何もしない日があっていい。

この世界に来た初日の散歩を思い出す。


「あの滝を見に行こう。前の基地がどうなってるか気になるし。

あと……あの六人がいるかも確認したい」


リーネの顔が少し硬くなった。

賞金稼ぎたち。記憶を消して眠らせて、滝壺の前に置いてきた。

あれから数日経つ。


「大丈夫よ。記憶は消えてるんだから」


「それでも確認はしておきたい」


二人と二匹で南へ歩いた。

クロが先行し、フレスがリーネの肩から枝を渡り歩く。


小一時間で滝の近くまで来た。

アクロスは足を止め、探知を展開した。


半径二百メートル。

★4になった探知で滝の周辺をくまなく探る。


「……誰もいない。 人型の反応ゼロ」


「帰ったのね」


「ああ。目が覚めて、ここに来た理由がわからなくて、引き揚げたんだろう。

記憶が霧の中だから、この場所に意味を見出せなかったはずだ」


足跡を探した。


滝壺の前の岩場に、六人分の痕跡がうっすら残っている。

起き上がった跡。立ち歩いた跡。南西――

グラザの方角に向かって去った足跡。


「南西に歩いていった。グラザに戻ったんだな」


「あのリーダーの男。ドルクだっけ。あいつ、記憶なくても体が覚えてるって言ってたわよね」


「ああ。厄介な奴だった。いつかまた会うかもしれない」


「その時は?」


「その時はその時だ」


リーネが小さく笑った。

「いつもそれね」という顔。


--


安全を確認できたので、滝壺の前でくつろぐことにした。


岩に並んで座り、足を水に浸す。

冷たい。だが気持ちいい。


クロが浅瀬でぱしゃぱしゃやっている。

フレスは岩の上で日向ぼっこ。


この世界に来たときと変わらない同じ景色。

だが隣には信頼できる仲間。リーネがいる。

それだけで全然違う。


「裏の秘密基地も見るか?」


「ふふ、見たいわね」


滝のカーテンを潜った。

リーネが続く。


フレスが水飛沫を嫌がってぴぃぴぃ騒いだ。

洞窟の中。光る苔の明かりがまだ薄く灯っている。


寝台の落ち葉は乾いて縮んでいる。棚は空。炉に冷えた灰。

自分の手で作ったものが、誰にも触れられず、ただ時間の中に置かれている。


「ここで少しだけ暮らしてた。クロと飯食って、散歩して」


リーネが中を歩いた。

壁に触れ、寝台を見て、棚を確かめ、炉を覗く。


「丁寧に作ってあるわね。換気口もある。

光る苔の配置も考えてある。一人でこれを全部?」


「一人と一匹で」


クロが得意げに胸を張った。


リーネが寝台の端に座った。乾いた落ち葉がかさりと鳴った。


「……ここで何を考えてたの」


「色々。この世界のこと。自分の力のこと。南に見えた煙のこと」


「……それだけ?」


「……前の世界のことも」


リーネが静かにこちらを見た。

聞かせて欲しい、という目。


--


滝壺の前に出て、岩に並んで座り直した。


水飛沫が霧のように舞い、虹がかかっている。

話すなら、ここがいい。


「リーネ。昨日、お前は俺が別の世界から来たことを確信したって言ったよな」


「ええ」


「あの時はそうだとしか答えなかった。今日は全部話す」


リーネの深紅の瞳がわずかに見開かれた。


「いいの?」


「昨夜から考えてた。覚悟も決めた。リミットレスを共有して鼓動を重ねた。

ここまで来てまだ隠し続けるのは、ただの不誠実だ」


リーネは何も言わず、待っている。

「ただし、長くなるぞ」


「時間ならある。今日は、のんびりする日でしょう」


アクロスは水面を見つめながら話し始めた。


「俺がいた世界はこことは違う世界。大陸がいくつもあった。

俺の国は日本と呼ばれる島国。海に囲まれてる。

魔法はない。魔力も魔物も魔核もこの世界の不思議なものは何もない。

人間と動物と植物とここと変わらない自然。俺にとっては何もない普通の世界」


「魔法がない……」


「エルフもドワーフも獣人もいない。角の生えた魔族もいない。

人間だけで、科学の力で文明を作った世界だ」


「科学…。あなたが言ってた酸素とか気圧とか」


「そう。ああいう知識を何百年もかけて積み上げて、火を科学の道具で生み出し、鉄の箱で空を飛び、海を渡り、月にまで行った」


「月に……」


リーネが三つの月を見上げた。

まだ昼だから見えないが、反射的に空を見た。


「世界中の情報が一瞬で手に入る道具がある。

スマホっていうんだけど、手のひらサイズの板で、触ると文字や絵が出てきて、遠くの人と話もできる」


「……魔道具じゃなくて?」


「魔力は一切使ってない。全部科学。電気の力で動く」


リーネが首を傾げている。

理解しようとしているが、前提が違いすぎて処理が追いつかない顔。


「まあ、細かいことはいい。俺は、そういう世界で四十三年生きていたってことだ」


「その世界での、俺の名前は佐伯航さえき わたる

航は、何か渡る、越えるって意味の字でな。親父がつけてくれた。

どんな荒波も渡っていけるように、と」


「渡る、越える…」


「ああ。英語といって……俺の世界の別の国の言葉では、Across、とも言う。

越えていく者。世界を越えてきたから、その名前にした」


「素敵な名前ね…」


「ここに来る前にも言われたさ。同じことを」


リーネがまた首を傾げた。

だが追及しなかった。


「仕事は色々やった。人にものを売る仕事、建物を作る現場で人を束ねる仕事、大きな倉庫で荷物の流れを管理する仕事、会社の偉い人の会議に出て書類を作る仕事、工場でものを作る工程を管理する仕事」


「……全部違う仕事?」


「全部違う。何度も転職した。一つの場所に長くいられない性分でさ。

でもどの職場でも、なぜか人には好かれた気がするな」


「わかるわ」


「え、わかるの」


「あなたといると、なんか安心する。理由はわからないけど。

そういう人なんだろうなって」


不意打ちだった。返す言葉が見つからず、頭をがりがり掻いて照れ隠しをした。


「……で、家族もいた。嫁と子供二人。二十年以上一緒にいた。

でも子供が大人になって独立して、嫁とは……穏やかに別れた」


「別れた」


「うん。嫌いになったんじゃない。ただ、長く一緒にいるとな。

なんだかわからなくなったんだ。それで、二人の仕事が終わったんだ。と思った。

子供を育てるっていう仕事が。

終わったら、二人でいる理由がなくなったんだ。それだけ」


リーネは黙って聞いていた。

魔族に離婚の概念があるのかわからないが、

「仕事が終わった」という表現は伝わったらしい。


「四十三歳。バツイチ。子供は独立。転職回数は片手じゃ足りない。人生、ひと段落」


「ひと段落……」


「そう。一人の人間として、やるべきことは全部やったと思ってた。

だから後悔はない。でも何かは足りてなかった。

ずっとずっと、心に何か足りないものがあった」


--


リーネがしばらく黙っていた。水の音だけが続く。


「……ねえ、アクロス。一つ聞いていい?」


「ん」


「その世界では、戦争はあったの?」


静かな問いだった。

だが、アクロスはすぐに答えられなかった。


「……どうしてそれを聞く」


「あなたが語る前の世界の話。すごく豊かで、平和で。

魔法の代わりに科学があって、月にまで行けて。

私の集落みたいに、家ごと燃やされるような景色がない世界のように聞こえるから」


リーネの声は責めていない。ただ、知りたがっている。


「……戦争は、あった」


アクロスは正直に答えた。


「戦争は、ある。俺が生まれる前にも、俺が生きてる間も。

世界のどこかで、いつも誰かが戦ってた。百年前の大きな戦争で何千万人が死んだ。俺が生きている間も、遠い国で科学の炎が落ちて、子供が死んで、家が燃えた」


「……そう」


「でも」


アクロスは続けた。


「俺の日常には、それはなかった。俺が育った国、日本は、俺が生きている間ずっと平和だった。豊かだった。戦争の気配すらなかった。腹が減れば飯が食えて、働けば金が入って、夜は安全に眠れて。殺される心配なんか、考えたことすらなかった」


リーネが水面を見つめていた。


「世界のどこかで燃えていても、俺のいる場所では燃えていなかった。

科学が見せる情報装置で見れば、遠い国の子供が泣いてる映像は見えた。

でも画面の外に出たら、からあげクンを食いながら信号を渡るだけの平和な午後だった」


声が少し低くなった。


「お前の集落が燃えた夜に、俺は布団の中でぐっすりおねんねしていたかもしれない。世界のどこかが燃え続けていても、俺の日常は何も変わらず、続いていた」


リーネは何も言わなかった。


アクロスも黙った。滝の音だけが続く。


「……あなたは今、そのことを後ろめたく思ってる?」


「……少し。こっちに来て、廃墟を見てから。お前の話を聞いてから。ずっと少し、思ってる」


「おかしいと思う? 遠い国で人が死んでても、日常が続くことが」


「おかしいとは思わない。それが普通だ。人間は自分の届く範囲のことしか感じられない。でも」


「でも?」


「だからこそ、こっちに来て廃墟を見た時に、あの重さに耐えられた。もし俺が生まれた時から戦場の中にいたら、もっと心が壊れてたかもしれない。平和な世界に育ったから、あの景色の異常さを正確に感じ取れた。麻痺していなかった」


リーネが静かに頷いた。


「私はね。集落が燃えた後、逃げながらずっと思ってた。なんで、って。私たちは何もしてないのに、なんで家が燃えるんだって。でも今はわかる。私が何もしてないことは、燃やす側にとって関係ないんだって」


「ああ」


「あなたも、その世界でそれを経験してないだけで、関係ないとは言えなかった。だからあの廃墟を見て、布人形を拾った。平和な世界で生きてきた人間が、初めてその重さを自分のこととして感じた」


アクロスは何も言わなかった。


「……それは、弱さじゃない。むしろ」


リーネが少しだけ笑った。

「誰かに燃やされた経験のない人間が、燃やされた側の怒りを自分のものにして戦おうとする。それって、けっこう難しいことじゃないかしら」


「難しいというより、できないことが多いのかもな。

前の世界でも、遠い国の子供が死んでも、翌日の会議に行ってた」


「そうね。でもあなたは布人形を拾った。ポーチに入れて、今も持ってる」


アクロスはポーチを軽く叩いた。小さくて、硬い感触。角のついた笑顔の人形。


「……難しい話をするつもりはないの。

あなたは人形を拾って、考えて、今、私といる。

それが、あなたの答えなんだと思う」


アクロスはまた、心が軽くなった気がした。

リーネにまた、甘えてしまった。


--


「俺の世界にはな」


少し間を置いて、アクロスは続けた。声のトーンが変わっていた。


「転生ものって呼ばれる物語があるんだ」


「転生もの?」


「別の世界に生まれ変わる話だ。

主人公が死んで、剣と魔法の世界に転生して、すっごい能力で大活躍する。

子供や若者、おじさんおばさんにだってめちゃくちゃ人気がある」


「……あなたの世界の人たちは、別の世界に行く話を好んで読むの?」


「ああ。さっきの話の続きでもないんだが、俺の国は平和だった。

退屈と言ってもいいかもしれない。戦いなんて起こらない。平和な日常。

だから、なんていうのかな。憧れがあるんだな。冒険の世界に。

きっと…自分が主人公になることに」


「……そう。それはきっと、とても贅沢な考え方ね…」


「あぁ、そうだな」


「俺も、好きだったんだ。本で読んだり、動く映像で見たり。色んな種類がある。

勇者になるやつ、魔王になるやつ、のんびり暮らすやつ、自分のハーレムを作るやつ」


「はーれむって何?」


「そこは気にすんな」


「気になるんだけど」


「忘れろ」


リーネがじとっとした目を向けてきたが、話を戻す。


「で、俺はガキの頃からそういう物語が大好きだった。

学校に行ってた時にハマったゲームもあってな。剣と魔法の世界を旅するやつ。

それから二十年以上、こっそり読み続けた」


「こっそり?」


「その世界ではそういうのは大人が読むものじゃないって思われてるから。

仕事の会議で偉そうな顔して座ってるお偉いさんが、夜中に布団の中で異世界転生の物語読んでニヤニヤしてた」


リーネの口元が震えた。笑いを堪えている。


「笑うなよ」


「笑ってない。……笑ってない」


笑っている。完全に。


「ともかく。俺はずっと憧れてたんだ。剣と魔法の世界に。

魔王とか勇者がいる世界に。

会議室でくだらない報告書を読みながら、頭の中ではいつもファンタジーの世界を旅してた」


「…………」


「よく呟いてたよ。『俺が転生したら、勇者じゃなくて魔王だな』って」


リーネが目を見開いた。


「それ……今、本当にやろうとしてることじゃない」


「ああ。ガキの頃からの夢が叶っちまった。

最悪の形で――トラックっていう鉄の箱に轢かれて死ぬっていう形で」


声のトーンが変わったのを、リーネは聞き逃さなかった。


「……あなたは。死にたくて死んだわけじゃないのよね」


「当たり前だ。からあげクン食いながら歩いてただけだ。

からあげクンが最後の飯だぞ。やりきれねえよ」


「からあげくんってなによ?」


「揚げた鶏肉の……まあいい。とにかく不慮の死だ」


「…………」


リーネが水面を見つめた。


「前の世界に、未練はある?」


「…………」


考えた。正直に。


「未練……はないと思ってた。仕事もひと段落。家族も送り出した。

でもな」


「子供たちの顔は今でも覚えてる。拓海と美咲。あいつらが笑ってる顔。

元嫁が『引っ越し手伝って』って連絡してきたのが、最後のやりとりだった」


声が少し低くなった。


「返事は送ったんだ。『おう、いいよ。空けとく』って。

でもその日は来ない。俺はもういないから」


リーネは何も言わなかった。

ただ隣に座って、水面を見つめていた。


「……ごめん。湿っぽくなった」


「謝らなくていい。聞きたかったのは私よ」


「助かる。――で、死んで、次に意識が戻った時」


--


ここからが核心だ。


「白い空間にいた。何もない場所。天井も床も壁もない。ただ白いだけの空間」


「白い空間……」


「そこに女神が現れた」


リーネの体がぴくりと動いた。


「女神?」


「ファルティシア。この世界を創った女神だと名乗った」


リーネの深紅の瞳が限界まで見開かれた。


「ファル……ファルティシア? あなた、創世女神ファルティシアに会ったの!?」


「知ってるのか」


「知ってるも何も……!」


リーネが立ち上がりかけ、座り直した。

動揺が体に出ている。


「ファルティシアは魔族の口承にも出てくる。

世界を生み、地脈を通し、すべての命の始まりを作った神。

七柱神よりもっと上の、根源の女神。魔族の古老でも直接会った者はいない。

千年に一度、天啓を下すかどうかっていう存在よ」


「その人に会った。というか会話した。結構長く」


リーネが頭を抱えた。

角の間に指を突っ込んでがりがり掻いている。

上品ではないが、それどころではないらしい。


「何を……何を話したの」


「まず世界の仕組みを教えてくれた。

俺がいた世界はすべての世界の根っこで、大樹の幹みたいなものだと。

この世界は幹から伸びた枝葉。枝葉は放っておくと枯れる。

だから幹の魂を呼んで、エネルギーを分けてもらう。それが転生の正体だと」


「枝葉が枯れる……この世界が?」


「ああ。俺がここにいるだけで、この世界にエネルギーが注がれてる。

そして俺には、原初の奔流ってスキルがある。前いた元の世界からのエネルギーを引き出し、使える力だ」


リーネの表情が変わった。

驚きから、もっと深い何かへ。

理解。点と点が繋がっていく顔。


「あなたの魔力の不思議な温かさ。海鳴りみたいな音。地脈とは関

係なく、どこか別のところから来てる感じ。全部……」


「ああ。俺の魔力はたぶん地脈じゃない。もっと根源のところから引き出してる」


リーネは続ける。

「地脈の源が枯れかけてる……だから魔力の吹き溜まりや瘴気が増えてる。

魔王が倒されたからだけじゃなく、この世界そのものが弱ってるってこと……?」


「たぶんな。ファルティシアは全部は教えてくれなかった。

自分で見て、感じて、理解しろと」


「…………」


「で、転生もの大好きな俺は、やった!夢が叶うと思って、ファルティシアに言ったんだ」


「何て言ったの」


「魔王やりたいって言った」


リーネが一瞬固まり、それから脱力した。


「……創世女神に向かって魔王やりたいって言ったの」


「言った」


「…………あなたの神経がわからない」


「いや、ファルティシアは驚かなかったぞ。むしろ待ってたみたいだった。

俺がそう言うのを」


リーネの目が鋭くなった。


「待ってた?」


「勇者じゃなくて魔王を選ぶ転生者。ファルティシアはそれを望んでいた。

理由は全部は教えてくれなかったけど……あの表情を見れば想像はつく」


「……魔王がいなくなって世界が壊れかけてるから。新しい魔王が必要だった」


「ああ。でもファルティシアはそうは言わなかった。俺に自分で気づいてほしかったんだと思う」


リーネが水面に視線を落とした。長い沈黙。


「あの人はな。俺が魔王をやりたいって言った時、一瞬だけ痛そうな顔をした」


「痛そうな顔?」


「この世界で何が起きてるかを知ってて、でも自分では手を出せなくて、

転生者に賭けるしかない。そういう顔だ。神様のくせに、

すげえ人間くさい顔だった」


「…………」


「それで、ファルティシアは、三つのスキルをくれた。

原初の奔流、魔の創造、リミットレス。全部★3スタート。

言語理解もおまけでくれた。最後に名前を決めて、アクロスと名乗って。

『楽しんで、そして強くなって』って言われて――目を閉じたら草原にいた」


「…………」


「これが全部だ。俺が隠してたこと」


風が吹いた。滝の水飛沫が虹を揺らした。


リーネはしばらく何も言わなかった。


--


一分。二分。長い沈黙。

リーネが口を開いた。


「……前に言ったこと、訂正するわ」


「何を」


「記憶がないって言ってた時、嘘だと思ってた。半分嘘で半分本当だろうって。

でも違った。嘘はもっと大きかった」


「……すまん」


「謝らなくていい。今話してくれたから」


リーネが膝を抱えた。角の根元を撫でる。


「整理させて。あなたは別の世界で四十三年生きた人間で、死んで、創世女神ファルティシアに転生させられて、魔族の体と三つのスキルを貰って、この世界に来た。

目的は魔王になること。ファルティシアもそれを望んでいた。

そしてあなたがここにいるだけで、この世界にエネルギーが注がれてる」


「ああ。だいたいそうだ」


「あなたが魔王になれば、地脈が安定する可能性がある。吹き溜まりが減る。

魔族の迫害を止められるかもしれない。世界ごと救える可能性がある」


「……そこまで大げさかはわからない。でも可能性はある」


リーネが顔を上げた。

深紅の瞳がまっすぐにアクロスを見た。


「ねえ。一つ聞いていい?」


「何でも」


「あなたの前の世界で人気の転生もの。物語の中の主人公たちは、うまくいくの?」


唐突な質問だった。

だがリーネの目は真剣だ。


「……大抵はうまくいくさ。主人公がすごい力で大活躍して、仲間を集めて、世界を救って、大体ハッピーエンド」


「そう」


「だがな。俺はあれを読んで、いつも思ってた」


「何を」


「主人公たちは最初から強い。★で言えば最初から★7だ。

敵がどれだけ来ても余裕で倒す。仲間もすぐ集まる。都合よく。

でも俺は★3からだ」


リーネが微かに笑った。


「うまくいく保証はない。物語みたいにスムーズにいかない。

ここはもう、現実だからな。実際、もう何回もつまずいてる」


「私の胸を揉んだこと?」


「それは言うな」


「ふふ」


「でもだからこそ本物だ。俺は俺のために存在してる。

失敗しても、つまずいても、格好悪くても、今はもう、全部、俺のものだ」


リーネが膝を抱えたまま、静かに頷いた。


「……前の世界の物語の主人公たちは。仲間を大事にする?」


「ああ。大体はな」


「ならあなたも、そこだけは物語通りにしなさいよ」


「……おう」


--


重い話が一段落して、空気が緩んだ。


赤紫の実を齧りながら、肩の力を抜く。

クロが浅瀬から上がってきて、ぶるるっと水を飛ばした。


飛沫がリーネの顔に直撃。


「きゃっ……! クロ!」


わふ。悪びれない。


フレスが岩の上からぴぃと笑っている(ように見えた)。


「なあリーネ。一つ聞いていいか」


「何。まだ秘密あるの」


「いや。お前の歳」


「…………」


リーネの手が止まった。


「歳?」


「お前、いくつなんだ。魔族の年齢で」


「……七十三」


「七十三」


「魔族の歳よ。人間換算なら二十二、三くらいの感覚。

まだ一人前になったばかり」


アクロスは頷いた。


七十三歳。魔族では若者。魔族の寿命は長いと五百年とも言ってたな。

普通なら三百、とか四百なのかな。


でも七十三歳。


口元が歪んだ。唇を噛んでいる。何かを堪えている。


「どうしたの。変な顔して」


「いや……いやいやいや」

堪えきれなかった。


「俺がおっさんだとしたらさ。お前はおばさんどころかおばあちゃんじゃん」


リーネの深紅の瞳が点になった。


「…………は?」


「だって七十三だろ? 俺の世界なら七十三って言ったら立派なおばあちゃんだぞ。孫がいてもおかしくない。家族から長寿を祝われてプレゼント貰う歳だ」


「ちょっ……何言って――」


「いやー参ったな。俺はリーネのこと二十代の女の子だと思って接してたけど、実は大先輩だったのか。敬語使うべきだったよな。リーネおばあ様」


リーネの顔が真っ赤になった。

怒りと羞恥が混ざって紫に近い。

角がブリブリ振動している。


「おばあちゃんじゃない!!」

リーネが叫ぶ。


「七十三歳!」

「魔族の七十三は若いの!! 人間換算で二十二よ!!」


「でも人間目線だとおばあちゃん」


「あんたは人間側で見るな!!!」


リーネの拳が飛んできた。今度はかわした。

前々回の教訓。


「おっと危ねえ。おばあちゃんの割りには人を殺せる拳だな」


「もう一発追加!!」


滝壺の前で追いかけっこが始まった。

七十三歳のおばあちゃんが四十三歳のおっさんを追いかけ回す。

合計百十六歳。


クロがわけもわからず尻尾を振りながら二人の間を走り、

フレスが上空からぴぃぴぃ騒いでいる。


五分後。岩に追い詰められ、リーネの氷の拳が顎をかすめた。

冷たかった。


「ごめんなさいリーネさん二十二歳!」


「私は魔族なの!七十三は若いの!」


「はい!」


--


追いかけっこの後、岩に並んで息を整えていた。


「……はぁ、はぁ」


「……はぁ」


クロが二人の間で寝そべっている。

呆れ顔。


「……おっさんの癖に足速い」


「おばあちゃんの癖に拳速い」


「おばあちゃん言うな」


だが声に怒りはない。

二人とも笑っていた。


「あなたの世界の七十三歳って、どんな感じ?」


「白髪で腰が曲がって、公園でお年寄りのボール遊びして、孫に小遣いやったり、大体毎日のんびり過ごしてるだろ」


「…………私そう見える?」


「全く見えない。ぴちぴちだ」


「ぴちぴちって何」


「若くて元気って意味」


「……ふん」

耳の先端が赤い。


--


午後は本当に何もしなかった。


三つ耳の水色兎を見つけた。リーネが「可愛い」としゃがむと、膝に乗ってきた。


「もふもふ……」


七十三歳がもふもふしている。見た目は二十二歳。

中身はどっちだ。たぶん両方。


クロが嫉妬の鼻息。フレスは無関心。

兎はしばらくいて、ぴょんと去った。


「……また来たい」


「いつでも来れるぞ。俺たちの森だ」


「あんたの森でしょ」


「俺たちの森だ」

耳が赤いまま何も言わなかった。


--


そろそろ日が傾き始めた。


二つの太陽が西に傾き、白い方が先に色を帯び始める。

この世界の夕暮れは、光が二段階で変わる。

まず白い光が橙になり、金色がそれを追って沈んでいく。

その間の短い時間、森全体がふたつの黄昏に包まれる。


アクロスは空を見上げた。


今日、自分はずいぶん多くのものを吐き出した。

四十三年分の人生の概要を、この銀白の髪をした魔族の女に話した。

平和な世界にいたこと。戦争のことを画面越しに見ていたこと。

転生ものに憧れていたおっさんだったこと。

子供たちの顔がまだ目の裏にあること。


それを全部話した後で、追いかけっこをした。


なんだか、随分と身軽になった気がする。


「……そろそろ拠点に戻ろうか」


「そうね」


リーネが立ち上がり、服の埃を払った。

フレスが肩に飛び乗り、クロが先行して走り出す。


もう一度だけ、振り返った。


滝が変わらず白い水を落としている。

虹がかかって、水飛沫が光る。


この滝は、

リーネと追いかけっこをした場所で、アクロスがクロと眠った場所で、

魔王への第一歩を踏み出した場所だ。


これからの自分にとってもこの場所は大事な場所だ。


今日、本当の意味で何かが始まったような気がした。


「行くか、リーネ」


「うん」


二人と二匹が森の奥へ歩き出した。

足音が重なり、影が伸びる。


夕暮れの光の中で、白い太陽がぽつんと最後に輝き、消えた。

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