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第17話 おっさん、紳士になる

建物の中。

訓練の後の夜。


光る苔の紫が天井にぼんやり映っている。


毛布に包まって横になった。

体の芯がだるい。

一日中魔力を酷使した疲労が、ようやく追いついてきた。


クロが足元で丸くなっている。

フレスはリーネの枕元で銀の産毛を膨らませて眠っている。


静かだ。

もう寝よう。目を閉じかけた時。


「……ねえ、アクロス」


リーネの声。

小さい。だが起きている声。


「ん、なんだ?」


「一つだけ聞いていい」


「……いいぞ」


間があった。

毛布が擦れる音。リーネが寝返りを打った気配。

こちらを向いたのかもしれない。

だが暗くて見えない。


「あなた、ここじゃない別の世界から来たのよね」


静寂が落ちた。

虫の声が遠くで鳴いている。


「……なんでそう思う」


「今日一日で確信した」


リーネの声は穏やかだった。

責めてはいない。問い詰めてもいない。

ただ、確認している。


「酸素。分子。気圧。電位差。断熱膨張。全部、この世界にない言葉。

この世界にない概念。

あんたの頭の中には、私たちが知らない世界の法則が丸ごと入ってる」


「…………」


「人類って言い間違えた。四十三年って言いかけた。

職歴がどうとか、仕事がどうとか。全部、別の人生の記憶でしょう」


返す言葉を探す必要はなかった。

嘘をつく理由も、もうなかった。


「――そうだ」


ひとこと。


暗闇の中に、その一言が落ちた。


長い沈黙。


リーネは何も聞き返さなかった。

どこの世界か。なぜ来たのか。

どうやって来たのか。何も。


ただ。


「…………そう」


それだけ返した。


毛布が擦れる音。

リーネが仰向けに戻った気配。


「おやすみ、アクロス」


「……おやすみ」


それで終わった。


追及も、驚きも、詰問もない。

ただ確認して、受け入れて、おやすみと言った。


暗闇の中で、アクロスは天井を見つめた。


胸の中の何かが、少しだけ軽くなった気がした。


全部を話したわけじゃない。

ファルティシアのことも、スキルの詳細も、魔王を目指す本当の理由も。


だが一番大きな嘘が消えた。


この男は別の世界から来た。


それを知った上で、リーネはいつもと同じように、隣で眠ろうとしている。


信頼とはこういうことかもしれない。

全部知らなくても、知った分だけ受け止める。

残りは待つ。


フレスがぴぃ、と寝言を鳴いた。

クロが尻尾で足首を叩いた。


アクロスも、目を閉じた。


--


翌朝。


目を覚ますと、リーネはもう、起きていた。


アクロスは、

クロが最近べろべろしてこないな。

疲れてるからゆっくり寝かしてくれてるのかな。

など考えながら、頭をぼりぼり掻く。


リーネは建物の入り口に座り、外の朝霧を眺めている。

フレスが肩の上で羽繕いをしている。

銀の産毛が朝日を弾いて光っている。


「……おはよう、アクロス」


「おはよう」


いつもと変わらない声。

昨夜の問答がなかったかのように自然。


だが何かが違った。

空気が、違った。


リーネの背中の線が、いつもより真っ直ぐだった。


何かを決めてきたような顔をしている。


朝飯を作る。

塩焼きの肉と赤紫の実。蜂蜜。湧き水。

いつもの献立。


食べ終わり、クロとフレスが外で遊び始めた頃。

アクロスもまた散歩でもしながら考え事をしようと、立ち上がろうとした。


「アクロス」

リーネが呼んだ。


「ん」


「今日、リミットレスの儀式、もう一度やらない?」


アクロスの動きが止まった。


リーネがこちらを見ていた。

焚き火越しではない。正面から。


深紅の瞳がまっすぐ射抜いてくる。


「……いいのか。お前が許可するまでやり直さないって約束したろ」


「だから私が許可してる」


「魔力制御を上げてからっていう条件も――」


「昨日一日であなたは別人になった。理屈で魔法を使えるようになった。

制御の精度は前回とは比べ物にならない。今ならできる」


「…………」


「それに」


リーネが立ち上がった。

焚き火を回ってアクロスの前に来た。

近い。見下ろされている。


「昨夜、あなたは認めてくれた。

別の世界から来たって。おそらく、一番大きな秘密を」


「……ああ」


「私はそれを聞いても、怖くなかった。

驚きもしなかった。ただ、ああ、やっぱりって思った」


リーネが腰を下ろし、アクロスと向かい合って座った。

膝が触れそうな距離。


「前回は。まだ、あなたの秘密は大きかった。

私も、まだ、本当に信じ切れてはいなかったかもしれない。

だから失敗した。……手が滑って揉むのは論外だけど」


「面目ない」


「でも今は前よりも少し違う。あんたの魔法を知ってる。一緒に魔法も作った。

あなたが、別の世界から来た男だと知った上で、まだ隣にいることを選べてる」


深紅の瞳が、一切逸れない。


「だからもう一度、ちゃんとやってみよ。今より、もっとお互いを知るためにも」


アクロスは息を呑んだ。

リーネは――強い。


一人で逃げ続けた。父を亡くした。集落を焼かれた。

それでも泣かないと決め、立ち上がり、見知らぬ男を信じると決め、

今こうして正面から「もう一度」と言っている。


俺は今まで、生きてきて、こんな目で見つめられたことがあっただろうか。


「……わかった。やろう」


--


今回は場所を建物の中にする。


光る苔の紫の明かり。

静かで、風がない。

集中できる環境。


クロとフレスは外に出した。

今回は二人きりでやる。

余計な魔力の干渉を避けるため――

というのは建前で、正直に言えば犬と鳥に見られながら胸に手を当てる儀式をやるのは気が散る。


向かい合って座った。

あぐらのアクロスと、正座のリーネ。

すでに膝がちょっと触れている。


「手順を確認する」


アクロスの声が落ち着いている。

昨日までとは違う。

魔法の使い方を覚えた男の声。


「互いの胸に手を当て、心臓の鼓動を合わせる。

魔核の波長を同期させ、その瞬間に誓いの言葉を唱えてリミットレスの回路を開通させる」


「前回と何が違うの」

「二つ。一つは俺の魔力制御が上がった。もう一つは――」


アクロスがリーネの目を見た。


「前回は力技の儀式だった。

考え方も、リミットレスを共有するという機能面だけを考えてた。

だが魔の創造が求めているのは信頼の誓いだ。言葉だけの契約じゃない。

存在と存在の共鳴」


「…………」


「つまり気持ちが伴わないと成功はない。

前回はお互いの心が余計な考えも混じって、追いついてこなかった。今は違う」


リーネが小さく頷いた。


「私も、覚悟してきた」


「覚悟?」


「あなたの鼓動に触れるってことは、あなたの全部に触れるってことでしょう。

別の世界の記憶。別の生。全部受け止める」


アクロスの目が見開かれた。


そうだ。


前回、リーネは言っていた。

「海鳴りみたいな音がする」と。

アクロスの胸に宿る原初の奔流を感じ取っていた。


今度はもっと深く繋がる。

リミットレスの共有は、魔核の構造そのものに干渉する。

リーネはアクロスの力の根源に触れることになる。


「怖くないか」


「怖い。でも知りたい」


深紅の瞳が、真っ直ぐだった。


「あなたのこと。もっと知りたい」


その言葉に、アクロスの鼓動が跳ねた。


--


「よし、やるぞ」


「うん」


リーネが右手を伸ばした。

アクロスの胸に、手が触れた。服越し。細い指。

だが前回のような怯えはない。迷いなく、真っ直ぐに心臓の上に手を置いた。


「……聞こえる。あなたの心臓。前より落ち着いてる」


「今日は緊張してないからな」


「嘘。少し速い」


「…………黙っとけ」


リーネの唇の端が微かに上がった。


「次は、俺の番だ。……触れるぞ」


「……うん」


アクロスが右手を伸ばした。


ゆっくり。前回のような勢いではなく、リーネの目を見ながら。


リーネが息を止めた。だが目を閉じなかった。

深紅の瞳がアクロスの手を見つめ、それからアクロスの顔に戻った。


手が、リーネの胸に触れた。


心臓の上。


前回の失敗が脳裏をよぎったが、今度は違う。

手の位置を意識で固定している。ぐっすり寝て、魔力も回復している。

理屈で魔力を制御することを覚えた男の手は、


動かない。ずれない。


鼓動が指先に伝わった。


速い。リーネも緊張している。

だが前回のようなパニックではない。覚悟の上の緊張。


「……感じる。お前の魔核」


「私も。あんたの……海鳴り。前より大きく聞こえる」


二つの鼓動。


アクロスの鼓動は深く、重い。

原初の奔流が心臓の奥で唸っている。

大河の底流のような、止めようのない力の脈動。


リーネの鼓動は速く、透明。氷のように澄んだ波長。

風のように軽やかなリズム。


二人の鼓動は、全く違うリズム。


だが――

耳を澄ませば、二つの鼓動の中に同じ周波数がある。


生命の鼓動。生きているもの同士が持つ、根源的なリズム。


そこに焦点を合わせる。


「合わせるぞ。俺のリズムに合わせなくていい。お前もそのままでいい。」


「え?」


「前回は俺が主導で合わせようとした。今回は二人で新しいリズムを作る。

どっちかに合わせるんじゃなく、二人の間に生まれるリズムを感じろ」


リーネの瞳が揺れた。

理解した目。


二人が同時に目を閉じた。


互いの鼓動に意識を沈める。


トクン。トクン。トクン。


速いのと遅いの。

透明なのと深いの。


命の鼓動。


合わない。ずれている。


だが聞き続ける。焦らない。


一分。二分。


少しずつ、二つのリズムが歩み寄ってきた。

アクロスの鼓動がわずかに速くなり、リーネの鼓動がわずかに落ち着く。


近づく。近づく。


だが完全には重ならない。

当たり前だ。個が違うから。


前回はここで無理やり同期させようとしたことも暴走の原因。


今回は違う。


むしろ、重ならなくて、いいと思った。


二つの鼓動が隣り合って打つ。

トクン、トクン。トクン、トクン。


ほんの少しずれて、だが寄り添うように。


互い違いのリズムが――

一つの旋律を生み出す。


心臓が交互に打つ。

片方が打つ隙間をもう片方が埋める。

休符のない、途切れない拍動。


「あんたの鼓動と、私の鼓動が。交互に打ってる。まるで――」

「あぁ」


「「一つの心臓みたい」」

同時に同じことを言った。


目を開けた。深紅の瞳と、琥珀と紅のオッドアイが至近距離で合った。


アクロスが問う。

「……聞こえるな?」

リーネが答える。

「……聞こえるわ」


二人の鼓動と想いが一つになる。


「「もう、迷わない」」


二人が同時に口を開いた。

示し合わせてもいない。だがしっかりと声が重なる。


鼓動が重なり、信頼が一つの旋律を生み、

二人の想いが、ごく自然に、


誓いの言葉を成立させた。


そして光が生まれた。


二人の手の間――

互いの胸に触れた掌の上から、光が溢れた。


アクロスの手からは暗紫の光。魔の創造の色。

リーネの手からは銀白の光。氷の魔核の色。


二つの光が混じり合った。

暗紫と銀白が螺旋を描いて絡み合い、二人の体を包んでいく。


「っ……!」


リーネが息を呑んだ。


「感じる。あんたの中から――何かが流れてくる」


リミットレスの回路が開いた。


アクロスの中にある「天井のない器」の構造が、魔力の糸を伝ってリーネの魔核に接触している。


器の「型」が転写されていく。


リーネの魔核が震えた。


☆三つの天井に、亀裂が入った。

砕けたのではない。


天井に窓が開いた。小さな窓。

リーネにはその向こうに、果てのない空が見えた。


「……見える」

リーネの声が震えた。涙ではない。

新たな世界を感じる、震えだ。


「天井の向こうに空がある。壁の向こうに、まだ上がある。

ずっとずっと上に……終わりがない」


それがリミットレスだ。


成長に限界がない。

器に天井がない。

今すぐ☆四つになるわけではない。

天井に窓が開いただけだ。

そこに到達するには修練がいる。だが道が見えた。


今まで壁だと思っていた場所に、扉があり先には道がある。


光が収まっていく。

暗紫と銀白の螺旋が解け、二人の体に吸い込まれた。

手を離した。


離した瞬間、名残惜しさすらあった。


二つの鼓動が離れ、それぞれのリズムに戻っていく。

だが胸の奥に、繋がりの残響がある。


糸のように細い。

だが確かに。


アクロスと、リーネの心臓は、

一本の線で結ばれていた。


--


しばらく、二人とも動けなかった。


消耗ではない。

余韻だ。


「……成功した」

アクロスが呟いた。


「成功した。リミットレスの共有。お前の☆三つの天井が開けた」


「うん。感じてる。今までと何かが違う。体の奥が広くなったみたいな感覚」

リーネが自分の胸に手を当てた。


「……まだ☆三つのままよ。急に強くなったわけじゃない」


「ああ。天井が外れただけだ。実力はこれから積む。でも伸びしろが無限になった」


「……無限」

リーネが手を見つめた。


そして、氷の花を作ろうとした。

母の得意技。

何度挑戦しても崩れる、精巧な花。


指先に氷が灯った。形を成そうとする。花弁が一枚、二枚。

崩れた。まだ作れない。


それはそうだ。

天井が外れても、技術は一朝一夕では身につかない。


だがリーネは笑った。

「……崩れた。でもね」

崩れた氷の欠片を掌に乗せた。


「前より、崩れ方がきれいだった。花弁の形が、前より母さんのに近かった」


「……いつか咲くさ。絶対に」


「ええ。いつか必ず」


リーネが立ち上がり、服の埃を払った。

深紅の瞳にもう迷いはなかった。


「さ。次はどうする?アクロス」


「あぁ、一緒に考えよう。リーネ」


扉を開き、絡まる蔦のカーテンを潜って二人は外に出る。


クロとフレスが駆け寄ってきた。

クロが尻尾を振り、フレスがリーネの肩に飛び乗る。


朝の森。二つの太陽が木漏れ日を落としている。


「アクロス、ひとつ聞いていい?」


リーネが歩きながら言った。


「何だ」


「今回は揉まなくて、よかったの?」


「……当たり前だ。俺は紳士なんだよ」


「ふぅん。成長したじゃない」


「うるせえな」


リーネが笑った。

普通に、声を出して。


二人の絆は今日、確かなものとなった。

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