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第1話 さよなら、普通の人生

四月の昼下がり。


空は抜けるような水色で、電線の上でスズメが二羽、のんきに毛づくろいをしていた。


コンビニの自動ドアが開くと、揚げ物の油と冷房の人工的な冷気が混じった匂いが鼻をくすぐった。


「――からあげクン、レギュラーで」


買い物客としてレジに立つこの男――佐伯さえき わたる43歳。


身長177センチ。やや長めの黒髪を後ろに自然に流し、襟足が首筋にかかる。


こめかみに銀の筋が数本。彫りの深い目元に歳相応の笑い皺。それが妙に様になっていた。


手入れされた短い顎鬚が輪郭を引き締めている。


肌の手入れなど特にしていないはずなのに、不思議と清潔感がある。


正直イケオジ、と言えなくもない。


ダークネイビーのテーラードジャケットに白のクルーネックT。


チャコールグレーのパンツにブラウンの革靴。


ジャケットの下の肩幅は広く、現場仕事で鍛えた体幹の厚みがシルエットに出ている。


午前中は本社で会議。午後は現場の安全パトロール。


会議が早く終わったので、今は束の間の昼休みだ。


「あ、あとホットのブラックも」


「合わせて四百二十円になりまーす。ポッ」


レジのおばさまが少し頬を染めたのに気づかず、航は小銭をじゃらじゃら出す。


航は、おばさまやおばあさまにはよくモテる。


---


店を出て、缶コーヒーを片手に歩道を歩く。


航のスマホが震えた。LINE。


【元嫁・麻美】

『航、来月の拓海の引っ越し手伝える? 力仕事あるから助かるんだけど』


苦笑した。


離婚して二年だ。子供たちはふたりとも成人して独立した。


二十年以上一緒にいた麻美とは、ある夜、リビングで缶ビールを飲みながら静かに話をした。


『お互い、自由に生きようか』


泣きもしなかった。怒りもなかった。


お互い、ただ長い仕事が一つ終わったような、そんな穏やかな疲労感だけが残った。


航の職歴は、一つの会社に収まらない。


新卒で入った中堅メーカーの営業からスタートし、クレーム対応で胃を壊して退職。


そこから建設会社の現場監督に転じ、泥だらけになりながら職人たちと飯を食った。


三十代で物流倉庫の管理責任者を任され、五十人のパートを束ねた。


その後、IT企業の総務部長に拾われ、スーツを着て役員会議に出る日々。


それも肌に合わず、今は製造業の工場で生産管理の課長をやっている。


あまり仕事にこだわった人生でもなかった。


航にとって仕事は、ただ飯食って生きていくために必要なものとしか思っていない。


手を抜くわけではない。ちゃんとやる。だがそれだけだ。


なのに、航は不思議とどの職場でも言われることがある。


「航さんがいると、なんかうまく回るんだよな」


出世欲はない。カリスマがあるとも思ってない。だが人が集まり、場が収まる。


本人もなぜかはわからない。だが人には愛されやすかった。


それが佐伯航の四十三年間だ。


『おう、いいよ。日曜だろ? 空けとく』


返信を打ち、からあげクンを口に放り込みながら空を見上げた。


「……はあ」


退屈じゃない。不幸でもない。でも、何かは足りてない。


ずっと、この思いが消えることはなかった。


ガキの頃に読んだファンタジー小説。


中学でハマったRPG。


大人になってもこっそり読み続けた転生モノのラノベ。


会議室でくだらない報告書を読みながら、頭の片隅ではいつも読みかけのラノベの展開やRPGの世界のことを考えた。


「転生してーなあ……トラックこねーかな」


ふとした時によく思う。


信号が青に変わるのを待つ。


桜の花びらが缶コーヒーの蓋に落ちた。


信号は――青。いつも通り歩く。


二歩、三歩。


左から。音じゃない。空気の壁が来た。


振り向いた視界いっぱいに、白いトラックのフロントグリルが映る。


(――マジかよ)


きたな、これ。と思ったが声にはならなかった。


---


目が、覚めた。


周りはただ、白い。


どこまでも白い。天井も床も壁もない。


温度もない。音もない。あるのは自分の体と意識だけ。


「…………よし、死んだな、俺」


声は出た。妙に響く。


航は後ろ髪をくしゃりと掻いた。パニックにはならなかった。


四十三年生きて、ひと通りの経験があれば、大抵のことは「しゃあねえか」で処理できる。


ただ死ぬだけなのはもちろん願い下げだが、この展開はむしろ待っていた。


ずっと。


「マジで、トラック転生じゃん…」


ベッタベタの展開。


頭では苦笑しながら、胸の奥でずっとくすぶっていた何かが、静かに跳ね上がった。


その時、空気が震えた。


頭上から光が降り注ぐ。銀と淡い紫が溶け合った、この世のものとは思えない輝き。


光の柱の中に、影が生まれ、色を纏い、形になる。


――女神だ。


その存在を前にした瞬間、航の全身の毛穴がぶわりと開いた。


美しいとか綺麗とか、そういう人間のスケールで測れる話ではなかった。


身長は航と同じか、やや高い。磁器のように滑らかな白い肌。


腰まで届く藍色の長髪は光の角度で銀や紫に揺らめき、夜空を束ねたよう。


こめかみの三つ編みに銀の星飾り。


切れ長の瞳は金色で、瞳孔の周囲だけが紫。長い睫毛。桜色の唇。


銀紗のアシンメトリーの衣。左肩だけ露出し、布は体の線に沿って豊かな胸の曲線を惜しげもなく浮かび上がらせている。

腰から下は藍色のロングスカートが幾重にも重なり、裾に星屑の粒子。

素足にアンクレット。


航は息を呑んだ。


そして。


「……おっぱい、でけえな」


女神がぴくりと眉を動かした。


金紫の瞳が航を見据える。


三秒。五秒。


「――ふふっ」


鈴を転がすような笑い声。


「あなた、面白い方ですね」


声は柔らかく深く、胸の奥に直接響いてくる。


「私はファルティシア。この枝界……あなた方の言葉で言えば『異世界』を司る女神です」


一歩近づく。


夜露に濡れたジャスミンのような香り。


「佐伯航。四十三歳。あなたの魂は世界の根幹、原初の世界プリマ・ムンドゥスから来ました」


「プリマ…なんだって?」


「航は、難しい話はお嫌いでしたね」


にこり。


航のことは全部知っていますという笑顔。


「簡単に言います。あなたの世界はすべての世界の根っこです。大樹の幹。私たちの世界は、そこから伸びた枝葉」


「枝葉ね」


「枝葉は放っておくと枯れるんです。だから――

幹の生命力を、エネルギーを、分けてもらう。それが転生の正体です」


「つまり、俺が転生するとそっちの世界が元気になると」


「ええ、その通り」


航は腕を組んだ。思ったより壮大だが、飲み込めなくはない。


ずっと、こういう話を夢見ていた自分が、確かにいる。


「ふーん」


航は首の後ろをぽりぽりと掻いた。


そして、ニヤリと笑った。


「ファルティシア」


「はい?」


「俺、新しい世界で、魔王やりたい」


---


沈黙を予想した。


驚かれるか、呆れられるか。


「普通は勇者とか言うんですけど」みたいなツッコミが飛んでくるかと思った。


だがファルティシアは――微笑んだままだった。


金紫の瞳が、航をじっと見つめている。


驚きはない。戸惑いもない。まるで、その言葉を待っていたかのように。


「……驚かねえの?」


「いいえ。あなたなら、そう言うと思っていました」


静かな声だった。だがそこに込められた感情は、単なる確信ではなかった。


もっと深い何か。安堵に近い温かさ。


「この世界には今、魔王がいません。半年前に勇者に討たれました。


――その結果、この世界に何が起きているか」


ファルティシアの声のトーンがわずかに変わった。


女神の威厳でも慈愛でもない、もっと生身の――


痛みに近い響き。


だがそれは一瞬で、すぐに微笑みに戻った。


「でも、それはあなた自身が見て、感じて、理解すべきことです。

教えてしまったら、あなたの旅にはならない」


「…………」


航は女神の顔を見た。何か言いたいことがある。


でも言わない。言えない、ではなく言わないと決めている。


賭けているのか。と感じた。


この世界の何かを、きっと航に賭けている。


何を賭けているかは教えてくれないが、

なんだかとても重いことだけは、あの痛みのような、一瞬の表情でわかった。


「まあいいや。行きゃわかるんだろ」


「ええ。きっと」


ファルティシアが微笑んだ。


その笑みは共犯者の笑みのようにも、


祈るような笑みにも見えた。


---


航は言う。


「俺、ファンタジーものとか転生モノとか、大好きでさ」


「知っています」


女神は笑顔で返した。


「でも、ずっと、思ってたことがある」


少し、間を開けて言う。


「勇者ってさ…結局やらされる側の人間だよな」


航はポケットに手を突っ込む仕草をした。ポケットはなかった。


「俺も、ずっとやらされる側だった。営業のノルマ、現場の納期、本社の予算。

どこ行っても誰かの都合で動いて、誰かの尻ぬぐい。文句はねえよ。

それはそれで楽しかったし、後悔もない」


目に、鋭い光が宿った。


「――でも、次は、自分で決めてえんだ。全部」


ファルティシアは静かに頷いた。


「航。あなたに三つの力を授けます。ただし――」


一本指を立てた。


「これらの力には段階があります。器の大きさはスキルランク。

そしてその器からあなたが引き出せる力の量を決めるのがスキルレベル。

スタートはどのスキルレベルも★3です」


「★3?上限は、それぞれ違うのか」


「ええ。使い込むこと。理解を深めること。実戦を重ねること。

そうして★が上がる。

――あなたの行動、努力、経験に応じて力が応えていく仕組みです」


「いいな。最初から最強すぎてもつまんねえ」


「ふふ。――では」


女神が指で何かを描いた。


すると、航の前に三つの光球が浮かんだ。


---


「あなたのスキルです。説明しましょう」


一つ目。白銀の光球。


「【原初の奔流プリマ・トレント

 ランク:☆☆☆☆☆☆☆(上限★7)

 現在:★3

原初世界からエネルギーを引き出す力。★3でもこの世界の一般的な魔力量を遥かに超えていますが、まだ蛇口は三割しか開いていません」


二つ目。暗紫の光球。


「【魔の創造クリエイト・アビス

 ランク:☆☆☆☆☆☆(上限★6)

 現在:★3

魔法、魔物、魔族……"魔"に属するすべてを創り出す力。

★3では基礎的な魔法と小型の魔物が限界です。

★が上がれば、より高度な存在を創造できるようになりますが、高位の存在ほど消費は凄まじくなります」


三つ目。虹色の光球。


「【無限器リミットレス

 ランク:☆☆☆☆☆☆☆☆(上限★8)

 現在:★3

あなたの成長には限界がない。あなたにだけは天井がない。

そしてこのスキル自体が育つほど、他のすべての成長が加速します」


---


女神が手をかざすと、三つの光球が航の胸に沈んでいく。


全身に温かいものが広がった。背骨を電流が駆け抜ける。


力だ。実感する。


だが同時に蓋がされている感覚がある。なにかもどかしい。


全開にしたいのに、全開にならない蛇口。


「これが★3か」


「ええ。今のあなたは中堅の冒険者程度。この世界には★5を超えるものたちも大勢います。今のあなたでは対抗できないでしょう」


「上がいるってのは、燃えるな」


ファルティシアが微かに目を細めた。

面白い人、という顔。


---


「もう一つだけ、贈り物があります。

――スキルではなく、環境適応のようなものですが」


「なになに?」


「言語理解です。この世界で話されるすべての言語――

人間の共通語、各国の方言、魔族語、古代語、獣語に至るまで。

聞けば理解でき、話せば伝わり、読めば読解できます。自動的に」


「全言語?」


「ええ。コミュニケーションで困ることは一切ありません。

転生者への基本的な配慮です。言葉がわからなければ、何も始まりませんからね」


「それ、一番ありがてえかも」


航は本気で思った。スキルがどれだけ強くても、言葉が通じなければ飯も頼めない。


言語の壁がないのは何よりの恩恵だ。


「ただし、一つ注意を。

言葉は自動的にわかりますが、文化や常識は自動では身につきません。

この世界のマナー、暗黙のルール、各地域の風習……

それはご自身で学んでいただく必要があります」


「まあ当然だな。新しい職場のルールってのは、自分で感じて、覚えるもんだ」


「ふふ。さすが転職のベテラン」


「褒めてんのか貶してんのか微妙だな」


---


ファルティシアが改まった表情になった。


「転生先はこの世界の大陸のひとつ、エルデシア大陸。

剣と魔法、魔物と人間、勇者と魔王。あなたが好きな要素が全部ある世界です」


「いいね…最高…!」


「ただし。あなたの見た目と力は"魔"に寄ります。

人間たちは魔族を恐れ、蔑み、排斥する。

…人間は、あなたの味方ではありません」


にっと笑った。


「上等じゃねえか」


ファルティシアの表情が柔らかくなった。


「最後に。あなたのこの世界での名前を、決めましょう」


「名前か」


航。ワタル。渡る。越える。


親父がつけてくれた名前だ。どんな荒波も渡っていけるように、と。


その名の通り、航の人生は、渡り、乗り越え、歩いてきた。

人の波、様々な仕事への転職、結婚と離婚。


そして今度は、世界から世界へ。


渡る。越える。英語で言えば――


「アクロス」


**Across**。越えていく者。


ファルティシアが呟くように繰り返した。


「アクロス。……いい名前。境界を越え、壁を越え、世界を越えていく者」


金紫の瞳が、一瞬だけ潤んだように見えた。


見間違いかもしれないが。


自分でつけた名前を、自分で噛み締める。

佐伯航という名前が嫌いだったわけじゃない。四十三年分の愛着がある。


だがこの名前は、あの世界の名前だ。


会社の名刺に印刷され、離婚届に書かれ、年賀状に並ぶ名前。


アクロスは、こっちの世界の俺の名前だ。


「よし。アクロスでいく」


「ではアクロス、そろそろ行きましょうか…

あなたの新たな生の舞台へ」


ファルティシアがそっと手を伸ばし、アクロスの頬に触れた。


ひんやりとした、どこか懐かしい温度。


足元から光が爆ぜる。体が浮く。意識が薄れていく。


最後に見えたのは金紫の瞳と、少しだけ寂しそうな微笑み。


「どうか……楽しんで。

そして、あなたの想いはきっと、この世界を…」


その声を最後に。


佐伯航は消えた。


そして、アクロスの物語が始まる。

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