二人の理系と一人のバカ 巡回セールスマン問題
……AI回答によれば
巡回セールスマン問題は、複数の都市とそれらの間の移動コストが与えられたときに、すべての都市を1回ずつ訪れて出発点に戻る最短ルートを見つけることを目的とする。都市の数が増えると、考えられる経路の数は階乗的に増加する。例えば、10都市の場合で18万通り以上、30都市を超えるとスーパーコンピューターを使っても数千万年以上かかる計算量となる。現実的な時間内に最短ルートを見つける万能な方法はまだ見つかっていない。
S君N君Rは、その日も久しぶりに集まり、酒を飲んでいた。
長期研修に出かけていたS君が帰ってきたので、無事の帰還を祝って、という名目で集まったのだが、まあ、くだらない話をしつつ、酒が飲めればなんでもいいのである。
で、S君は、今回の研修がいかに有意義であったか、どれほど将来に役立つか、2人に向かって力説していたのである。
「いいかR、お前だってE大のI教授の名前くらいは知って……なに、知らないだと?流体力学の世界的権威で、車や飛行機の設計についても素晴らしい本を何冊も書いてる、ものすごい人だよ!その人がな、今回の研修では、直々に講義してくれたんだ。いやもう、その内容の深さといったら、本当に感動ものだったよ!」
と、目をうるうるさせるS君に、興味津々という感じで、N君が尋ねた。
「I教授の噂は、僕も聞いてるよ。研究の質の高さもさることながら、その講義の素晴らしさときたら天下一品だって。やっぱり、すごいのかい?」
「もちろん!特に俺が感動したのが、最終日、講義の最後に言ってたことだ。『理系の学問には、現実を数式やシミュレーションといった、抽象的なものに落とし込んで考えるモデル化がつきものだ。だが、工学の専門家であり、これから数々の設計に携わる諸君は、このモデル化に頼りすぎないよう、常に注意してほしい。現実というのは、しばしば大雑把なモデルでは把握しきれない条件を含むものだ。これは私が親しい友人の一人
の話からヒントを得たものなのだが、諸君は、巡回セールスマン問題を知っていると思う
。それをさらにモデル化した、こんな条件を考えてもらいたい。』I教授、そう言ってな、こんな図をホワイトボードに書いたんだ」
そう言うとS君、Rに紙と鉛筆を所望し、出てきたそれらを手に取って何やら書きつけ、二人に示した。
それは、横に八個、縦に八個、計64個の黒点を整然と書き並べた、図形とも表ともつかないものだった。
「なんだこりゃ?鼻クソなすりつけた跡か?」
ニヤニヤしながらいきなり下品なことを口走るRに、S君、顔をしかめる。
「違うって。これは、巡回地点をモデル化したものだ。I教授、この図を俺たちに示した上で、隣り合う地点同士の距離は同じ――そうだな、例えば3メートルとして、だとして、これらの点を全て1回ずつ通るのにもっとも効率的なルートを考えてみてほしいって、そう言ったんだよ。どうだお前ら、正解分かるか?」
お前らといったものの、S君が見つめていたのはN君のみで、もとよりRは勘定に入っていない。純文系で、しかも大学きっての劣等生と在学当時うわさに高かったヤツに、こういった概念上の問題など解けるはずがない、と思っているのである。
N君、しばらくその点集合をにらみ、難しい顔をで首をひねった。
「……隣り合う各点同士の距離は、縦も横も、皆同じなんだね?」
「そうだ」
「巡回した後、元に戻る必要は?」
「それはない」
「うーん……巡回セールスマン問題の、条件をゆるくし、単純化した問題のようだけど、その条件でいいのなら、正解はすごくたくさんあることにならない?隣り合う二点をつなぐ直線以上の最短距離は考えられないから、例えば横一列をつなぐと、7×3で、21メートル。それが8列あるから、21×8で、168メートル。それに、列同士を縦につなぐ通路が7本必要だから、さらに21メートル足して、189メートル。結局、巡回地点同士をつなぐ通路63本分の長さが最短距離となるから、それを満たす図形であれば、全て正解になるよね?」
そんな単純な答えで本当にいいのか、と明らかに疑っている顔をしながら、N君はそう答え、その上で、紙の上にさまざまな図形を書き始める。
一番下の列を真横に進み、端まできたところで一つ上の行に上がり、そこから反対方向に横に進んで、またもう一列上がる、というのをくり返す形。
中心から外側へ向かい、円を描くように広がっていく形。
最下列の端から二番目の点から横縦横縦と細かくギザギザに曲がりながら上昇し、最上列で次の2列に移動して、同様に横縦横縦とギザギザに下降するのを2回くり返す図形。
他にも、らせんをいくつか組み合わせた図形や唐草模様のような図形など、よくまあそれだけ思いつけるな、というほどさまざまな図形を書いた後で、
「これら全部、僕の言った条件を満たす図形だ。これ以外にもまだまだたくさんある。そのすべてが正解にならないとおかしいと思うんだけど、違うのかい?」
これを聞いてS君、にんまり笑って、首を左右に振った。
「俺も最初はそう思った。けどな、違うんだ。正解の図形は、たったひとつに決まるんだ」「いや、そんなはず……」
なおも抗弁しようとするN君を片手で制すると、S君はおもむろに口を開いた。
「いや、間違いなく答えはひとつに決まるんだ。分からないなら、ひとつヒントをやるよ。いいか、もう一度よーく思いだしてみろ。この問題は、解答としてなにを要求してた?」
「なにって、だから「もっとも効率的な巡回方法」だろ?つまり、これらの点を最短距離で結ぶってことじゃ……」
と、S君がそこまで言いかけたところで、それまでおもしろそうな顔で二人のやりとりに黙って耳を傾けていたSが、こそっとつぶやく。
「効率って、距離だけで決まるもの?」
その言葉を聞いても、N君はやはり訝しげな顔のままだった。が、S君は驚愕の表情を浮かべ、まじまじとRを見つめたのである。
「お前!アホの文学部卒のフリーターが、なんでこの盲点に気がつけるんだよ!」
「え、だって、経験してるから」
「経験!?なんだよ、経験て!」
驚きのあまり、前のめりに大声を出すS君とは裏腹に、Rは至って落ち着いた様子である。
「いや、だから、昔チラシ配りのバイトしてたことがあってさ。その時に、同じような状況に出くわしたことがあるんだよ。正解は……これを、こうして……こうだろ?」
と、RはN君が書いた様々な解答例のうちの1枚を、無造作にテーブルから取り上げ、くるくるとひっくり返し、矢印をひとつ書き加えた後で、二人に示す。
それは、最上列を左から右へ真横に一番端まで移動した後、次の列に下り、そこから左端まで真横に移動してさらに次の列に下りるのをくり返し、最下列左端の点で終わる図形だった。
それを目にして、S君は、さらに大きく目を見開いた。
「正解だ…」
呆然とするS君を尻目に、
「え、なんで?なんでそれだけが正解になるんだよ!」
自分だけが答を理解できないことに焦りを覚えたのか、N君が必死で食い下がる。
その様子を目にして、Rは肩をすくめた。
「これね。平面じゃないんだ。8階建てのマンションをモデル化した図なんだよ」
それを聞いて、N君、はっと息を呑んだ。
なるほど確かに、これがマンションをモデル化したものなら、まず最上階の部屋を順に巡り、それから次の階に下りてその階の各部屋を、という具合に回るのが、階段を上らずに済む分、時間的にもエネルギー的にも、一番効率が良さそうである。
と、ここで、ようやく我に返ったらしいS君が、やや情けなさそうに口をはさむ。
「お前、なんで分かるんだよ!俺だって、かのI教授から解説されるまで、全然分からなかったってのに!」
「え、そりゃわかるさ。だって、I教授にヒントを与えた友人て、オレのことだもの」
「は、はあ?」
再び呆然とするS君に、Rはにっと笑いかける。
「I教授って、Iさんだろ?転勤でE大に行くまで、オレのバイト先の飲み屋の常連でさ。仲良かったんだよ。うちの劇団の芝居も、何度か見に来てくれたこともあるんだ」
「マジかよ!」
「で、昔、Iさんと話してる時、なんでかその、巡回セールスマン問題とかいう話になって。こういう問題に対して最適解を導き出せたらすごいんだけど、っていうから、そんな
の簡単だ、って教えてやったのがこれだよ。Iさん、答を教えたら、やっぱりお前らと同
じようにぽかんと口を開けてさあ……」
と言いかけたところで、Rの懐かしげな口調を遮るほどの激しい勢いで、N君が再び食ってかかった。
「いや、やっぱり納得できないよ!どうして正解が、この行き方だけになるのさ!もしこれがマンションをモデル化したものだとしても、これとちょうど逆の、まず左から右へ進む行き方だって、時間的にもエネルギー的にも同じになるだろ!だったら正解のハズじゃないか!それに、最初に八階まで登る分のエネルギーはどうなるんだよ!それを考慮に入れれば、下から上にせり上がっていく方法の方が時間的には速い!エネルギーロスを考えに入れたって、ほぼ同じ効率で巡回できるはずだ!少なくとも正解は複数あるはずなんだ!」
一気にまくしたてたせいで、はあはあと息ぎれしているN君をまじまじと見た後で、Rはうつむくと、くっくっくっと声を上げて笑いはじめた。
「いやあ、理系ってのは、本当におもしろいな。Iさんも、初めてオレが正解を教えた時、お前と全く同じように反論してさ。しかも、全く同じように早口で食ってかかるんだよ。なんだって、こうも同じリアクションを取ってくれるんだろうな」
と、なおも笑い続けるRを、S君はげんなりした、世にも情けなさそうな顔で見つめる。この反応からして、彼もI教授から正解を聞かされた当初、全く同じリアクションをしたに違いない。
が、いきり立つあまり、二人のその反応も全く目に入らないのか、N君、さらに大声を張り上げる。
「変なこと言ってとぼけてないで、反論してみろよ!どうして答えがこの図形一つだけになるのか!理由が明白になるように説明してみろ、できるもんなら!」
いきり立つあまり、ばあんとテーブルを叩くN君。
その彼を、やや気の毒そうな目で見つめるS君に向かい、Rは笑顔のまま、説明してやれよ、といわんばかりに、くい、とあごをしゃくってみせた。
S君、はあ、とため息をつき、しょぼんと小さくなった後で、目を怒らせたままのN君を再び見つめる。
「その……N。実はな、このマンション、安っぽい造りだけど、一応当時の建築基準法に則した造りになっててな。ここに設置してあるんだ、エレベーターが一台」
と、左端の列のさらに左側を、縦にすうっとなぞったのである。
ぐっと言葉に詰まり、無言になったN君をおもしろそうに見つめた後で、Rは缶の底に残っていたビールを、うまそうにのどに流し込んだのであった。




