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メビウス  作者: 和泉 兎
9/11

優子

 昨日までの雨が嘘のように晴れた。

 今日の空は快晴で、今年の最高気温を記録するんじゃないかってくらいに暑い。


 いくつかの台風が立て続けにやって来たせいでしばらく見られなかった青空は、久しぶりに目にすると思いの外気持ちよかった。


 交通量の多い交差点、横断歩道の手前で信号待ちをしている人々は、わずかな暇をもて余し思い思いに待っている。


 スマホを取り出す若者、メイクをチェックする女性、テキストを開く学生、汗を拭くサラリーマン。

 それぞれ日傘をさして大声で会話を楽しむ主婦と思しき女性たち。


 時間を有効に利用する者たちの中で、何もせずぼんやりと道路の向こう側を見つめるあたしの姿は、逆に浮いてるかもしれない。


 真夏の都会は、至るところにアスファルトが敷き詰められて灼熱の大地と化している。

 両側5車線の道路の向こう側は、蜃気楼のように揺れて見えた。


 あたしはこめかみを流れる汗もそのままに、ただ揺れる景色を見つめていた。


 白いワイシャツと深緑色のチェックのスカートが汗で肌に張り付いて気持ち悪い。

 うちの高校の制服の一番の特徴であるえんじ色の細めのネクタイは、ちゃんと付けてはいるものの、少しでも風が入るようにゆるゆるだ。

 腰まで伸ばした長い髪は、ポニーテールにまとめ上げている。


 歩行者信号が青に変わり、それを知らせる電子音が鳴り響いた。

 人々は我先にと横断歩道へと踏み出し、焼けた道路を渡って行く。

 あたしもその流れに身を任せるように歩き出した。


 道路を渡ればそこはもう駅前だ。

 2本の路線が通るこの駅は割りと大きく、若者向けの店のたくさん入った駅ビルやファーストフード店には、夏休み中ということもあり人が多かった。


 正直言って、暑苦しい。

 でもささやかながらも設置された噴水が、少しだけ体感温度を下げてくれた気がした。


 あたしは、それらの店には目もくれずに改札を目指して歩いて行った。


 改札まではそんなに距離はないが、なにせ人が多い。

 肩に掛けた鞄を背負い直して、人の波をかき分けて進んで行く。


 交差点から改札までは決して止まらないようにしなければならない。

 それは、いくつも差し出されるティッシュやチラシ、暇そうな男から声を掛けられるチャンスを与えないためだ。


 この辺りは治安が悪いという程ではないが、一度捕まると面倒なことになる。

 高校に入学して1年以上も経てば、嫌でもよくわかった。


 今日も目の前に無造作に出されてくるチラシたちをかわして、改札のタッチパネルに多少乱暴に定期をかざすとゲートを抜けた。

 あたしはようやくほっと息を吐いて歩調を緩め、ホームへのエスカレーターへ乗った。


 ホームに着くと電車はすぐにやって来て、それに乗り学校へと向かった。


「おはよー」


 第2音楽室と表示された教室に挨拶と共に入る。


「優子ちゃん!おはよ!」


 既に自分より早く来ていた仲間に元気な挨拶を返してもらい、あたしの顔にも自然と笑顔が浮かんだ。


紗枝(さえ)早いね」

「うん、だって部活大好きだもん」


 紗枝も笑顔で応えてくれる。

 あたしたちは中学から一緒の友達だった。


 少しきつめな印象を与えるあたしと違って、紗枝はふくよかで人懐こく愛らしい顔立ちをしていた。

 ショートカットの明るい髪の色が、開け放した窓からの風で柔らかく揺れている。


「先生は?」


 あたしは室内を見回しながら尋ねた。


「まだ。なんかちょっと遅れるって連絡あったよ」

「そっか」

「そういえば、優子ちゃん具合は?」


 紗枝は心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。


「うん、大丈夫。ありがと」

「よかった。でも、また明日から雨の予報だよね」

「えっ、ウソ!」


 本当に驚いて、あたしは悲痛な声をあげた。


「ホント。今度は台風とかじゃないみたいだけど、すぐやむといいね……」

「……うん」


 あたしはげっそりとした顔で頷いた。


 憂鬱になる天気の話を打ち切って、近くにできたおしゃれなドーナツ屋さんの話をしたりしていると、廊下をバタバタと走る音が聞こえてきた。


「悪い悪い!おはようさん」


 息をきらせて第2音楽室に入ってきたのは、縁なしの眼鏡を掛けた長身の女教師だった。



(より)ちゃん、遅い!」

「真田先生おはようございます」


 対照的な挨拶を受けて、ばつが悪そうに指先で頬をかいて苦笑する。


「優子、いつも通りにしてよ。紗枝みたいに責められた方が楽だ」


 綺麗なお辞儀をして理想的な挨拶を返したあたしに対して、すまんと両手を合わせて懇願した。


「もう。ホントしょうがないなぁ、頼ちゃん先生は」


 どっちが教師なのだか、あたしはあえて偉そうに腰に手を当てて返す。


「うう……。ごめんよぅ」

「ちょっと頼ちゃん!私には?」


 紗枝が眉を吊り上げて頼ちゃん先生に詰め寄った。


「だから悪かったって!」


 生徒二人に責められた教師は、所在なさげに小さくなってちゃんと謝った。


「遅刻してすみませんでした」


 あたしと紗枝は視線をかわして吹き出した。

 頼ちゃん先生もあたしたちをちらりと見上げて笑みを浮かべる。

 そして、


「じゃ、練習するか!」


 気を取り直して、頼ちゃん先生が声をかけた。


「うん、やろやろ。誰かさんのせいで時間減っちゃったし」

「……紗枝しつこい」


 そんなやり取りに抑えきれず声を上げてまた笑い、あたしは窓際におかれたピアノへ向かった。


 紗枝は、机に置いた大きなハードケースを開けて楽器を取り出し、頼ちゃん先生も手に持っていた紗枝のものよりひと回り小さいケースを床に置いて開けた。


 紗枝と頼ちゃん先生がそれぞれ楽器を準備している間、あたしは指を慣らすためにピアノを弾いて待つ。


「今日はショパンかー。ノクターンいいよね、好き好き」


 紗枝は嬉しそうに言いながら、トロンボーンにマウスピースを取り付ける。

 頼ちゃん先生はテナーサックスのリードをくわえたまま、鼻歌で合わせてきた。


 あたしはその様子を横目でちらりと見て、ノクターンを途中で終わらせると別の曲に切り替えた。

 しかも、テンポは速め。


「それは無理!いじわるー……」


 曲がドビュッシーのアラベスクに突如変わって、頼ちゃん先生はリードを口から離して抗議した。

 再び第2音楽室は笑いに包まれる。


 このひとときが楽しい。


「さて、やりますか」

「「はーい」」


 頼ちゃん先生の声で最後の準備を整え、音を合わせる。


 校舎の外れにある第2音楽室から漏れる音は、夏休み中の厳しい部活動に励む者たちに対するエールのように響いていった。




 あたしは幼い頃からずっとピアノを習っている。


 お母さんが言うには物心ついたときから音楽に興味を持っていて、試しに習わせてみたということだったけど、その才能はすぐに開化されてコンクールではいくつもの賞を貰うほどになっていた。


 同じように音楽が好きで部活で吹奏楽をやっていた紗枝と、中学2年の時に同じクラスになり親しくなった。

 まだ知り合って3年ちょっとだが、今では親友と呼べるほどの友達だ。


 その紗枝と、同じ高校に入ったらやろうと決めていたことがあった。

 それが、この部活動。


 ジャズ部だ。


 ふたりともジャズの経験はなかったけど、強い興味があった。

 入学して部を設立する際、運よくジャズに詳しい先生も見つかった。

 それが真田頼子、頼ちゃん先生だった。


 頼ちゃん先生は英語教師だけど、お父さんはプロのサックス奏者。

 本物の音の近くで育った頼ちゃん先生は演奏者としても抜きん出ていて、彼女が顧問を引き受けたときにはあたしと紗枝はお互いの手を取って飛び跳ねて喜んだ。


 今練習しているのはフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン。

 秋の文化祭に向けて、3人でアレンジを考えているところだった。


「やっぱ、トランペットとドラム欲しいよね」

「あとギターも」


 休憩中に、あたしと紗枝はメンバー不足を相談していた。

 去年、部を作って新入部員の募集もしたのだが、部員が2人だけだと知って入部する生徒はひとりもいなかった。


 今年の新入生も見学に来てくれても入部希望者はゼロ。

 実績も部員もいないジャズ部に多少の興味をもって見学に来た者たちは、みんな根こそぎブラスバンド部に取られてしまった。


 だから、秋の文化祭が重要なのだ。

 ここで思いっきりアピールして絶対に新入部員を獲得したい。

 しかし、人数が少ないのが問題だった。


「紗枝、トランペットにすれば?」


 リードを交換していた頼ちゃん先生が、意地悪そうな笑みを浮かべて紗枝に言う。


「!」


 紗枝は口をかぱっと開けて唇をわなわな震わし、叫んだ。


「絶っっっ対、イヤっ!私はトロンボーンひとすじなのっ!」

「わかってるって。先生、さっきの仕返し?」


 あたしは紗枝を宥めて、頼ちゃん先生に苦笑した。


 頼ちゃん先生は、見た目はいかにも教師だが、中身はあたしたちとあまり変わらない。

 それが善くもあり悪くもあって、憎めない良い性格をしている。


「秋までは3人で頑張ろう。きっと文化祭が終わったら、新入部員わらわらだぞ」


 にこりと歯を見せて笑って、頼ちゃん先生はあたしと紗枝の肩を叩いた。

 確か、去年も同じこと言ってた気がするけど……。

 まぁ、いいか。


 そして、自分ではそれに気付いていない頼ちゃん先生は、さぁやるかと言ってテナーサックスのストラップを首に掛けた。




 あたしたちは夏休みのほとんどを練習に費やしている。

 それは文化祭での演奏を中途半端なものにしたくないからだ。


 やるからには最高のものにしたい。

 紗枝も頼ちゃん先生も、そしてもちろんあたしも、同じ気持ちを共有していた。


 そして、妥協はしない。

 毎日帰宅時間ぎりぎりまで、ああでもないこうでもないと意見を出しあって、演奏に没頭していた。


 あたしはそんな毎日が楽しくて仕方なかった。


 クラシックピアノも好きだけど、ジャズの魅力は別の次元のもののように私を惹きつける。

 こんなに自由で変幻自在な音楽に触れて、楽しくない筈がなかった。


 でも、どうしてか楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 今日も帰宅時間を告げるチャイムが響いた。


「時間切れか」

「もうちょっとやりたかったね」


 頼ちゃん先生と紗枝が残念そうに黒板の上に掛けられた時計を見つめた。


「しょうがないさ。さ、片付け片付け」

「「はーい」」


 ふたりが楽器を片付けている間、あたしは換気のために開けていた窓に近づいて空を眺めた。

 冬ならもう真っ暗な時間でも、真夏の今はまだ昼間のように明るい。


 見上げた先の空には、わたあめのような大きな雲が浮かんでいた。


「降りそう……」


 明日から雨だとさっき紗枝が言っていたが、今夜辺りから振り出しそうだった。


 鮮やかな青空を覆いだした雨雲に大きな溜め息を吐いて、あたしは窓を閉めた。


「じゃ、頼ちゃん先生また明日」

「おう、気を付けて帰れよ」

「はいはーい」


 第2音楽室の前で頼ちゃん先生と別れて、紗枝と昇降口へ向かう。


 文化祭で演奏するのは全部で3曲。

 1曲目はラプソディ・イン・ブルー、そして2曲目は今練習しているフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンに決まっていた。


 でも、あと1曲がまだ決まっていない。

 だから、必然的にあたしたちの話題はそれになった。


「2曲とも知名度で決めたからねぇ」

「うん。みんなが知ってる曲の方がいいだろうからって、選んだんだよね」

「あと1曲、どうしよっか」


 もうそろそろ決めないと、準備が間に合わなくなってしまう。

 最近では少し焦っていた。


 腕組みをして唸る紗枝に、あたしは少し前から思っていたことを言ってみることにした。


「あたし、ウェスト・サイド・ストーリーやりたいな」


 今まで3人で相談して、インパクトの1曲目、しっとり聞かせる2曲目と決めたのに、最後はあたしの好みなんて、ちょっと言いにくいとも思ったけれど。


 結局ぐるぐる考えて辿り着くのは、好きなものだったりする。


「ウェスト・サイド・ストーリー?」

「うん」

「いいじゃん!」

「ほんと?」

「うん、トゥナイトは入れようね!」


 あたしの心配に反して、紗枝の反応は思いの外良かった。


 ウェスト・サイド・ストーリーは何十年も前に映画にもなったミュージカル。

 トゥナイトはその中の楽曲で、あたしも好きな曲だった。


 これは素直に嬉しい。

 紗枝とは本当に気が合うんだなと実感した。


 最後の曲が決まれば、あとは練習に励むだけだ。

 明日からの部活がより楽しみになった。


「じゃあ、頼ちゃん先生に言ってみる」

「うん!」


 紗枝も嬉しそうに頷いてくれたから、あたしもいい気分で帰宅した。




 夜になってお風呂から上がりベッドで横になってSNSを見ていると、こめかみに鈍い痛みが走った。


 案の定、雨が降りだした。


 いい気分だったのが最悪の気分に侵食されていく。

 あたしはのっそりとベッドから降りると、細く開けていたカーテンを引いて、雨を視界から消した。


 あたしには片頭痛がある。

 どういう訳か、雨が降るといつも同じ場所が痛んだ。


 病院にも行ってみたりしたけれど医者も原因はわからず、効果のない薬を飲み続けるのも馬鹿馬鹿しくなって通院をやめた。


 気圧のせいか、体質的なものか、精神的なものか。

 何にしても原因なんて何でもいいから、治して欲しかったのだけど。


 ひたすら我慢して雨がやむのをただ待つことだけが、今のあたしの対応策になった。


 昔から、酷い雨の日にはよくあることだった。

 でも今年、2年に進級して梅雨に入った頃からか、この頭痛はあきらかに悪化した。


 つまり、ここ数週間酷い。


 やっぱり病院に通い続けるべきだったかと、ちょっと反省している。


 目覚まし時計が鳴ってもベッドから起き上がれず、頭を抱え込んで雨がやむのを待ったのは果たして何回目か。

 最近では天気予報で雨の予報を見るだけで頭が痛い気がしてくるから、本当に憂鬱だった。


 そして、その頭痛に悩まされているとき、なんとか眠りについた隙を見つけてはいつも夢を見た。


 目が覚めたときにはもう何も思い出せないそれは、一体どんな夢だったのか。

 明るい夢ではない気がするけれど、どこか良い夢だったような気もして、不思議な気持ちになった。


 内容は全然覚えていないけれど、それはきっと確かだと思う。




 その後の夏休みはずっといいお天気が続いて、あたしは心置きなく部活に励んだ。


 でも、9月になって学校が始まると、またよく雨が降るようになった。

 よりによって、片頭痛の悪化した今年に限って雨がよく降る。

 本当ついてない。


 今日も天気は雨。

 雲は薄く、微かに陽の光も見えるけれど、傘をささないとあっという間にじっとり濡れてしまうくらいの霧雨が降っていた。


 生徒会からの許可が下りたので、今日は3人で文化祭のコンサートのポスターを作成していた。


 これを駅や町内の掲示板に貼らせて貰う。

 許されたのは3枚だけだけど、十分だ。


 校内外問わず、たくさんの人に聴いて貰いたい。

 あたしたちはありったけの心を込めてポスターを作成していた。


 たった2人しか部員のいないジャズ部に当てられる予算は、ほとんどない。

 だからポスターは手作り。


 でも、今時あり得ないとか思いつつ案外楽しかったりもして、結構凝りながら描いた下書きにマーカーで着色していた。


 A4サイズの小さな手作りのポスターは完成間近。

 あと少し色を入れれば完成だ。


 今日は少しだけ音合わせをして、それからはずっとこの作業をしていた。

 しかしもうすぐ下校時刻というところで、あたしは残りの作業を家でやることにした。


 もくもくと分厚い雨雲が迫っているのが、第2音楽室の大きな窓ガラスごしに見えていた。


 ああ、頭が痛い……。


「優子ちゃん、辛そう……」

「そうだな、今日はもう帰った方がいい」


 雨の強さに応じて酷くなる頭痛。

 あの雨雲がここまできたら、痛みできっと動けなくなってしまう。


 あたしは素直にふたりの言葉に従って頷いた。


「うん。ごめんね、ふたりとも……。今日は、もう帰る」


 痛みを堪えながらゆっくりと帰り支度を整えて、作りかけのポスターを鞄の外側についたポケットに筒状に丸めて差した。


 心配する頼ちゃん先生と紗枝に力無く手を振って、あたしは学校を後にした。

 まだ雨は小雨だったけれど、家までもつかなと思うくらい辛い。


 痛い。

 どんどん悪化する頭痛に意識まで朦朧としてきた。

 こんなに酷いのは初めてだった。


 すれ違った母子が何か会話をしていたけれど、あたしにはその言葉がまるで外国語のように聞こえて、意味がわからなかった。


 なんとか耐えながら足だけに意識を集中して前へと動かす。

 ぐわんぐわん揺れる思考のまま駅まで辿り着き、電車に乗った。

 そして条件反射のように、あたしは最寄駅で電車を降りた。


 よかった。

 改札を抜けながら、駅まで来れたことにほっとした。

 あと10分程度歩けばもう家だ。


 チラシを差し出す手をふらふら避けながら、いつもの道のりを歩いた。


 ここまで来れば、もう少し。

 そう思って少し気が抜けた、その時。


 ズキン。

 ひときわ大きな痛みが襲って、目を強く瞑った。


 痛った、い……!


 激痛が若干治まり、ゆっくり目を開けると霞む視界。

 さっきまでより更に頭がぼんやりしたあたしは、つい目の前に差し出されていたティッシュを、受け取っていた。


 あれ……?

 なに貰ってんの、あたし。


 痛みと自分の思わぬ行動に、頭が混乱する。

 そして次々と差し出されるチラシ類。

 ひとつ受け取ると、それを見た他のアルバイトの若者も次々と差し出してきた。


 どうして手を出してしまったのだろうか。

 いつも絶対受け取ったりしないのに。


 他のティッシュもチラシももう貰う気はなかったから、あたしはまた歩く速度を上げた。

 それでも向けられる手は、絶え間なくあたしに付きまとう。

 その手が身体にぶつかるのが不快で、駆けるように横断歩道を目指して歩いた。


 その拍子に、鞄の外側のポケットに差していたポスターが落ちたけれど、あたしは気付かなかった。


 駅構内を抜けて空が見えるところまで来ると、天気を確認した。

 まだあの大きな雨雲には追い付かれていない。

 あたしは立ち止まることなく傘を開いて、小降りの雨の中へ踏み出した。


 相変わらず頭は割れるように痛くて、握り締めたポケットティッシュが手のひらの中でぐしゃりと潰れた。


 でも、ここまで来ればもう大丈夫。

 バイトの人はもういない。


 なんとか横断歩道まで辿り着いて、あたしはもう一度ほっと息をついた。

 残念ながら赤になってしまった歩行者信号を霞む目でみつめながら、あたしは青になるのを待っていた。


 すると、不意に同じ歳くらいの女の子が声を掛けてきた。

 どうやらあたしがポスターを落としたのに気付いて、拾って届けてくれたようだ。


 危ない危ない。

 3人で作った大切なポスターを無くすところだった。


 裏は少し汚れてしまったけれど、表は無事。

 よかった。親切なひとがいて。

 あたしはその子に何度もお礼を言って、ポスターを受け取った。


 そして再び、ふらふらと家を目指して歩き出した。




 その日を境に、あたしの頭痛はぴたりと治まった。

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