崇
殺人、自殺の描写があります。
ご注意ください。
「たかしおにいちゃん」
高く澄んだ声でそう呼ばれれば、振り向かないなんてできない。
だから僕は必ず返事をして、彼女の目線にあわせてしゃがむんだ。
はす向かいの家に住む彼女は、僕より5歳年下。
小さい時からめちゃくちゃ可愛くて、近所でも評判の女の子だった。
ひとりっ子の彼女は本当の兄のように僕を慕ってくれるから、同じくひとりっ子の僕もずっと妹のように可愛がってきた。
それは、いつどこで変質者に誘拐されてしまうんじゃないかって、気が気じゃないくらいの溺愛っぷりで。
彼女が小学校に入学すれば、6年生の僕は手を引いて学校へ連れていってあげたり。
僕が中学に入ってからは、勉強を教えたり。
高校受験をするって聞いたときには、彼女の両親にも頼まれて家庭教師だってした。
成長と共に綺麗になっていく彼女を、僕は一番近くで見ていた。
日に日におとなっぽくなっていく彼女。
僕は気が気じゃなくなってきた。
心配だ、変な男に目をつけられなければいいけど。
初めはそんな感じに。
でも、家庭教師を続けるうちに別の感情が芽吹いてきた。
それは彼女の高校受験をあと一ヶ月後に控えた、ある日の会話がきっかけだった。
「ねぇ、崇お兄ちゃん」
「ん?どうした?」
「彼女さんってどんなひと?」
「なんだよ急に」
「なんとなく、どんなひとなのかなって思って」
「んー……、ひとことで言うと、……元気?な感じかな。あ、あと気が強い!」
「ふふっ、ひとことじゃないよ?」
「ほんとだ」
ひとしきり笑いあった後、彼女が呟いた。
「……そっか」
ドキッとした。
だって、なんて顔してるんだよ。
艶かしい色気のある顔を凝視できなくて、僕は目を逸らした。
動揺が隠せなくて、うまく声が出ない。
でも。
「な、んで?」
「え?」
何で突然そんなことを訊くんだろうか。
そしてなんでそんな表情をしているのだろうか。
僕はつい彼女に訊いていた。
「……あのね」
さっきまで妖艶なほどの女の顔を見せていた彼女は、今度は純真無垢な少女のように頬を染めて俯き、恥ずかしそうにぽそぽそと口を開いた。
「好きなひとが、できたの」
それを聞いた瞬間、僕はそれに気付いた。
彼女が好きだ。
妹としてじゃなく、女性として、好きなんだ、と。
元から好きだったのか、今落ちたのか、それはわからない。
でも、間違いなく僕は彼女に恋をした。
気付いたタイミングは最悪だったけど、その時の僕には恋人もいたし、彼女の恋が初めてのものだって知っていたから、焦ったりはしなかった。
初恋を経験しても、それがうまくいくことは滅多にないって知っているから。
変なところで、年上の余裕が僕を落ち着かせた。
でも気付いたからにはこのままじゃいられない。
いつかは彼女にこっちを向いて欲しいから。
僕は恋人に別れを告げた。
「ごめん。好きな子がいる」
「サイッテー……」
「ごめん」
ばしんと飛んできた平手を黙って頬に受けた。
正直に伝えたからか、傷付けてしまったとは思うけどすっぱり別れることができた。
これで筋は通せただろう。
彼女が無事に高校に入学できたら、僕は思いを告げようと考えていた。
例え彼女に好きなひとがいたって、この気持ちを伝えたい。
むしろ僕の気持ちを知って貰った上で、彼女の初恋を応援したっていいと思っていた。
僕の気持ちはきっと変わらないだろうから、最後に振り向いてくれたならそれでいいと、妙な余裕を持っていた。
とりあえず今は、家庭教師の立場がもどかしい。
でもけじめだしな。
5つも年上で、彼女の親にも信頼され保護者的な立場になってしまっている僕は、今は我慢することしかできなかった。
僕が想いを告げたら彼女はどんな反応を返すのだろうか。
喜んでくれるかな。
それとも驚いてしまうかな。
そんな彼女の姿を想像することでさえ楽しくて仕方なかった。
でも、間の悪いことに春先はなにかと忙しく、僕は告白のチャンスを逃してしまった。
彼女が高校に入学してしばらくした頃。
彼女に彼氏ができた。
やっばりショックだったけど、でも彼女が幸せならそれでもよかった。
僕だって付き合った人は何人かいたんだから、彼女に対してそんな小さい男でいるつもりはない。
苦しいけど、笑う彼女を見られたらそれだけで満足だった。
初めての恋人ができて嬉しそうな彼女に、気持ちを告げるのは困らせるだけだと思い直して、今気持ちを伝えるのは諦めた。
まだまだ先は長いんだ。
きっと良いタイミングはあるから、この気持ちはそれまでとっておこう。
そう思っていた。
なのに、
「崇、お兄ちゃ、ん」
「ど、どうしたんだよ、それ!」
「な、なんでもないの。ちょっと、転んじゃって……」
「そんな訳、ないだろっ……」
「……」
学校帰りの彼女と偶然家の前で会った。
少し前から、何となく様子がおかしかったのには気付いていた。
でも彼女はいつだって大丈夫と笑うから、心配しただけで僕はそれ以上追及しなかった。
今の彼女の様子は、酷い。
腕にぶら下げている学校鞄は泥だらけだし、彼女自身も頭から靴の先まで全身ずぶ濡れで、その身体は寒さからか小刻みに震えていた。
これは暴力を受けたんだと、明らかにわかった。
まさかイジメにあっていて、それがここまでエスカレートしていたとは、想像もしていなかった。
彼女は、じゃあ、と言って家に入ってしまった。
ドアの閉まる重い音を聞きながら、なにもしなかった自分に激しく後悔した。
それからも彼女は何も言わなかった。
ただ、たまに会う彼女の腕や脚には小さな傷ができていることが増えて、夏服の制服の裾から覗くそれらが痛々しかった。
「なにかあったら僕に言うんだよ。絶対に助けるから」
「うん、大丈夫」
彼女は僕には頼らない。
現に被害にあっているのに大丈夫だと笑う。
もう僕には黙って見てるなんてできなかった。
何が原因なのかはわからない。
でも、人に嫌われるような性格ではないし、きっと彼女の容姿から妬まれるんだろうと推測した。
そういえば、女のイジメに男は気付かないものだと、以前付き合っていた子が言っていたのを思い出した。
だから彼氏は一緒にいてくれていないのか?
一緒にいればこんなに酷くならないだろうに。
役に立たない男だな。
もっとしっかり守ってくれよ、頼むから。
そもそも高校生のガキに彼女が守れるのか?
現に傷だらけだし。
見たこともない彼氏の存在に、怒りだけが込み上げた。
そしてそれは、僕が守ってあげなくてはという使命感を沸々と沸き上がらせた。
翌日、僕は登校する彼女の後をこっそりつけた。
高校の校門までは何事もなく、今日はここまでかと諦めかけたとき。
そっくりな髪型とメイクをした2人組の女子生徒が、彼女に声をかけた。
「ちょっと顔貸せよ」
「……」
黙ってついていく彼女に驚いた。
なんで拒否しないんだよ、って。
まさか、弱味でも握られてるのか?
僕は更に心配になって、校門を通ることなく裏路地へ歩いていく3人を追った。
「いいかげん別れろよ!」
「……別れ、ません」
「メーワクしてんだよ、アイツは!お前なんか好きでもないのに付き合わされてよ!」
「こっちは知ってんの。あんたがアイツを誘惑して彼女と別れさせたって。サイテーじゃねぇ?この淫乱」
「ゆ、……誘惑なんてしてない。彼女がいることを知らないまま告白したのは事実だけど、それは他意があった訳じゃなくて、」
「は?口ごたえとかいらねぇし!いいからさっさと別れてアイツを解放しろよ!」
手を振り上げる細い方の女子の前に、僕は思わず飛び出していた。
「何やってんだ!」
そっくりな2人は僕に気付くと、舌打ちをしてそそくさと立ち去っていった。
「大丈夫か?」
2人の姿が見えなくなって彼女に声をかける。
「崇お兄ちゃん……」
今にも泣き出しそうな顔が、僕の胸を締め付けた。
彼女は彼氏のせいでイジメられているようだった。
なんでだよ。
俺なら絶対そんなことさせないのに。
何も言わずに泣きそうに笑う彼女の顔が、目に焼き付いて離れなかった。
それから少しして。
「なぁ、よかったらこれ……」
僕は彼女の好きな画家の個展のペアチケットをポケットから出した。
少しでも元気になってくれたらいいと思ったからだ。
「えっ!これ瀬尾さんの!」
「そっ。瀬尾那由多の個展のチケット」
「私も買おうと思ってたの!でもなかなか手に入らなくて、どうしようって思ってたんだ」
「そうなんだ」
嬉しそうに話す彼女。
珍しく饒舌で新鮮だ。
「うん。どうしたの?これ」
「貰ったんだよ」
嘘だよ。
わざわざ予約までして買ったんだ。
「好きだろ?」
「うん!くれるの?」
「ああ。よかったら、」
一緒に、
「ありがとう!彼と行ってくるね!」
……ああ、苦しいな。
なんて綺麗に笑うんだよ。
まだ恋人と別れていない彼女。
恋人が好きな彼女。
これが普通の反応だよな。
こっちを見ろよ。
僕ならなんだってしてやるんだぞ。
ピンチのときに助けてくれない彼氏なんかより、僕の方が絶対君を好きなのに。
年上の余裕で待ってるつもりが、ストレスだけが蓄積されていく。
余裕なんて、もう殆ど残ってなかった。
でも、いいよ。
今君が笑ってくれるなら。
僕はいくらでも待ってるから。
こっちを向いてくれるまで、いくらでも君のために生きてやる。
君が嬉しそうに笑ってるってことは、その彼氏の存在は今の君に必要なんだろう。
きっと僕との未来のために、必要なことなんだろう。
だから、待ってるよ。
そいつが消えるまで、いつまででも待ってる。
最後に君の心を手にいれるのは、僕なんだから……。
でも僕は知ってしまった。
彼女が傷つけられている理由を。
本当に傷つけている、相手を。
個展の日。
僕は自宅にいた。
彼女から今日行くということは、この間聞いて知っている。
今ごろ彼氏と美術館をまわっているのだろうか、なんてことを考えつつ、ぼけっとリビングの窓から彼女の家のある景色を見ていた。
すると、デートに出掛けたと思っていた彼女の後ろ姿が視界に飛び込んできた。
「あれ?」
もう帰ってきたのか。
早かったな、まだ午前中だぞ。
彼女は道の先から次第にこちらに近づいてくる。
帰りが早いことは単純に嬉しかった。
でも、
「……なんだ?」
なんか、変だ。
彼女の様子がおかしい。
気が付いた僕は、家を飛び出して彼女に駆け寄ると、その細い腕を掴んだ。
鍵を開けて玄関に入ろうとしていた彼女は、びくんと肩を揺らしてから、驚いた様子で僕を見上げた。
腕を引いた拍子に開けかけていたドアは手元を離れて、彼女が家に入る前にばたんと閉まる。
彼女は、泣いていた。
静かにとめどなく溢れる涙。
それは一体いつから流し続けているのかと聞きたくなってしまう程に、頬を濡らしていた。
「……っ」
息が詰まる。
目頭が熱い。
泣いているのは彼女なのに、こんなにも苦しい僕の胸。
彼女と僕の心は、繋がっているんじゃないかと錯覚するくらい、痛い。
……痛い。
きっと、そんな気持ちが表情に出ていたんだろう。
僕を見つめる彼女の顔もどんどん歪んでいった。
今の僕たちは合わせ鏡だ。
彼女が子どものように泣き出したのを、僕も泣きながら抱き締めた。
壊れてしまう。
そんな風に泣いたら、壊れてしまう。
そう思わせるような泣き方だった。
僕の服の裾を、指先が白くなるほど強く掴んで泣き叫ぶ彼女。
その力よりも強く、ただただ、彼女を抱き込んだ。
彼女の涙が、僕の胸を服越しに冷たく濡らしていく。
彼女の悲痛な声が、僕の心を抉っていく。
壊すな。
壊すなよ。
祈りのようにそれだけ思って、僕たちは抱き合って泣いた。
どれくらいそうしていたのか。
僕は、いつしか泣き疲れて気を失うように眠りについた彼女を、彼女の家のソファに横たえた。
しばらく寝顔を眺めていたけど、その寝顔が穏やかになることは、なかった。
眠っているにも関わらず濡れている瞼に、僕はそっとキスをした。
もう泣くな。
泣かないでくれ。
本当に壊れてしまうから。
笑顔が大好きだったんだ。
こんな顔見たくなかったんだ。
「……笑って、くれよ」
そんな願いはどこにも届かず、消えた。
こんな彼女は、もう見たくない。
だから、守ってやる。
僕が。
さっき、錯乱する彼女から事の次第をなんとか聞き取って、やっとわかった。
原因は何だったのか。
誰が、彼女を傷付けていたのか。
怒りで身体が震える。
もう、黙っていることなんてできない。
「待ってて」
眠る彼女にそう告げて、僕は立ち上がる。
必ず救い出すから。
助けて見せるから。
待ってて、と。
彼女を愛しているから、何でもしてあげたい。
僕が守ってあげたい。
例えば夏の日差しや、霧雨からでさえも。
どんなものからも守りたい。
彼女に害を及ぼすものを、僕はもう決して許さない。
あの笑顔をまた見るためなら、僕はどんなことでもするつもりでいた。
「今、あいつを消してくるよ……」
そうしたら君を苦しめる者はいなくなる。
だから笑って。
僕を見て、笑って欲しい。
そう、僕だけを見て……。
彼女のスマホを見つけ、彼女の誕生日を入力してロックを外す。
中には当たり前のようにそいつの写真があった。
ふたり頬を寄せあって写したその画像を見ていると頭が冷えてきて、冷静になっていくのが不思議だ。
後ろめたさも少し感じたけど、やりとりも見た。
今日どこに行ったのか知りたかったからだ。
もしかしたら、そこにまだいるかもしれない。
そう期待して操作していると、案の定。
「駅前の噴水か」
それだけ確認して僕は駅へ向かった。
駅へ着いたはいいものの、なかなか探し人は見つからず、僕はフラフラと繁華街をさ迷っていた。
結構時間が経ってたからな。
彼女が待ち合わせをしていたのは午前中、僕が駅に来たのは昼を大きく過ぎてから、そして今はもう夜に差し掛かっている時間帯だ。
あいつはとっくに移動していたようで、周辺をいくら歩き回っても見つけられなかった。
どこにいるんだよ。
駅の近くをしらみ潰しに探したけど、彼女の携帯から目に焼き付けたその姿はどこにも見当たらず、僕は少しイライラしていた。
日が落ちてきて街に灯りが点り始める。
その中で、下品なくらいに眩しいゲームセンターの灯りに舌打ちをした。
そんなものにまで八つ当たりをしている自分は、らしくないとは思う。
でも光が強いほど後ろの影が濃くなるは自然の摂理。
強烈な光によって生み出された影と同じように、黒く塗りつぶされた僕の心は光を拒絶する。
汚いものでも見るように、そのゲームセンターを忌々しく睨んだ。
その光が揺れて、向こうから人が来た。
逆光でよく見えない。
僕はなんとなく目を細めてその男を見ていた。
自動ドアが開くと、そいつは気だるげに外に出てくる。
……ああ。
見つけた。
僕はやっと目当ての人物を発見して、微笑んだ。
裏路地を行くそいつの後を、一定の距離を保ったまま追った。
ここまで来て逃がすわけにはいかない。
足音をたてないように気を付けながら、歩を進めていく。
なんとも都合のいいことに、どんどん人通りのない道へと行った。
そいつはふと足を止めて、空き缶を踏み潰した。
ベコンという音が聞こえて、僕は動いた。
「すみません」
また歩き出そうとしたそいつが、ゆっくり振り向いた。
その顔は笑顔だったけど僕とは逆で、どこか機嫌が悪そうだ。
「……なんすか?」
それでも立ち去らず相手をするのは何でだろうな。
見ず知らずの他人である僕に笑顔さえ向けて、話を聞こうと向き合っている。
不思議だ。
その僅かな優しさを、彼女へ向けることはできなかったのだろうか。
深く深く傷付けて、弄んで捨てるなんて酷いことを、どうしてできたのか。
怒りの感情は最早湧いてはこなかったけど、ただ漠然と疑問に思った。
まぁ、今更そんなことはどうでもいいけど。
だって、終わりだからさ、もう。
終わりだよ、お前。
目が合って、少し笑ってしまった。
いけないいけない。
さて、誰もいない今はチャンスだ。
彼女のために、さぁ……。
……。
「ドコ行き、」
何か言ったみたいだったけど、聞いてなかった。
僕は体をぶつけるようにして、隠し持ったナイフをそいつに突き立てていた。
ぐっと体重をかけて柄の部分までナイフを身体に沈ませる。
そして、ひと思いに引き抜いた。
温かなものが手を伝っていた。
傷口からどんどん鮮血が滲み出してきて、そいつの白いTシャツを赤く染めていく。
僕はそれをただ見ていた。
あぁ、この色綺麗だな。
鮮やかで。
彼女には赤がよく似合うんだ。
これくらいに濃い色も悪くないかもしれない。
いや、きっと似合うだろうな。
そうだ、今度口紅でも贈ってみようかな。
彼女は、受け取ってくれるかな。
笑ってくれるかな。
「……あ、つっ?」
刺されたことにやっと気がついたのか、そいつは自分の腹を押さえて眉間に皺を寄せた。
「いっ……!」
遅れて激痛が走ったらしく、大きく身体を揺らしている。
額には玉のような脂汗が次から次へと浮かんでいた。
これでもう大丈夫だ。
彼女を苦しめる元凶は、僕が絶った。
達成感を味わって、僕は喜びを噛み締めた。
あぁ、頬が緩む。
彼女との未来がぐっと現実味を帯びてきた。
ふらりと僕から離れようとするそいつを、嬉しさを隠さないまま見つめていた。
恐怖に引きつる青白い顔はさっきまでの面影もない。
何かぶつぶつ言っていたけど、何ひとつ聞き取れはしなかった。
その内に、そいつは崩れるように膝をついた。
手を動かそうとしたみたいだけど、もう動けはしなさそうだった。
きっと、助けでも呼ぼうとしたんだろうな。
残念。誰も来ないよ。
彼女を助けるどころかいたぶってきたお前を、助けてくれるやつなんていやしないよ。
因果応報って言うだろ。
さてと、僕もそろそろ行かないと。人が来たら大変だ。
じゃあな。
僕は、その場を何事もなかったかのように立ち去った。
歩きながら思いを馳せる。
あいつのこと、彼女のこと。
あいつはもう、逝ったかな。
彼女に愛されていたくせに、大切にしないからだよ。
もう遅いけど、後悔したらいい。
でも安心しろよ。
これからは僕が彼女を大切にするから。
やっとこれで手に入る。
最愛の彼女は、お前から解放されるから。
きっと最初は、彼女もすぐには切り替えられないと思う。
戸惑うだろうし、優しい子だからあれだけ酷い仕打ちを受けたにも関わらず悲しむかもしれない。
でもどんなに時間が掛かっても、必ず振り向かせる自信があるんだ。
だってどれだけ見てきたか。
彼女が傷付かないように、影からずっと見てたんだ。
僕ほど彼女を想っている男はいない。
時間が経ってこっちを向いてくれたときには、きっと彼女は幸せそうに僕の隣で笑ってる。
そのイメージがリアルに浮かんで、心が穏やかになった。
これで彼女は解放される。
きっと笑顔を取り戻して、そして僕のものになると、そう思っていた、のに。
僕は彼女を更に深い苦しみの中に墜としてしまった。
欲しくて欲しくてたまらなかった彼女の心は、ガラス細工のように、儚く、壊れた。
彼女は突然恋人を失って、心の時間を止めてしまった。
僕は自らの手で、彼女を手の届かないところへやってしまった……。
あいつを刺して殺人犯となった僕は、幸いにも目撃者も証拠もなく普通の生活を送っていた。
休まず大学へ通い、午後には毎日彼女に会いに行く、日常。
今日も、大学からバスで大きな総合病院へ来ると、彼女の病室へ向かう。
外来の喧騒なんて欠片も聞こえないくらい離れた病院の一角へ着くと、スライド式のドアを開けて中へ入った。
「気分はどうだ?」
僕は彼女に声を掛けて、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
彼女の家族以外では僕しか来ない病室は、怖いくらい静かで質素だ。
白い部屋は清潔ではあるけれど、温もりがなくて寒々しく感じる。
二人部屋の病室は、現在彼女ひとりしか入っていないためか、たいして広くもないのに落ち着かなかった。
声を掛けても、彼女は何もない壁の一点をひたすら見ているだけ。
僕の声なんてまるで聞こえていないようだ。
あいつが死んで、彼女は壊れた。
まさか、死の現実を受け止められないほど愛していたなんて、思わなかった。
きっとすぐに吹っ切って、僕の方を見てくれると思っていたのに。
そうなることは、なかった。
僕の行動が彼女の心を、壊した。
そう、僕が……。
そこまで考えてはっと我に返った。
まどろむ思考を振り切るように髪をかき乱して、僕は小さく息を吐いた。
肩がずしっと重たい。
……。
外の空気が吸いたいな。
そうだ。
今日は割りと暖かいから一緒に日向ぼっこでもしようと思い立って、彼女を車いすに乗せエレベーターで屋上へ上がった。
屋上には他に誰もいなかった。
車いすのストッパーを固定してから、僕はベンチに腰かけて空を仰いだ。
隣にいる無表情の彼女へ視線を向ける。
あぁ、綺麗な横顔だな。
例え表情が動かなくても、綺麗だ。
骨と皮だけのように痩せ細った彼女の頬に触れたら、驚くほど冷たかった。
……。
笑いかけてくれる顔が、一番綺麗だったな。
彼女の笑顔を思い出して、僕は目を閉じた。
あの顔を僕だけに向けて欲しかった。
彼女の心が、欲しかった。
どうしても、欲しかったんだ。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
近所では絶えず警察が聞き込みを繰り返していて、それは次第に僕の身近に集約されていくように感じた。
そりゃそうか。
人間関係を調べれば、僕が一番怪しいだろう。
逮捕されるのも時間の問題なんだろうなと、他人事のように考えていた。
電線の上でカラスが鳴いた。
まるで僕を嘲るかのように。
「もう少し、傍にいたかったな」
たとえ、抜けがらだとしても。
呟きは秋の空に溶けた。
これ以上、彼女に何も背負わせるわけにはいかない。
彼女が、もう何も感じることはなくても。
僕は間違っていたのだろうか。
……。
もう今更どうでもいいか。
彼女を愛したために彼女を壊したのは、僕なんだ。
そうだ、僕が壊してしまったんだ。
僕が。
……ああ。
こんなことなら、誰も愛さなければよかった……。
僕は病院の屋上から飛び降りた。
そこで、ぶつりと記憶は途切れた。