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メビウス  作者: 和泉 兎
5/11

あおい

 ぺらりと教科書を捲り、先生が黒板に書いていく公式をノートに写していく。

 午後の教室は居眠りをしている生徒も多くて、いつも静かだった。


 窓側にある私の席は、春の暖かな陽が入るから気持ちがいい。

 前の席の子も、その前の席の子も、後ろの席の子も、みんな机に突っ伏して眠っていた。


 一番前の席の子は机の下でマンガを読んでいるのがちらっと見える。

 だから、窓側の列でちゃんと授業を受けているのは私だけ。

 そしてそんな状態は、回りを見回せばどの列も似たり寄ったりだった。


 みんなはどうしてそんなに余裕なんだろう。

 あと数ヵ月で高校入試だっていうのに、信じられない。


 この春がもうすぐ終わればすぐに夏がやって来て、きっとあっという間に秋も過ぎ去る。

 そうしたらもう受験の冬だっていうのに。


 みんな凄いな。

 不安じゃないのかな。

 それとも、今から焦ってる私って変なのかな。


 実はお母さんに頼んで予備校だって増やして貰ったばかりだったりする。

 中3の春に余裕な様子のクラスメートたちに素直に感心しながら、また黒板に書き足されていく公式を書き写した。


 カリカリカリ。

 私は白いノートにシャーペンを走らせる。

 癖のある小さな自分の字で、余白が埋まっていった。


 いつも、授業が終わるまでそれをひたすら繰り返すだけ。

 そして、それを終わらせてくれるのは聞きなれたチャイムだけだった。


「終わったぁ」

「っしゃ、帰んべ」

「今日あそこ行かね?」

「きゃはは、マジマジほんとだって!」

「やべ、俺そうじ当番じゃん」

「明日あれ持ってきてよ」


 放課後になった瞬間から騒がしくなる教室。

 これも見慣れた光景のひとつ。

 みんな毎日楽しそうだなってやっぱりいつも思ってた。


 バッグに机から荷物を移して、私は黙って教室を出た。

 きっと、誰も私が教室を出たことには気づいてもいないと思う。

 でももう気にもならなくなるくらいに慣れていた。


「あ、あおいちゃんバイバイ」

「うん、また明日」


 廊下で私より早く教室を出たらしいクラスメートに会ったから、笑顔で手を振った。

 その子もひらひらと手を振り返してから、特別教室棟のある方へ走って行った。


 そういえば、あの子は料理部だったっけ。

 あれ?手芸部だっけ?

 そんな感じの部活に入ってるって、前に誰かが話してるのを聞いた気がする。


 私は、別に孤立してる訳じゃない。

 授業で班になるときはちゃんと協調するし、今みたいに顔を合わせれば挨拶だってする。

 でも、友達と呼べる存在はなかった。


 学校指定のバッグを肩に掛け直して下駄箱に上履きをしまい、靴を取り出した。

 校門を抜けたところで、鞄から腕時計を取りだし左腕につける。

 針を確認すると、予定より時間が進んでいた。


 私は少し急いで予備校へ歩き出した。




 私は昔から内向的で、友達もうまく作れないダメな性格だった。

 それは中学生になっても変わらなくて、今ではそんな自分自身に少なからず幻滅していた。


 誰かに打ち明けることができるはずもない私は、予備校が終わって帰りに誘い合って帰る子たちを横目に見ながら、いつもひとりで帰宅する。


 以前は、たまに誘ってくれる子はいた。

 けど、その内になんとなくまたひとりで帰るようになったから。


 今でも声をかけてくれるのは、名前も知らない男の子だけ。

 でも男の子はちょっと苦手だった。

 だから、私はそれらの誘いはいつも逃げるようにかわしていた。


 女の子は、どうしてか大体つかず離れずの関係になってしまう。

 普通に会話はするけど、内容なんて全く記憶に残らないような軽いものばかり。

 私から何かに誘う勇気なんてないし、誘われるのも滅多になかった。




「あおいちゃんノート貸してー!」


 休み時間。

 自分の席で図書室で借りた本を読んでいると、クラスメートの女の子が両手を合わせてやって来た。

 こういうのは、割りと慣れっこ。


「うん、いいよ」

「ありがと!もぅあおいちゃん大好き!」


 そう言われれば悪い気はしないけど、ちょっと複雑。

 だって、私自身の何を見たわけでもなくて、ただ単にお願いを聞いただけだったから。


 その子は私からノートを受けとるとそそくさと自分の席に戻って、隣の席の子と楽しげにおしゃべりを始めた。


 ……。

 これはきっと、今日は返ってこないんだろうな。私のノート。

 別に使わないからいいんだけど、なんとなく惨めな気分になった。


 私は小さく頭を振って、そして同じくらい小さくため息をはいて、また文庫本を開のだった。


 放課後。

 いつものように下駄箱で靴を履きながら、腕を持ち上げて時間を確認する。

 今日はまだ予備校までに時間があった。


「……」


 ちょっとだけ遠回りしてみようかな、なんて。

 今まで一度も思ったことのないことを思い付いたことに、自分が一番ビックリしてる。


 もしかしたら、昼間のあれは無意識のうちに深く私の心に傷を負わせていたのかもしれない。


 何て言ったらいいのかな。

 ツラいとか、悲しいとか、そんな風には思ってない。

 でも……。


 フラフラと目的もないのに繁華街を歩いてた。


 買いたいものは特にない。

 行きたいところも特にない。


 色とりどりにディスプレイされたショーウィンドウや、行き交う人の流れを眺めてた。


 右を向けば、わいわい楽しそうに買い物をしてるグループが見える。

 左を向いたら、仲良さそうなカップルが幸せそうに話してた。


 あ。

 また、だ。


 言い様のない気持ちが胸を突いた。


 風邪をひいて寝込んでいるときのような息苦しさに似てる。

 それか、全速力で駆けたつもりだったのに、実はスタートラインすら越えていなかったような。そんな感じ。


 そんな風にしか表せないのが悔しいけど、他にいい例えは思い付かなかった。


「……」


 もう、予備校へ行かないと。

 そろそろちょうどいい時間のはずだ。

 私はまた左手の時計に視線を落とそうとして、


「きゃ、」


 どさりと尻餅をついた。


「あ、悪い悪い」


 人の多い繁華街でぼんやりした私が悪い。

 私は男の人とぶつかって弾き飛ばされていた。


「いえ、すみません」


 その人の手を借りて立ち上がる。


「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げてお礼を言い、予備校へ向かって再び歩き出そうとした。


 でも、


「……あの、」


 どういう訳か、男の人の手は私の手をつかんだままだった。

 ぎゅっと握られていて離れる気配はない。


 どきん、と鳴った胸が気持ち悪い。


「は、」

「君さ」


 離してくださいって言いたかったのに、言葉が被って言えなかった。

 一体何を言われるのか、とてつもない不安に襲われる。


「って、あれ?震えてる?」

「は、離してください……」


 なんとか言えた!


 よかった。

 これできっと離してもらえる、と思ったのに。


「うわ、マジで!?」


 なに、この人。

 離してって言ってるのに。

 だったら、頑張ってもう一回……

 そう思ったのも束の間。


 男の人はどうしてか嬉しそうに笑って、私の手を自分の方へ引き寄せた。


「やっ、」


 ぐんっ、と力を入れて引っ張られたら、いくら踏ん張ったって意味はない。

 私はその人の胸に飛び込んでいた。


「や、は、離してください」

「うわー、ヤベェ。マジだこの子」

「!?」


 ぎゅっと包み込むように抱き締められたら、もう怖くてなんにも言葉が出てこなかった。


 や、やだ。


「あんた、すっげぇカワイイな」


 イヤだ。

 怖い。

 

「ねぇ、この後さ。予定あんの?」


 怖いよ。

 怖い!


「なぁ、俺と行こうぜ」


 誰か!


 誰か……

 周りに人はたくさんいる。


 お願い、気付いて。

 声もでないし動けないから、そう強く思い続けるしかなかった。


 でも、私の願いは虚しくも喧騒の中に消えていく。

 私を見てくれる人は、誰もいなかった。


 誰か……。


「なぁ、ぅぐっ!」


 え?

 急に拘束が解けて身体が自由になった。


 あ、今だ!

 私はすぐにその場から駆け出す。


 早く逃げないと。

 もつれる足をなんとか動かしてその場を離れた。


 でも、数歩行ったところで気づいた。

 今、何が起きたの?


 あの男の人が呻いて、突然解放されたことしかわからない。

 追いかけてくる様子もないし、声も聞こえない。


 何が、起きたの?

 生まれてしまった好奇心には抗えなくて、私はほとんど無意識に振り向いた。


 視界に入ったのは、さっきの男の人が踞っている姿。

 そしてその向こう側にいたのは、別の人。


 同じ歳くらいかな。

 それか少し年上くらいの男の子だった。


 踞る男の人を軽そうな人と思ったさっきの私。

 この繁華街にいるのは、大腿同じイメージを持つ人ばかりだった。


 なのに、彼だけは違って見えた。

 どうしてそう思うのかわからないけど、目が離せなかった。


「くだらねぇことしてんなよ」


 呆れてるみたいな小さな声が私の耳にも届いた。


 あなたは、誰?


「ってぇな!おい!」


 どうやら背中を蹴られたらしい男の人は、彼に怒りを露にする。


「嫌がってんじゃん」

「はぁ!?」

「そういうの気に入らない」

「あぁ!?」


 掴みかかられそうな勢いなのに、淡々と返す姿に目が離せなくなった。


「……行けば?」


 彼が突然私に声を掛けた。


「え……?」


 不意に合った目に、どくんとまた心臓が鳴った。

 それが不快じゃないのは、どうして?


 煩いくらいだった喧騒も、今では全く気にならないのはどうして?


「でも、」


 あなたは大丈夫なの、って聞く前に、彼は踵を返して行ってしまった。


「おいこら!ちょっと待て!」


 あ!


「てめぇに年上の敬いかたってもんを教えてやる!」


 危ないって思ったのも束の間、男の人はガシッと彼の肩に腕を回した。それはどこか気安い感じで。

 男の人はもう私の事なんか忘れてしまったみたいで、憤慨しながら彼に何か言い続けてる。


 もしかして知り合いだったのかな。

 立ち去るふたりの背中を見つめながらそんなことを考えていた。


 ……うん。

 あの雰囲気ならきっとそうだ。

 よかった。


 不安が和らいで、私は漸くほっと息をついた。


 ……。

 お礼も言えなかった。


 彼は、誰なんだろう。

 予備校へ歩き出しながらずっとさっきの光景を思い出してた。


 私はどうかしてしまったのかな。


 それは予備校についてからも、予備校が終わって家に帰ってからも、翌朝目が覚めたときも、学校へ行って授業を受けているときも止められなくて、ずっと思い返していた。


 褪せることなく瞼の裏に蘇る彼。

 どこの誰なのかも知らない彼。


 もう一度偶然会うなんて、難しいってわかってる。

 きっともう会うことはないって、わかってる。

 でも、どこへ行っても彼を探してしまう。

 何をしていても思い出してしまう。


 ……あ。

 この感情、私知ってる。


 彼に会う前からよく感じてた。

 でも前とは比べ物になんかならない。

 苦しいような。

 痛いような。


 寂しい。


 そう、寂しい。

 ただ、ひたすらに。

 寂しかった。




 春。

 私は満開の桜並木をひとりで歩いていく。

 散った桜の花びらを踊らせる風が、私の伸びた髪を揺らした。

 自由に舞うピンクと黒の向こう側で、青空が眩しい。


 今日は高校の入学式。

 受験にあれだけ力を入れていたのに、私は家からほど近い公立高校にいた。


 別に受験に失敗した訳じゃない。

 最初はトップレベルの私立を狙っていたけど、少しレベルを落としただけ。


 もともとうちの親もそんなに勉強に煩くないから、公立に変えて逆に喜ばれたくらいだった。


 あれから、懲りもせずに何度か繁華街へ行ったりしてみたけど、結局彼には一度も会えなかった。


 そんな偶然はそうそう起こらないって、知ってる。

 それでもついつい足を運んでしまうのは、またあんな風に絡まれるかもと思っても期待して探してしまうのは、いたって単純な理由から。


 逢いたい。

 もう一度、逢いたい。

 それだけだった。


 寂しい気持ちはいつしか少しずつ変化して、逢いたいっていう希望になった。

 だから、少しでも彼を探せる機会が欲しくて、地元の高校に志望校を変えた。


 それは私には劇的な変化だったと思う。

 自分の中の優先順位が彼を中心に入れ替わっていくのがわかる。

 でもそれが不快ではなくて、喜びに感じるのが不思議。


 彼の存在は私の中でどんどん成長して、どこまで大きくなってしまうのか怖いくらいだった。


 これから始まる高校生活に、期待が溢れて胸を押さえる。

 もしかしたら、この高校にいる可能性だってゼロじゃない。

 そう思っただけで、ドキドキと手のひらに鼓動が響いた。


 ふわっと吹き抜けた春特有の突風が、ひらひらと優雅に舞っていた花びらを不意に巻き上げた。

 私は反射的に乱れた髪を押さえて目を伏せる。


 少し風が弱まってゆっくり目を開いてみたら、ひときわ大きな桜の木に寄り掛かりスマホを操作している人が目についた。

 制服の胸のところに安全ピンでリボンがついてるから、同じ新入生だってわかる。


 視界を遮る花びらが落ち着いてきたとき、その人がスマホをポケットにしまい顔を上げた。


 どきん、と大きく胸が跳び跳ねて、私の周りから音が消えた。

 彼がそこにいた。


 無彩色だった世界に色がついた。

 その色は、花のように紅いようで、空のように蒼くもあり、若葉のような翠色。

 例えるならそんな感じ。


 鮮やかなそれらの色たちは濁ることなく混じりあいながら、私の中を染め上げていく。


 こんな奇跡、起きないって思ってた。

 あれだけ探しても全然見つけられなかったのに、こんな風にまた会えるなんてあり得ないって。


 どうしよう。

 今、話し掛けてもいいのかな。

 ついに見つけた彼のもとへ、私は足を踏み出した。


 でも、一歩遅かったみたい。

 彼はさっさと歩き出すと校舎の中へと入っていってしまった。


 あぁ、私なにやってるんだろう。

 せっかく見つけたのに、彼は行ってしまった。

 追いかけようと思ったのに、それ以上足が動かなかった。


 本当に、なにやってるんだろう。

 自分にがっかりした。


 でも、こんなにも大きな収穫があった今、落ち込んでなんていられない。

 だって今までなんにも知らなかった彼のことが、わかったから。


 同じ学校の生徒で、同じ新入生。

 さっきまでの自分には思いもよらないほどの情報だ。


 きっと、またチャンスはあるはず。

 今度は、失敗しない。

 絶対に声を掛けるんだって意気込んで、私も校舎へと向かって歩き出した。


 でも、次に彼を見つけたのはそれから少ししてからだった。

 休み時間とか移動教室とかに彼の影を探してみたけど、クラスも違えば相変わらず友達もいない私には、自力で見つけ出すのはなかなか難しかった。


 あの時、頑張って名前だけでも聞けばよかった。

 同じクラスかも、なんて淡い期待を抱いたのが間違いだった。

 私は入学式を思い出して、もう何度目かわからない後悔をしながら、ゴミ箱を抱えてゴミ捨てに校舎裏へと歩いていた。


 人気のない校舎裏に清掃中の校内の喧騒が遠く聞こえる。

 ゴミ捨て場についた私は中身を捨てて、空になったゴミ箱を再び抱えて来た道を戻り始めた。


 今日も、見つけられなかった。

 同じ空間にいるのはわかってるのに、全然見つけられない。


 ねぇ、どこにいるの?

 私はもう習慣になりつつあるもの思いに耽っていた。

 すると、


「うわっ」

「きゃ」


 またやってしまった。


「ご、ごめんなさい」

「いや」


 私って何でこうなんだろう。

 本当に懲りない。


 角を曲がったところで、また人とぶつかってしまった。


「あ」


 ぶつかった拍子に落としたゴミ箱を、その人は拾ってくれた。


「はい」


 差し出されるゴミ箱。

 でも、受け取れなかった。

 だって、驚きすぎて動けなかった。


 そこで私を見つめているのは、ずっと探していた彼だったから。


「おい」

「あ、すみませんっ」


 私は我に返ると、慌ててゴミ箱を受け取った。


「ありがとうございます」


 大変。

 大変だ。


 何か言わないと。

 また行ってしまう。


 早く、何か。

 そんな風にひとりパニックを起こしていると、


「タメ語でいいよ。同じ1年だろ」

「えっ、……はい」


 ショート寸前の脳はその言葉でぴたっと回転を止めた。


 どうしてわかったのかな。

 同じ学年だって。

 うちの制服は学年がわかるようなデザインじゃないのに。


 ……。

 もしかして、私のことを知っててくれてるの?

 なんて、都合のいい妄想も止められない。


 今の私にはそれしか考えられなかった。


「あの」

「ん?」

「私、あなたが好きです」


 気づけば私は、彼に告白していた。


「え?」


 彼の驚いた顔が目の前にあった。

 私はそれから目がそらせない。

 ううん、そらしたくなかった。


 だって、もう見失いたくないから。


「俺?」

「はい」


 私は彼を見つめたまま即答した。


 好きなの。

 もう押し止めておけないくらいに、好きなの。


「……ふぅん」


 どきっと胸が鳴った。

 それはさっきまでの甘いときめきじゃなくて、不穏なリズムを刻み出す。

 それと共に少しずつ頭が冷静に働き始めて、私は怖くなった。


 ……そうだ。

 告白したら返事を聞かないといけないんだ。

 それに気付いて青ざめた。


 私、今とんでもないことしちゃった。

 自分を知ってもらうよりも前に、彼に名前を聞くよりも、お礼を言うよりも前に告白しちゃうなんて。

 どうしよう。

 きっとフラれちゃう。


 彼だって私のことをそんなに知ってるなんて思えないし。

 きっとたまたまどこかで同学年だって知ったに違いないのに。


 こんないきなり告白してきて、変な女とか思われちゃったかもしれない。


 どうしよう。

 怖い。

 そう思うのに、やっぱり彼から瞳を離すことができないのが苦しい。


 あぁ、やっぱり綺麗だな。

 特にその目が。


 ダークブラウンの透き通った瞳が私を写していた。

 そこにいる私はちょっと泣きそうに見える。


 ……うん。

 本当に泣きそうかも。


 あれ?

 でも不思議。


 なぜか、泣きそうな自分の顔が少しずつ大きくなっていく。

 彼の瞳にこのまま吸い込まれちゃうのかな、なんて思っていると、


「っん、」


 がこん、とさっき拾ってもらったばかりのゴミ箱をまた落とした。

 でもそれどころじゃない。


「……っ!」


 柔らかい舌が私の唇をなぞる。

 その感触にびっくりして思わず口を開けたら、それはそのまま中に入ってきて私の舌を絡めとった。

 緩く、妖しく蠢く感触に身体が痺れ出す。


 どれくらいの時間がたったのか全然わからない。

 それは一瞬だったようにも、永遠とも呼べるほど永かったようにも思えた。

 ぺろりと最後に唇の裏側を舐められて、びくんと肩が跳ねた。


「……はぁっ、」


 いつの間にかがっちりと両肩を支えられていた私は、解放された瞬間に彼の胸にもたれ掛かった。


 ちゃんと受け止めてくれた彼に身体を預けながら、空気が足りなくて乱れた呼吸を整えるために肩で息を繰り返していた。


「付き合う」

「……え?」


 今、何て言った?

 付き合うって……。


 まさか酸欠で幻聴が聴こえたのかな。

 ゆっくり顔を上げて彼の顔を恐る恐る見上げてみた。


「ちょっと待ってて」


 でも、残念ながら彼は私を見ていなくて、真意はわからない。

 片腕で私を抱き締めたまま、素早くスマホを取り出して耳に当てる様子を黙って見てた。


 あ。ど、どうしよう。

 呼吸が落ち着いて多少冷静になると、恥ずかしい気持ちが急速に膨れ上がってくる。

 心臓が飛び出さんばかりの、この激しい動悸が伝わってしまいそうで恥ずかしい。


 どうしよう、本当に恥ずかしいよ。

 私はたまらずにちょっともぞもぞと動いてみる。

 そうしたら抱き締める腕に更に力が込められて、私は動けなくなった。


「もしもし?」


 固まった私に構わず、彼は誰かと電話をしていた。


「あぁ……」

「それなんだけど」

「俺パス」


 今まで彼の言葉しか聞こえなかったのが、次の瞬間相手の興奮した声が漏れ聞こえてきた。

 その声は女性のもので、デートとか約束とかそんな単語が聞き取れる。


 ……。

 やっぱりさっきのは空耳だったんだ。

 だって、電話の相手は会話から察するに彼女さんだよね。


 そっか。

 彼女がいたんだ。


 ……そっか。

 そうだよね。

 彼を他の女の子が放っておくわけないよね。


 さっきのキスとか、今こうして抱き締めてくれてることに期待してしまった。

 一度期待したら、ダメだったときにつく傷は思いのほか深くて、私は涙を必死に堪えていた。


 そうだよ。

 こんな素敵な彼と恋人になれるかもなんて、甘かった。

 ファーストキスを彼とできたというだけで、もう奇跡なのに。


 またひとりでそんなことを思っていた。

 すると、次に聞こえたのは思ってもみない彼の声。


「別れる」

「……え?」


 私が思わず声を出してしまうと、彼は私の頭を自分の胸にそっと抱え込んだ。


 あ。

 彼の心臓の音が聞こえる。


 私と違って落ち着いているそれはとっても心地好くて、なんだか全てがどうでもよくなってしまいそうだった。


「じゃあ」


 彼が、まだ相手が何か言っていた会話を断ち切ったところで我に返った。

 私はもう一度彼をゆっくり見上げてみる。


「別れたから」

「え?」

「カノジョ」

「え!」


 やっぱり今のって別れ話だったんだ。

 え、でも、え、何で……?


 私は訳がわからず混乱していた。

 彼はそれに気付いたのか口を開く。


「あんたと付き合うから、別れた」


 私の世界が、音をたてて動いた気がした。




 彼は私の光。


 今まで自分が生きてきた世界とは別の、新しい世界に来たみたい。

 そこは全てが眩しくて鮮やかで、日常が反転した。


 雷に打たれたような衝撃受けた、あの日の出来事。

 何度夢じゃないのかって疑ったかわからない。

 でもこれは紛れもなく現実で、私は彼の恋人になった。


 彼には最初から全然苦手な感じがしなかった。

 男の子にそう感じなかったのは初めてだったし、こんなにも心に焼き付いた人なんてひとりもいない。


 きっと彼は私の運命の人なんだ、なんて。

 少し前の自分なら絶対思わないような、乙女チックなことをいつも思ってた。


 彼はとても自由な人だった。

 そして私は、そんな自由な彼にどんどん惹かれていった。


 好き。

 どうしようもなく、好き。


 たまらなく溢れる気持ちを毎日抑えるのが大変だった。

 だから彼に求められる夢みたいな日々を、私は幸せに思いながら過ごしていた。


 でも、付き合いはじめて3ヶ月がたった頃から、少し距離が遠くなった。

 それまで、授業中と自宅にいるとき以外はほとんど一緒にいた彼は、次第に私と過ごすより友達との時間を多くとるようになっていった。


 そんな時は、決まって彼に試されているような気持ちになる。

 彼の期待に、希望に応えられてないのかな。


「あおい」


 低い声でそう呼ばれるだけで私の気持ちは膨れ上がっていくのに、彼の気持ちはどんどんわからなくなっていった。


 彼以外の人と付き合ったことなんてないし、友達もいない私には、それを理解するのは難しくて、どうしそうなってしまったのかわからない。

 相談できる人もいないから、自分で考えるしかなかった。


 そして出る結論はいつも同じ。


 大丈夫。

 きっと大丈夫。


 だって私より彼を想ってる子なんていないから。

 それだけは自信があるから。

 不安を誤魔化しながら、そう言い聞かせて自分を励ましていた。


 彼の望むことにはなんだって応えてみせる。

 そうしたらきっと、私がどれだけあなたを好きかわかってくれる。

 だから、どんなことでも絶対応えるって、それだけ思って頑張るの。


 だって私、彼がいれば他には何もいらないんだから。

 だから寂しくても、悲しくても、彼の前では絶対に泣かないって決めた。

 ずっと笑ってるんだって。


 ねぇ、だからお願い。

 傍にいて。

 何でもするから。


 お願い。


 彼が私のことをどう思っているのか聞いたことはない。

 訊こうとも、思わない。


 きっと私と同じ気持ちではないのかもって、今ではもうわかってた。


 でもいいの。

 彼が私を好きじゃなくても、私がその分彼を好きだから。

 それでいいの。


 ずっと一緒にいてくれたら、それだけで幸せだから。




 季節が秋に変わるとき、初めて自分からデートに誘ってみた。


 いろいろ考えて、もう一度告白しようって思ったから。

 あなたが本当に好きですって、伝え直そうって。

 だって最初の告白は酷かったから、やり直したかった。


 この気持ちをもう一度ちゃんと知って欲しい。

 私はそう思っていた。


 この時の私は、自分だけが彼をどんどん深く想って沈んでいくことに、耐えられなくなってきていた。


 彼の気持ちが知りたい。

 彼の気持ちが、欲しい。


 私にはないと思っていた欲が増殖していくことに、怖いとさえ感じていた。


 彼にだけは、そんな自分を知られたくない。

 気付かれたくない。

 だから、私がどれだけ彼を大好きか知って貰うことで、その恐怖を払拭しようとしていた。


 無償の愛だけを捧げたかったけど、私はもう、限界だった。


 ぎちり、と。

 何かが軋んだような音がした。




 デートの日。


 もしかしたら彼は来ないかもしれないって、考えなかった訳じゃない。

 っていうか、来ないって多分頭では理解してた。


 でも、きっと来てくれるって心は信じているから。


 彼のクラスメートの子が彼に近付いているのは知ってたけど、きっと私の方が彼のことを想ってるから、絶対負けないって、大丈夫って自分に言い聞かせて待っていた。

 彼の姿を見つけるまで、ひたすらに信じて待っていた。


 でも、待ち合わせ時間を20分過ぎても30分過ぎても彼はやっぱり来なかった。


 何となく見上げた先に、彼はいた。

 そこにいた彼は、あの子と、キスしてた。


 その瞬間は何も考えられなくて、頭が真っ白になるってきっとこういうことなんだ、って変に落ち着いて考えてた。

 彼が私に気づいて目が合っても、ぼんやりとどうでもいいことを考えてた気がする。


 その内に足が勝手に走り出した。

 脳よりも目よりも早く、見たくないって信号を発したのは足だった。

 家に向かってリズムよく動く。

 早く帰りたいって意思があるみたいで、変な感じ。


 信号が青になって横断歩道を渡るのも全自動みたいだった。

 駅周辺の賑わいを抜けて住宅街に入った頃、漸く私の頭が起動し始めた。

 自然と零れ落ちる涙に髪が張り付くけど、払う気にもなれなかった。


 大きなショックが私を襲う。

 時間差でやって来たそれは、焼き付いた記憶を呼び覚ましては私を打ちのめした。


 あまりに辛くて、辛くて、そこから逃げ出すように泣きながら走った。


 私は、逃げてしまった。


 彼と付き合えるだけでそれは奇跡だったのに、更に多くを望んだ。

 それなのに、その望みを彼に伝えることもできなくて、自分の気持ちだけを押し付けようとした。


 私は、頑張らなかった。


 自分の本心を伝える努力を、しなかった。

 彼の気持ちを手に入れることを、初めから諦めた。


 だから、罰があたったのかな。


 どうすればよかったの?

 誰か正解を教えてよ。


 教えて。

 これから私はどうしたらいいの?


 ……もう、わからないよ。


 どうやって家に帰ったのかは覚えてない。

 泣き疲れてリビングのソファでいつしか眠っていた私を起こしたのは、着信音だった。


 それは病院からの電話で、彼の通話履歴から私に掛かってきたらしかった。

 でも、何を言われたのかよくわからなくて、私はまた意識を手放した。


 記憶が途切れる直前に、聞かされた言葉をもう一度反芻した。

 “……通り魔に……、……亡くなりました”


 ナクナリマシタ。


 彼はその日にいなくなってしまった、らしい。

 やっぱり私にその意味は、わからなかった。


 パリンと何かか割れたみたいな音がして、世界から、色が消えた。




 白い壁、白い天井、白い床。

 白いベッドに白いカーテン。


 潔癖とも思えるほど清潔に保たれた病室は、温かみの欠片もない。


 白だらけの部屋の中で、僅かに開いた窓からの風にカーテンだけが揺れている。


 色の無かった瞳にそれがはためいたのが映って、一瞬だけ正気を取り戻した。


 はっと周りを見回そうとしても、身体が全然動かなかった。

 何とか動かせた瞳だけで彼を探してみたけど、霞む視界に見えたのは骨のように細くなった自分の腕に繋がる点滴のチューブと、周りの白だけ。


 彼はここには、いない。


 どこにいるの?

 あなたが好きなの。


 好きなの。

 好きなの。

 好きなの。


 それだけなの。

 それだけでよかったの。


 逢いたいの。

 逢いたい。

 ……逢いたい。


 ねぇ、どこにいるの?


 私の心をあげるから。

 あなたの心はくれなくてもいいから。


 ねぇ、お願い。

 姿を見せて。


 私の全部をあげるから。


 お願い。

 お願い……。


 でも、それがいけなかったの?

 私がこんなだから、あんなことになったの?


 彼が私に何かを求めていると感じることはあった。

 付き合い初めの頃は、些細なことでも選択肢を与えられることが多かったから。


 でも、私は応えなかった。

 いつも“どっちでもいいよ”って、彼に全て委ねていた。


 彼の望むようにしたかったから。

 それが私の喜びだったから。


 その内に聞かれなくなって、かわりに彼の気が変わるようなことが増えた。

 何か決めてもやっぱりやめたっていうことが度々あった。

 私はそこでも、彼に全て委ねた。


 そうなった時に、私は変わるべきだったのかもしれない。

 進化しなくちゃいけなかったのかもしれない。


 でも私は、彼のすることなら全部許してしまった。

 許せてしまった。


 イジメだって耐えられたし、ちょっと嫌だなって思う扱いも、我慢して受け入れてしまった。

 それが私の、彼に対する愛情の深さなんだって勘違いして。


 私を好きになってって言えばよかった。

 他の子じゃなくて、私をちゃんと見て、って。

 本当は愛して欲しいの、って。


 好きになって貰えるように頑張ればよかった。


 彼を失いたくなくて、ずっと一緒にいたくて、自分の気持ちだけを彼に押し付けてしまったのは私だ。

 彼の気持ちが知りたいと思いながら、初めから彼の気持ちを拒否していたのは、私の方。


 彼は、いない。

 ここにも、どこにも、もういない。


 ……ごめんなさい。

 ……ごめんなさい。

 ……ごめん、なさい。




 あぁ。


 もっと、愛される努力をしていればよかった。




 痩せ細った頬に一筋、涙が流れる。

 その雫が落ちると共に、音が消えた。


 世界が停止した。

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