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メビウス  作者: 和泉 兎
3/11

昌樹

クズ男話。ご注意ください。

「♪~♪~♪♪~」


 鼻歌まじりに鏡の前で髪をセットする。

 指先で微妙に毛先の向きを変えながら何度も顔の角度を変えてチェックし、俺は納得して頷いた。


 常に生え際まで金髪に染め上げている髪をいじるのは楽しい。

 念入りに鏡を覗き込むのは、今日がデートだからって訳ではない。


 あ、いや。

 この後の予定はデートだけど、外出ならちょっとコンビニに買い出しに行くときにだって、ばっちりキメるってこと。


 これはどんな非常時でも譲れない。

 俺のポリシーってやつだ。


 ふと時計を見ると、あと5分で14時だった。


「やべ」


 俺はひと言だけ呟くと、もう一度鏡で全身をチェックしてようやく部屋を出た。


 今日は14時に彼女と待ち合わせしている。

 もはや遅刻確定だが、焦ることもなく玄関まで歩き、ゆっくり靴を選んで履くと家を出た。


 待ち合わせ場所の駅前に着くと、既に彼女が待っていた。

 その距離30メートル。

 まだこちらには気づいていないようだ。


 彼女は、美人だ。

 自分とは対照的に、染めたことなんてなさそうなセミロングの真っ直ぐな黒髪と、透き通るような白い肌だけでも目を引くが、その整った顔立ちにも振り替えるものは少なくない。


 そんな彼女と付き合うことになったのは、3ヶ月ほど前。

 高校に入学して少しした頃、学校でも高嶺の花と評判だった彼女に告白され、二つ返事でオーケーした。


 美人で控えめ。

 勉強もできて、先生ウケもいい優等生。

 完璧な彼女。


 最高の優越感を覚えた。


 不意に彼女がこっちを見て、ようやく俺に気付き軽く手をあげて微笑んだ。

 俺はそれに簡単に応えながら、そのままの速度で彼女のもとへ向かう。

 そして、


「わりぃ」


 悪いとも思っていない気持ちそのままに、それでも一応遅刻を謝罪した。


「ううん」


 彼女も、いつものことだからか特に気にする様子もなく首を振った。


「今日は映画楽しみだね」


 それどころか、久々のデートがかなり嬉しいらしく、頬を染めて笑っていた。


 彼女はいつも穏やかに微笑んでいる。

 そんな表情を見ていると、逆になんとなく冷めていくのはなんでだろうな。

 最近ではその内になぜかイラついてきて、わざと突き放すような態度をとっていた。


 付き合い始めの頃は、彼女が自分だけに見せるこの笑顔を見るたびに嬉しくなった。

 毎日手を繋いで下校し、他愛ない話をしているだけで楽しくて、わざわざ他校の友人に紹介したりもして、周りのやつらから羨望の眼差しを向けられるのが快感だった。


 しかし、3ヶ月も経つと周囲の興味は徐々に薄れ、話題は別のことに移り変わっていく。

 休み明けにはいつも催促されてたデートの話も、今では自分から話したところで特に盛り上がらなくなっていた。

 以前はよく誘われた合コンとかも、彼女がいるため当たり前のように誘われなくなった。


 そんな風にゆっくりと環境が変化するに従って、どうしてかイライラが積もっていく。


「なに観ようか?」


 未だ楽しそうな彼女の問いに、なんとなく耐えられなくなる。


「なんか、映画の気分じゃないんだよね」


 自分でも映画を観るつもりで来たし、既に映画館に向かって歩き出していたのだが、ついそう返していた。


「そっか、じゃあショッピングにする?」


 少し残念そうにしながらも、怒ることなく別の提案が返ってくる。


「いいけど」


 吐き捨てるように返事をすると、それからぶらぶらとウィンドウショッピングを楽しんだ。


 彼女とのデートを楽しいとは微塵も感じなかったが、ショッピングは純粋に楽しい。

 ずっと欲しかったブランドの財布が再入荷されていたときには、思わず彼女と談笑していた。


 でも、そのテンションも治まると、特に会話もなくなる。


 ただただ、店から店へ。

 彼女は相も変わらず笑顔のまま、すぐ後ろをついてくる。


 また段々と、黒い気持ちが胸に広がり始めたのがわかった。


「あれ?昌樹~!こんなとこでナニしてんの!」


 突然掛けられた声に振り返る。


「あっ、デートだ!」


 声の主をやっと視界に捉えると、そこには2人のクラスメートがいた。


 2人ともほんのり染めたセミロングの髪型。

 濃いめのリップも流行なのか、遠目にはいつも双子のように見えた。

 クラスでもよく話す女友達だ。


「あんましマジメなカノジョつれ回すなよ~」


 とか言いながら、そいつらは遠慮なしにこっちに来るから、よぉと軽い挨拶で応える。


 女子には女子のグループだかルールだかがあるようで、2人は彼女には何の挨拶もしなかった。

 彼女も、2人とは目を合わすこともなく俺の後ろで待っていた。


「ウチら、これからカラオケ行くんだけどさ」


 少しニヤつきながら、少しポッチャリした方のクラスメートが俺のシャツの袖をぐいぐい引いた。


「よかったら一緒にど?カノジョもさ」


 もうひとりも、反対側から俺の腕を取ってくっついてきた。

 彼女も、っていうセリフに嘲笑が混じって聞こえたのは、気のせいではないと思う。


 さっきの気持ちが、また込み上げてきたのがわかった。

 唸りながら少し考え込むフリをして、わざとらしく応える。


「俺はいいけど、でもな、ほら。すっげ行きたいんだけどさ」


 ちらりと彼女の様子を窺う。

 すると、


「私のことは気にしなくていいから。行って?」


 瞳はどこか悲しげに揺れていたが、やはり笑顔を絶やすことなく彼女は言った。


「そぉ?」


 俺は、今日一番の笑顔を見せて喜んだ。

 もちろんそれも芝居だ。


「んじゃ、行くわ」


 それだけ言うと、両腕に女友達を巻き付けたまま彼女に背を向けた。

 もう表情は見えない。


 でも、今どんな顔をしているのかは容易に想像できた。

 それは、こんな扱いが日常茶飯事といってもいいほどだったからだ。


 両腕の2人も、それを知っている。

 俺たちは振り返らずに視線を交わすと、誰からともなく吹き出して笑った。


 今にも溢れ落ちそうな涙を必死に堪えて、彼女は俺たちの背中を見送っているだろう。

 そして、姿が見えなくなるまで我慢してから、1人寂しく家に帰る。


 その姿を想像しながら、意気揚々とカラオケへ向かった。


「ね、なんで別れないの?」


 流行りのJPOPを歌い終わって、細身の友達が言った。

 もう1人は自分の世界に入り込んで熱唱している。

 その顔にはちょっとウケる。


「んー。さぁね」


 俺は問いに答えることなく、ウーロン茶を吸って誤魔化した。


「だって、別に好きじゃないんでしょ?」


 少し空いた空間を埋めて、詰め寄ってくる。


「えぇ?んなことねぇよ」


 肩が触れあうのも気に留めず、そっけなく返す。


「ウソ。見てればわかるし」


 本当のことを即答されて、返す言葉に若干詰まった。

 バカそうに見えて、意外とバカじゃないのかしれない。


 っていうか、俺がわかりやす過ぎんのか。


「ね、あんなこよりさ、あたしと付き合おうよ」

「は?」

「あたしの方が昌樹に合ってるって!」


 なるほどな。

 それが本音か。


「別に俺はそれでもいいけど」

「マジで!?」


 嬉しそうな顔しちゃってまぁ。

 笑顔もブスだけど。


「マジマジ」


 あんま近付くなよ。


「えっ、なにミク、昌樹と付き合うの!?」


 おい、マイク離してから喋れよデブ。

 って、ああ。そっか。

 こいつミクだった。


 やっと名前を思い出してスッキリした。




 それからすぐにやってきた夏休み。

 その数十日間は、彼女とはろくなデートもしなかった。


 ただ何度か俺の部屋に呼んで、気の向くまま抱いただけ。

 それでも幸せそうな顔をするから、それを見た俺はやっぱりイラついて、結構キツイこともやらせたりした。


 そんなことをしても彼女は変わらない。

 もしかして、真性のM なのか?とか思い始めてた。


 本当にそうだったら、すげぇ笑える。

 でも、マジかもしれない。


 彼女は新学期が始まっても、笑顔で俺に話しかけてきた。


「一緒に行きたいところがあるの。10月10日なんだけど……」


 ずっと俺の言いなりだった彼女がそういうから、少し新鮮に感じて、俺はその誘いを受けた。

 彼女はやっぱり嬉しそうに笑って、予鈴と共に自分の教室へ帰っていった。


「……昌樹」


 振り替えるとミクが俺を見上げていた。


「なんで夏休み連絡したのにムシしたの?」

「え?そうだっけ?悪い、気づかなかったわ」

「昌樹」


 また俺を呼んで物言いたげに睨むミク。


「なんだよ」

「……別に」


 ……。

 うぜぇ。


 俺、言ったよな。

 あのカラオケで。


 ミクと付き合ってもいいけど、彼女が別れを切り出すまで別れないって。

 ほら、俺って誠実な男だから。

 ひとりとしか付き合ったりしねぇのよ。


「ねぇ」


 ほんと、ウザイ。

 何回呼ぶんだよ。

 俺は視線だけを冷たく向けた。


「今、なんの約束してたの?」


 お。

 その質問はいいんじゃねぇの?


 にやり、俺は笑う。


「デートの約束だよ」




 それからも俺たちは相変わらずの日常を送っていた。


 登下校を共にすることはなくなり、気が向いたときに俺が呼び出すだけ。

 っていうか、朝は昼前まで寝てるし、放課後はダチと遊びたいんだからしょうがないだろ。


 それでも呼び出されれば喜んでやってくるから、学校の屋上とか図書室の本棚の陰とかで思う存分抱いた。

 さすがに男子トイレの個室でしようと思ったときは少し嫌そうだったけど、結局素直に脚を開くから面白い。

 お前どんだけなんだよ、って。


 でも校内のあちこちでそんなことをしていれば、気付く奴も出てくる。

 次第に噂は広まって、彼女は後ろ指を指されるようになった。


 俺はバカな仲間たちから英雄扱い。

 だってそうだろ?

 あの彼女をこんな風に扱えるのは俺だけなんだから。


 女子たちは彼女を遠ざけるようになった。

 そしてミクは、彼女をイジメるようになった。


 ミクは意外と友達が多いらしく、数人がかりで彼女に手を出しているようだ。

 うまく嫉妬させた甲斐がある。


 まぁ、ミクの連絡を無視してたのは単にブスだからって理由だけど。

 あいつも彼女くらいのルックスだったらな。


 とりあえずそこは俺の誠実さってことにしとこう。




 俺は彼女を見直していた。


 イジメられても無視されても、彼女は変わらなかった。

 俺と顔を合わせれば幸せそうに笑う。


 そういえば、友達とかいねぇのかな。

 今までそういう感じのやつを見たことがないことに気付いた。

 別にそんなものはどうでもいいことだけど。


 ミクのイジメもエスカレートしているようで、最近では脱がせた彼女の肌に痣や傷がついていることが増えた。


 これはちょっとイタイ。

 白くすべらかな肌は好みだったのに。


 ったく、うまく逃げろよな。

 こんな傷つけられたら気持ち悪いだろ。俺が。


 少しだけ上がっていた彼女への評価をまた下げて、俺は乱暴に彼女へ覆い被さった。




 そんな日常を繰り返し、今日。


 10月10日。

 デート当日。


 彼女が付き合ってほしいと言ったのは、有名らしい画家の個展だった。


 俺には全く興味ない。

 だからもちろん、行く気もない。


 でも俺は、待ち合わせ場所に時間通りやってきた彼女を見ていた。


 なんでかって?

 それはもちろん待ち合わせをしているからに決まってる。


 その相手は、ミク。

 あの時約束したのを聞いてたミクに同日に誘われたから。


 秋晴れの空の下、駅前広場のささやかな噴水の前に彼女は立っている。

 俺はミクと駅ビルの2階に入っているマックからそれを見下ろしていた。


「ねぇ、どっかいこうよ」

「めんどくせぇ」

「でもここであのこずっと見てるの、あたしイヤ」


 彼女の顔も見たくないってのがありありとわかる。


 おいおい、更にブスんなってんぞ。

 お前の顔の方が見たくねぇわ。


「じゃ、帰れば?」

「なんで!?あのこと別れたからあたしといんじゃないの!?」


 あーあーあー……。

 マジでどうすっかな、こいつ。


 ウザすぎて気持ち悪い。

 ほんと帰ってくんないかな。


 俺は小さく溜め息を吐いて、あくびを噛み殺した。

 もうさっきからずっとこんな押し問答の繰り返し。

 いい加減飽きてきた。


 俺はあいつを見てんのに忙しいんだよ。

 いつまで待ってられんのか、楽しみで仕方ないんだ。


 なのに、


「昌樹」


 突然名前を呼ばれたかと思うと、ぐいっとTシャツの襟を引っ張られた。

 ふざけんなよ伸びんだろ、そう言うより先に塞がれた唇。


 ミクが俺にキスをした。


「昌樹、こっちを見てよ」


 ゆっくり唇を離してから、濡れた瞳で俺を見つめる。


 見るかよ、ブス。

 俺は本気で怒りを露にして舌打ちすると、窓の外へ乱暴に視線を戻した。


 その瞬間、息が止まった。

 音も止まった。


 彼女が、俺を見ていた。

 目が合っている。


 なんてタイミングだよ。

 偶然、なのか。


 不覚にも胸が不規則に鳴っていた。

 彼女から目が逸らせない。

 いつも俺を見つめる瞳じゃなかった。

 俺はその視線に囚われて、瞬きも忘れた。


 何を見てる?


 何の感情も読み取れないその目は、ひたすら真っ直ぐ俺へ向けられていた。

 しばらく見つめ合って彼女の反応を待っていた。


 何か反応しろよ。

 今の、見てたんだろ。

 期待を込めて俺は待ち続ける。


 でも、彼女はひたすら俺を見ていただけ。

 それが、俺が見た彼女の最後の姿になった。


 俺は1人でマックを後にした。


 ミクは俺が徹底して無視したせいか、仕舞いには泣き出した。

 だから、心底めんどくさくなって置いてきた。

 あの泣き顔、マジで引くわ。


 あの後、彼女は俺から視線を外すと人混みに溶けるように消えてしまった。

 俺は彼女のもういない噴水をしばらく眺めてから、泣いて引き留めるミクを振り切って店を出た。


 今日は絶対面白いことになると踏んだのに、とんだ検討違いだった。


 つまんねぇの。

 彼女の新しい姿が見れると思ってたから、期待を裏切られてガッカリした。


 でも、あの目は初めて見たな。

 フラフラと道を歩きながら思うのは、さっきの彼女の表情。

 なぜかあれが頭から離れない。

 瞼に焼き付いて消えなかった。


 悲しくて落ち込んだのか?

 裏切られたって怒ったのか?

 いや、どっちにも見えなかった。


 あの時、彼女は何を考えてたんだろう。


 いつしか俺は彼女のことばかり考えていて、行き先も定まらないまま繁華街をふらついていた。


 彼女の消えかたは、泡のように、霧のように跡形もなくなったように見えた。

 もう二度と会えないような気がした。


 同じ学校なんだから、嫌でも顔くらい合わすだろうに。

 どうしてかそんな風に思った。


 ……。

 あぁ、なんだよ。

 いつにも増してイライラする。


 俺は髪を掻き回して、溜め息を吐いた。

 時間をかけて作った髪型がめちゃくちゃになったけど、今はそんなことはどうでもいい。

 このフラストレーションをどうにかして解消したかった。


 彼女のことをこんなに気にしている自分にキレそうだった。


 もう一度小さく溜め息を吐き、乱れた髪を指先で簡単に整えてふと視線を脇道に逃がすと、隣の通りにゲームセンターの看板が見えた。

 派手で下品なその看板に気が紛れた気がして、俺は惹かれるようにその中へ入った。




 あれから何時間くらいそこで遊んでいたのか。


 俺はたまたまそこにいた友達と合流して、無駄にばか騒ぎをしていた。


「なんだよ昌樹、今日テンションたけぇな」


 今の俺は他人にはそんな風に見えるらしい。

 全然そんなことはなくてむしろ逆だけど、別に否定はしない。

 気晴らしに付き合ってくれりゃそれでよかった。


 なのに、


「そいやお前、彼女いいのかよ」

「なにが?」


 いつもはそんなこと気にも留めないくせに、なんで今それを言うんだろうか。

 俺はしれっと聞き返した。


「ん?休みだしいちんち中ヤりまくれんじゃん」

「ああ……。別に学校でヤってるし」

「ひひっ、だよなぁ。羨ましー」


 あー……、さめた。

 台無しだ。


 さっきまではそれなりに楽しかったのに、もう全然気が晴れなくなった。


「帰る」


 俺はそれだけ言って、今までやってた格ゲーの席を立った。

 友達たちは俺の気なんか知らずに、おーまたなーなんて軽く返してくる。

 そして楽しそうな声でまた騒ぎだしたから、俺ももう振り返らずにゲームセンターを後にした。


 外に出るとあたりはもうすっかり夜になっていて、あれから半日以上たっていた。


 でも、時間が過ぎるのが異常に遅く感じる。

 まだ半日か、って感じ。


 ゲームセンターの明るすぎる空間を出て、なんとなく裏路地を行った。

 目がまだ慣れないけど、暗い道は妙に落ち着く。

 少し遠くに聞こえる街の喧騒以外には、自分の足音しか聞こえなかった。


 人通りがなくて歩きやすいそこに、所々落ちている空き缶をひとつ踏み潰した。

 ベコンと景気のいい音をたてて缶が潰れる。

 どうにかして鬱憤を晴らそうと試みてみたけど、やっぱり意味はなかった。


「すみません」


 また歩き出した俺だったが、後ろから男に声を掛けられて振り向いた。


 なんだよ、今虫の居所悪いんだけど。


「……なんすか?」


 それでも不機嫌な様子は出さずに、相手を観察しながら返事を返す。

 そいつは喧嘩を売ってくる風でもないし、見たところ普通のいいとこの大学生って感じだった。


 男は俺と目が合うと、少しだけ視線を下げて自嘲するように薄く微笑む。

 まさか、道にでも迷ったのかよ。

 ダッセェ。


 ま、俺って親切だから、教えてやるけどさ。

 だからさっさとなんとか言えよ。


 でも、男は続けてなにも言わなかった。

 俺の顔を穏やかに見ているだけだ。


 なんだこいつ。

 めんどくせぇ。


「ドコ行き、」


 たいんだ、とわざわざこっちから聞いてやろうとしたのに、言えなかった。

 声がでなかった。


「……あ、つっ?」


 男が俺に体当たりするように近づいたかと思うと、燃えるような熱を感じた。


 腹が熱い。

 でもそう思ったのは一瞬で、次の瞬間に感じたのには激痛だった。


「いっ……!」


 痛てぇ。


 痛てぇ、痛てぇ、痛てぇ!

 なんだよこれ!


 男がまだ薄く微笑んでいるのが見えた。

 体感温度が一気に10℃くらい下がった様にゾッとして、俺はふらつきながらも一歩後退った。


 なんだよその顔。

 ふざけんな。


 俺、刺されたのか?


 刺された。


 なんで俺が。


 誰だよこいつ。


 知らねぇし。


 何してくれてんだよ。


 混乱する。

 パニックになる。


 恐怖と怒りで溢れる感情はぐちゃぐちゃに入り混じり、自分が今何を口走っているのかも、もうよくわからなかった。


 その内に足が痺れるようにふらつき立っていられなくなって、俺は崩れるように膝をついた。


 やべぇ。

 これってたぶんやべぇ。


 俺はやっと思い付いて、ポケットからスマホを出そうとした。

 助けを呼ばないとこれは相当マズイ。


 誰か。

 さっきのゲーセンのダチならすぐ来るか?

 いや、それより救急車だ。


 俺の座り込んでいるアスファルトは、すでに大量に流れ出た血で真っ赤な水溜まりのようになっていた。

 寒気は増すのに妙に冴えてきた頭でそんなことを考えながら、力の入らない腕で必死にスマホを探る。


 そんな俺に対して、男は何事もなかったかのように踵を返すと背を向けて歩き出した。

 次第に遠ざかるその姿は、霞む視界のせいで更に見えにくくなっていく。

 それに少なからずほっとしながら、俺はまだ見つからないスマホを必死に探した。


 しかし全然見つからない。

 というか、手がちゃんと動かせているのかも怪しかった。


 どこだよ、スマホ。

 あぁ、マジでこれはヤバイって。

 なんでこんな目にあうんだよ。

 今日は厄日だったのか?


 死にそうな状況なのにそんなことを考えられるなんて、こんな時にも関わらずちょっとウケた。


 今日、か。


 今彼女はどうしてるんだろう。

 ひとり寂しく泣いてんのかな。


 あの目が、まだ俺を見ている気がしてならない。


 あの目。

 ガラス玉のような、あの……。


 あー……、痛ってぇ、な……。


 もし、彼女をちゃんと愛せてたら……。




 俺は冷たいアスファルトに倒れ込んだ。

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