鬼灯
優子がティッシュを受け取った。
あの娘の人生には、あそこであれを受けとる予定はなかった。
それが運命を変えた。
優子の高校の文化祭の日、10月10日。
ささやかに飾り付けられたその高校の校門に、あおいはいた。
数日前、昌樹に呼び出されて会った帰り、情事を済ませてさっさとクラスメートの女子と遊びに行ってしまった昌樹と、いつものように置いていかれたあおい。
その帰り道だった。
近くにある別の高校の制服を着た子のバッグから、一枚の紙がはらりと落ちた。
あおいはそれを拾って届けた。
たまたま見えてしまった内容。
描かれていたのは、ジャズコンサートの案内だった。
手描きなのが一目でわかるそれは、あおいの胸の奥深くをずくっと疼かせた。
そこに書かれた日付、10月10日は、あおいの誕生日だった。
せめてこの日だけはどうしても一緒にいたくて、気持ちをちゃんと伝えたくて、昌樹を思いきって誘っていた。
もしかしたら、昌樹は来ないかもしれないという予感があった。
それは、もうほとんど確信といってもいいほどの予感。
それでもあおいは、昌樹を信じて待つと決めていた。
自分でも昌樹との関係をこれからどうしたいのか、どうしたらいいのか分からなくなっていたから、気持ちを相手に贈り続けることで自分を保とうとしていた。
盲目的に想うことでしか感情をコントロールできないほどに、あおいの心は悲鳴をあげていた。
そんな時、この文化祭のポスターを拾った。
A4の画用紙に描かれたそれは、一生懸命愛情を込めて作ったのが伝わるほど丁寧に作ってあった。
自分たちの演奏を聞いてほしい。
そんなシンプルな想いがダイレクトに伝わってきた。
純粋に発信された心は、がんじがらめになって軋んでいたあおいの心を大きく揺り動かして、あおいは、このままではいけないという気持ちになった。
そして、ずっと頭に残っていた記憶をたよりに、優子の高校の文化祭へやって来たのだった。
あおいは昌樹に恋をしていた。
でも、ただそれだけだった。
他にはなにも、していなかった。
気持ちを押し売りして、無条件に昌樹を信じていられる自分でいたかっただけかもしれない。
それは人間らしい性ではあるが、なんてエゴだろうか。
あおいはまだ、昌樹に恋い焦がれていた。
でも、今変わらなければいけないと、どうしてか強く思った。
だから、やっとあおいは自分で選んだ。
昌樹と約束していたこの日、あおいは駅前へ行かなかった。
とっても大事な日になるはずだったけれど。
大好きな画家の個展だったけれど。
行かなかった。
昌樹は待ち合わせ場所に来ないあおいに、なぜかほっとしていた。
普段なら待たされるのは嫌いなはずが、今日ばかりは相手が来ないことに安心している自分がいる。
そのことを不思議に思いながら、エアコンの効いたファーストフード店でだらりとした時を過ごしていた。
そして、そのまま待ち合わせ時間を20分過ぎても姿の見えない現実に、あおいはもう来ないのだと遂に悟った。
俺がフラれた?
マジかよ。
そう考えて、昌樹は思わず嘲笑を浮かべた。
正面に座るミクが首を傾げて昌樹を見つめたが、昌樹はそれを無視して窓の外を眺め続けていた。
そりゃそうか。
自分の彼女に対する行動を思い返せば、これは当然の結果だ。
ひとり心中で納得すれば、今度は笑いが込み上げてきた。
「はっ」
突然吹き出した昌樹に更にミクが眉を寄せても、やはり昌樹はそれに視線を向けることはない。
相変わらず顔は横を向いたままだった。
どういう訳か、ここのところずっと治まらなかった苛立ちが、昌樹の中から消えていた。
「ねぇ昌樹ぃ、いつまでここにいんのぉ?」
耐えかねてミクが声をかけた。
「出掛けようよ!」
ミクの声が昌樹を通り抜ける。
なんの返事もしない昌樹に、ミクは唇を付き出してふて腐れながらジュースに刺さったストローをくわえた。
昌樹は小さな噴水を見下ろしたまま、あおいのことを考えていた。
もしかしたら、自分の方こそずっともう終わりしたかったのかもしれない、なんて今更なことを。
もしかしたら、もしかしたら、俺自身気付かない本心では、あおいを大切にしたかったのかもしれない、なんてことを。
昌樹はそこまで考えて、今度は自嘲気味に笑った。
あんだけしといてそんな訳ねぇか。
そして小さな言葉を落とす。
「……俺に、お前は合わねぇよ」
「なんか言った?」
呟きが聞こえたのか、ミクがまた首を傾げて昌樹に聞くと、昌樹はやっと正面へ視線を向けた。
そして応える。
「なんでもねぇよ」
一言だけ発したその顔は、どこかすっきりしていた。
崇はジャズコンサート会場で席を選んでいるあおいに声をかけた。
「あおい」
「崇お兄ちゃん」
「どうした、急に」
「うん。これ返そうと思って」
突然呼び出されても嫌な顔ひとつしない崇に、あおいは少し切なげに笑うと、チケットを差し出した。
それはあおいの大好きな画家の個展のチケット。
「今日ね、デートすっぽかしちゃった」
「……そうか」
崇は少し驚いた表情を浮かべた。
でも、すぐにそれを緩める。
まだ吹っ切れていないことはわかったけれど、もう、あおいが恋人のことで苦しむことはないのだと、もう傷付くことはないのだと、気が付いた。
あおいの目は少し赤かった。
それは泣くようなことがあったからなのか、それとも寝ずになにかを考えていたからなのかわからない。
でも崇は、それを聞いたりはしなかった。
あおいが決めたことなら、それがどんな結論だって構わなかった。
今のあおいの表情がとても清々しいものだったから、もうどうでもよかった。
ただ思うのは、ひとつ。
「じゃあ、僕と行こう」
「え?」
「行きたかったんだろ、それ」
「うん、でも」
おずおずと遠慮しながらも、ちらちらとチケットに視線を送るあおい。
その様子はどう見ても行きたそうで、崇は受け取ったチケットを再度あおいに手渡した。
「明日もやってるからさ」
「……うん」
嬉しそうに笑うあおいに崇は心が満たされていくのを感じた。
ちゃんと伝えよう。
その上で僕が幸せにしてやりたいから。
もっともっと、笑わせてやりたいから。
崇は明日、告白しようと決めた。
優子は緊張をほぐすために深呼吸を繰り返した。
今までもコンクールなどで舞台に立つことはあったが、ここまで緊張はしなかったのではと思うほど手には汗が浮かんでいた。
紗枝と頼ちゃん先生の顔にも同じ気持ちが見てとれる。
それぞれ軽くストレッチをしたり、楽器の最終チェックをして気を紛らわせていた。
そしていよいよ、放送部のアナウンスが流れてコンサートの幕が開いた。
舞台袖で3人で手を重ねて、頑張るぞと小さな声で気合いを入れた。
縁に手を付き緑色に光輝く河へ顔を沈める鬼灯を、白い狐は呆れた様子で見ていた。
鬼灯は興奮した様子で目を見開いたまま、水中と思われるずっと先を瞬きもせずに凝視していた。
人の人生は全て決まっている。
鬼灯は死者の最後の希望を叶える番人だった。
崇に殺された昌樹の希望を叶えて、あおいの人生に転生させた。
それは、ただひたすらに恋人を愛する人生。
心を壊して衰弱死したあおいの希望を叶えて、崇に転生させた。
それは、愛するひとに愛される為なら人をも殺す人生。
自殺した崇の希望を叶えて、昌樹に転生させた。
それは、決して誰も愛さない人生。
白い狐は鬼灯を意地悪だと言った。
しかしそれは仕様がないこと。
なぜなら、それが本人の望みなのだから。
この3人の最後の希望は、決まっていつも同じだった。
だから、何度も何度も繰り返し同じ人生を廻ることになった。
鬼灯は嘲笑を浮かべながら仕事をこなした。
この3人の人生は、今まで見てきたどれよりも面白い。
暗く、重く、歪んだ運命を捻れながらぐるぐる廻り続ける。
きっと延々と続く連鎖になるだろうと思っていた。
それが、変わった。
良家の子息だった子ども、正太郎の希望を叶えて、音楽の世界に生きる優子に転生させた。
そして、あの少年。
平助を優子のそばに住む翔に転生させた。
きっかけは、きっとそれだった。
“生まれ変わってでも、きっと渡しに行く”
だから平助の来世には、優子の近くでティッシュ配りのバイトをする青年、翔の人生を選んだのだ。
それでも、翔の差し出すティッシュを優子が受けとる予定はなかった。
なぜなら、平助は“渡しに行く”ことを望んだからだ。
確実に“渡す”ことが望みではなかった。
天の邪鬼の鬼灯は、平助の本当の望みを知りつつ、意地の悪い来世を選択した。
それが鬼灯というものだった。
毎度望みを叶えてやっているにも関わらず、それには決して気が付かずにまた次の望みを持つ。
人間とはなんと間抜けな生きものか。
鬼灯は常々そう思っていた。
普通、最後の想いを叶えて転生すれば記憶は残らない。
しかし今回はどういう訳か、翔に僅かに前世の記憶が残ってしまっていたようだ。
“生まれ変わってでも”という想いがそうさせたのかはわからない。
それが優子に干渉し、更にあおいと昌樹と崇の人生も変えてしまった。
あおいは10月10日に待ち合わせ場所に行かなかった。
だから崇もあおいのために凶行に走らなかった。
そして昌樹もあおいとの終わりを悟り、ふたりの関係は呆気なく終焉を迎えたのだった。
「おもしれぇな。人間って」
緑色に光輝く河から顔をあげて、鬼灯は目を輝かせて呟いた。
「運命を変えちまいやがった」
白い狐は黙って鬼灯の横までやって来て座ると、隣で鼻息荒く興奮する男をちらりと眺めて呆れた顔を浮かべた。
そして、残酷で無邪気な番人に小さく溜め息を吐いた。
体育館にピアノとトロンボーンとテナーサックスの音が響き渡る。
演奏者はたった3人であるにも関わらず、それぞれの技量はなかなかのもので、1曲終わるごとに観客は増えていき、全部で3曲のつもりがもう2回目のアンコールだった。
そして、体育館のアンコールの大合唱は高校の前の通りにまで届いた。
バイト帰りの翔はその歓声に足を止めた。
アパートへの帰り道にあるこの高校は、今日が文化祭らしい。
なんとなくその歓声に導かれるように、風船や造花で飾り付けられた校門を潜った。
【END】