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メビウス  作者: 和泉 兎
10/11

 子どもの頃の俺には、前世の記憶があったらしい。


(かける)、よく言ってたよ。“おれはカケルじゃない、ちゃんとほかになまえがあるんだ”って」


 母さんは今では良い思い出として笑って話すが、当時は相当焦ったそうだ。


 それはそうだろうな。

 ようやく授かった一人目の子どもが、言葉を話せるようになった時、いきなりそんなことを言い出したら。


 しかし俺は、成長するに従ってその前世の記憶とやらを忘れていったらしい。

 いろんな親戚が同じようなエピソードを話して聞かしてくれるけど、今では全く記憶になかった。


 でも、“あれを返さなければ”。

 そんな想いだけが俺の心に残り続けていた。


 “あれ”が何かは忘れた。

 誰に返すのかも、忘れた。


 それでも返さなければ。

 その想いだけが、今でもずっと残っていた。




 木造2階建て全8戸の小さなアパート。

 その角部屋、6帖のワンルームが俺の城だ。


 ひとり暮らし歴1年ちょっとの俺の部屋は、綺麗とは言えないまでも割りと片付いている方だと思う。

 って言っても、靴を2足も置けばいっぱいの玄関に明日出すゴミを置いているから、足の踏み場もない状態だったりするけど。


 そんな中で、俺は立ったままなんとか靴を履いていた。

 今日はこれからバイトだ。


 都会の大学に進学して、ひとり暮らしを始めた俺は、学費は親に出して貰っているが、部屋代は借金という形で負担して貰っていた。

 もちろん生活費は自分持ち。

 だから、必然的に自分で稼がなくてはいけなかった。


 下に弟が一人と妹が二人もいるから、まあ仕方ない。

 進学させて貰えただけありがたいと思っていた。


 それでも、この炎天下の中バイトに明け暮れなければならないともなると、つい文句のひとつも言いたくなる。


「ぅあっちー……。あー、行きたくね」


 玄関ドアを開ける前からアルミの扉越しに容赦ない熱気がむんむんと漂ってくる。

 俺はげんなりしながらドアを開け、重い足をなけなしの気合いで動かした。


 バイト先にはわざわざ電車に乗らないと行けない。

 駅まで5分歩き、弱いエアコンに快感を覚えながら電車に3駅揺られた。


 ちょっと涼んだ頃、目的の駅に着いた。

 俺は電車を降りると駅近くの雑居ビルに入り、段ボール箱を受け取ってまた駅に戻った。


 初めは当たり前のようにアパートか大学の近くでバイトを探していた。

 やっぱりその方が楽だし、なにかと便利だからだ。


 大学に入ってすぐ見つけた小さな映画館のバイトは自分でも気に入っていて、俺は館長も誉めてくれるくらい真面目に働いていた。


 でも今年の春。

 近くに大型のショッピングモールができて、映画館は客が入らなくなった。

 それは、その小洒落たショッピングモールにも映画館が入った為だ。


 当然の結果なのか、小さなその映画館は廃館。

 館長も趣味のようなものとして経営していた映画館だったから、立て直しは計られることなく、俺はあっけなくバイト先を失った。


 こうなってしまったものはどうしようもない。

 仕方なくすぐに次のバイトを探した。


 でも、今回はなかなかいいところが見つからなかった。


 いくつか時給も仕事内容もよさそうな仕事はあった。

 けどどうしてか気が進まなくて、その内に俺は別のエリアでも探し出した。


 生活があるからいつまでも悩んでる訳にもいかない。

 焦ったり苛立ったりしながら、いろいろな募集アプリを読み漁った。


 そして見つけたこのバイト。

 アパートから大学へ行くのとは逆方向の、生活には不便なこの駅での仕事。


 よくわからないけど、これだ、って思ったんだ。


「お願いしまーす」


 俺は段ボールからポケットティッシュを大量に取り出すと、ひとつずつ通行人に差し出した。


 この夏から始めたのは、ティッシュ配りのバイト。

 大変だし給料もよくはなかったけど、妙にやる気だけがみなぎっていた。


 毎日のように駅前でティッシュを差し出す。

 受け取ってくれる人は殆どなく、想像以上にきつい仕事だった。


 風邪の流行る冬とか、花粉の飛ぶ時期ならもうとょっと要領よく捌けたんだろうけどな。

 このくそ暑い時期にティッシュの需要は少なくて、結構苦労していた。


 でも俺はめげることなく配り続けた。


 なんでだろう。

 使命感にも似た妙な感情が、俺を駆り立てた。


 ま、生活もかかってるしな。




 そんなある日、毎日同じ時間にひとりの女子高生が通っていくのに気がついた。


 夏休みだろうに制服を着て、毎朝同じ時間に同じように早足に改札へ向かうその子。

 切れ長の涼しげな目元が印象的だった。


 いつもひとつに束ねている綺麗なダークブラウンの髪が、俺の目の前を柔らかく揺れながら通り過ぎた。


 当然その子にもティッシュを差し出した。

 でも、いつも受け取っては貰えなかった。


 その内に、夕方もだいたい同じくらいの時間に帰ってくるのにも気が付いた。

 俺は再びその子にティッシュを差し出す。


 やっぱり受け取っては貰えなかった。


 俺は懲りずに毎日毎日その子にティッシュを差し出した。


 今度こそ。

 どうだ。

 頼む。


 しかしそんな想いとは裏腹に、いつも前だけを見つめて足早に行ってしまう。

 俺の他にも同業の奴らはたくさんいたけど、その子は俺以外の誰からも決して受け取ることはなかった。


 蝶のように軽やかに、けど強固なまでの意思を持って、全ての差し出される手を拒絶した。


「くっそー……」


 今日も駄目か。

 見向きもされない日々に悔しさだけが募った。


 こうなったら、なんとしてでも渡してやる。

 俺は自分でもよくわからない内に、意地になっていた。


 たまに会えない時もあったけど、ほぼ毎日と言っていいほどその子は俺の前に現れた。

 毎日熱心に学校に通う姿に、俺の興味はぐいぐい引かれていった。


 でも9月に入ると、会える機会は減ってしまった。

 高校の夏休み中は朝も会えたけど、今は帰宅するときしか見かけない。


 そりゃそうだ。

 高校生が登校するような早朝に、ティッシュ配りなんていないからな。


 あの子が夏休み中、俺のバイト時間と被る時間帯に登校していたのがいかに貴重なチャンスだったか、身に染みた。

 だから俺は、今日もあの子が学校から帰ってくるのを今か今かと待っていた。


 すると、


「翔ー」


 今日もバカみたいに残暑の厳しい中バイトに勤しんでいると、同じゼミの中島が通り掛かった。


「おお、中島」


 そういえばこの辺に住んでるって言ってたっけな。

 あの子の姿を見逃さないようにこっそり探しながら、俺は軽く手を上げて応えた。


「頑張ってんなぁ」


 中島は自分の顔を手で扇ぎながら労ってくれた。


 流行に敏感なこいつは、いち早く秋のファッションを取り入れているため、相当暑そうに見える。

 働く俺より汗をかいた姿に、よくやるよと感心した。


 中島からしたら、こんなバイトを選んだ俺に対して同じように思っているだろうけど。


「生活かかってますから」


 俺は中島にそう答えた。

 それは紛れもない事実だしな。


 だけど、当初俺は8月でこのバイトを辞めるつもりでいた。

 ティッシュ配りは、もっと条件のいい次のバイトが見つかるまでの繋ぎのつもりでいたんだった。


 そもそも、このバイトを選んだ理由も、今になるとひとつも思い当たらないのが自分でも謎だ。


 それでも、今すぐに辞めようという気は毛頭無くて、俺はもう少しもう少しと辞め時を先延ばしにしていた。


「こんな過酷なバイトよくやるよ。ま、ほどほどに頑張れよ?」

「サンキュ」


 言われて妙に納得した。


 確かに過酷だよな。

 時給でなくノルマ制だし。


 自分でも、どうしてもう少し続けてみようという気になっているのか不思議だった。

 ま、思い当たる節はあるけど。


 俺の脳裏を、いつものようにあの子が通り過ぎる。

 振り向きもしなければ、立ち止まってもくれないその凛とした姿が、なぜか眩しかった。


 それからしばらく中島と他愛ない話をしていると、ふと視界の隅にあの子の姿が映った。


 “思い当たる節”が来た。


「あ、中島、ちょっとゴメン!」


 俺は中島を横へ押しやると、すかさずあの子にティッシュを差し出した。


 今度こそどうだ!

 という意気込みをこめて力強く。


 でも、やっぱりその子は素通り。

 ふいっと軽やかにかわされて、何事もなかったかのように行ってしまった。


 やっぱり駄目か……。

 自分の肩が盛大に落ちたのがわかった。


「なに、翔。あの女子高生狙ってんの?」


 静観していた中島が、にやけながら俺に言う。

 絶対勘違いしてるだろ、その顔。


「そんなんじゃねぇよ」


 俺は素っ気なく首を振った。


「ふぅん?」


 あ、信じてないな。

 なんだよそのスケベ顔は。


 にやにやと気持ちの悪い笑顔を振り撒いて、あまりにじっくりと俺を見るから、きっともう何を言っても信じないだろうと観念して、俺は溜め息を吐いた。


 中島は俺が認めたと勘違いしたのか満足そうに笑っている。

 本当に、そんなつもりじゃないんだけどな。


 あの子に固執してるのは認める。

 でも別に好きとか嫌いとか、そんな気持ちはなかった。


 ただ、どうしても渡したい。

 どうしても受け取って貰いたいだけだった。


 その後も俺をからかおうとしていた中島は、不意に時計に目を落とすと自分もどこかへ出掛ける予定だったのを思い出したらしく、またなと言って慌てて駅へ走っていった。


 慌ただしいやつ。

 いいやつだけど、誤解されると色々と面倒くさくなりそうなタイプだったりする。


 あいつ、他の仲間に変なこと言ったりしなきゃいいけど。

 俺はどうやって誤解を解こうかと考えながら、再びバイトを再開した。


 今日はもう、あの子は通らない。

 俺はモチベーションの下がったまま、ティッシュを配る。


 目の前を行き交う人々の顔なんて、誰一人記憶に残らなかった。


 瞼を閉じると、あの子だけが鮮明に蘇る。

 難攻不落の、あの子。


 でも諦めてたまるか。

 絶対渡してやる。


 残暑の厳しさにつられるように、俺は燃えていた。




 翌日。

 俺は駅で段ボールの箱を開けながら、視界の奥に延びる道路に目をやった。


 そこには、色とりどりの傘を咲かせて歩道を歩く人々が見える。


「はぁ、やまねぇな」


 さらさらと静かに降る霧雨にげんなりしながら、がさごそと手を動かした。


 最近は雨ばっかりで商売上がったりだ。

 こんな天気の日にティッシュを受け取ってくれる人はそうそういないし、商売道具のそのティッシュも湿気を吸ってしまう。


 本音を言えば、こんな日はバイトなんて休んで家でごろごろしていたかった。


 でも、やむ気配のない雨はどこか優しくて、天気の割りに明るい空と共に、何となく励まされた。


「さて、やるか」


 一度だけ大きく背伸びをして、俺はバイトを開始した。


「お願いしまーす……」

「お願いしまーす……」

「お願いしまーす……」


 減らない段ボールの中身は極力見ないようにしながら、黙々と配り続ける。


「お願いしまーす……」

「お願いしまーす……」

「お願いしまーす、あ、ありがとうございます」


 休憩もとらずに頑張ってみたけど、予想通り受け取ってもらえる確率は低かった。

 案の定、今日は全然減ってる気がしない。


 はぁ……。

 少しだけ雨足も強くなった気がするし、コンディションは最悪。

 通行人すらも減ってきてしまうと、俺にはもうお手上げたった。


 たぶんノルマをこなすのは無理だな。

 歩合は減るがまあ仕方ないと、俺は早々に観念した。


 同業のバイトたちの中には引き上げるやつも出てきていた。

 俺もきっとそれが正解だと思う。

 それでも粘って続けるやつもたくさんいたけど、きっと俺とは別の理由からだろうなと思った。


 俺の理由は、あの子だけ。

 まだ帰ってくる時間には少し早いから、もうちょっとこうして粘るしかない。


「お願いしまーす……」


 駅に電車が到着して、改札から乗客がわっと出てきた。

 俺はすかさずティッシュを配る。


 最早この瞬間しか捌けそうもないから、俺は誰彼構わずティッシュを差し出していた。

 すると突然視界に入った、その姿。


 いつもより早い。

 けど、間違いない。

 あの子が来た。


 どうかしたのか、どこか機嫌が悪そうな顔だ。

 いや、具合が悪いのか?

 少し顔色が悪いように見えた。


 俺は心配しながらも、条件反射のように、またダメもとでティッシュを差し出す。


「お願いします」


 今日もきっとするりとかわして行ってしまうんだろうな。

 体調が悪いなら尚更か、なんて。

 らしくなく半分諦めながら。


 って、やば。


 今日はあまりに要領が悪かったせいで、マイナス思考になってるみたいだ。

 俺はぐっと力を入れて、更に手を伸ばした。


 すると、あの子はぴたりと立ち止まってぎゅっと目を閉じた。

 え?と思う間もなく、俺の手からティッシュが消える。


 と同時に、あの子はふっと瞼を開けて、そのまま前をぼんやり見つめて歩き出した。


 俺は空になった手を伸ばしたまま、あの子が傘を開いて小雨の中に消えていくのを眺めていた。


「……」


 ……。

 ……。


 受け取って、貰えた。


 やっと。

 ついに。

 ようやく。


「よっ、しゃ……!」


 思わず声に出ていた。


 嬉しい。

 これは嬉しい。

 言い様のない充足感が俺を包み込む。


 どうしてだろう。

 涙が出そうなほど、嬉しかった。


「やべぇ、にやける」


 緩む顔を隠すために、ティッシュを補充するふりをして壁際に置いていた段ボールに向かった。

 そして箱の前にしゃがんで、ゆっくりとティッシュを取り出す。


 何だろう、この達成感は。

 こんなに清々しい気分は初めてだった。


 俺は自分の感情を不思議に思いながらいくつかティッシュを手に取り、立ち上がるために膝に手をついた。

 そこへ、横断歩道の歩行者信号の音が聞こえてきた。


 ずっと昔はメロディだったその音は、今では鳥の鳴き声に変わっていた。

 それを無意識に聞きながら、立ち上がろうと足に力を入れる。


 その時、ぐらりと世界が大きく揺れた。


「……っ」


 健康だけが自慢の俺が立ちくらみ?と不思議に思う暇もなく、意識が真っ白に塗り潰されていく。


 機械的な電子音が、雨と雑踏の中を突き抜けた。


 突如として頭にわき上がる、映像。

 それは、遠い、遠い、遥か昔の景色。


 “おれ”が“俺”になる前の、記憶。






 狭い家の真ん中にあるのは、小さな囲炉裏。

 この家に温もりを与えているのはそれだけだった。


 でも四畳半という空間に、草履を編む父ちゃんと母ちゃん、それに弟と生まれたばかりの妹、さらにおれがいれば、暖を取るには充分だった。


 茶色く焼けたごわごわの畳の上で、みんなで他愛ない話をしながらの団らん。

 おれは眠気を堪えながらも、父ちゃんが手を動かしながら聞かしてくれる昔話を、先を急かしながら聞いていた。


 いつもは誰もこんなにまったりとしていない。

 今日は雪が降ったから、少しだけ畑の世話をして早めに切り上げただけだった。


 ごくたまにこういうことがあると嬉しい。

 おれのうちは貧しいから、こんな風に父ちゃんと母ちゃんがゆっくりとおれたちに構ってくれる時間はほとんどなかった。


 本当のことを言えば、少し寂しい。

 でも、奉公に行っている兄ちゃんや姉ちゃんを思うと、なにも言えなかった。


 最後に家族が全員揃ったのがいつだったかも、おれは覚えていない。


「……そして、幸せに暮らしましたとさ。おしまい」


 父ちゃんが物語の結末まで話終えると、母ちゃんが編んでいた最後のひとつの草履もちょうど編み上がった。


「はい、できた」

「お疲れさん」


 父ちゃんは母ちゃんにもおれたちにもすごく優しい。

 母ちゃんも、怒るとすっごく怖いけど、普段は父ちゃんと同じくらいに優しかった。


 おれはふたりとも大好きだ。


「じゃあ、ちょっくら和尚さんのところに行ってくる」


 今できたこの草履は、近くのお寺の和尚さんのために編んだものだ。

 父ちゃんは早い方がいいからと、すぐに届けに行くと言った。


 おれは、全くと言っていいほど父ちゃんがゆっくりしているのを見たことがない。

 いつも一生懸命に働いていてかっいいとも思うけど、おれは子どもながらに休ませてあげたいと思った。

 だから、


「父ちゃん、おれ行ってくるよ!」


 そう願い出た。


「ん?お前が?」

「うん!」

「大丈夫か?」

「大丈夫!」


 おれもうじき十になるんだぞ。

 大丈夫に決まってる。


 鼻息荒く意気込むおれに、父ちゃんは眉毛を下げて微笑んだ。


「そうか。じゃあ頼むぞ」

「うん!」


 おれは力一杯頷いて、草履を受け取ると家を飛び出す。


「気を付けるんだよ!」


 母ちゃんが後ろから叫んだのを背中で受けとめて、雪の降る中お寺へと駆け出した。


 さらさらとした雪が、頭や着物に当たっては滑り落ちていく。

 吐く息も雪と同じで真っ白だった。


 うちからお寺までは約半里。

 空気が冷たくて耳と鼻がもげてしまいそうに痛いけど、おれは構わず走っていった。


「ごめんください」


 お寺に着くと、戸口を叩いて声を掛ける。

 しばらくしたら和尚さんが顔を出した。


 赤ん坊にはいつも大泣きされている、まるで達磨のような大きな強面は、寒さからか真っ赤で更に怖い。


「おお、平助」

「和尚さんこんにちは」

「こんな雪の中どうした」


 おれの頭についた雪を払いながら、和尚さんは首を傾げた。


「これ。父ちゃんから」


 おれは手にぶら下げていた草履を差し出す。

 すると和尚さんは、一度大きく目を見開いて、それから糸のように細めて微笑んだ。


「作って届けてくれたのか?」

「うん。父ちゃんと母ちゃんが編んだんだ」

「そうか。草履の傷みに気付かれていたか」


 そうなんだ。

 父ちゃんは誰かが何かを言う前に、いつも気が付く。

 おれが病気になったりしたときも、一番に気付いてくれた。


 だからこの草履も、昨日会った和尚さんの草履が傷んでいたからと編んでいた。

 そして出来上がると、すぐにでもと届けに行こうとしていたんだ。


 家族にも他人にも優しい働き者。

 大変だなんて言葉は聞いたこともない。

 いつもにこにこ笑顔でいて、たしなめることはあっても怒ったりはしない。

 そしてどんな小さなことにも感謝する。

 例えば天気がよければお天道様に、雨が降れば恵みの雨に。


 そんな父ちゃんは、俺の自慢だ。


「ありがとうと伝えておくれ」


 和尚さんは屈んでおれの目線と合わせるとそう言った。


「わかった」


 おれはこくりと頷いて、和尚さんに別れを告げた。


 お寺の軒を出ると雪はやんでいた。

 おれは、わざと白い道に足跡をたくさん残しながら歩いた。


 普段見える色は隠されて、いつもとは違う景色に見えて面白い。

 来るときは走って来たから、帰りはゆっくりと雪の感触を楽しんだ。


 さくさく、さくさく。

 他に何の音もしない中、おれの足音だけが耳に届く。


 さくさく、さくさく。

 足跡を付けることに熱中していて、いつもとは違う道へ入っていた。


 でも、こっちからでも帰れるのは知っているから、気が付いたけれどそのまま進んだ。


 しばらく行くと、途中で生垣を見つけた。

 おれは閃いて、それに駆け寄る。


 外側の葉っぱはごわごわしていて固いから、生垣に潜り込んでできるだけ若い葉っぱを探してむしった。


 生垣を出ると顔や手に付いた雪と汚れを袖で拭って、今摘んだ葉っぱを口に当てる。

 そして、さっき母ちゃんが教えてくれた歌を吹いてみた。


 ぴょおーぴょおぴょー、ぴょおぴょおぴょー。


 うん、いい感じだ。

 夏の葉っぱに比べたらやっぱり劣るけど、ちゃんと吹けた。

 おれはひとりで満足して頷いた。


 ええっと、次はなんだっけ。

 続きを思い出そうと考える。


 でも、あれ?

 思い出せない。

 忘れてしまった。


 ……ま、いいか。

 おれは早々に諦めて、もう一度同じところを吹いた。


 ぴょおーぴょおぴょー、ぴょおぴょおぴょー。


 繰り返し同じ部分を吹く。

 家に帰ったら、また母ちゃんに続きを教えてもらおう。

 そんなことを考えながら、また雪に足跡を残していった。


 やんでいた雪は、今度は(みぞれ)になって再び降り始めた。

 せっかく綺麗に降り積もった雪は、もうしばらくすれば溶けてなくなってしまう。

 おれは草笛を吹きながら雪を踏み続けた。


 生垣はいつの間にか途切れ、今度は長い大和塀に沿って歩く。

 この辺りはあまり来たことがなかったけど、それは他の人も同じようで、この道にはおれ以外の足跡はまだついていなかった。


 いつしか霙は雨に変わって、もうすぐこの雪は消えてしまうんだなと思った。


 あと少しだけの遊びを堪能しようと、ご機嫌に草笛を吹きながら雪を踏む。

 ふたつの音が混ざって面白かった。


 そんな風に、長い長い大和塀の真ん中辺りまで来たとき、それは聞こえた。


「だ、誰かいるの?」


 か細く、今にも消え入りそうな、子どもの声。

 おれは声がした方に視線を向けてみた。


 そこにあったのは、綺麗に造られた立派な大和塀。

 声はそのずっと向こうから聞こえた気がした。


「この屋敷、子どもがいるのか?」


 おれはそう呟くと、葉っぱを懐へしまった。


 単純に興味がわいたんだ。

 こんな大屋敷に住んでるのはどんなやつだろう、って。


 向かいの家に熊手が立て掛けてあるのを見つけて、おれはそれを大和塀に立て掛けた。

 そして、それを足場にして飛び上がると、瓦にてをかけてよじ登った。


「う、わっ。おっと!」


 一瞬滑り落ちそうになって焦った。

 でもなんとか手は離さずに、身体を持ち上げる。


「よっ、と」


 最後にぐっと力を入れて、大和塀の向こう側を覗いた。


 そこにあったのは、広く手入れの行き届いた美しい庭園。

 そして、庭園の向こうに建つ大きな屋敷だった。


 おれはぐるっと目玉を動かして広い屋敷を眺めた。

 すると、その縁側に姿を見つけた。


「だ、誰?」


 それは紛れもなくさっき聞いた声だ。


「お前こそ誰だ?」


 おれはそいつの質問には答えずに、大和塀から頭だけを覗かせたまま逆に聞いてみた。

 だってこの辺りの子どもはほとんど知っていたけど、始めて見た顔だったから。


「僕は正太郎」

「正太郎?」

「うん」

「ふぅん。おれ、平助」


 おれも名乗ると、正太郎は嬉しそうに笑った。

 さっきまではまるでお化けでも見たみたいな顔をしていたのに、ふわっと花が咲いたような笑顔に変わったのが、印象的だった。


「ねえ、こっちに来ない?」

「入っていいのか?」

「いいよ」


 控えめに、でもすごく嬉しそうに頷くから、おれもつられて笑って頷いた。


「さっき笛を吹いていた?」


 大和塀から飛び降りて庭を抜け縁側に腰掛けると、同じく隣に腰を下ろして正太郎は聞いた。


「ああ、これな!」


 おれは得意気にそれを見せる。


「葉っぱ?」

「草笛」

「草笛?」

「そう」


 正太郎は草笛を知らないみたいだった。

 おれが渡した葉っぱを不思議そうに見つめながら、首を傾げている。


「ほら。こうやるんだよ」


 懐からもう1枚葉っぱを取り出して、おれは正太郎に吹いて聞かせた。

 さっきも吹いた、あの曲。


 とーおりゃんせー、とおりゃんせー。

 続きのわからないあの歌を。


「本当に草の笛なんだ」


 感動を露にしながら、正太郎も同じように葉っぱに口を付けた。

 でもそこからは息の抜ける音しかしない。

 いくら吹いても、ふぅーふぅーという空気の音がするだけだった。


「こうだよ」


 おれは音が出なくてがっかりする正太郎に、まず葉っぱの持ち方を教えて、次に音の出し方を教えた。


「こう?」

「そう。吹いてみて」


 でも、残念ながらいくら教えても正太郎の葉っぱから音がすることはなかった。


「げほっ!ごほごほ!」

「大丈夫か!」


 それでも何度か挑戦していると、正太郎は苦しそうに咳き込んでしまった。

 苦しそうな様子にすごく心配になる。


 そんなおれに気付いてか、咳が止まると正太郎は目に涙を溜めたまま微笑んだ。


「大丈夫だよ」

「本当?」

「うん。ちょっと頑張りすぎただけ」

「そっか」


 おれはほっと息を吐いた。


 よかった。

 尋常じゃないむせ方だったから、どうしようと焦った。


「もっと練習するよ」

「うん。でも無理するなよ」

「……わかった」


 正太郎は指先で葉っぱをくるくると回して遊びながら小さく頷いた。


「その葉っぱあげるよ」

「え?」

「そしたら、練習できるだろ?」

「……ありがとう」


 その笑顔が、この雪みたいにもうすぐ跡形もなく消えてしまいそうに見えて、どきんと胸が不吉に鳴った。


「あ、平助」

「え?」


 呼ばれて慌てて振り替えると、正太郎が俺の顔に手を伸ばしていた。


「泥だらけ」

「い、いいよ!汚れるぞ、それ!」


 おれなんていつも泥だらけだ。

 そんなの気にしたこともない。

 なのに正太郎は汚れた俺の顔を拭ってくれた。


 柔らかい真っ白な手拭いで。


「ハンカチは拭くためにあるんだよ」


 くすりとまた笑いながら、正太郎は俺の顔をごしごしと擦る。

 綺麗な染みひとつない白が、あっという間に黒くなった。


「ハンカチ?」

「うん」

「って、この手拭いのこと?」

「そう」


 初めて聞いた。

 変な名前の布だ。


 そう思ったのがばれてしまったようで、


「ふふ」


 正太郎は声をあげて笑った。

 そして、一通り顔の汚れが落ちたのか、


「はい、手も拭きなよ」


 穏やかな笑顔で差し出されたそれを、躊躇いながら受け取った。


 正直に言って戸惑った。

 だって、こんなに綺麗な手拭いは初めて見る。

 既にかなり汚してしまったけど、もともとは白一色の布に細かな模様が入っていたのがわかった。


 おれの中に罪悪感が生まれた。


「これ、洗って返す」

「え?」

「きっとまた綺麗にして、返しに来るから」

「気にしなくていいよ」

「駄目だ。洗って返す」


 ちゃんと真っ白に戻るかなと言う心配はあるけど、そうしなければおれの気がすまなかった。


「……うん。じゃあ僕も、草笛練習して待ってるよ」


 なぜか正太郎は嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ約束な!」

「うん」


 指切りを交わす。

 その手が驚くほど暖かくて、気持ちよかった。


「……また、遊ぼう」


 指を解くと、正太郎は小さな声でそう言った。

 そして、次の瞬間。

 ゆっくりと倒れた。


「正太郎!?」


 慌てて身体を揺り動かしたらものすごく熱くて、おれは助けを求めて叫んだ。

 すぐにお手伝いさんらしいおばあさんがやって来て、すぐに医者を呼んでくれたけど、おれは医者が来る前に帰された。


 おばあさんは、ここに来たことを誰にも言ってはいけないと言った。

 どうしてそんなことを言うのかな。


 そんなの駄目だよ。

 だっておれ、ハンカチを返しに来なくちゃならないんだ。


 正太郎、大丈夫かな。

 あんなに熱があったなんてわからなかった。

 あの時のひどい咳も、もしかしたら病気だったのかもしれない。


 父ちゃんだったら絶対に気が付いたのに。

 おれは、気が付けなかった。




 翌日。

 正太郎の屋敷を訪ねても、取り合っては貰えなかった。

 おばあさんは、おれにごめんねと謝った。


 どうしてだろう。

 おばあさんは泣いていた。


 ハンカチは真っ白には戻らなかった。

 どんなに頑張って洗っても、俺の付けた泥は薄く残り続けた。


 しかも、ごしごし洗いすぎたのが悪かったのか、元のふわふわした柔らかさもなくなってしまっていた。


 それでも約束したんだ。

 返しに行くって。


 だからおれは、何度も正太郎の屋敷へと足を運んだ。


 でも、その後すぐに、おれは知った。

 葬式という最悪のかたちで。


 あの日、お前は死んでしまったんだとわかった。


 手の中で白いハンカチがぐしゃりと潰れた。


 返せなかった。

 約束したのに。


 おれはあいつに返したかった。


 ずっとずっと、その想いだけが心の中にあり続けた。

 年老いて、天寿を全うする瞬間まで。


 ずっと心残りだった。






 思い出した。


 “俺”は“おれ”だった頃を、思い出した。


 必ず返しに行くと、また会おうと約束した。

 でもそれは叶わなかった。


 ならおれは、生まれ変わってでも返しに行くよ。

 このハンカチは持って逝けないから、別のものになってしまうと思うけど。


 でも、絶対返しに行く。

 絶対。




 歩行者信号が点滅すると共に、音が警告音に変わった。

 その音に俺ははっと我に返る。


 そして無意識に振り返った。


 もちろんそこには何もない。

 忙しなく人が行き交うだけだった。


 今、どうして振り返ろうと思ったのか、わからない。

 でも、そこで誰かが笑ったような気がしたんだ。


「……なんだ、これ」


 いつの間にか、頬を涙が伝っていた。


 なんだろう。

 この気持ちは。


 悲しいのに嬉しい。

 切ないのに、優しい。


 どうしてこんな気持ちになっているのか、俺は思い出せなかった。


 理由もわからないのに涙は止まらず、俺は配らないといけないティッシュで鼻をかんだ。

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