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メビウス  作者: 和泉 兎
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正太郎

 熱い。

 身体が燃えるように熱い。


 どうやらまた熱が上がってしまったみたいだ。


 二十帖の広い和室の真ん中で、ひとりで眠るのにはもう慣れていた。

 でも、なんとなく寂しいのは僕が病気だからだろうか。


「……こん、こんこんっ」


 全身を揺らすような苦しい咳が止まらない。

 ひゅー、ひゅーと聞こえるのは自分の呼吸の音だ。


 布団の中で何度も寝返りをうって寝苦しさをまぎらわせるけど、息をするだけで辛い。

 早く治まれと願いながらただひたすらに耐えていた。


 微かな物音がして、すすっと障子が開いた。

 目を向けてみると外はすでに明るくて、もうとっくに朝がきていたようだった。


「正太郎さん、大丈夫ですか?」


 声を掛けてくれたのはタエさん。

 うちのお手伝いさんだ。


 タエさんは静かに和室に入ると、手に持ったお盆をそっと畳に置き、心配そうに僕の枕元に膝をついてから額に手を当ててくれた。

 ひやり、と冷たく感じる手は気持ちがいい。


「まだお熱が高いようですねぇ。お粥さんお持ちしたんですけんど、食べられますか?」

「うん」


 お腹はすいていなかったけれど、頷いた。

 タエさんは背中の下に手を入れて僕を起こすと、すぐに身体を冷やさないようにと羽織を掛けてくれる。


「ありがとう、タエさん」

「いいんですよ、正太郎坊っちゃん」


 にっこりと笑い掛けてくれるタエさんの顔には皺がいっぱい。

 歳は僕のお祖母様と同じくらいなのに、皺の数はタエさんのほうが比べ物にならないくらい多かった。

 僕はそんなタエさんが好きだった。


「お父様は?」


 一応、訊いてみた。


「奥様と、清次郎さんとお出掛けなさいました」


 少し言いにくそうに眉を下げて、タエさんは教えてくれる。


「そう」


 清次郎は弟。

 二人兄弟の、僕は兄だった。


「正太郎さんもお熱がなければ行けましたですのに……」

「無理だよ。熱がなくても僕は行けないよ」


 わかってるんだよ。

 ちゃんと。


 タエさんは、今度は何も言えずに目を伏せると、土鍋からお茶碗にお粥をよそってくれた。

 僕はそれを受け取って、ゆっくりと食べ始めた。


 そう、わかっている。


 僕はこの大きな家の長男だけど、跡取りにはなれない。

 家は弟の清次郎が継ぐのだと、お父様が誰に公言したわけでもないけれど、もう暗黙の了解となっていた。


 僕は生まれつき身体が弱い。

 医者は二十歳まで生きられないと言った。


 二十歳まで、あと九年。

 そんなに生きられるのかも怪しいのもだと、自分でも思っていた。


 だから、両親は社交場には僕ではなく清次郎を連れていく。

 そして僕は、いつもこの広い部屋の真ん中で布団に横になっていた。


 お父様のこともお母様のことも清次郎のことも、僕は好きだ。

 みんな優しく接してくれるし、今日のように外出するときはタエさんがいてくれるから、不自由もない。


 ただ、無性にどうしようもなく寂しいときがあるだけだった。


「ごちそうさま」


 半分以上お粥をお茶碗に残したまま、タエさんに差し出した。


 もう食べられそうにない。

 せっかく作ったお粥をこんなに残す僕にも嫌な顔ひとつしないで、タエさんはお茶碗を受けとると土鍋の載ったお盆をもって部屋を出て行った。


 タエさんがいなくなると、途端にしんと静かになる。

 僕は横になろうと思ったけど、なんとなく縁側に出てみたくなって、布団に入るのを途中でやめた。


「こん、こんっ」


 布団から出ると寒くてまた咳が出た。


 着物の前をしっかり合わせて、羽織をしっかり着込む。

 畳に触れた足の裏が冷たいけれど、足袋がどこにあるのかわからないからそのまま歩いた。


 眩しいくらいに白い障子の前まで来ると、そっと手を伸ばして開ける。

 冷たい空気が刺すように肌に触れた。


 肺が驚かないように、口許に白いハンカチを当てて外へ出てみる。

 そこは見慣れた庭ではなくて、真っ白な雪景色だった。


「そうか、雪が降ったのか」


 僕は暫くその景色を眺めていた。


 雪は綺麗だ。

 真っ白で、輝いていて、綺麗。

 魅せられたようにぼんやりと見つめていた。


 しばらくそうしていると、やんでいた雪はみぞれとなって降り始め、いつしか雨に変わった。


 雨が降ればこの雪はあっという間に溶けてなくなってしまうだろう。

 また少しの寂しさが沸き上がってきた。


 しとしとと軽やかに落ちてくる雨の音を聞いていると、不意に何か別の音が聞こえた気がした。


「今のは……」


 もう一度耳を澄ませる。


 ……。

 やっぱり聞こえた。


「笛の、音?」


 掠れていて、音程もふらふらで、とてもまともな曲になっていない。

 でも確かに聞こえる。


 それは庭を越えた向こう側から響いてきていた。


「だ、誰かいるの?」


 僕は勇気を振り絞って声を掛けてみた。

 でも小さい声は雨に吸い込まれてしまったようで、誰も返事を返してはくれなかった。


「……行ってしまったのか」


 笛の音ももう聞こえない。

 庭の先の大和塀を見ながら、もう少し大きな声で呼び掛ければ良かったと後悔した。


 ぶるり、と身体が震えた。

 どうやら冷えてしまったようだ。

 これでは、また熱が上がってしまうかもしれない。


 僕は部屋に戻ろうと踵を返した。


「う、わっ。おっと!」


 いきなり聞こえた声に慌てて振り返る。


「よっ、と」


 目を凝らすと、さっきまで見ていた大和塀の瓦に手が掛かっているのを見つけた。

 続いて現れたのは黒い髪。

 そして次にひょっこりと薄汚れた顔が姿を現した。


「だ、誰?」

「お前こそ誰だ?」


 霧雨の降りしきる中、それが平助との出会いだった。




 平助は草笛を教えてくれた。

 さっきの音は草笛の音だったんだ。


 縁側に並んで座って、平助が懐から取り出した萎びた葉っぱをふたりで吹いた。

 残念ながら強く息の吹けない僕には難しくて、音はでなかった。


 でも、平助も掠れた音しか出ていない。

 なのに先生気取りなのが可笑しかった。


 今は冬だからいい葉っぱがなくて、ちゃんとした音がでないって言っていたけど、きっと春の草だって同じなんでしょう?


 僕は初めてできた友達が嬉しくて、はしゃいで、笑った。


 楽しかった。

 本当に。


 そしてそれは、最初で最後の、友達と遊んだ記憶になった。


 いつの間にか寂しくなくなっていて、心も身体も熱くなって、僕は意識を手放してしまったから。


 平助が僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、もう応えられなかった。


 眠いんだ。

 とても。


 だから、また目が覚めたら遊ぼう。

 草笛を吹こう。




 音楽は楽しいね。

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