7. バルバラの領域【2】
(私生活を覗き見されている男たちには同情するが、要するに記憶さえ無くさなければいいわけだ)
――ここは少し譲歩してみるべきではないだろうか。
ヘンドリックは眉間を揉みながら深い溜息を吐いた。
「……では、これまで集めた分については、そのまま所持しておいても文句を言うまい。しかし、今後は彼らの夢を切り取って蒐集することを止めろ」
バルバラはムッと唇を尖らせた。
「あら。随分と上から目線ですのね、偉そうに。あなた、ご自分があたくしに命令できる立場だと思っていらっしゃるの?」
「例え夢魔であろうと、風紀を乱す者を野放しにはできん」
「そんなの、あたくしの知ったことではございませんわ」
にべもなく言い放つと、バルバラは宙に浮き上がり長椅子に寝そべるように姿勢を崩した。
「このままでは教会に目をつけられるのだぞ? 異端審問にかけられてもいいのか!?」
バルバラはいかにも退屈そうに自分の爪を眺める。
「どうでもいいですわ。もし捕まったとして、あなた方が瞬きをしている間に自分の領域に帰って来られますもの。あなたの言うことに従って、あたくしに何の得があるのでしょう?」
ヘンドリックは言葉に詰まった。バルバラの言う通り、現実と夢を自由に行き来できる夢魔にとって、現実世界で迫害を受けることなど大したことでもないのだろう。
(だからと言って、このまま放置するわけにはいかん)
バルバラは逃げおおせるかも知れないが、この現象が教会の耳に届けば、夢魔とは全く無関係な人間でも「疑わしい」というだけで尋問され、ほぼ間違いなく処刑されることになる。下手をすれば、記憶を失った部下たちが悪魔や魔女と関係を持ったのではないかという疑いをかけられかねない。悪魔祓いで済めばいいが、十中八九、悪魔祓いを受けた後に異端審問にかけられるだろう。
――彼らのためにも、何としてでもバルバラを説得しなくてはならない。
しかし、頼み込んだところで、バルバラに利がなければ頷かないだろう。
悪魔と交渉し契約を結んだ者は死後に主の許へ行くことを許されず、地獄に堕ちるとされている。それは神を崇める者にとって最も恐ろしいことだ。
それは恐らく、教会が金銭と交換で交付している免罪符をもってしても贖いきれない罪だろう。
考えれば考えるほど、震えるほどに恐ろしい。――しかし。
――多くの命を救うためならば、例え地獄に堕ちようとも、やらなくてはならないのだ。
ヘンドリックは覚悟を決めた。恐怖に乱れつつあった呼吸を整え、強い意思を持ってバルバラを見る。
「分かった。それなら、交換条件といこうではないか」
「交換条件?」
「そうだ。あなたには、人間の夢を切り取ることを止めてもらいたい。その代わりに、私の夢であれば好きなだけ持っていくがいい。更に私の精気も好きな時に好きなだけ喰っても」
「え? お断りします」
ヘンドリックが言い終わらないうちに、バルバラがばっさりと切って捨てた。
「何が悲しくて、趣味を我慢してまであなたの激マズ精気を食べなくてはなりませんの? それに、自室と騎士団を往復するだけで何の面白味もない生活を送っていらっしゃる方の夢なんて、全くもって興味がございませんわ」
あまりにも酷い言われように、稲妻が脳天を直撃したような衝撃を覚えた。
「激マズ……!? 何の面白味もない生活……!?」
――そんな風に思われていたとは。
ヘンドリックはがっくりと床に頽れた。夢魔の評価など意に介さなければいいのに、何故か酷く心を抉られている。これは暫く、立ち直れそうにない。
床に両手を両ひざをついたままブツブツと言っているヘンドリックを見て、多少の罪悪感を覚えたのか、バルバラは不承不承といった風に訂正した。
「あら、激マズがお気に召しませんの? では、『驚くほど不味い』ではどうかしら?」
「表現が変わっただけで、結局言っていることは変わらないではないか」
「……まあ、そこまで落ち込まないでくださいな。あなた、外見だけは整っていらっしゃるのですから、ね?」
「外見だけ……」
これまで伯爵家の次男という出自と騎士という身分に恥じぬよう、己を律してひたすら真面目に生きてきた。家督を継ぐわけでもないからと縁談に積極的にもならず、王家と民草を護るために必死で働いてきたのに。
――気付けば二十八歳にもなっても未だに独身で、おまけに人間でないとはいえ、若い令嬢からは『つまらない男』のレッテルを貼られた。
「ねえ。そう落ち込まないでくださいな」
「つまらない男……」
ヘンドリックのあまりの落ち込みように、バルバラは大きな溜息を吐いた。
「ああ、もうっ! 分かりましたわ。傷つけてしまったお詫びと言っては何ですけれども、交渉次第では殿方たちの夢を切り取るのを諦めてもよろしくてよ」
ヘンドリックはゆるゆると顔を上げた。
「……本当か?」
「ええ、女に二言はなくってよ! ですからこちらに来て座ってくださいませ」
ヘンドリックが椅子に座ると、バルバラは姿勢を正した。
「ようございます。では、あたくしが夢の蒐集を諦める代わりに、三つ条件がございます」
バルバラは白魚のような手を上げると顔の前で指を一本立てる。
「まず、あたくしの見目麗しい殿方鑑賞を邪魔しないこと。見ているだけで誰にも危害を加えていないのですから、文句を言われる筋合いはございません」
確かに、人間の女性だって美青年に秋波を送ることがあるし、男に至っては美女目当てで酒場に通ったりするので、これを夢魔というだけで禁止するのは不公平といえよう。
「あくまで見ているだけなら、問題ないだろう。承知した。二つ目は何だ?」
「二つ目。美味しそうな方々の精気を食べることを見逃してくださいませ」
ヘンドリックは慎重に頷いた。精気を喰うだけならば記憶も失わず、体調に影響も及ぼさないはずなので、これは想定内の要求だ。
「……喰われた者の健康を害さない程度なら、問題ない」
「それはもちろんですわ。あたくしだって、無駄に命を奪うのは不本意ですもの」
「そうか。では、三つ目は?」
「あたくしを宮廷舞踏会に連れて行ってくださいませ」
「宮廷舞踏会? 人間の宮廷舞踏会のことか?」
「ええ、その通りでございます。あなたの身分であれば人間の舞踏会に招かれることも多いのではございませんか? その際にあたくしを伴って参加していただきたいの」
確かに、伯爵家の人間であることに加えて、ヘンドリック自身も騎士爵を持っているし、騎士団として舞踏会の警備に当たる場合もある。
「連れて行くのはやぶさかでないが、一体何が目的なのだ?」
「宮廷舞踏会なんて、政治的な思惑や嫉妬と羨望など、人間の欲望をギュッと一か所に集約した素敵な宴ではございませんか! あたくしにとっては食べ放題の晩餐会のようなものですわ」
「あなたのことだから、私が連れて行かなくても自分で潜り込めるのではないか?」
「確かにその通りですけれど、こそこそ隠れていなくてはなりませんし、それに単純に人間の舞踏会を楽しみたいというのもありますの」
バルバラはぷっくりとしたバラ色の唇で弧を描く。
「さて。以上があたくしの条件ですけれども、いかがなさいます?」
ヘンドリックはバルバラの提案を頭の中で反芻する。「お前の魂を寄越せ」など無理難題を突きつけられるかと思ったが、あまりにも単純な要求で拍子抜けしている反面、だからこそ言葉の隅に罠があるのではないかと勘ぐったのだ。
舞踏会に連れて行くだけで記憶を失くす男がいなくなるなら、願ってもないことだ。しかし、バルバラと連れ立って公の場に行くとなると、ヘンドリックと彼女が近しい間柄であると宣言しているようなものだ。
もしそこでバルバラが夢魔であるとばれたら、確実に自分は悪魔と契約したとして火刑に処されるだろう。下手をすれば家族にまで累が及ぶ可能性も否定できない。
(私ひとりが咎を負えば済む問題ならいいが……)
ヘンドリックは逡巡する間伏せていた目線を上げてバルバラを見た。
「ひとつ条件をつけさせてもらいたい」
バルバラは身振りで先を促した。
「決してあなたが夢魔であることが露見しないよう、言動には気を付けると誓えるのなら、あなたを伴って舞踏会へ行くと約束しよう」
「ようございます。できる限り努力すると誓いましょう」
不安は拭えないが、ここで交渉が決裂した場合は、家族はおろか騎士団までも巻き込んで処刑一直線なのだ。ここは不安を呑み込んで合意すべきだろう。
「承知した。それでは、これで契約成立だな。……ところで夢魔との契約には何が必要なのだ? 血か?」
バルバラは心底呆れたように目を眇めた。
「あなた、物語の読み過ぎではなくて? 特に何もしませんし、契約書などを書いていただく必要もございません。口約束ということですわね」
「そうなのか?」
「ええ。あなたがお約束を破っても罰を与えることもございません。あたくしが趣味を再開するだけのことです」
てっきり禍々しい魔法陣を描いたり、血を一滴垂らしたワインを飲み交わすなど、仰々しい儀式を想像していたヘンドリックは拍子抜けしてしまった。
バルバラは場をとりなすようにパチンと両手を合わせた。
「さて。交渉も済んだことですし、そろそろあなたを現にお送りいたしますわ」
「舞踏会の招待を受けたら、どのようにあなたに知らせればいいのだ?」
「その時はあたくしに招待状を渡すところを思い描いてくださいませ。あなたの白昼夢にお邪魔いたしますから」
「承知した」
ヘンドリックが椅子から立ち上がると、バルバラもそれに倣って立ち上がる。その場で恭しく淑女の礼をした。
「それではセラリアン卿。舞踏会を楽しみにしております」
「コンティーヌ嬢、本日はあなたの領域にお招きくださってありがとうございました」
「それでは、ごきげんよう」
悠然と微笑むバルバラの姿が霧に巻かれる。視界が晴れた途端ぐらりと身体が傾いで、ヘンドリックはたたらを踏んだ。
「うわっ」
何とか踏みとどまってホッと嘆息した。自分の置かれた状況を確認しようと首を巡らせると、どうやら自分は元にいた街角で、民家の壁に背を預けて立ったままウトウトしていたらしい。
持ち物を検めてみても、特に紛失しているものはない。太陽の位置からいっても、あまり時間は経過していないようだ。
「……不思議な体験だったな」
ヘンドリックは独り言ち、軽く頭を振って帰路に就いた。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。