5. 白昼夢
霧が晴れると、二人は先ほどと全く同じ場所に立っていた。
「さあ、参りましょう」
キョロキョロと辺りを見渡すヘンドリックを尻目に、バルバラは優雅に歩き出す。
いつの間にか彼女の髪は紫色に戻っていて、着ているものも先ほどの平民の服とは打って変わり、薄紫色布に銀糸で精緻な刺繍が施されたウプランドになっていた。
「いつの間に着替えたのだ!?」
「現実と違って、ここではあたくし、自分の姿は思いのままに変えられますの」
――何て便利な。
ヘンドリックが感心している間にも、バルバラはどんどん進んで行く。
民家の角を曲がると、先ほどの市場に出た。しかしどういうわけか、人がひとりもいない。そのまま人気のない通りを進んで行くと、ぎゃあぎゃあと姦しい声が聞こえてきた。
先ほどの三人がまだ成果店の前で言い争っているようだ。
バルバラは少し手前で別の店舗の陰に身を隠した。ヘンドリックもそれに倣って身を屈める。
「ここは何処なんだ?」
「ここは、先ほどの奥様の夢の中ですわ。とは申しましても、実際に寝ていらっしゃるわけではございません。今この瞬間も彼女は言い争っているのですが、あたくしは彼女の夢と現の間へ滑り込みましたの」
「起きているのに夢に入る? 夢と現の間? どういうことだ?」
「白昼夢をご存じでしょう? ぼんやりと空想に耽っている時、目は開いて現実を見ていますけれど、頭の中ではまるで夢でも見ているように色々な景色が『見えている』のではなくて?」
「そう言われると、確かにそのような時があるな」
「あれが白昼夢です。そして、白昼夢とは夢と現の間の呼称なのですわ。人は想像や空想に耽る時だけその空間に入り込むのです。我々夢魔は本人の意思と関係なく、どなたの白昼夢にも自由に出入り可能なのでございます」
「そうだったのか……」
ヘンドリックは改めて周囲を見渡す。それにしてもよくできている。そうと知らなければ、現実の市場と見分けがつかないだろう。
「それにしても、何故この街には人気が少ないのだ? 現実では、彼ら三人は野次馬に囲まれていたはずだが、三人以外の姿が見えない」
「それは、あの奥様の意識が自分たち以外に向いていないせいでしょうね」
言い争いに夢中になっている間は、他人のことなど意識から外れてしまうということなのだろう。
「あたくしは美味しそうな方の白昼夢や夢の中に滑り込んで、その方の感情の混じった精気をいただいておりますの。決して精気を食べたいが故にあたくしがその方の感情を操っているわけではございません」
ヘンドリックは釈然としないまま口をひん曲げた。バルバラは嘘を言っているようには見えないが、彼女は所詮、悪魔の一種だ。言葉を鵜呑みにしていいとは思えない。
「しかし、人の感情が波立つような夢を見せることはできるのだろう?」
バルバラはすんなりと頷いた。
「その方が眠っている時ならば、夢を操ってあたくしが見せたいものを見せることも可能ですわ。けれど、白昼夢を操ることはできません。白昼夢は完全にその方が支配する領域ですから」
「ふむ……」
疑わし気なヘンドリックの視線に、バルバラはうんざりしたように目をぐるりと回した。
「ああ! 本当に頑固な殿方だこと! 兎に角、もう少しこの奥様の白昼夢を見学いたしましょう」
「分かった」
しばらく二人は店の陰から無言で三人を見守っていたが、バルバラは何を思ったのか、突然商店の外壁を抉ると、ボリボリと食べ始めた。
「何をしている!」
「んん~! なんって濃厚な嫉妬でしょう!! 美味しゅうございます」
恍惚とした表情で壁を咀嚼しているバルバラを見て、ヘンドリックはげんなりと吐息を漏らした。見ているだけで気分が悪くなってくる。
「……夢の主の精気を使って壁の一部を食べ物に変えられないのか? どうも建物を食べているのは、見ていて気持ちのいいものではなくてな」
ヘンドリックの言葉に、バルバラは意外そうに目を丸くした。
「あら、そんなこと考えたこともありませんでしたわ」
バルバラ曰く、夢魔は本来目に見えない精気を喰う生き物のため、精気がどのような姿形をとっていても、特に食欲が左右されないらしい。
「ここは白昼夢ですので、建物自体を人間が食べるような料理に変えることはできませんが、建物から抉り取った欠片であれば、あたくしの意思で変化させることができるはずですわ。あくまで推測ですけれども」
バルバラは再び壁を抉ると、手に持った欠片をじっと見つめる。「えいっ」という何とも可愛らしい掛け声をかけると、壁の欠片が真っ赤なリンゴへと姿を変えた。
「やりましたわ!」
「う、うむ」
彼女は目をキラキラと輝かせてヘンドリックを見上げる。大輪の花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
それを見た途端に、ヘンドリックの胸の奥がキュッと締め付けられたような妙な感覚がした。
(何だ今のは? 他人の白昼夢に居座っているせいで身体に変調が出始めたのか?)
バルバラは嬉しそうにリンゴを齧った。シャクッと小気味のいい音がする。
「あら、しっかりと嫉妬の味がいたします。あなたもおひとついかが?」
「いや、遠慮しておく」
人の精気で作ったリンゴ、しかも嫉妬の味がするものなど食べたくもない。
「ご安心なさって。人間には他人の精気を摂取する能力がありませんから、これを召し上がっても『リンゴを食べた』と錯覚するだけです。夢の中で何かを食べてもお腹が満たされないのと同じですわね」
ヘンドリックが渋い顔をしたままでいると、彼女は肩を竦めた。
「まあ、無理にとは申しませんわ。あら。素敵な修羅場がお開きになったようですわ。衛兵が来てしまったようです。残念」
言われて振り返ると、街を巡回していたであろう衛兵が、三人の間に割って入っていた。
バルバラはリンゴを全て食べ終わるとリンゴの芯を道端に放った。芯は地面に触れるなりフッと消える。
「さて。あたくしの領域に参りましょうか」
「待て。この白昼夢の主は、我々がここにいた間の記憶を失うのだろう?」
「いいえ。失いませんわ。だってあたくし、白昼夢の一部を切り取っていませんもの。彼女はあたくしたちが入って来たことも、出ていくことも知らないままです。違和感すら感じていらっしゃいませんわ」
では、騎士団が遭遇している現象と違っているのではないか。
疑問が顔に出ていたのか、バルバラは苦笑した。
「まあ、兎にも角にも、あたくしの領域へいらっしゃいな。どういうことか、ゆっくりと説明して差し上げますわ」
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。