4. 素敵な修羅場
渡り廊下でバルバラと遭遇してからひと月あまり。ヘンドリックは騎士団長という身分でありながらも、時間さえあれば街中を巡回して彼女を探しているが、未だ見つけることができないでいた。
その間にも、騎士団では週に二人程度の割合で新たに記憶の一部を失う者や、二度三度と被害に遭うものが出続けている。
バルバラが美青年鑑賞が趣味だと豪語していた通り、被害者は一様に若く整った容姿をしていた。その中でも繰り返し被害に遭う者は大抵女性関係が派手だったり素行に問題があったりと、バルバラ曰く「美味しそうな精気」の持ち主だ。
(クソッ、あの夢魔め! 味をしめたに違いない。私の部下を何だと思っているのだ)
ただ闇雲に街中を探し回る事しかできずに悶々とした日々を送っていたある日。
非番だったヘンドリックは巡回ついでに市場に来ていた。多くの人が通りを行き交い、買い物客と自分の店の商品を売り込む店主たちの声で活気溢れている。
人々の様子に特におかしなところも見られず、建物の陰からこそこそと男を覗いている女も見られない。そのまま市場を通り抜けて別の場所へ移動しようとしていると、前方から女の金切声が聞こえてきた。
「ちくしょうっ、アバズレめ! あたいの夫に手を出しやがって!!」
ガタンと何かがぶつかる音に次いで、広がる人々のどよめきに、ヘンドリックは胸騒ぎを覚えた。
「悪い、通してくれ」
ヘンドリックが人混みを掻き分けながら足早に声のした方へ進むと、青果店の店先で女二人が取っ組み合いになっていた。
「誰がアバズレだって!? あんたがそんな猪みたいな面してっから、旦那の心が離れるんだよ!」
「何だって!? もういっぺん言ってみな! 嫁き遅れの年増のくせに!!」
「キィィィ~ッ!!」
傍らではひょろりとした体躯の優男が、オロオロしながら二人を交互に見ている。どうやら件の夫のようだ。
「あああ、アンヌ、乱暴は止めておくれ」
「うるさいっ! あんたは黙ってな!」
「そうだよ! 大体あんたが優柔不断だから……」
掴み合っていた女二人の怒りの矛先が夫に向かうと、彼はヒッと息を呑んで竦み上がった。女たちは目を吊り上げて男に詰め寄る。
(何だあの情けない男は……。不貞を働いたのか?)
ヘンドリックは眉を顰めた。グランティア王国では既婚男性が妻以外の女性と関係を持った場合、相手が既婚であれば姦通罪を適応されるが、未婚女性であれば罪に問われることはない。とはいえ、不貞は不貞である。
(妻以外の女性とふしだらな関係になるなど、言語道断だ! 乱れ切っている!)
ふつふつと湧き上がってくる不快感を押し留めていると、どこからともなく小さな呟きが聞こえた。
「んまあっ! 何て素敵な修羅場でしょう! もっとおやりになって!」
ともすれば喧噪の中に紛れて聞こえなかったであろうほどの小さいものだったが、ヘンドリックの耳は鮮明にその柔らかな声を拾った。
反射的に辺りを見渡すと、彼から数人隔てた人垣の中に白い頭巾を被った若い女の姿を見つけた。
(――バルバラ!!)
バルバラは以前と同じ茶色の髪に琥珀色の瞳に擬態していた。平民と同じような衣服に身を包んだ彼女は、興奮を隠せぬ様子で三人の痴情の縺れを観賞している。柔らかそうな頬が上気してほんのりとバラ色に染まっていた。
ヘンドリックは気付かれないように足音を殺してバルバラの背後に歩み寄り、彼女の腕を掴んだ。
「きゃっ!?」
バルバラは驚いたように振り返る。ヘンドリックの姿を認めると、苛立たし気に目を眇めた。
「まあっ!! またあなたですの!?」
「見つけたぞバルバラ!」
「何度もしつこい男でございますわね。それと、名前を呼ばないでいただけますこと? 馴れ馴れしい!」
ヘンドリックはムッとしつつもバルバラの腕を掴んだまま、人垣の合間を縫うようにして進んで行く。人気のない裏路地まで辿り着くと、バルバラの両肩を押して民家の壁に押し付けた。
「あの三人は、お前が炊きつけたのか!?」
ヘンドリックが低い声で詰め寄ると、バルバラは一瞬きょとんと目を瞬いた。しかしすぐさま形のいい眉を顰める。
「あなた、何か勘違いなさっていらっしゃるようですけれども、あたくしたち夢魔に人の感情を操作する力なんてございませんわよ?」
「嘘を吐くな、この夢魔め!」
ヘンドリックはベルトにぶら下げていた瓶を外すと、中に入っていた聖水をバルバラの顔面目掛けてぶちまけた。
「聖水を食らうがいい!!」
「きゃあっ!!」
バルバラは両手で顔を覆って俯く。その間にも、ヘンドリックは首から下げていた十字架を取り出して身構えた。
「……信じられませんわ。何をなさるの!?」
彼女は両手を下げてゆらりと顔を上げた。憤怒で顔が真っ赤になっているものの、苦しんでいる様子は見られない。
(もしや、聖水が効かないのか?)
バルバラは手巾を取り出すと、イライラした様子で顔を拭った。濡れた頭巾を外すと忌々し気に地面に叩きつける。
「ならば、これならどうだ!」
ヘンドリックはバルバラの目の前に十字架を突きつける。
彼女は怒りに満ちた目でじっとりとヘンドリックを睨みつけると、十字架を手で払いのけた。
「なっ……!」
「聖水だの、十字架だの、そんなものであたくしを害せるとでも? 本っっっ当に愚かですこと!!」
彼女は背伸びをすると思い切り右手を振りかぶり、ヘンドリックの頬を引っ叩いた。バチーンという音が通りに響く。
「無抵抗の相手に水をかけるなんて、野蛮で最低な男ですわね!」
彼女はそのまま怒りまかせにヘンドリックの胸をポカスカと殴りつけるが、痛くもかゆくもない。
ヘンドリックは再びバルバラの両肩を民家の壁に押し付けた。
バルバラは明らかに侮蔑の混じった瞳でヘンドリックを頭のてっぺんからつま先まで眺めた後、馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。
「どうせ『人間が愚かな行いをするのも、感情を抑えきれないのも、悪魔がそそのかすからだ』なんて信じていらっしゃるんでしょう? 何て愚鈍なのかしら」
言い捨てると、彼女はツンと顔を背ける。
「私を愚かと罵るのなら、話せ。お前はこの街で何をしている? 騎士団の面々の記憶を刈り取っているのはお前か?」
バルバラは自分の肩を抑えているヘンドリックの手の甲に爪を立てる。そのまま肌を思いっきり抓った。
「痛っ」
「あたくし、先日申し上げましたでしょ? あなたが礼儀を弁えていらっしゃるのなら、話して差し上げてもよろしいと。――これはどう考えても、騎士がレディーに対してとっていい態度ではないと思いませんこと?」
――確かに、これは人にものを頼む態度ではないかもしれない。
しかしながら、ヘンドリックはあくまでもバルバラを尋問しているのだ。頼んでいるのではない。
だが、彼女は彼女で質問に答えてやっているという認識でいるようだ。二人の認識が違っている以上、ここはどちらかが折れないと話が先に進まないだろう。
ヘンドリックは長い溜息を吐くと、バルバラの両肩から手を離した。二歩ほど後退り、淑女に対する礼をする。
「私は第二騎士団長、ヘンドリック・セラリアンと申します。先ほどは大変失礼をいたしました。この通り、謝罪申し上げます。バルバラ・コンティーヌ嬢、どうかあなたのお話をお聞かせ願えませんでしょうか?」
ちらりとバルバラの顔を窺うと、彼女は大変満足したように微笑んでいた。少し小鼻が膨らんでいるようにも見える。
バルバラは小さく咳払いをして姿勢を正すと、ヘンドリックに向かって恭しく淑女の礼をした。
「ごきげんよう、セラリアン卿。ようございます。それではあなたを、あたくしの領域にご案内いたしましょう」
スッと差し出された小さな白い手を取ると、周囲の景色が陽炎のように揺らいだ。
「何を……!」
「心配なさらないで。あたくしの領域へお連れするだけですから。ああ、そうだわ! ちょうどすぐそこで素敵な修羅場が繰り広げられているのですもの、少々寄り道をいたしましょう!」
先ほどもだが、修羅場を素敵と形容するのは彼女くらいなものではなかろうか。
そんなことを考えているうちに、視界はあっと言う間に七色の霧に覆われた。
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