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2.  奇妙な事件【2】

 深夜の街中で不思議な夢をみた翌朝。


 ヘンドリックは軽い倦怠感を覚えながらも、訓練場へ向かっていた。隊員たちに不調を悟られまいといつも以上にしっかりとした足取りで歩みつつ、頭の中では昨晩の出来事を繰り返し考えていた。


(やはり、自分がいつ道端に腰を下ろしたのか思い出すことができない。もしやあれが、ミハイやエメリックが言っていた部分的に記憶のない状態なのか?)


 黙々と考え込んで宿舎から屋外の訓練場に至る渡り廊下を通っていると、廊下の柱の陰で訓練場の様子を窺っている女に気付いた。白いコットに青のシュールコーを重ね、頭には白いスカーフを巻いている。服装からいって、どうやら騎士団の宿舎で働く下女のようだ。 


 足音を殺して近づくと、女が何やらブツブツと呟いているのが耳に入ってきた。


「あらあら、まあまあ! あの胸板、堪りませんわ~! 上半身裸になっていただけないかしら……むふふふ」


 あろうことか、ジュル~ッと涎を啜る音までするではないか。呟いている内容もはしたなく、女の品性を疑った。


(下品な女め。男あさりでもしに来たのか?)


 むくむくと膨らむ嫌悪感に、ヘンドリックは声を張り上げた。


「そこで何をしている!」

「きゃっ!」


 女の肩が跳ねた。彼女は「いいところでしたのに」と小さく舌打ちすると、緩慢な動きで振り返る。

 その顔を見て、ヘンドリックは目を見開いた。


「お前は……!」


 可愛らしい顔立ちといい、背格好といい、昨晩夢に出てきた若い女そのものだ。違っているのは髪と瞳の色くらいだろうか。夢では紫と金という人間ではあり得ない色彩だったが、目の前の女は茶色の髪に琥珀色の瞳と、そこらへんの道端ですれ違っても違和感のない外見をしている。


「あたくしに何かご用でございますか?」


 女はにっこりと微笑んだが、その目の奥には酷く冷たいものが潜んでいる。


「お前だな、昨晩私の夢に出てきたのは!」


 女はおっとりと首を傾げた。


「まあぁ。初対面の女相手に、何とも情熱的な口説き文句ですこと」


 ヘンドリックは剣を抜いて勢いよく突き出した。女の顎下に突き刺さる直前で手を止める。刀身が日の光を受けてギラリと輝いた。


「とぼけるな! お前、道端で私に妖術をかけただろう!!」


 彼女は全く動じた様子もなく、ニタリと口の両端を引き上げた。


「あらあ。記憶を切り取ったはずですのに、あなたは覚えていらっしゃるのですねえ。やはり不味い精気をしていらっしゃるだけのことはありますわ」


「やはり、悪魔か魔女の類か……!」


 ヘンドリックは突きつけていた剣を更に押し出す。ヤギの乳のように白い女の肌に傷がつき、血が一筋流れ出た。


 女の琥珀色の双眸が一瞬だけ金色に光ったように見えた。その途端、ヘンドリックの手から力が抜る。握っていた剣が滑り落ち、音を立てて床に転がった。

 それとほぼ同時に、立っていられないほどの眩暈がして廊下の床に頽れた。何とか視線を上げ、女の顔を睨みつける。


「なっ、何を……!」


「お仕置きでございます。レディーに剣を突きつけた挙句に怪我を負わせるだなんて、騎士の風上にも置けませんもの」


「貴様、な、にもの、だ」

「あら、名乗っておりませんでした? それは失礼を」


 女は優雅に淑女の礼をした。


「あたくしは夢喰い姫バルバラ。夢魔の一族、コンティーヌ家の娘でございます。どうぞ、お見知りおきくださいませ」


 コンティーヌという家名など聞いたこともない。伯爵家の次男であるヘンドリックが知らないということは、少なくともこの国の貴族ではないだろう。


 ――そんなことよりも。


「夢魔、だと……?」


 夢魔とは、女の場合はサキュバス、男の場合はインキュバスと呼ばれる悪魔の一種で、睡眠中の人間に淫夢を見せて精力を吸い取ったり、女性に悪魔の子を孕ませるといわれていた。


 その伝承を知っているのか、バルバラは嫌そうに顔を顰めた。


「申し上げておきますけれど、インキュバスが夢の中で人間の女性を孕ませるというのは、身持ちの悪い女性が望まぬ妊娠をした時に保身のために使う、都合のいい嘘ですわ」


 バルバラは「貞操観念の緩さを夢魔のせいにしないでほしいですわ」と腹立たし気に吐き捨てた。


「悪魔の言うことなど、信じられるか!」


 彼女は声を荒げるヘンドリックを、面倒くさそうに見下ろす。


「その悪魔にしたって、あなた方がご自分の言動の責任を転嫁するために創り出した、妄想の産物じゃございませんの。本当に人間はご都合主義ですこと」


 バルバラは被っていたスカーフを取った。緩やかな曲線を描く茶色の髪が風に踊った。毛先の方から徐々に鮮やかな紫色へと変じていく。

 彼女は琥珀色から徐々に金へと染まっていく瞳で、ひたとヘンドリックを見つめた。


「まあ、あなたが何をどう思っていらっしゃるかなど、あたくしは爪の先ほどの興味もございませんの。それより、今度あたくしの趣味を邪魔したら八つ裂きにいたしますわよ!」


「趣味……?」


 バルバラは誇らしげに右手を胸に当てて宣う。


「あたくしの趣味は、見目麗しい殿方を鑑賞することですわ!!」


 ですわ……! すわ……! わ……!


 しんと静まり返った廊下に、バルバラの声が木霊していく。


 ヘンドリックは困惑して顔を顰めた。昨晩夢の中でも同じことを言っていたが、それがどういうことなのか、まるで理解できないのだ。


「美青年を誘惑して喰うのが趣味だということか?」


「誘惑などいたしません。いい加減そのいかがわしい思考をどうにかしてくださいませ! わたしくはただ物陰からじっくり、ねっとり、しっとりと眺めまわし、美味しそうな殿方を夢にご招待して、ほんのちょっと精気をいただくだけですわ」


 粘着質な目線で私生活を観察される方は堪ったものではないだろうに。ヘンドリックは彼らが気の毒になった。


「まあ、中には見掛け倒しで、不味くて食べられたものじゃない殿方もいらっしゃいますけれど……」


 ちらりと寄越された視線に、ヘンドリックはバルバラを睨め付けた。美味しく食べて欲しいわけでは決してないが、何故かいたく矜持を傷つけられたのだ。


「私の精気が不味いというのは、どういう意味だ!? 一体いつ私の精気を喰った?」


「あたくし、あなたの夢の中で建物を食べましたでしょう? 夢の中のものは草木から人物に至るまで、全て夢をみている本人の精気で構成されておりますの」


 では、昨夜バルバラが抉り取っていた商店の外壁も、ヘンドリックの精気でできていたのだろう。確かに、彼女はバリボリと外壁を貪っていた。


「あなたは清廉潔白、真面目で堅実。実に淡白で面白みのない味の精気の持主なんでございます。一部の美食家には受けそうですけれども、生憎とあたくしの好む味ではございませんのよ」


 バルバラは白くてまろい頬に手を当てて、残念そうに首を振った。

 清廉潔白とは決して貶されるような性質ではなく、むしろ良いとされているはずだ。ここまでがっかりされるのは何か釈然としない。


「あたくしが好む精気というのは、妬みや嫉み、悲しみや絶望といったドロドロで塩辛い感情を含んだものや、薄汚れた欲望に満ちて堕落した精神の持ち主が発する濃厚なものですの」


「何と悪趣味な……」


 思わず零れた呟きに、バルバラは肩を竦めた。


「何とでも仰って。人の好みは十人十色ですもの」


 眩暈が治まってきたヘンドリックは、床に転がった剣を鞘に納めた。震える膝を叱咤して何とか立ち上がる。


「答えろバルバラ。ここ最近騎士たちの記憶が一部なくなるという奇妙な現象が相次いでいるが、それらもお前の仕業なのか?」


「んまあ、何と不躾な! 婚約者でもない殿方に名前を呼び捨てにされる覚えはございませんわ!」


 バルバラは憤慨した様子で腕を組み、ツンと顔を背けた。


「話をすり替えるな! 答えなくば叩き斬るぞ!」

「やれるものならやってごらんなさいな」


 ヘンドリックは彼女の左肩から右腹にかけて、躊躇なく剣を振り下ろす。刃は確実に彼女の華奢な体を切り裂いたというのに、どういう訳か霞を切っているかのように手ごたえがなく、血の一滴も噴き出さなかった。


 驚愕に目を見開いたヘンドリックを嘲笑うように、バルバラはふわりと宙に浮いた。金貨のような瞳が残忍な光を帯びて炯々と輝く。


「うふふふふ。人間とはかくも愚かなものなのでございますね」

「この悪魔め……!」

「ふふふ。何とでもお呼びなって? それでは、あたくしはこれで失礼いたしますわ」


 バルバラは宙で礼をすると、くるりと身を翻した。


「待て! 質問に答えるんだ!」


 バルバラは肩越しにヘンドリックを振り返ると、ちらりと蠱惑的な笑みを浮かべた。


「もし次に相まみえることがございましたら、質問に答えて差し上げてもよろしゅうございますわよ。ただし、その時までにあなたが騎士らしく、礼儀を弁えていらっしゃったらの話ですけれど」


 言い捨てるなり、彼女は高笑いと共に姿を消した。



「――ちょ……」

「うっ……」

「団長!」


 強く肩を揺すぶられ、ヘンドリックはハッと目を開いた。ノルベルトが心配そうに己を覗き込んでいるのが目に飛び込んでくる。


「団長! 良かった。気が付かれたんですね!」

「私は、一体……?」


 ヘンドリックはキョロキョロと周囲を見渡し、自分が騎士団の宿舎から訓練場へ向かう渡り廊下の途中で、床に座り込んで柱に背を預けていることに気付いた。右手に抜き身の剣を握ったまま眠り込んでいたようだ。


 ――どうやら、またバルバラに夢の世界に引きずり込まれていたらしい。どうりで彼女に斬りつけても、かすり傷ひとつつけられなかったはずだ。


「こんなところで居眠りなさって、何があったんです?」


 ヘンドリックは目を瞬く。数秒の混乱の後、形のいい唇で弧を描いたバルバラの顔が脳裏に蘇る。


 「悪魔に出会った」と言いかけて、彼は口を噤んだ。悪魔に魅入られるなど、己が精神の弱い腑抜けであると公言するようなものだ。少なくとも、自分はそう信じている。


 ヘンドリックは未だ重い頭をひとつ振って立ち上がった。


「何でもない。訓練に随分と遅れてしまったようだな。先を急ごう」


 訝し気なノルベルトを尻目に、訓練場へ向かって足早に歩き出す。


(夢魔の一族、コンティーヌか……。独自に調べてみる必要がありそうだな)

※「美良乃の~」を読まれた方は、バーバラの名前が違うは何で?と思われたかもしれませんが、本作はヨーロッパが舞台のため、Barbaraのヨーロッパの発音であるバルバラを採用しています。英語圏ではバーバラと発音します。

誤字脱字は見つけ次第修正していきます。

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