22. 審問室の悪魔
若干グロテスクな表現が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
突然全身を襲った衝撃に、ヘンドリックの意識は浮上した。
「起きろ」
鼓膜を揺らす無感動な声に命じられるまま、鉛のように重い瞼を上げる。霞む視界に黒い修道服に身を包んだ二人の男が映った。その内のひとりは手に持っていた木桶を乱暴に床に投げ捨てる。
どうやら、拷問の最中に気を失っていたところ、氷混じりの冷水を頭から浴びせられたらしい。身を切るように冷たかった水は、あちこちが血糊で固まった衣服に吸われると徐々に生温かく変じた。
男は荒々しい足取りでヘンドリックの目の前まで歩いてくると、天井から吊るされていた鎖を乱暴に引き上げる。同時に鎖に拘束されているヘンドリックの両腕も引っ張られ、彼は奥歯を噛んで苦痛に耐えた。
「誰が寝ていいと言った?」
男は噛みつくように吐き捨てると、そばに置いてあった鞭を手に取る。
「さあ、白状しろ。お前は悪魔を召喚し、第二騎士団の団員を生贄に捧げたのだな?」
「……ちが、う」
からからに乾いて舌が上顎に張り付きそうになるところを、ヘンドリックは必死に唾を呑み込んで何とか掠れた声で返した。
ヒュンと鞭がしなる音の直後、背中に焼けつくような痛みが走る。ヘンドリックは奥歯をきつく噛み締めて悲鳴を堪えた。打たれた箇所が脈を持ったように疼き、熱くて粘ついたものが背筋を這って床に滴り落ちていく。
大聖堂にほど近い異端審問所の地下にあるこの審問室に連行されてから、一体どれほど時間が経過しただろう。窓のないこの部屋に鎖で吊るされ、昼も夜もなく責め苦を受け続けていると、自分は既に死んでいて、地獄で悪魔たちに弄ばれているのではないかという気すらしてくる。
(悪魔、か)
ヘンドリックの知る『悪魔』は、物陰から見目麗しい男性を眺めて満足しているだけで、決して他人に苦痛を与えて悦ぶような人ではない。
神の名の下に命を弄ぶ審問官のほうが、よほど悪魔と呼ばれるにふさわしい所業をしているのが皮肉だった。
「悪魔を召喚して何を企んでいた? 言え! 白状して己の罪を悔い改めれば、火あぶりだけは回避させてやる。いくら屈強な騎士団長とはいえ、じりじりと身を焼かれて死ぬのは恐ろしいであろう?」
ねっとりと、悪魔の囁きにも似た甘い誘惑が耳朶を犯した。全身に悪寒が走って、ぶるりと身を震わせる。
――そうだ。死は、恐ろしい。
それが想像を絶するほどの苦痛を伴う最期であるのなら、尚のこと。
――もういっそ、そうだと、認めてしまおうか。
絶え間なく続く激痛と疲労に、ぐらぐらと心が揺れる。
人間が考えつくほとんどの手段で拷問を受けて、全身に散る傷のうち、もはやどれが何によるものなのかも覚えていない。
認めてさえしまえば、楽になれる――。
そこまで追い込まれながらも、ヘンドリックは強靭な意志をもって踏みとどまった。
(いや、事実でないことを、認める訳にはいかない)
確かに、自分は悪魔の一種であるとされる、夢魔のバルバラと取引をした。しかしそれは、団員たちを地獄の業火から守るためだ。決して私利私欲のために彼らの魂を捧げた訳ではない。
ただ苦痛から逃れるためだけに認めてしまったら、自分は誇りさえも失うだろう。
――それだけは、できない。
天におわす神は、常に我々を見守っていてくださるという。だからこそ、嘘をつくわけにはいかない。例え夢魔と契約したことにより死後に行き着く先が地獄だったとしても、最期の最期まで己の意志を貫き通したのだという誇りを支えに逝きたい。
矜持だけが崩壊寸前のヘンドリックの精神を支えていた。
何度も振り下ろされる鞭に耐えているうちに、再び意識が混濁し始める。
頭の中には、家族や騎士団の面々が浮かんでは消えていく。もしやこれが、走馬灯というものだろうか。
(ノルベルトは、家族は無事だろうか……。巻き込まれていなければいいのだが……。それに、彼女は……)
眼裏に紫色の髪と金貨のような瞳の娘が浮かんだ。
――バルバラは無事だろうか。
もし自分が死んだとしても、あまり気に病まないでくれるといいのだけれど。
風変わりな娘だった。夢魔と人間という種族の差はあったけれど、惹かれずにはいられないほど、強烈な存在感をもって、ヘンドリックの心の片隅に住みついてしまった、気高く可愛らしい彼女。
「ヘンドリック様!?」
不意に絹を裂くような悲鳴がして、ヘンドリックは知らず知らずの内に閉じていた瞼を上げた。
拷問器具が並び、異臭がただよう審問室の中に、顔面蒼白のバルバラが佇んでいた。いつの間にか審問官たちはいなくなっている。
「これは一体……」
彼女は紫色の髪を振り乱しながらヘンドリックに駆け寄った。脂汗と血でべとついた彼の髪をそっと額から払う。
「何があったのです!? 誰がこのようなことを!」
「……どうしてここに? ここにいた男たちは?」
酷く枯れていたはずの声は、普段と同じようになめらかに聞こえる。
「ここはあなたの夢の中です。……あたくしをお呼びになったでしょう?」
ヘンドリックは首を傾げた。
「いや、呼んだ覚えは……。もしや、あれか?」
そういえば先ほど、走馬灯の中にバルバラの姿もあったように思う。
ヘンドリックの言わんとしていることが分かったのか、彼女は神妙な面持ちのまま頷いた。
「ええ。気を失う寸前に、あたくしの顔を思い浮かべたでしょう。呼んでくださってようございました」
バルバラはヘンドリックの腕を戒めている鎖を見上げ、痛まし気に顔を歪めた。彼女が「せめて夢の中だけでも楽になさって」と呟いて手を一振りすると鎖が砕けた。支えを失った身体が傾ぐ。そのまま見えない何かに抱きとめられ、そっと硬くて冷たい床に横たえられた。
「教えてくださいませ。一体、何が起こったというのですか?」
ヘンドリックは床に横たわったまま現在に至るまでの状況を説明した。バルバラは険しい顔をしながらも、口を挟むことなくじっと話を聴いていた。
「夢の中の紫色の髪に金色の瞳の女が、あたくしと同じ顔をしていた、ですって?」
「ああ……アベルという私の部下が死ぬ前にそう言っていたらしい」
「そう、ですか……」
バルバラは目を伏せて暫く何やら思案していたが、何かを思いついたようにヘンドリックを見た。
「彼らはこのまま拷問であなたを殺す気なのでしょうか?」
「いや、それはないだろう。異端審問の目的のひとつに見せしめがある。見せしめとは大衆に強烈な印象を与えるためのものだからな。恐らく数日以内に教会主導で異端審問が開かれるだろう」
そこで名ばかりの審議が行われ、有罪判決を受けた罪人は衆人環視の下、残酷に処刑されるのだ。
バルバラは何度か小さく頷く。固い決意を秘めた金色の瞳がヘンドリックを捕らえた。ヒンヤリとしたすべらかな手で、そっとヘンドリックの頬を撫でる。触れた個所から甘い痺れが全身に広がって、彼はそっと息を漏らした。
「……何とか、異端審問の日まで持ちこたえられますか?あたくしになりすました犯人に、覚えがございますの」
ヘンドリックは力ない笑みを浮かべて見せる。
「もちろんだとも。これでも第二騎士団を任されているからな。体力には自信がある」
バルバラは今にも泣きだしそうにくしゃりと顔を歪めた。ボロボロになったヘンドリックの手を両手で包み、そっと彼女の頬に当てる。
「あなたのことは、必ずあたくしが救出してみせます。あたくしを、信じて待っていてくださいませ」
「ああ。バルバラ、あなたを、信じている」
バルバラは壊れ物を扱うようにそっとヘンドリックの手を床に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
あどけない顔から、一切の感情が抜け落ちた。風もないのに紫色の髪が宙を舞い、金貨のような双眸が炯々と輝く。
「序列高位が唾をつけた獲物に手を出したこと、地獄の果てまで追いかけて行って後悔させてやりますわ」
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




