9. 台無しにされた夜【バルバラ視点】
ヒルデガルドと夜の歓楽街に繰り出したバルバラ。
酒場や娼館が集まる街の一角。バルバラお気に入りの狩場で欲に塗れた人間たちの精気をたっぷりと堪能した帰り道。
「いや~、美味かったねえ」
ヒルデガルドは上機嫌で腹を摩った。
対するバルバラは不満に唇を尖らせていた。
「今夜に限って平凡な見た目の方しかいらっしゃらないなんて! あたくしは美青年の精気が食べたかったのです」
人間が毎食ご馳走を食べるわけではないように、バルバラも腹が減っていれば、獲物の外見が好みでなかろうが、女性だろうが、適当に美味そうな獲物を見繕って喰っている。しかしそれは食欲を満たすだけであって心まで満たされるわけではないため、こうして不満は残るのだ。
ヒルデガルドはちらりと呆れた視線を寄越した。
「腹が膨れりゃいいじゃないさ。面倒くさい子だね」
バルバラは納得いかなかったが、せっかく親友であるヒルデガルドと一緒にいるのだからと気持ちを切り替えることにした。
酒に酔った男たちの大声や、娼婦たちが客を呼び込む声が入り混じった騒がしい通りを抜け、高級娼館のある通りにさしかかる。
ヒルデガルドは鼻をクンクンさせて、うっとりと呟いた。
「ああ……、この辺りにはいかがわしい欲望の匂いが充満しているね。もう一軒行っとく?」
「あれは貴族や堕落した聖職者が利用する娼館ですわ。……見目麗しい貴族がいらっしゃるかもしれませんわね! ええ、行きましょう!」
「そうこなくっちゃ!」
二人が進行方向を変えた直後、一台の馬車がけたたましい音を立てながら二人の方へ猛然と近づいてきた。
「おっと!」
危うく轢かれそうになったヒルデガルドは既のところで身を翻す。馬車は二人を通り過ぎた少し先で停車した。肩を怒らせた御者が降りて近づいてくる。
「貴様! 娼婦風情が旦那様の馬車の走行を邪魔するとは何事だ!」
「誰が娼婦だって、この薄らとんかちが! こんなところをすっ飛ばして通り過ぎなきゃならないほど、あんたの旦那様とやらは欲求不満なのかい!?」
「何だと貴様! もう一度言ってみろ!」
「ああ、何度だって言ってやるよ! その旦那様とやらはどうせ娼婦でも買わなきゃ女に構ってもらえない甲斐性なしなんだろうさ、笑っちまうね!」
「こいつっ……!!」
御者がヒルデガルドの胸倉に掴みかかった時、馬車から男の声がした。
「何事だ?」
バルバラが声のした方へ目を向けると、馬車の窓からフードを目深に被った人物が顔を出していた。
「これは旦那様! この娼婦が馬車の進行を妨害した挙句、暴言を吐いたのでございます」
「何? この私の御者に暴言を吐くとは、どこのどいつだ!」
馬車の中からいかにも高級そうな外套を纏った男が出てきた。フードのせいで顔立ちまでは分からないが中背で、緩やかな衣服の上からでも分かるほどでっぷりと肥えている。
激昂した風に足を石畳に叩きつけながら歩いてきた男は、バルバラとヒルデガルドを見るなり立ち止まった。
「ほう、これはこれは」
彼は大ぶりな宝石をあしらった指輪をいくつも嵌めた手で顎を摩りながら、二人を交互に見やった。
「なかなかに美しい娼婦たちではないか」
「はっ! あたしたちは娼婦じゃないよ」
「ほう。娼婦でもない若い娘がこのような所で何をしているのやら。まあ、そのようなことはどうでもいい。一緒に来て私を愉しませることができたのなら、此度の無礼は不問にしようではないか。さあ、こちらに来い」
男はたっぷりと脂肪がついた丸っこい手を差し出した。
暴食、色欲、強欲、怠惰、傲慢といった、人間の教会において七つの大罪に数えられるうちの殆どを網羅したような濃厚な精気の匂いがプンと辺りに充満する。
思わずバルバラは喉を鳴らした。
(あら、性根が腐りきってますわ! 何て魅力的な精気。……でも、まるで脂身が歩いているように見えますわ。残念!)
これが鍛え上げられた体躯の美青年なら、一も二もなく彼の馬車に飛び乗っただろうに。
ヒルデガルドはバルバラの耳元で嬉々として囁いた。
「うっひょお! これほど堕落したやつは久しぶりに見るねえ。実に美味そうじゃないか! 行こうよバルバラ!!」
「確かに魅力的ですけれども、あんなラードの塊みたいな男で飢えをしのがなければいけないほど空腹でもございませんし、あたくしは遠慮しますわ」
「そう? じゃあさ、あたしあれについて行ってもいいかな?」
せっかく極上の獲物が目の前にいるのだ。親友の狩りを止めるような無粋な真似はしたくない。
バルバラは肩を竦めた。
「お好きになさって」
「ごめん! また今度一緒に狩りに行こうね!」
ヒルデガルドは鼻歌でも歌いそうな勢いで男の手を取った。
「そこの娘、お前も来い」
男はバルバラに向かってもう一方の手も差し出す。呆れたことに、こちらの手には五本全部の指にギラギラとした指輪を嵌めている。
「何故あたくしがあなたに命令されなくてはならないのです? お断りいたしますわ」
「何だと、生意気な!」
「いいじゃないさ、あたしがとびっきり甘い夢を見せてやるからさあ。早く行こうよ」
ヒルデガルドは男の分厚い背中を押しながら馬車へと向かう。一瞬バルバラを振り返って片目を瞑ってみせた。
「む……。そうか、まあいい。今夜のところは見逃してやる。娘、次はないと思え」
男はヒルデガルドを先に馬車に乗せると「どっこいしょ」という掛け声と共に自身も乗り込んでいった。
ヒルデガルドなら男を強制的に眠らせた後、文字通り最高の夢を見せて、たっぷりと精気をいただくに違いない。
男は美女と甘いひと時を過ごしたと思い込んで幸せだろうし、彼女も極上の精気を堪能できるという、どちらにとっても愉しいひと時になるだろう。
「良い晩餐を!」
バルバラはヒラヒラと手を振ると、走り出した馬車を見送った。
「さてと、あたくしはどうしようかしら」
高級娼館で美青年を探そうとしていたが、あの肥えた男の出現によって興をそがれてしまった。
バルバラは独り街角に立ち思案した。
腹は満たされているが、心は飢えたままだ。ここは美青年を盗み見、もとい、鑑賞しに行きたいところだ。
(ふふっ、こういう時の為に、鑑賞専用の殿方リストを作成してありますのよね)
バルバラはニマニマと頬を緩めた。
あの堅物騎士団長のように、好きなだけ女と遊べる見た目と地位にありながらも欲がない男というのは、珍獣と呼んでいいくらいに珍しいが皆無というわけではない。バルバラはこれまでに目をつけておいた男たちを思い浮かべた。
(セラリアン卿を含めて三人いらっしゃいますけれど、どなたの夢にお邪魔しようかしら?)
頭の中で三人の候補を並べていると、近くから不躾な声がした。
「何だ、こんなところにお仲間がいると思ったら、バルバラじゃねえか」
声の主に気付き、バルバラのルンルンと浮かれた気分が霧散する。
半眼になって振り返ると、思った通りの人物が立っていた。
「……ごきげんよう、シモン」
幼馴染の夢魔であるシモンが店舗の外壁に肩を凭れながら、ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべていた。
彼は長身に毛皮で縁取りされた黒いプールポワンを纏い、腰に巻いたベルトから剣を下げている。帽子から覗くさらりとした長髪は金色で瞳は青だが、実際は銀糸のような髪に紫色の瞳であることを、バルバラは知っている。
「何だしかめっ面しやがって。醜女が余計に醜くなるぞ?」
昔と変わらず子供っぽくバルバラに絡んでくるくせに、容姿だけは無駄に美しく育った天敵が心底気に入らない。
「相変わらず失礼な男ですわね。では、あたくしはこれで」
ツンと顔を逸らして立ち去ろうとすると、シモンはバルバラの腕を掴んで引き留めてきた。
「さっきまでここで美味そうな匂いがしていたじゃねえか。お前、あいつが何処へ行ったか知っているんだろう? 案内しろよ」
バルバラは振り向きざまにシモンの横っ面を張り飛ばした。
「痛ぇな、何しやがる」
「薄汚い手であたくしに触れないでくださいませ」
バルバラは手巾でシモンが触れた箇所を拭い、そのまま彼の顔に投げつけた。
シモンは手巾を掴むと肩を竦める。
「相変わらずつれねえなあ」
「気安く話しかけないでいただけます?」
バルバラは怒りまかせにズンズンと歩き出したが、シモンは長い脚でゆったりと後をついて来る。
「いいのか、俺にそんな態度を取って? お前は近々俺と番うことになるんだぜ? お前みたいな変人は俺以外に選ばれる訳がないんだ。初夜に手酷くされたくなかったら、愛想の一つでも振りまいてみろよ」
「あなたのような下劣な雄と番わないといけないほど落ちぶれていませんわ」
シモンは背後からバルバラの肩を自分の胸に引き寄せた。身体が密着してしまい、不快感に総毛立つ。
「はっ、よく言うぜ。どうせまだ男と寝たこともねえんだろう」
バルバラは思い切り肘を後ろに引いてシモンの鳩尾にめり込ませてやった。シモンがぐっと息を詰まらせる音がした。
「あなたのそういう下種で無神経で鬱陶しいところが、心の底から嫌いです」
「てんめえ……」
「股間を狙わなかっただけ感謝していただきたいわ」
バルバラは人目につかない裏路地に入ると、背後でこちらを睨んでいるシモンに向き直った。
「二度とあたくしの前に現れないでいただけますこと?」
「はっ、強がってられんのも今の内だけだぜ、バルバラ。必ずお前を寝台の上でひいひい言わせてやるから、覚悟しておくんだな」
「下品このうえないこと。耳が腐りそうです。では、ごきげんよう」
冷然とシモンを見据えたまま恭しく淑女の礼をすると、バルバラは自分の領域へ移動した。移動する直前に天敵が何やら言っていたが無視してやった。
バルバラは怒りの冷めやらぬまま寝台に身を投げた。
――『どうせまだ男と寝たこともねえんだろう』
シモンの嘲りが耳に蘇る。
確かに、バルバラはまだ誰かと契ったことはない。夢魔としては珍しいのであろうが、それを馬鹿にされる謂れはない。
シモンは男性の夢魔として一人前の肉体に成長した直後から、種族問わず様々な女性と色ごとに耽っていると風の噂に聞いているし、彼自身もそれを自慢に思っているのだろう。
バルバラにしてみればそんな男と番うなど死んでもごめんだった。
「あんなやつ、女性関係が拗れて刺されればいいんですわ!」
しかし、このままでは母に無理やりお見合いをさせられ、なし崩し的にあのいけ好かない男と番わされるだろう。
――何があってもそれだけは避けなくてはならない。
「はあっ、けれど今は、考えないようにいたしましょう」
せっかくの夜を台無しにされたバルバラは、結局「鑑賞専用」の三人全員の夢に忍び込んで、じっとりねっとりとその麗しい外見を鑑賞して気分転換を図ったのだった。
誤字脱字は見つけ次第修正していきます。




