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プロローグ

「一体全体、どうしたものか」


 自分のつま先さえも見えないような霧の中、ヘンドリック・セラリアンはキョロキョロと辺りを見渡した。霧はぼんやりと七色に輝き、時折金銀の光の粒子が視界を掠めていく。


 つい先ほどまで行きつけの酒場で、自身が隊長を務める第二騎士団の隊員たちと酒を飲み交わしていた。夜も更け、隊員たちがほろ酔いになったところで、上司がいては楽しめないだろうからと、部下たちに飲み代を与えて帰路についたはずだった。――それなのに。


 酒場を出て道なりに進み、薄暗い路地の角を曲がったところで、急に視界が煙った。自分でも気付かないうちに酔いが回っていたのだろうかと何度か目を瞬いて、気付けばこの不思議な色合いの霧の中に立ち尽くしていたのである。


 視界が不明慮であるため、何に躓くか分からない。仕方なしに足裏を石畳に擦りつけるようにしてジリジリと進み、暫くすると帳が開かれるようにして急に霧が晴れた。


 いつも通りの街の光景が戻り、ヘンドリックは安堵の息を吐いた。持っていたランタンを掲げなおし、騎士団の宿舎へと続く道へと身体を傾けた時。


 バキィッ!


 石が砕けるような音が鼓膜を揺らした。彼は反射的に腰に佩いた剣の柄を握って身を翻す。しかし、異常は何処にも見られない。


 気のせいだったかと思い直したところで、またしても異様な音が耳朶を打った。


 ベキッ、バキッ、ボリボリボリ……。


 何とも不気味な音に心拍数が上がり、段々と呼吸も乱れてきた。


 ヘンドリックは忙しなく視線を巡らせて、やがて視界に捉えた人影にギクリと身を強張らせた。

 商店の石造りの外壁に隠れるようにして、何者かがこちらを窺っている。ランタンの明かりが届かず、性別や顔立ちまでは判別できないが、異様なことに、その双眸だけが獣のように炯々と金色に輝いていた。


「そこにいるのは誰だ!?」


 緊張を孕んだ声が夜の街に響き渡る。ヘンドリックは剣を抜いて身構えた。


「あらいやだ。見つかってしまったようですわねぇ」


 どこかのほほんとした若い女の声がした。


「そこで何をしている!? 出てこい!」

「お望みとあらば、参りましょう」


 女は言われるまま、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。ヘンドリックのランタンの明かりが届く所まで来ると立ち止まった。


 それはとても可愛らしい顔立ちをした、貴族とみられる女だった。


 淡い赤色の布地に金糸で豪奢な刺繍を施したローブを纏っている。それだけであれば、人畜無害な貴族のお嬢様に見えただろう。しかし、背中に垂らされた豊かな髪は紫色で、何よりそのギラギラとした金貨のような瞳が、女が人間ではないことを雄弁に語っていた。


「貴様もしや悪魔か!? 何の目的があって私の様子を窺っていた!」


 女はこてりと首を傾げた。何やら食べているようで、リスのように頬を膨らませながら咀嚼している。ごくんとそれを嚥下すると、彼女はおっとりと口を開いた。


「何ってあなた、見目麗しい殿方鑑賞に決まっているじゃございませんか」

「見目……何だと?」

「見目麗しい殿方鑑賞。あたくしの趣味でございます」


 ヘンドリックは意味が理解できずにポカンと口を開けた。


 ――若い貴族の女がひとりの従者もつけず、夜の街を徘徊して見目のいい男を観察している。しかも、目をギラギラさせて。


「貴様、男の生き血でも啜る気か!?」


 これはもう、悪魔一択しかないだろうと思った時、女は徐に石造りの家の外壁に触れた。


「ちょうど良かった。あたくしも、あなたに言いたいことがございますの」


 バキィッ!!


 あろう事か、女はその白いたおやかな指で外壁を抉り取ったのである。


「なっ!?」


 何という握力か。先ほどから聞こえていた音はこれだったようだ。

 ヘンドリックは瞬きも忘れて女を凝視する。


 彼女は涼しい顔のままその外壁の一部を口の中に放り投げた。


「おい!! 何を……!」


 女の小さな口から、石臼で粉でも挽いているような、ボリボリゴリゴリという音が漏れ聞こえてきた。

 口の中のものがなくなってから、女は眉間に皺を寄せると、ピシャリと言い放った。


「本当に、なんて不味い精気でしょう! あなた、外見詐欺も甚だしいじゃございませんか!!」


 とんでもなく失礼なことを言われても反応できないほど、ヘンドリックは混乱していた。


(精気? 不味い? この女は何を言っているのだ?)


 外壁の味とヘンドリックの精気に何の関係があると言うのか。


 困惑したままのヘンドリックにもお構いなしに、女は失望したように大仰に溜息を吐いた。


「この方は鑑賞限定ですわねぇ」


 何やら独り言ちると、女は野良犬を追い払うように、ヘンドリックに向かって軽く手を振った。


「それではあたくし、次の晩餐がございますので。ごきげんよう!」


 ヘンドリックの視界がグニャリと歪み、全てが一瞬で闇に呑まれた。


「ま、待て……!!」


 薄れゆく意識の中で、ヘンドリックは必死に声を張り上げた。





 何か温かく湿ったものが顔を這いまわる感触がして、意識が浮上する。


(何だ……? 私は、一体……)


 ぼんやりとした頭でもう朝だろうかと考えた時、耳元でハッハッと獣のような荒い息が聞こえた。


「ん……」


 ヘンドリックが鉛のように重い瞼を持ち上げると、視界一杯に犬の顔が広がっていた。


「なんっ……!?」


 ギョッと目を剥くヘンドリックの肩に前脚を置くと、犬はベロベロと顔中を舐め繰り回す。


「やめろっ……!!」


 慌てて犬を押しのけると、自分の置かれている状況が見えた。どうやら、自分は夜も更けた街中で、商店の外壁に背を凭れながら石畳に座り込んでいるようだ。傍らにはランタンと、何故か抜き身の剣が転がっている。


 ヘンドリックは剣を鞘に戻すと立ち上がった。


「私は何故このような所で……?」


 酒を飲み過ぎて酩酊していたのだろうか。口元を片手で覆って思案すると、頭の片隅を金貨のような瞳が過った。


(そうだ、確か、外壁を貪っているおかしな女がいて……)


 ハッとして周囲を見渡しても、紫色の髪も、金色の双眸も見当たらない。背を凭れていた外壁にも傷ひとつついていなかった。


「夢……、だよな?」


 ――しかし、夢にしては、自分の感じた驚きがあまりにも生々しかったような。


 何ともスッキリしない気持ちのまま、ヘンドリックは宿舎へ続く道を歩き出した。

誤字脱字は見つけ次第修正していきます。

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