第一話 異世界召喚
『魔王』
その称号を冠する獣は、数千年と古き時代『召喚勇者』によって、教皇領の中心に位置する大聖堂の最深へと封印された。
魔王は聖なる鉄鎖に縛り付けられ、動くことも眠ることも許されない。
いつしか衰えた筋肉は骨に肉薄し、休息することを忘れた目からはまぶたが消えていた。
その常に見開かれた眼球は邪悪な光を宿し、無垢なる世界への復讐を夢見続ける。
これは六七七年のこと、教皇領の地下より忘れ去られた古代の脅威が復活を果たした。大聖堂を占拠したその邪悪は『魔王』を名乗り、周辺諸国へと侵攻を進める。
一年と経たずに魔王軍は周辺諸国を席巻し、栄華を極めた王国たちは死者の亡国へと変貌した。
残るは南の内海に浮かぶモノナキニ王国のみ。唯一残されたこの王国は領土を海に囲まれていることと、宮廷魔術師たちによる強力な護国結界があることによって魔王軍に抵抗することができていた。
モノナキニ王国の王都には、かろうじて亡国の災禍から逃れることのできた王侯貴族が集結し、対魔王に関する作戦会議を進めていた。様々な案が提出されたが、どれもが現実味を帯びない空論か、到底魔王軍に対抗し得ない凡策ばかりだった。
そんな中、東の国の伯爵が声を上げた。
古代の伝説のように『勇者』を召喚するべきだ、と。
世界の命運を伝説に委ねることを嫌う者は、その案に反対した。しかし、もはや伝説に縋らねば打開できない状況が迫っていることも、また彼らは理解していた。
それから急ピッチで『勇者召喚の儀式』の準備が進められた。古い記述や現代の知識を頼りに魔法陣を再現し、術師には三十人ほどの大魔導師と呼ばれるに足る者たちが充てられた。
遂に、召喚の儀式が王宮の離れにある『魔法の斜塔』で行われる。魔導師たちを中心に、床から天井にまで伸びて描かれる細かなデザインの魔法陣。それの邪魔にならないように、周囲を囲んで見守る各国の王侯貴族たち。
大魔導師たちが魔法の杖を掲げ、呪文を唱える。するとどこからともなく嫌な感じの魔術的な風が吹き荒れて、術師たちのローブを巻き上げる。そして、詠唱が佳境に達すると魔法陣から微光が漂い始める。
今、儀式が完遂されようとしていた。
◇ ◇
「ふぅ、やっと終わった……」
俺はバイト終わりの更衣室で独り言をこぼした。独り言は俺の癖だ。スマートフォン片手にロッカーから着替えを取り出し、さっさと腕を通す。
「おっ、石川さん、お疲れさまっす」
「あ、やべ」
声を掛けてきた男女。男はバイトの制服を脱ぎながら更衣室へ入ってきて、男のガールフレンドと噂の女は途中で男子更衣室だと気づいたのか、入り口で止まってスマホに目を落とした。
「今日も店長やばかったっすね、石川さん」
「あはは……そうですね」
俺は男の愚痴に対して苦笑いでしか返せなかった。正直なところ、会話とかどうでもいいからさっさと帰りたかった。明日は一限から大学があるのだ。
帰宅の準備を済ませ、ロッカーの扉をバタンと閉じた。そこへ男が再び声をかけてくる。
「そういや、これから飯どうっすか? 彼女もくるんすけど、近くにうまいラーメン屋があるんすよ」
「……すみません明日、朝が早くて」
「あ、じゃあ、また今度行きましょう」
男は白い歯を前面に出して爽やかな笑顔を見せた。俺は羨ましいという気持ちと同時に、少しだけ申し訳ないと思った。
更衣室の出口へと進む。
その時だった。突然、足元が淡く紫色に輝いたかと思うと、俺を中心に更衣室の無機質な床に『魔法陣』としか言えない紋様が浮かび上がった。
「な、なに、マジやば」
「石川さん?」
女はスマホから顔を上げて驚き、男は俺の名前を不思議そうに呼んだ。俺はあまりに唐突な出来事に、動くことができずに足元を静観することしかできなかった。
そして、次の瞬間——
「えっ!?」
俺は落下している! 全身で重力を感じ、危機感と共に背筋に悪寒が走った。思わず目を瞑って叫ぶ。
「死ぬぅう!」
背中に衝撃を感じて、薄く目を開けたらそこには真っ暗な天井が映った。
「あれ? あんまり痛くない」
どうやら突然の出来事のために、高所からの落下と勘違いしてしまったみたいだ。実際はベッドから落ちたくらいの高さだったようだ。
「それにしても、ここはどこだ?」
俺は起き上がって、周囲を見渡す。視界の全ては完全な暗闇で、幼少期に忘れてきた原初的な恐怖が湧き上がってきた。
俺はスマホの存在を思い出して、ライト機能を起動した。ライトの直線的な光に照らされたのは大概が漂う埃と石材の床だった。当然のように通信は圏外である。
「えーと、俺はさっきまでバイト先の更衣室にいて、それで魔法陣が現れて、そして謎の場所に移動した……」
俺はこの馬鹿げた状況に頭を抱えた。まるで『異世界転移』じゃないか。そんなこと現実にあり得ないでしょ。っていうか、もしそうなら、なんでこんな真っ暗な場所に転移するのさ。普通、王様のお城とかで、王女様が歓迎してくれるものじゃないの?
「……仕方ない」
納得はできないが、区切りをつけて周囲の探索をすることにした。
スマホのライトを頼りに暗闇の中を恐る恐る進む。石の床をコツコツと歩くと、その音がどこまでも響き渡っていった。
「ハハハ……」
俺の心臓は鼓動を早めていた。それは異常な出来事に対する緊張と高揚感が原因だった。不思議なことだが、俺はワクワクしている。この変な気分のせいで俺は笑いが込み上げてきた。
その時、変わり映えのなかった暗闇の奥に、ライトの光を反射する何かを発見した。
近づいてみると、そこにはゲームかなんかで見たことあるような陳腐な遺構が刻まれた台座があった。台座には光を白く反射する真珠色の『指輪』が置かれている。
「指輪……高そうな指輪」
俺は指輪を手に取ってみた。その指輪は注視すると、紙幣の透かしみたいにキラキラした紋様が浮かんだ。
「すごい綺麗……もしここが異世界なら魔法の指輪とかあるのかな」
俺は右手の人差し指にはめてみた。サイズは驚くほどぴったりだ。まるで俺のために作られたみたいだ。
ただ、華奢な指輪は男の俺には似合っていない感じがする。っていうか、今更気づいたけど、こんな場所にある指輪、絶対やばいよな。さっさと外して戻してしまおう。
「ん? あれ? 外れない……?」
関節に引っかかっているわけではない。なのに、瞬間接着剤でくっつけたみたいに外れない。無理に指輪を引っ張ると、皮膚と一緒に動いて痛かった。
「え? うそ…でしょ。ぜっったい、まずい気がする……」
——グルルゥル……
指輪が外れなくて軽くパニックになっている俺の耳に、嫌な唸り声のような低音が聞こえてきた。ライオンとかジャガーとかそういう猛獣の類の、本能が危険信号を発するヤバいやつだ。
——グルルゥル……
まただ。また聞こえた。俺は息を殺して、鼓動を早める心臓を押さえつけるのに必死だった。唸り声は台座の先の暗闇から届いてきていた。
ただ、襲いくる気配は感じられなかった。俺はゆっくりと、スマホのライトを唸り声の先へと向ける。
「……檻?」
そこには俺の身長の二倍はある大きさの鉄格子で堅固に仕切られた檻があった。格子の間隔は人間用にしては広いというか、痩せ型の成人男性なら悠々と出られてしまいそうなほどだ。
その檻はかなり巨大な空間なようで、スマホのライトでは奥の壁まで照らすことはできなかった。ただ、見た感じ、唸り声を上げるような獰猛な猛獣の姿は見えない。
「空耳、か……良かったぁ」
安堵の息を漏らし、強張っていた足の力を緩めた。途端、檻の奥の暗闇が蠢いた。俺がそう認識した瞬間に俺は謎の衝撃によって、後ろに倒れたのだ。
俺は困惑した。なぜなら……
「人! 人! ボクを救ってくれる人!」
困惑する俺の顔に頬擦りしている謎の『オオカミ』が喋っているのだから。
ザ・ファンタジーです。
面白かったら続きもどうぞ☆