ふり絞る
ルドックス先生は男爵位を持っている。
だから当然貴族街に戻るのだとばかり思っていたのに、クルーブが飛び込んだのは街にある普通の家だった。
いや、普通というには少しだけ庭が広くて、魔法の訓練ができるようになっている。建物自体はシンプルで、飾りっ気のない作りをしていた。
気持ちを落ち着けようと観察してみたけれど、そわそわしててそんなことすぐどうでも良くなってしまった。
「先生! 急用!!」
勝手に庭に入り、さらに勝手に扉に手をかけたクルーブは、かぎがかかっていることを確認すると、魔法で即座に破壊を試みた。
何のためらいもなく放たれた石は、ヒィインと変な音を立てて粉々に散って消える。
「ああもう、無駄に防犯意識の高い! 先生! 用事!」
扉の奥からごほっと咳き込む音がして、扉がきしみながら開く。
「なんじゃ、まったく……」
緩いローブを着込んだルドックス先生が顔をのぞかせると、クルーブはドアノブを掴んで扉を全て開けて言い放った。
「先生、今すぐスバリかサフサール君の場所を探って、できるでしょ!」
「おや、ルーサー様とイレイン様まで……。わかった、しばし待て、準備がいるのは知っておろう」
「早く早く早く!」
壁を伝いながらゆっくり家の中へ入っていくルドックス先生は、最後に見た時よりもずっと元気がなく、足も引きずっていた。
本当に精一杯の力を振り絞って、最後の姿を見せてくれていたのだと思うと、どうしようもなかったとはいえ、こうしてやってきてしまったことが申し訳なくなる。
「先生、肩を貸します」
「おお……、助かる」
せめて先生の杖の代わりになろうと潜り込むと、一瞬だけ迷う様子を見せてから、ルドックス先生は俺に体を預けた。
大柄な先生だからかなり重さはあったけれど、足を踏ん張ってよろけることはしなかった。今よろけて、ルドックス先生が頼りにしてくれなくなることが嫌だった。
先生の指示通りに二つ目の部屋の扉を開ける。
その広い部屋は全ての面に棚が設けられていて、無数のスクロールが保管されていた。
さらに入りきらなかった物が、傘立てのようなものに無造作に突っ込んである。
使い古されたデスクには、インクと紙が常備され、部屋の真ん中だけは、おそらくスクロールを広げるためにしっかりと片付けられて何も置かれていない。
「そこの奥から3番目の棚の、上から2段目の……、いや、届かぬな。クルーブ、杖を」
「はい!」
即座に袖から滑り出させた杖をクルーブが手渡すと、ルドックス先生が片手で杖を揺らした。呼吸を乱しながらもその動きによどみはない。
スクロールが棚からひとりでに飛び出してきて、部屋の真ん中までやってくると、するりと紐がほどけ、転がり広がった。
「本人ゆかりの物は?」
「はい、これ」
クルーブが腰から小さなナイフを取り出す。
ルドックス先生はまたも杖を振って、それを宙に浮かべ、スクロールの真ん中へ降ろした。
スクロールにはどこか見覚えのある様な複雑な線が描かれているが、それが何なのかまでは俺にはわからない。
しかしルドックス先生が口の中で何か呪文を唱えると、そのすべての線がぼんやりと光り、ナイフがカタカタと移動し始めた。
ずずっと少しずつ動いたそれは、やがてスクロールの端まで行くと動きを止める。
「ふむ……。スバリの場所じゃが……」
伝えようとしてルドックス先生がまたせき込む。
湿った咳がしばらく続き、ようやく収まった頃、ナイフがスクロールの外へごろりと転がって動きを止めた。
「……街の、外じゃ。北、それも、門のない場所から、外へ出ておる。その先は、儂でも、追うことが、できぬ。今から追い、かけても、追いつかぬ」
かなり呼吸が苦しいのか、ルドックス先生は途切れ途切れに言ってから、またも杖を振った。
バラりといくつかのスクロールがまとめて床に落ちて、眉を顰めた先生だったが、そのうちの一つを選んで耳元に浮かして、またも何か呪文を唱える。
「ルドックスじゃ。そちらの声は聞こえぬ。オルカ様よ、サフサール様が、さらわれた。すでに街の外じゃ。ルーサー様とイレイン様は、クルーブと共に、儂の家におる。おいぼれは、これ以上動けぬ、至急応援を」
ズシリとかけられた体重が増して、先生のことを支えきれなくなる。
まだまだ小さい体が恨めしい。
それでも倒れ込まないようにと、壁際に体を寄せて、ゆっくりと先生の体を床に座らせる。
「よりにも、よって、儂がこのような、時に。いや……、見計らわれて、おったのか……?」
「先生、さっきのは?」
「オルカ様に連絡をした、ここで、待て。家の物は、クルーブと、ルーサー様で、好きに使ってよい」
先生はそう言うと激しく咳き込んでゆっくりと目を閉じる。
このまま死んでしまうのではないかと心配して見ていると、イレインが険しい表情のままどこからか持ってきた毛布を先生の体にかぶせた。
「イレイン様は、気が利くのう」
「しゃべらないでください」
「……クルーブよ、杖を持て。心を落ち着け、よ。お主が一番の、頼りじゃ」
「もう喋んないでよ」
「…………ルーサー様よ、良き、魔法使いに。縛られては、ならん。自由であれ。肝心な時に、頼りにならなくて、すまぬの。儂の杖は、ルーサー様に」
「先生……! 大丈夫です、全部なんとかします!」
先生の呼吸が徐々に大きくなっていく。
咳をしなくなった。
落ち着いたのかと思ってじっと見ていると、先生はもう一度目を開いて笑った。
「言ったの。頑張るんじゃぞ」
先生が大きく息を吸い込む。
そして、呼吸がぴたりと止まった。