『愛が揺れるお嬢さん妻』9◇仲直り
9 ◇仲直り
あの瑤が、今までの態度が嘘のようなことを言い出して、
苺佳は面喰ってしまう。
そして彼女が自分に本気で謝罪していると感じることもできる。
一気に苺佳の中に渦巻いていた何かが……憤怒が……溶けていくのを
感じた。
瑤とのことは、今日あった嫌なことは、時間を掛けて忘れよう、忘れて
保育園に通園している間は気まずくならないようやり過ごし、子供たちが
小学校へ上がり別々になった頃自然の成り行きに任せよう、きっとそれで
疎遠になってゆくことだろうし、などと自分の気持ちを宥めていたのに、
瑤のほうが問題を蒸し返してきたのだ。
それで一気に苺佳の感情が爆発してしまったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
「瑤ちゃんがそんなことを憂いてたなんて……。
瑤ちゃんこそ綺麗でカッコ良くておかあさんたちのアイドルなんだよ。
私のほうこそ瑤ちゃんに憧れるよぉー」
と苺佳が嬉しくもない台詞で自分を慰めてくれる。
「カッコ良くなんかないよ。逆、カッコ悪すぎー。
反省したからさ。苺佳、今までのことはごめん。
これからも仲良しさんでいてくれ、お願いします」
「お願いされなくても、これからもずーっと仲良しさんだね、私たち。
私、瑤ちゃんと友達になれてよかった」
「うん、私もだよ」
何ていうことはない。
まるで痴話喧嘩のようにまぁるく二人は仲直りした……のだった。
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瑤ちゃんと友達?
自分で発した言葉なのに苺佳はいつまでも違和感がぬぐえなかった。
改めて『友達よねー』と互いに確認し合った途端、今までなんとも
思ってなかったというのに、なんともいえないこれまでに感じたことのない
感情が芽生え始めたことに気付いてしまった。
だけど、瑤ちゃんと自分は仲良しさん、友達、いくらその他の言葉を
探してもしっくりくる言葉は見つからなかった。
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「泣かせた私が言うのも口幅ったいけど、この先絶対
苺佳を泣かせない、大切にするし守るよ」
◇ ◇ ◇ ◇
すごいっ、私は瑤ちゃんの台詞に感動した。
だけど……どうしちゃったの? ぜんぜんっ、らしくないのだ。
訊きたい気もするけど折角いっぱい脳がとろけるようなことを
言ってくれてるのに、変に訊いて彼女の気持ちがもしも一瞬で誤作動を
キャッチして変わってしまったらと思うと恐ろし過ぎて、何も言えなかった。
皆が焦がれるような人からこんなこと言ってもらえるなんて……と
苺佳は夢ごこちで幸せだったから。
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「ね、瑤ちゃん。比奈ちゃんが小学生になって生活が今より落ち着いたら
彼氏作った方がいいかもね。私も誰か良さげな男性探しとくね」
「いや、あぁそうだな。いや、やっぱりいいや」
「そうだよね、探さなくても瑤ちゃんなら、瑤ちゃんさえその気になれば、
すぐにできるもんね」
良い人を探すと言ったけれど……あまり乗り気じゃなさそうな
瑤ちゃんの表情が見てとれた。
余計な事言っちゃったかも。
これからは彼氏関連のことで瑤ちゃんの領域に踏み込むのは
止めておこう~っと。
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素敵な夫がいる私のことが妬ましくて、中沢さんからの誘いに乗ることで
つい、私に意地悪をしてしまったと瑤ちゃんは懺悔してきた。
皆が焦がれるようなスターが?
お母さんたちだけじゃなくて父の日に来てたお父さんたちにだって
彼女たちほどの露骨な視線はなかったものの、瑤ちゃん、
注目されてたんじゃなかったっけ。
独身男性がいたら絶対放っておかないんじゃない?
何ていうか、瑤ちゃんが私に嫉妬して……という理由がねぇ。
いくら考えても腑に落ちなくてモヤモヤが取れない。
その後でちゃんと謝罪してくれて仲直りできたからほっとしたし、
ほんとに良かったぁ~って思う。
だけど、この謝ってもらった時のことも真顔で『下僕になる』とまで
言われて、内心少し怖いくらいで引いちゃったよ。
絶対私との縁を切りたくない、繋げておきたいのだという意志が
ヒシヒシと伝わってきて。
◇ ◇ ◇ ◇
私という存在はそれほどまでに価値のあるものなの? 瑤ちゃん。
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それならどうして初めから関係が壊れてしまうようなことをするかなぁ。
相反する瑤ちゃんの七夕祭りの日の言動が私にはどうにも不可解で、
漠然とこの先自分と彼女との関係どうなっていくんだろう、ずっと
親しい友人としてやっていけるのだろうか、そんな不安が胸を過るのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
瑤ちゃんと仲直りした直後から折に振れ、そのような思索を巡らして
過ごした一週間余り、週末の夜その彼女からLINEが届いた。
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しばらくの間お母さんの手がすくので比奈ちゃんは母親に
みてもらうことにした。
なので来週からは比奈ちゃんの預かりは休止で、という内容だった。
急に? 感が半端なくて……これからも仲良くしようね的な話を
したばかりなのに、急に会わないというか会えない環境になってしまい、
寂しく感じる苺佳だった。
◇ ◇ ◇ ◇
待って待って……だけど送迎の時に時間が合えば、毎日じゃなくても
ちらっと顔くらいは見られるかもしれない、などと考えたが、
送迎にも彼女の母親が付き添って来るようになり、時々比奈の顔は
見るものの、瑤と顔を合わすことはなくなってしまった。
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蝉時雨の頃を過ぎ、すっかり秋の雰囲気に包まれ、日暮れ時になると
初秋の少し強めの冷たい風が吹き抜け、昼間にはきれいな青空日和が
続く頃になっても瑤ちゃんからは何の連絡も入らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
残暑が残る九月の、日が暮れてからいつになく冷たい空気に
気付いた日の週末の午後に。
「最近出かけてないから、明日久しぶりに電車に揺られて外食に
行かないかい?」
「家族3人でお出かけって久しぶりよね。楽しみぃ~」
◇ ◇ ◇ ◇
私たちは最寄り駅までタクシーに乗り、そこから電車に。
お店は降りる駅から徒歩7~8分らしい。
『学生時代は友達と歩いて行ったけどね……』と言いながら
タクシーを使って店に到着。
英介さんがマイカーで来なかった理由が分かった。
駐車場が3~4台分しかスペースがなくて、しかも
1台分は軽自動車でないと止められないくらいしか面積がなかった。
人気のお店だそうで私たちは少し並ばなければならなかった。
これが夕方以降になると、行列の人数が何倍にもなるらしい。
待つこと10分、ようやく私たちは暖簾を潜り引き戸を開けた。
庶民的なお店で、揚げ物独特の匂いとアルコールの匂いがした。
英介さんは結婚後も何度か来ているような口ぶりで
私たちのオーダーを頼んでくれた。
串カツの他にはうずらの卵やタマネギ、れんこん、カボチャ、大根、
コンニャク、ベーコンブロックなどの野菜、肉系などとバラエティに
富んでおりお味のほうもばっちり、すごく美味しい。
オリジナルソースと塩、和辛子、辛子とごま入りソース、特製
ウスターソース、醤油とソースもレパートリーが広く、さまざまな
お味が楽しめた。
ただ、個室ではない上に、入れ替わり立ち替わりみたいな空気感があり
部屋の造りと併せてちょっとゆったり寛げる場所とは言い難かった。
とても落ち着いて話せるような雰囲気にはなく、とにかくひたすら
味を堪能するっていう感じかな。
◇ ◇ ◇ ◇
「どうだった? 上手かったろ?」
「うん、すごく。ご馳走様でした」
「眞奈ね、今度はもっと広いところがいいなぁ~。
おトイレも我慢しなきゃいけなかったし」
「あははっ、そうだねぇ~。
英介さん、今度は私が行ったことのある個室のあるところへ
行ってみよう?」
「ン……あぁそうだね」
「やったー」と眞奈がはしゃいだ。
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英介は学生時代の楽しい思い出の場所へ妻子を連れて来たのに
もうひとつ反応が薄いことにガッカリ感がぬぐえなかった。
ひとこと『また来たいね』と言ってもらいたかったのだ。
実際に再度来るかどうかは置いておいて。
不満を呟いたのは娘の眞奈で、苺佳はそんな失礼な言葉は
発していなかったのだが、眞奈に同調したことで英介の脳内では
何故か苺佳が不満を感じていたこととして変換されてしまった。
この時、英介の気持ちの中に今までなかった感情が生まれた。
言葉では表現できない? 感情。
その中のカケラ……それは失望だった。
互いの間に埋められない溝があると感じて酷く寂しい気持ちに囚われた。
だがこんなことくらいで妻子に怒りや失望をぶつけたりはしない。
ただひっそりと本心を胸の中にしまい、その時感じた寂しい気持ちは
英介の中で封印された。
◇ ◇ ◇ ◇
しかしその後この綻びが、少し先で出会う女性と付き合うことへの
免罪符に使われることになるのであった。
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帰宅後部屋に入ると英介は苺佳から改めて礼を言われた。
「英介さん、骨休めしたい休日に美味しいお店に連れてってくれて
ありがとう。いろんなソースで食べられて本当に美味しかった」
「ん、ならよかった」
礼は言われたが、やはり『また行きたい……連れてって』という言葉を
聞くことはなかった。妻は改めて礼を述べてくれた。
それなのに胸にもやっとする蟠りが残る。
自分でも拘り過ぎているのが分かるくらいに。
◇ ◇ ◇ ◇
結婚してから、というより出会ってから、苺佳に対してこんな気持ちに
なったのは初めてのことだった。
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そこから3ヶ月ほどして英介は串カツをまた食べたくなり
仕事帰りにひょっこり件の店へ立ち寄った。
金曜の夜ということでかなりの数の客で賑わっていた。
一人で来る英介は大抵誰かとの相席になる。
その日、見るからにやり手だと分かる風貌の女性の姿が座った席から
見えた。
いで立ちもフォーマルなものを上手に気崩して着用している。
◇ ◇ ◇ ◇
3度目に見かけた日、やっぱり混んでいて彼女と相席になり、
話を交わすようになった。
彼女のほうも俺がこの店に何度か来ていたのを覚えており、この日
お互い名刺交換をして別れた。
海外で化粧品を仕入れてくるバイヤーと、美大の准教授をしていると
聞いた。
傍ら、自分の描いたイラストの販売もやっているという話だった。
家族にはあまり気に入ってもらえなかった自分のテリトリーの中で
たまたま出会った女性、山波美羅。
◇ ◇ ◇ ◇
見た目も内面も……そして社会に出て働いている同志として……
興味と傾倒の中間くらいの心持で美羅と繋がるようになり、性行為を
伴う付き合いになるのにそう時間はかからなかった。
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聞いたわけではないが、はじめましての時からなんとなく
既婚者じゃないかと思っていたので、その後、初めてホテルに
行った折に彼女のほうから自分は既婚者だと告げられたが、別段驚きは
なかった。
やはりな、と。
独身者同士のようなステディな関係には進めませんよ、という
発信だったのだろう。
そして彼女は俺に『結婚してますか?』というような言葉ではなく、
こう訊いてきた。
「お子さんは何才?」この彼女の言葉……は
『私たち気楽な関係を楽しみましょうよ』と、そういう意味だと俺は捉えた。
お互い日常から離れて少しスリリングな時間を共有するには
ちょうど良かったのだ。
積極的にそういう相手を求めていたわけではなかったが、不思議と
妻に対する罪悪感みたいなものは感じなかった。
お嬢様育ちのおっとりしている苺佳に、見つかるなんてことは
全然考えてもいなかったし、万が一、バレそうになっても言い訳して
言いくるめる自信もあった。
なんだかんだ言って、もし自分が誠心誠意謝罪すれば彼女は俺を
突き放したりできないだろう、という思いも。
自惚れかもしれないが妻は俺に惚れているという自信もある。
◇ ◇ ◇ ◇
遠い昔のことだが、弟の仕出かしたことにも苺佳は寛容だった。
あの時の一連を見てきた俺は、彼女がふくれたり、多少怒ったり
泣いたりもするだろうが最後には折れるだろう、とそこはそれほど
心配していない。