にゅうどうぐも
今年の夏はどこか寂しかった。コロナウイルスに関してはもう世間の感覚が麻痺しきっていたころに、そんな季節はやってきた。
私は夏が嫌いだった。好きだったのに嫌いになって、気が付くと好きになって、また嫌いになっていた。でも私にとって複雑な思いが絡まってほどけないこの季節にも、変わらずに好きなものがあった。
入道雲、なぜかこの雲だけはどんな時でも好きだった。入道雲を見るたびに私は「あぁ、夏が来たんだ」そう思って、心の楔がほどけていたのを感じ取っていた。だから入道雲を見ても夏が来たって思わない年が来るなんて、思ってもいなかった。
毎日の感染者数、政治の不振話、タレントの不倫の過報道。普段テレビをあまり見ない私でも、嫌というほど目に入ってきたのを覚えている。ロックダウン解除、感染者数の減少、そのようなコロナ禍中での朗報もあまり嬉しくはなかった。なぜなら大学は再開せず、オンライン授業ばかりで自分もその可能性があったと考えると、とても他人事とは思えなかったからだ。
いつもの夏だと、必ず友達と一度は遊び、くだらない一日を過ごしながら生きていくのを不安感とともに楽しんでいた自分がいた。けれど、コロナ禍だとそういうわけにはいかなかった。自制し、自制し、ひたすら自制した私がいた。
そんな中、夏はやってきた。入道雲も視界に入った。そう、入っただけなのだ。何も感じず、暑いとも思わなかった。私にとって夏の象徴だったはずの入道雲は、今年はただの水蒸気にしか見えなかったみたいだ。
つらいとも思わない。悲しいとも思わない。私にとって夏というものは、ただくだらないことに時間を浪費していたと気が付いたのだ。ただ、その時間の浪費が思い出として、それを呼び起こす鍵があるなら、無駄なことではない。懐かしいという素晴らしい感情に置き換わる。
私のいつもの夏は来なかった。けれど、気づいたことも多くあった。私はこの夏を八百八十六文字で表すことしかできない。でもいつか、この寂しかった夏を懐かしいと思える。そんな日が来ると信じてこれから生きていく。
これを読んだ人の人生が、少しでも良くなることを切に願っています。