アルバートから見た己とヘンリー
監獄の機能を備えた塔の一階、地下牢への道を隠匿する造りの事務室でアルバートは報告を持ってきた部下たちを前に鞭をしならせていた。
彼は険しい顔を崩すことなく、三つ編みの銀髪を揺らしながら紫の瞳で部下を睥睨する。
「密偵を逃した、と」
「も、申し訳ありません! 隣の領地に逃げ込んだのは確認できたのですが……」
ヒュン、と部下の横にあった机に鞭が振るわれる。
象を躾けるために開発されたという、長い鞭は容易く木製の机を破壊して紙をずたずたに引き裂いた。
鞭の内部に仕込まれた鉄片は、もし人肌に当たればいとも簡単に肌を引き裂いて大量出血を引き起こすだろう。
滅多なことでは人に振るうどころか、手にすら持たないそれをアルバートが掴んだのは一重に怠慢を働いた部下への戒めを込めて意図していた。
全ての対応が後手に回っていたのは、密偵にこちらの動きが筒抜けだったことを如実に表していた。
ここにあった情報を持ち帰られた。
何を目的としてかは不明だが、大方の予想はついている。
「私は逃げる前に捕まえろと命令したはずだッ!」
アルバートはぐっと唇を噛みしめながら苦々しく部下を罵倒した。
その行為を妨害できる勇気を持つ者はいなかった、ただ一人、新人の部下を除いて。
部下にとって、アルバートが囚人に執着する理由が分からなかったのだ。
自白があれば有罪となりアルバートの更なる出世はたしかに見込めるだろうが、何人も厳重に見張りをつけてまでする価値はない。
自殺を防ぐことを最優先に命令されているが、仮に自殺したとして揉み消せばいい話だ。
事実、他の検事は平然と病死として報告して事が済んでいる。
だから、理解できなかったのだ。
無謀にも彼はアルバートに問いをぶつけた。
「アルバート検事、失礼ながら何故そこまであの囚人に拘るのですか? あの囚人が毒を飲んで死んだとして、それが何の不利益となるのでしょうか」
ゆらり、とアルバートの身体が揺れる。
鞭が机の破片からずるりと引きずり出されて、地面に火花を散らしながらアルバートの元へ手繰り寄せられる。
その動作を攻撃の予兆と判断した部下の一人が慌てた様子で口を開く。
「アルバート様、何卒ご容赦を……!」
「黙れッ!」
鞭の代わりに怒号が事務室内に響く。
その声量と迫力に、そばに控えていた数人の従者がびくりと肩を震わせた。
怒りの炎を目に宿して、アルバートは新人を睨みつける。
「貴様、それでも国の治安を守る衛士か!」
「ひっ!?」
「陛下が作り上げた法を守ってこその役人であるというのに、それを守らせる側の衛士が破ってどうする!?」
アルバートにとって、法律とは『正義』である。
絶対に破ってはならないルールであり、そのルールに則って彼は物事を進める。
法律を守らない犯罪者を取り締まり、調べ、適切な刑罰を与えられるように取り計らう。
二度と犯罪者が罪を犯さないように。真似をしようと思わないように。
正義であることこそが彼の心の拠り所。
それはアルバートが大人になってようやく他人に胸を張って誇れる唯一のことだった。
だからこそ────汚職だけは許さない。
アルバートは怯えて反射的に目を瞑った新人の襟首を掴み、上へと持ちあげる。
爪先立ちになっていた新人の足はついに地面から浮く。
息苦しさと圧迫から新人は脂汗を流しながら顔を赤くして喘ぐように謝罪した。
その声を聞いて、アルバートはぱっと手を放した。
「我々は正義だ。民の模範となるべき人間だ。その正義に背くような真似だけはするな」
アルバートは冷たい声音で言い放ち、背中を向けてひらひらと手を振る。
「もういい、下がって仕事に戻れ」
部下と従者は深く一礼をして、そそくさと己の業務に戻っていった。
新人も、もつれた足を懸命に動かして先輩の背中を追って退室していった。
「時間か」
アルバートは磨き上げられた懐中時計を確認して、胸ポケットに戻す。
アルバートは控えていた馬車に乗って、街の寂れた場所にあるレストランへ向かう。
そのレストランは、一見すれば営業していないように思えた。
しかし、それはフェイクで知るものしか利用できないとある貴族専用のレストランだった。
人気のない店の中へ入って、店員の案内も待たずに予約していた個室へ一直線に進む。
「叔父上、大変遅くなりました」
アルバートは扉の前で静かに頭をさげながら、返答を待つ。
プライドの高い彼が頭をここまで深くさげる相手はたった一人──叔父のヘンリー・シェリンガムだけだった。
「構わん、あの小娘を葬るのに忙しいのだろう? それを無理言って呼びつけたのだ、多少待つぐらいは構わん。それよりも、中へ入りたまえ」
「失礼します」
ヘンリーは伸びた髭を撫でつけながら、高級な布地をふんだんに使用した私服の首元のボタンを一つ緩めた。
たとえ公爵当主でなくなったとしても、司祭の地位に甘じていた彼の目は変わらず野心でギラギラとしている。
「して、あのレティシアという小娘の取り調べはどうなっている?」
甥への労いもそこそこに、ヘンリーは身を乗り出して詰め寄った。
その呼吸には離れていても分かるほど酒精が混じっている。
どうやら、アルバートが来るのを待っている間にワインを飲んで時を紛らわせていたらしい。
またか、と呆れかけたアルバートは顔を引き締めて答える。
「証拠は揃っております。あとは自白を引き出すのみです」
「それは一ヶ月前に聞いた。何の進展もないのか!?」
変わらない答えに怒ったヘンリーは机をダンと叩く。
ヘンリーは一ヶ月も待ちわびていた朗報の気配がないことに焦っていた。
誹謗中傷に晒されていたはずの憎い相手ことレティシアは衆目を浴び、近頃では彼女を擁護する声や逮捕を疑問視する声まであがっている。
それが、何か良からぬ事が起こる前触れなのではないかとヘンリーは怯えていた。
「叔父上、なにとぞご辛抱を。叔父上の汚名を晴らすには被告人自身に罪の意識を」
「もういいっ! はやく処刑してしまえ!」
「叔父上……」
絶句したアルバートを、ヘンリーは鼻で笑う。
ヘンリーにとって法律とは作るものであり、また廃止するものであった。
全ては金のため、権力のため、そして自分のため。
そこには長年かけて降り積もった誇りだけがヘンリーの思考にこびりついている。
「あの小娘のせいで訳の分からない本を、糞にも劣るものを愚鈍な下民どもがありがたがる! その光景の悍ましさたるや!」
アルコールも手伝って、ヘンリーの弁舌に熱が篭る。
その一方で、アルバートの心は急速に冷め始めていた。
彼の脳裏を過るのは部下の言葉。
『アルバート検事、失礼ながら何故そこまであの囚人に拘るのですか? あの囚人が毒を飲んで死んだとして、それが何の不利益となるのでしょうか』
その時、アルバートは正義と答えた。
信念と誇りを胸に、彼は部下にそう告げたのだ。
抱いていたはずの確信が不安の影に染まり、紫色の瞳が揺れる。
「もういい、次に会うまでにはとっとと処刑しろ!」
ふらりと立ち上がったヘンリーは、足取りも覚束ない様子で店の外へ出る。
いつもは尊敬する叔父を案じて肩を貸すアルバートだったが、今日は俯いたまま拳を握りしめていた。
「私は間違っていないはず、正しいはずなんだ……叔父上がそう仰ったのだから、陛下がそう命令したのだから……」
ぶつぶつと呟くアルバートを支える者は誰もいない。
慣れ親しんだ静寂だけが、彼を淡々と監視していた。