アベニューの悩み
前回のあらすじ
セシルくんも官能小説家だった
仮面の装着が義務とされている“裏文芸サロン”。
地下のバーで開催されているその集いに、なんと作家仲間のセシルが参加していたのだ。
さらに、彼は官能小説を書いているらしく、『アベニュー』という名前でも活動しているらしかった。
笑いを堪えきれず、いよいよ挙動不審になったアランもといラワンは脛を蹴って他の参加者との交流を命令したので近くにはいない。
銀の仮面を身につけたセシルは静かに口を開く。
「実は一つ、ずっと悩んでいることがありまして……」
堅物で無口なセシルが官能小説を書いていた事実にショックを受けていたのだが、周囲が猥談で盛り上がるなか、私は『モンタント』として悩み事を相談されるという異例の事態に陥っていた。
「あの、モンタント様はどうしてそんなにハイペースで書けるのですか?」
真剣な雰囲気でバーの高い椅子に腰掛ける姿はとても様になっている。
ただ一つ、周囲から「女物の香水はそれだけで興奮できる」とか「ハイヒールの造形は俺の股間にクリティカルヒット!」とかいう下世話な話が聞こえてこなければ、絵画として保存したいくらいだった。
「モンタント、で構いませんよ。そうですねえ、好きだからでしょうか」
「好きだから、ですか。ははっ、私には真似できませんね」
そう言ってセシルは手元に視線を落とす。
その姿は、レティシアの私では到底見ることができなかったもので、何かを思い詰めている様子だった。
「書くことが嫌いなのですか?」
「いえ、そういうわけではないのです。目標にしている作家がおりまして。その背中を追いかけたのは良いのですが、自分との差を思い知るばかり。自分が凡作を一つ作る間に、その人は傑作を三つ書き上げるんです」
「ほお、三作とは凄い方ですね」
セシルが目標にしている作家か。
作家全員を追えてはいないので、私の知らない作家の可能性が高い。
前世では作者の名前を検索にかかれば、書籍化した作品数を年表で確認できるのに不便な世界だ。
そういえば、創作に関する話はセシルとはあまりしなかった。
したいとは思っていたが、彼はそういう話が苦手なようで語りたがらない。
料理を作って、一緒に食べて、そして帰る。
過ごす時間は家族やアランの次に多いが、私は彼に関して何も知らないのだ。
「ええ、本当に凄いんです。私なんて足元に及ばない人で、その人が書くもの全てが好きなんです。なんていうか、その……読んでいて元気が出るんです。冬の早朝に朝日が昇るような清々しさがあって……それに比べて、私の作品は物事をこねくり回すばかりなんです」
セシルが抱えている悩みは、前世で私が直面した困難の一つで。
今更ながらに、私は彼が十六であることを思い出した。
成人として扱われる年齢であれど、自己と社会との摩擦に折り合いをつけるのが難しいはずだ。
『なりたい』と『なれる』は違う。
『やりたい』ことをやっても評価されるとは限らないし、努力が報われるとは限らない。
それはとても当たり前で、けれど受け入れるのはとても辛い。
「アベニューさんはその人のことを本当に尊敬しているんですね。そして、その人のようになりたいと思っているけれど、なれないことに悩んでいると」
「はい、お恥ずかしながらその通りです」
「そのお悩みの答えは、いつか貴方自身が見つけなければいけないものです」
他人にあれこれ言われたところで、結局は何も変わらない。
自分自身で見つけた答え以外は、必ずボロが出て上手くいかなくなるのだ。
「努力を重ねたからといって、その人に近づけたかどうかを判断するのは自分自身です。だから、悩むなら徹底的に悩んで考えて結論を出すしかありません」
「判断するのは自分自身……」
私の言葉を、セシルは噛み締めるように繰り返す。
無口な彼は、初対面の『モンタント』に相談するほど追い詰められていたのかもしれない。
すぐ側にいたのに、彼が悩んでいたことに気付かなかった自分の不甲斐なさに怒りが湧く。
そんな怒りも、次の瞬間には霧散してしまった。
はっと息を飲んだセシルは、結露ができたコップを拭いながら静かに語る。
「……我ながら馬鹿らしいと思いますが、私はその人について何も知らないことにたった今気づきました。その人が何を考えているのか見当もつきません」
「そうか」
「どうしてあんな物を書いたのか、理由を考えてもさっぱり分からないんです」
「なら、直接本人に聞くといい。きっと答えてくれるよ」
ちょっとばかり、天才作家のセシルが憧れているという作家に嫉妬した。
なにせ、あの『宵闇の宴』というミステリー小説をこの世界で初めて書いたほどの逸材だ。
私の作品は褒められはすれど、きっとその作家へ送ったファンレターほどの熱量は引き出せないだろう。
分かってはいたが、やはり凡才のこの身を恨まずにはいられない。
「そうですね。もう少しその人について調べてみようと思います」
そうして、憑物が取れたように笑うセシルの顔はやはり私が見たことがないものだった。
その顔を見ていたら、なんだか何もかもどうでも良くなってきて、せめて彼が明るくなったことを祝福してやろうと思い、葡萄ジュースをセシルの空になったグラスに注ぎ入れる。
「それじゃあ、解決の糸口が見えたことを喜んで乾杯でもするか」
「あ、ありがとうございます……」
「きっと君もこれを気にいると思うよ。何杯でも飲めるほど美味なんだ」
「乾杯」という掛け声と共に軽くグラスをぶつけると小気味の良い音が響く。
香りを堪能しようとしたセシルがふと、グラスに顔を近づけた拍子に首を傾げたのが見えた。
吹き出しそうになるのを堪えながら葡萄ジュースを飲む。
「ああ、それにしてもこの年代物は葡萄の味も香りも格別だ。舌の上で転がすとフルーティで香り高い風味が広がるなあ!」
ダメ押しに私が感想を告げると、セシルは意を決してジュースを一口分だけ口に含む。
舌の上で転がして吟味し、喉仏を上下させて嚥下した後、目を丸くして呟く。
「……葡萄ジュースだ、これ」
再度口に含んで、念入りに確かめる。
その表情はあんまりにも真剣そのもので、相談してきた時よりも熱があった。
そんな姿を間近で見ていた私はついに笑いを堪えることが難しくなってきて、思わず肩が震えてくる。
「『何杯でも飲めて』『葡萄の味も香りも格別』だろう?」
「むう、たしかにジュースなら酔わないな。これは一杯食わされたな」
「一杯だけに?」
そう言って私がグラスを掲げてウインクをする。
セシルは氷点下すら凌駕するような絶対零度の睥睨と鋭い「は?」という一言で私を黙らせた。
おかしいな、セシルの魔力は熱を上げることで下げることはできなかったはずなのに……。
誤魔化して飲んだ葡萄ジュースはなんだかいつもより渋い味がした。