■堀瀬由衣-喪心
明日から朝練が始まります。
五時に起きて六時には家を出ないといけません。寝起きの悪い由衣は目覚まし時計を四つ用意して五分おきにセットします。
四つ目が五時ですから最初に鳴るのは四時四十五分です。スヌーズ機能のついている目覚まし時計よりセッティングの効率は悪いですが、目覚めの時には威力を発揮します。
翌日、由衣は寝ぼけ眼で家を出て、まだ誰も登校していないことを確認して正門横の通用口から入ります。警備員がいるので、朝練の届けが出ていればここは開いているのです。
彼女は部室の鍵を取りに警備員室へと向かいました。職員室が開いていない時はここにある合い鍵を使うのです。
「先輩!」
ふと誰かの呼び声を聞いて後ろを振り返ります。すると紗奈が走ってこちらへ向かってくるではありませんか。
「堀瀬先輩。おはようございます」
息を切らせながら相変わらず元気に挨拶をしてきます。
「おはよう。早いんだね」
「先輩こそお早いんですね」
「いちおうね、二年生の中では暗黙の了解があるんだよ。朝練とかがある時は誰かが一番で部室を空けることって。今回は私が担当なわけ」
「へぇー、そうなんですか」
「一応、一年生だけじゃわかんない事とかあるかもしれないから、誰かがついててやらないとねって。三年生からも言われてることだし」
「なるほど」
「矢上さんも朝一で来たりして真面目だよね。けっこう気合い入ってる?」
「マジメかどうかはともかく、気合いは入ってます」
「レギュラー入り狙ってるとか?」
由衣は思ったままのことを口に出します。彼女には悪気なんてものはないのです。素朴な疑問に過ぎません。
「そ、そんな先輩たちを差し置いて」
「いいんだよ。うちの部は実力主義だから」
警備員室へ向かいながらそんな話をしていた時、ふいにどすんと何か重いものが落ちてきたような音がしました。
「!」
何か胸騒ぎがします。
「先輩、なんか変な音しませんでしたか?」
二人で顔を見合わせると、私たちは足早に音の響いてきた中庭へと向かいました。
校舎の角を曲がって、中庭の見渡せる位置につくと、由衣の足はそれ以上動けなくなります。
最初に認識できたのは赤いもの。
そしてうちの学校の制服。
ひとのかたちをした肉塊……。
「せ、先輩。人が……」
紗奈の声で由衣は我に帰ります。それでも頭の中の混乱は解けません。
倒れている人に駆け寄ろうとして、再び足がとまります。そこには見覚えのある姿が。
「川島さん……」
うつぶせに倒れていますが、顔は横になっているので彼女が川島美咲だということが容易に確認できました。つい昨日、部活の帰り際に「じゃあね」と言ったあの姿が重なります。
「え? 川島先輩?」
由衣の後ろから恐る恐る覗いたと思われる紗奈の声が聞こえてきます。
混乱した頭をなんとか落ち着かせようと、目をつぶって深呼吸をします。夢であれば早く目覚めなくていけません。
でも現実なら、現実なりの対処をしなければいけないのです。
目を開いてもう一度深呼吸して、由衣は後ろの紗奈を振り返ります。
「矢上さん、警備員室へ行って救急車を呼んでもらって」
やっと出た言葉。
「で、でも、もう死んでるかも」
紗奈は青ざめた顔でそう呟きます。その言葉で由衣は一気に現実へと引き戻されました。
「わかんないよ。まだ助かるかもしれないよ。早く!」
美咲は昨日まで由衣たちと一緒に練習してきた仲間です。そんな想いもあって、紗奈に強く言ってしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう。由衣には理解できませんでした。昨日だって笑って別れたはずなのです。
生死をきちんと確かめようと、もう一歩近づこうとして足が竦みます。流れ出した血液が水たまりのように地面を真っ赤に染め上げています。
どうして?
そんな疑問だけが由衣の頭の中を空回りしていきます。
その日はもう授業どころではありませんでした。担任に付き添ってもらって警察の人に事情を説明した後、半ば放心状態だった由衣は、そのまま帰宅の許可をもらって家路についたのです。
家につくと何も言わずに自分の部屋へと向かいました。不審に思った由衣の母親が何かを言っていたようですが、それを無視して部屋に入ります。
鞄を置いて机の前へと座ると、ぼんやりと何もない空間を見つめます。
不思議と由衣の中には悲しみはありませんでした。涙さえこぼれてきません。
自分はこんなにも冷たい人間だったのかと考えます。部活の仲間が亡くなって、泣くことさえできないなんて……と。
しばらくして、ようやく落ち着いてくると、今までは気にも留めていなかったおかしな言葉を思い出します。
警察の人に事情を聞かれたとき、由衣は妙な質問をされました。
「君は見ていないのかい?」
何を見ていないのでしょうか?
「君は」ということは、他の誰かは何かを見たということなのでしょうか?