■堀瀬由衣-憧憬
制服に守られていた頃。
そこには自分たちだけの花園が存在していた。
甘やかで純粋な、汚れなき一途な感情は今でも忘れない。
由衣がその少女を改めて認識したのは、まだ暑さも残る九月の終わり頃で、彼女があまり興味を持てないでいた文化祭の事でした。
彼女が部活の友人に誘われて、暇つぶしにと見物に行った初日の演劇部のステージ。
そこで一人だけあきらかに違う雰囲気を漂わす少女が、スポットライトを浴びて熱心に何かを演じていたのです。
由衣は途中から入ったこともあって、舞台の上でどのような設定の物語が行われているかなどとは理解できるはずもなく、ただただ、その場の雰囲気に圧倒されながらステージを見入っていたのでした。
舞台上の少女は、由衣と同じ腰まで長さのあるストレートの黒髪、そして同じようなソプラノヴォイスです。
ややつり目がかった顔立ちは、どちらかというと美人の部類に入るのでしょうか。身体の線を細く、手足も長いのでどちらかというとモデルのような印象を受けました。
だけど、かわいらしく演じるその少女の声は、舞台から客席全体に伝わり、何かを魅了するように観ている者の心を掴み取っているかのようでした。豊かで力強く生き生きとした声には、切なさや穏やかさやいろいろな想いが込められていました。
でも、舞台上で輝いている少女を見て、由衣は少しの嫉妬と羨ましさを感じていたのです。
その頃、バレーボール部に所属していた彼女は日々の練習に追われていたこともあって、校内で盛り上がっていた文化祭という行事にもあまり興味を持てないでいました。もう二年生だというのにレギュラー入りができず、ずっと補欠でいたことも精神的に余裕がなかった理由の一つかもしれません。地道に練習を重ねて、それでも彼女は試合にすら出られない。そんな想いが、まったく違った舞台に立つ彼女への嫉妬や羨ましさに繋がったのかもしれません。
舞台が終わって友人に「さっき主役やってた子って……」とあの少女について聞こうとすると「堀瀬さんと同じクラスの香村ゆかりさんでしょ。話したことないの?」なんて答えが返ってきました。「クラスメイトの事も覚えていないなんて、天然ボケにもほどがあるよ」と友人は笑います。
舞台に立つ彼女はまるで別人のようにも感じ、同級生ということすら忘れてしまうほどでした。
ただ、もともと自分に興味のない事にはとことん興味の持てない性格だったことも、理由の一つなのかもしれません。
文化祭が終わって由衣は改めて教室を見渡しました。
今までまったく意識をしていなかった少女がどんな子なのか、少しだけ興味を抱いたからです。朝「おはよう」と教室に入ってクラスメイトに挨拶を交わした後、彼女はなにげなく教室内を確認し、少女がまだ来ていないことをちょっぴり残念に思いながら一限の数学の用意をしていました。
すると、始業ベルが鳴る寸前にゆかりは教室に入ってきたのです。しかし、誰とも挨拶を交わすわけでもなく、静かに中に入り、そっと席につきました。
ゆかりは休み時間になっても自分の席から立とうとしません。机を枕がわりに眠ってしまっているようです。近くの席の子も声をかけることもありません。
一言で表現すれば孤高の人。
独りでいることに何ら問題すら感じている様子ではなく、それからずっと放課後になるまで、彼女は誰とも口をききませんでした。気付くとゆかりの姿は教室から消えていました。彼女も部活へ行ったのでしょうか。
由衣はいつものようにバレー部の部室へ行き、いつものようにユニフォームに着替えて体育館へと向かいます。それが彼女の日常です。あの少女を羨ましいと思ったり、気になったことさえ忘れてしまうような日常です。
「堀瀬! ぼさっとしてない。もっと機敏に動く!」
顧問の先生から、いつもの檄が飛びます。部活の時の彼女は深く物事を考えません。それをやったら落ち込んでしまうという事に気付いているのかもしれません。
部活の終了後は仲の良い友達と、疲れを癒しながら歓談するのが日課となっています。
「それってさ、城島くんに決まってるよ」
仲間の一人の吉井慶子はおしゃべりで噂好きなところがあります。肩より長い髪を両脇で縛ってツインテールにしているのが彼女の特徴です。
「へぇ、そうなんだ」
と、人なつっこい笑顔が印象的な島津浩子は聞き上手なタイプです。肩口まであるややクセのある髪質で、朝セットするのが大変だといつも漏らしています。
「でもあいつってさ」
しっかりものの浅田成美には頭が上がらない部分もあったりします。性格は鋭くあっさりで、強力な早口と理屈を論じたがるのが武器でしょうか。
見た目は三つ編みのおとなしそうなタイプなだけに、そのギャップに最初は驚く人も多いようです。
たわいのない会話ですが、補欠としての負い目を感じながらも由衣の居場所はしっかりとそこに用意されていました。彼女はもともと友人に誘われてバレーボール部に入ったようなものなので、居心地の良いと思える場所があるだけ贅沢な話なのかもしれません。
ある日の事です。部活もなくまっすぐに帰路についていた途中でした。
由衣が歩道橋を上がった時、ちょうど下の方から猫の鳴き声のようなものが聞こえてきたのです。
ふと、つられて下の方を覗くと、髪の長い少女が遠くの方にいる猫に向かって「おいでおいで」と手招きするようにしています。どうやら猫の鳴き声もその子が真似ているようでした。
必死になって猫を呼び寄せようとしている姿は傍目に見てもかわいらしく、由衣は思わず微笑みをこぼします。横顔がちらりと見え、それがあの香村ゆかりである事に気付きました。
知った顔ですが、気軽に声をかけられる雰囲気でもなかったので、しばらくぼんやりとその少女を眺めます。
すると、ふいにその子の視線が彼女の方へと向きました。そして、由衣の事に気付くと、恥ずかしそうに目を逸らしてそのままどこかへと走り去ってしまいます。
残された由衣は、辺りをぼんやりと眺めながら頭の中ではその子の事を考えました。
自分は今時のアイドルの男の子にときめくようなミーハーな女の子だし、今日まで同性の知人を意識したこともありません。でも、なぜかその子の事が気になり始めていたのです。
きっかけはちょっとした嫉妬だったのかもしれません。自分とは全く違う舞台に立つ彼女への憧れと苛立ちです。
しかし、由衣の中にはもうその感情は消え去り、別の感情が生まれようとしていました。
教室では誰とも口もきかずにゆかりはおとなしくしています。
そんな彼女を由衣は時々どうしても気になって様子を窺ってしまいました。半年もクラスメイトをしていて今更ながら意識をし始めるなんて、自分でもどうしたことかと戸惑っています。
でも、基本的に由衣の性格は、気になる事をとことん追究するタイプなのです。その反面、自分に興味の持てないものに対してはとことん関心がなくなるというのも些細な欠点ではありますが。
その日は掃除当番で一緒だった松井聖が、香村ゆかりと小学校が同じだったということを知り、由衣はなんとなく話を聞いてみたくなりました。
「あのさ、素朴な疑問なんだけど。香村さんて昔からあんな感じなの? イジメとかで無視されているわけじゃないよね?」
唐突な質問に彼女は目を丸くします。由衣も、もう少し質問の仕方を考えれば良かったと少しだけ後悔しました
「は? なんでそんなこと聞くの?」
サバサバとした喋りは聖本来のもの。別に怒っているわけではないようです。キャラ的に同じ部活の成美と似ていると、由衣は思っていますが、聖は外見からして『いかにも気の強そうな』感じなので成美ほど違和感はありません。
「うん、だから素朴な疑問」
由衣は素直に答えます。
「ふふ。まあ、ほっちゃんぽい質問ではあるかもね」
聖は含み笑いをするような表情を見せます。ちなみに「ほりせ」だから「ほっちゃん」ね、と愛称をつけたのは彼女だったりします。
「え? それはどういうこと」
「自覚のない人には説明してもしょうがないんですけどね」
天然ボケなんだからとでも言いたげな彼女の視線に、由衣は少しだけ気分を害しながらも話を続けます。
「私の事はどうでもいいよ。実際どうなのかな?」
「どうなの……っていっても。見たまんまだよ。誰かあの子をいじめているような素振りを見せた?」
クラス委員でもある彼女は、クラス内のことはほぼ把握しているようでした。
「うん、そりゃ見たことないけど」
「でしょ? だからイジメなんてないって。ただ、あの子友達いないからね。そういう風に見えるのかもしれないね」
「え? でも、部活の方とかで」
確かにクラス内には友達と呼べそうな人物は見あたりませんでした。でも、彼女は演劇部に所属しています。部活の方で親しい友人がいるのだと、由衣は考えていました。
「いないんじゃない。あの子さ、結構ウザイとこあるからさ」
それまでゆかりに対してあまり関心のなかった口調が、急にトゲのある言い方に変わります。
「うざいって……?」
「言葉の通り。なんかさ、お子ちゃまなのよ、あの子。だから一緒にいると疲れるんだよね」
由衣自身、ゆかりとは言葉も交わしたこともなければ、本当の性格さえ把握していません。けれどなぜかその言葉は、自分自身の事を言われているかのようにショックでもあり、悲しくもありました。