ここは異世界
普通に考えたら、その場に留まるのはいい選択じゃなかったのかもしれない。
いや、あんな生き物と今この状況にあって普通なんて無いようなものだ。
さっき現れた人型をした緑色の化け物。
今度は大挙して押し寄せた。鬱蒼と茂る森の奥からわらわらと、ギーとかガーとか言いながら湧いて出た。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ……あなたたち一体なんなんだ」
緊張のあまりか、言葉遣いがおかしい。
しかし問題ではないようだ。そもそも言葉が通じている様子ではない。どころか連中は石斧に石槍をこっちに向けて、完全に戦闘態勢だ。
完全に対話できる状況じゃない。
しかし連中、隙だらけだ。
いっそここで……。
ふとぼくは手元を見る。
いつの間にやら、手にはフェンリルレガシーが握られている。
今ぼくは何をしようとしていた?
まさかぼくが?
頭は再び混乱し始める。
そんな中でも体が出した答えはきっと最適解だったのではなかろうか。
ぼくは逃げ出した。
緑色の化け物達が半包囲する、その反対側へと全力で走った。
「う……」
やばい。何がやばいって、緑色の化け物じゃない。
「うわあああああああああ?!」
ぼくが走る、そのスピードだ。
まるで森の中をレーシングカーで暴走しているように、出鱈目に視界が動く。
それでも不思議な感覚だった。入り組む獣道の中をハイウェイ走行しているようなものなのに、目が追いつく。体が追いつく。
進路上を遮る樹木が視界に入る。駆け足は即座に地面を掴み、危なげなく躱す。
幅10mはあろうという地峡が目に入る。駆け足は力強く地面を踏み切り、軽やかに対岸に着地する。
「あ、あはっ」
ありのままの事実がおかしい。あまりの経験に口角が上がり、自然と笑いが溢れる。
緑色の化け物などとうに忘れていた。どうせ置き去りだろうが。
「わはははははははは! あーっはっはっはっはっは!!!」
この日、ぼくの頭はおかしくなった。
崖を三角飛びで駆け上がりながら、ぼくは大笑いした。
「はあ……」
崖の上、冷静になったぼくは丁度いい小岩に腰掛ける。
「どうしようか」
やぶれかぶれながらも状況は分かった。
フェンリルレガシーを始めとした装備の数々、敏捷性に特化したステータス値からなる身体能力。
ぼくはどうやらEFOのサブキャラクター″ケルビン″になっている。これが一つ。
そしてもう一つ。
ここ絶対日本じゃない。
だって日本に居るものか、あんな緑色の化け物。あんな石器時代みたいな、しかも集団で人に襲いかかるような生物が。
居るわけない。ゴブリンとでもいうのだろうか。地球に居るかもしれないチュパカブラだって裸足で逃げ出すぞ。
ただ、日本じゃなければどこだっていうのか。
ぼくは地球上じゃないどこか。そう、たとえば異世界なんじゃないかと思う。
「それは……あんなもの見せられたらなあ」
見晴らしの良い崖の上から眺めるぼくは嘆息する。
手前にはつい先ほどまで居た森。森が途切れた先にある草原に大河。
その中に佇む巨大な城壁。
なにもかもファンタジーだ。緑色の化け物も、でっかい城壁も、ぼく自身も。
ふと、ぼくは影に覆われる。
見上げれば大きな翼に長い首と尾のシルエット。
うん。ドラゴンってやつだ。
それはぼくを追い越して何処かへと飛んでいった。
「ファンタジー……」
零した通り、ぼくの目の前に広がる現実はどうしようもなくファンタジーだ。
ぼくはこれを喜ぶべきだろうか?
そうなのかもしれない。けれどぼくは。
「ぼくが欲しかったのはゲームであって……ゲームみたいなリアルって訳じゃないんだけど」
ぼくは憂鬱だ。
これがゲームでないとするならば、この世におけるぼくが生きる理由はどこにも無いのではないか。
そんなことはない? 探せば何かある? 元の世界に戻る方向?
全部希望的観測だ。
これが現実ならきっと、何もないこの世界で、ぼくはずっとこのままだ。
……そんなの、虚しすぎる。
「はあ…………あっ」
勝手に意気消沈していたぼくだが、ふと気付く。
「さっきのドラゴン、あの城壁の方に飛んでいったよな……」
この世界にあっては分からないことが多い。その上ではこの世界にも居るであろう知的生命体と、その他の生物との関係もそうだ。
早くも合間見えたゴブリンとドラゴン。
実を言うと、双方とも殺すに梃子摺るような相手ではないと直感で分かる。
ゴブリンの群れと相対したとき、ぼくの脳裏には彼らの首を飛ばすに最適な、戦いの筋道が立っていた。
ケルビンの体に宿った戦闘感覚……とでもいうのだろうか。
現に今も、あのドラゴンと戦って勝てるだろうかと考えると即座に答えが浮かぶ。
大した相手ではない。しかし、少なくともぼくにとってはの話だ。
この世界の住人はどうだろう。最悪なのはあのドラゴンがこの世界の住人よりも遥かに強く、尚且つゴブリンと同様に人間に敵対的だったケースだ。
ぼくは顔を上げてドラゴンの影を探す。
遥か飛び去っていく影は今や小さく、たしかに城壁の方へ向かっていた。
「これは拙いかもな」
立ち上がり、ぼくは崖から飛び降りる。
清水の舞台はくだらない高度があった筈だが、なんとなしに着地できてしまう。地面はかなり凹んだが。
ぼくは方向を見失わないうちに駆け出した。やはり敏捷性を示すAGIの値が7910を誇るケルビンだ。
ぼくは数秒とかからずトップスピードに乗り、森の中を突き進む。
今日も平和だ。それに尽きる。
私こと、メリーナ・アルマンデルは守衛任務の交代に向かいながら思う。
この城塞都市シュールスは王国東端の開拓拠点だ。ここを拠点として各地の開拓村へと物資や防衛力を届け、国土の拡大を図っている。
国力は費やすことになるが、この前線は比較的優しい方だ。
深い森林や地形の制約はあっても、そこには魔物の脅威が少ない。居てもゴブリンくらいのもので、南方の開拓地のように数万のオークやドラゴンが出てきたりはしない。
「交代だ」
「おう、ご苦労さん」
騎士団の同僚と交代し、門の守りに就く。
と言っても、別に何から門を守るでもない。シュールス周辺は内地とはともかく、私が居る前線側の交易は一般には無きに等しい。
魔物だってわざわざ狩られにくるはずもなし。
実に平和だ。窓際業務、とも言うが。
そう、私はもう平和でさえあればそれでいい。
苗字のアルマンデルからも分かる通り、私は貴族の出自だ。とは言っても領地も役もこれといったものはない名誉だけのものだったが。
そして幼少の私は何を思ったか、もう忘れてしまったが、騎士を目指した。そしてなまじ才能だけはあったもので、騎士そのものにはあっさりとなれてしまう。
が、時代だ。
我がオーリオン王国はもう何年も戦争などしていない。
近隣の都市国家群や、その更に向こうの国々は何かとキナ臭い雰囲気を醸しつつ、そこだけの問題といった様子だ。
王国としては傍観の構え。勝手に潰しあっていろとばかりに、国土の開拓に邁進の姿勢だった。
結局私は華々しい戦果を挙げるでもなく、開拓地への増員として、このシュールスで治安維持の日々だ。
自慢ではちょっとあるが、剣と弓の扱いなら自信がある。
南方の開拓地なら存分に力を発揮できるのだろうが、生憎と上からの命令は絶対だ。騎士の命令違反は王命に刃向かうと同義の重罪だ。私はとりあえず門衛をしながら、静かに暮らすしかない。
いや、静かに暮らすのも悪いと思っている訳ではない。それも一つの幸せだろう。
しかし仕事以外……特に色恋沙汰というのは私には影もない。
それはそうだ。私は名前ばかり貴族の娘であるから平民には近寄りづらいだろう。
というか、今更女性として見てもらえるかすら疑問だ。騎士として良かれと思い鍛えた体は筋張って丸みもない。しかももう二十六歳……行き遅れの筋肉女と自分で言っていても悲しくあるし、これとくっつく男だって可愛そうだ。
「はあ……」
ため息だってつきたくなる。
いや、嫌な考えはよそう。今は仕事中だ……誰も何も来るまいが。
そうだ。今は平和でさえあれば良い。良いったら良いのだ。
しかしその慎ましい願いすら叶わないとなれば私も、我が身の不運を嘆かずにはいられなかった。
「ワイバーン!」
大型のワイバーンが森からこちらへと飛来してきていた。
ワイバーンは極めて危険な魔物だ。空を飛び、鋭い牙と鉤爪を持ち、尖った尾は鉄の鎧すら貫く。
そして奴らは獰猛で狡猾だ。
私がその姿を見とめて間もなく、ワイバーンの空襲を告げる金が打ち鳴らされる。どうやら見張り台も奴の姿を見とめた様だが、当のワイバーンはみるみる内ににシュールスへと迫り来る。
奴らは狡猾だ。城壁を越え、鋭い鉤爪の後脚で逃げ遅れた人間を掴みさっさと退散するつもりだ。持ち帰った後、人間は生きたまま食われるだろう。
騎士として見逃す訳にはいかない。
私は騎士団用の出入り口から城壁に入り、弓と矢筒を掴む。
外に戻ればワイバーンは目前と迫っていた。
咄嗟に矢をつがえて引き絞り、敵の動きを見越して矢を放った。
「ギャァアッ」
矢は右翼の付け根に突き刺さった。ワイバーンは苦悶の鳴き声を上げるが、針に刺された程度だろう。
ワイバーンは私の頭上を飛び越え、そのまま城壁を越えてしまう。
「眼中にもないかっ!」
咄嗟に城壁の内へ向かおうとするも、私の目の前を影が覆った。
「なにっ!」
ワイバーンは私目掛けて城壁の向こうから降りてきた。
城壁の向こうですぐさま引き返し、私への報復をしに来たのだ。
「くうっ!」
私は咄嗟に跳びのき、踏み潰されずに済む。しかしワイバーンの長い首は跳びのいた私を追う。
鋭い牙の大口が目前と迫る。
ああ……婚期逃すんじゃなかった。
そんな情けない辞世の句を今生の別れと覚悟した。
瞬間、視界の端を炎が迸った気がした。
「ギャ……カ……!」
だが、その覚悟は無駄になる。
ドシンと音を立て、ワイバーンの首が地面に落ちる。遅れて首を失った体が揺れ、ズシンと音を立てて崩れ落ちた。
助かった。その事実に緊張の糸がほどけ、止まりかけた呼吸を取り戻してへたり込んだ。
私はそこに人が居ると気付くのに時間がかかった。
ああ、彼が助けてくれたんだな。
その人は良質な皮の軽鎧と、不思議な燃え盛るようなマントに身を包んだ大柄の男だった。
手には曲刀が握られている。あれでワイバーンの首を両断したというのか。
凄まじく強い。Aランク……いや、それ以上の冒険者だろうか。
恐る恐る顔を見上げてみれば、整っていると言えるが、険しい目つき。しかしどこか自身有り気だ。
……かっこいい。
「あ、あの……」
「……」
「お名前をお伺いしても」
……いや、何を言っているんだ私は!
変な女だと思われてはいないだろうか。赤面しているであろう自らの顔面に収拾をつけることもままならず、場には沈黙が流れる。
彼からも返答がない。
なんかもう、泣きそうだ。
「ゔっ……おええ……」
「……えっ」
しかし、涙腺に集まりかけていた涙は引っ込んでしまう。
私を助けてくれた冒険者さんは胃の中のものを吐き出し、その場でうずくまってしまった。