サブキャラクター ケルビン
時に日の暮れる頃。
時計に目を向ければ五時すぎ。だいたい定時だ。
席を立ち、山積する他の人の書類の向こうの部長に一言。
「今日はお先に失礼します。お疲れ様でした」
「ああ、人見くん。この後空いてたかな」
書類の向こうのつるりとした頭から呑みのお誘い。が、残念ながらこの後は空いてない。
「すみません、今日は外せない約束がありまして」
「そうか、君も隅に置けないねえ。わかった、お疲れ様」
そういう用事ではないが、お許しは出た。
勤め先の会社から出たぼくは夕日に当たりながら、大きく伸びをする。
なんとも体はがちがちに凝っている。
うちの会社は一般に言うホワイトだ。だいたい定時退社だし、上司もあの通り。けれど限られた勤務時間の中で成果を出すのだって楽じゃない。生産性を上げるといえば聞こえは良いが、実際は無茶振りを強いられているところもあるんじゃなかろうか。
だからまあ、仕事はそこそこきつい。ぼくも勤務中はひた集中する。体ががちがちになっても無理からぬことだと思う。
でも、だらだら残業低賃金ハラスメントましましのブラックよりはマシだ。それは確信する。
だってそんな所に勤めてしまったら最期、ぼくは趣味のために生きることができなくなってしまう。
ぼくは今日までそのために生きてきた。
必要なものはお金と時間。だから定時退社の週休二日、それで給料も良いところを目を皿にして探した。もちろん、探しただけで終わりじゃない。準備も入念に取り組んで、ぼくは今こうしている。
いや、それは今は良いんだ。
それよりも早く帰りたい。自然と歩みが早くなる。
数十分をかけてアパートに帰るまでの間、ずっとそわそわしっぱなしだった。
鍵を開けて暗い部屋に入る。ぼくは一人暮らしだ。家族は地元で元気にしていると思う。
帰ったぼくは居間の電気をつけ、すぐさまスーツを脱ぎ散ら……かすと、後が大変だな。ぼくは手段を選ぶ方だ。さっと片付ける。
空腹でも後が辛い。健康だって大事だ……趣味のためには。
冷凍のご飯をレンジで温め、お湯を沸かす。ご飯が温まったら入れ替わりに作り置きのおかずを温め、お湯は味噌玉に注ぐ。
あまりに簡単すぎる気がしないでもないが、十分だと思う。
「まだ早いけど……レベリングでもしとこうか」
夕食を片したぼくはスマホを取り出す。
最新機種の綺麗な画面をタップして一つのアプリを開く。
耳に優しい特有の静かなBGMが鳴り、そのゲームのタイトルが現れる。
『Endemic Fantasia Online』
ぼくが全てをつぎ込む趣味。
略してEFO。これを一言で言うなら、普通のスマホMMOだ。
自分でパーツを組み合わせて作ったアバターでファンタジー世界を冒険する、なんともありきたりで、よくある普通のMMO。
ストーリーはお約束の、中世ヨーロッパ風の世界でモンスターを倒したりお姫様を救ったり邪神と戦ったり。
オンラインは仲のいいフレンドやギルドメンバーとボス戦を周回してレアアイテムを狙ったり、レベルを上げたり。
普通だ。それでもぼくは愛して止まない。
『普通だがそれがいい』なんて訳じゃない。似たようなタイトルなら世の中山ほどあるが、そのことごとくが、ぼくには合わなかった。
いや、EFOだけがぼくに絶妙にマッチしたんだ。
世界観もストーリーも、システム、インターフェース、BGM、課金の特典……その全てがぼくには合っていた。
『はじめる』のボタンをタップすると、画面にキャラクターが現れた。
その頭上には″ジュール″と、キャラクターの名前を示す文字。
「多分″メートル″が呼ばれるんだろうけど……連絡のとれるキャラが良いよなあ」
画面をフリックすれば、まるでスロットゲームのようにキャラクターが目まぐるしく現れる。全てぼくのキャラクターだ。
EFOは決して難しいゲームではない。特に時間と金を使い込んで熱中しているぼくにとっては、エンドコンテンツである十や二十の激レアアイテムはなんとなしに集めてしまうものだ。
そこでもっと楽しむための、複数キャラの育成。今や育成の完了したメインキャラが十、育成中のサブキャラ二十がいる、そんな有様だ。
「″ラジアン″は手間だし」
そしてぼくは一つのキャラクターに目を留める。
険しい目つきの、長身の男だ。
レザーの軽鎧と燃えるようなマントに身を包み、その口元は不敵そうに小さな笑みを浮かべる。
「″ケルビン″か、これがいいな」
NAME:ケルビン
Lv:379
JOB:アークバンカラナイト
HP:10090/10090
MP:994/994
STR:7188
MAG:97
VIT:4656
AGI:7910
DEX:1235
【このキャラクターで冒険しますか?】
【YES/NO】
YESのボタンをタップすればゲームの世界は森林の中、画面の中に蛮騎士が立つ。
「さて、転職レベルまで少しだし、時間まで出来るだけ上げとこう」
画面の中のキャラクターはまだら模様のシミターを抜き放ち、モンスターに襲いかかる。
EFOは普通のMMOらしく、やはりジョブシステムだ。
レベル50まではノービス。そこから100までは見習い職。
しかし一旦そこでレベルがカンストになってしまう。そこで上位のジョブに転職するとレベルが1になり、レベル200が解放される。
そしてレベル200まで上げたら、更に上位のジョブに転職してレベル300を解放する。もちろん、レベル1からだ。
転職による恩恵は大きい。上位への転職でレベル1になっても育成したステータスは固定値の補正として引き継げるし、新しいスキルだって覚える。なにより最上位ジョブなら新たなステータスを解放できる。
しかしこれが結構面倒くさいかもしれない。なにせ現在の最高レベルは500……育成完了には合計1500ものレベルが必要だ。
それでも時間と課金の暴力があればどうということはない。+1500%の取得経験値補正を受けた蛮騎士は次々とモンスターを屠り、モリモリと経験値を蓄える。
NAME:ケルビン
Lv:385
HP:9883/10244
MP:390/995
「あと15」
レベルアップに合わせてカウントダウンするように最上位ジョブまでの道のりを数える。
そのとき画面の端、チャットログが動いた。
いとわろし:こんばんは(╹◡╹)
四百八十手:おっ、きたな
†鯛†茶漬け:こんばんは(・∀・)
ケルビンが所属しているギルドメンバー達だ。レベリングに没頭していたぼくはここに至り、本来の予定を思い出す。
ケルビン:こんばんは(*・ω・)ノヒュドラー行きますか
†鯛†茶漬け:うむ、行こう
いとわろし:はい(^-^)
四百八十手:イクイク
今夜の予定。それは仲のいいギルドメンバーと、レアアイテム狙いのボス周回だ。
ああ、楽しみだ。
中にはぼくのこの気持ちを理解できない人も居るだろう。
ぼくとしてはその気持ちも分からないでもない。どうしてたかがスマホゲームにそこまで入れ込むのか。貴重な時間と稼ぎをつぎ込むのか。そんな感じだと思う。
逆だ。ぼくにはこれしか価値がない。
学業もスポーツも人間関係も、それ自体に価値を感じられなかった。何かのためでないと、やってられるものではなかった。
ゲームなんぞに全てをつぎ込んで虚しくはないのかと言われれば、その通りだ。
ぼくには全て虚しい。このEFO以外は。
だからEFOのおかげで他に色が付くならそれで良いじゃないか。ぼくはそう思う。
仕事も、人間関係も、ぼく自身も、ぼくの人生はこの手のひらの中の遊戯のためにある。
四百八十手:じゃあハイブラ頼むよ
ケルビン:了解です(`_´)ゞキャラチェンジ
キャラクターの育成を切り上げ、ぼくはパーティーのためにメインキャラクターに切り替える。
メニューバーからログアウトボタンをタップする。
そのときだった。視界が歪み、暗くなる。
何が起きたのか。理解する間もなく、ぼくの意識は暗闇に沈んだ。
「ん……」
目を覚ます。
驚くべきことに、視界には目前と迫る石斧。
「うわあっ!」
なんと体は機敏に動いた。冗談抜きで目前まで迫っていた石斧を転がるように躱し、あろうことか仰向けの状態から一瞬で立ち上がった。
「ギイッ!」
「……はっ?!」
あまりの情報量に頭が混乱する。
なぜ今あんなものを躱せた?
今目の前にいる、緑色の人間みたいな化け物はなんだ?
そもそもここはどこだ?
しかもなんか視界が異様に高い。
「ギエエッ!」
しかし状況は待ってくれない。
緑色の化け物は手に持った石斧を振りかぶり、向かってくる。
「ひいっ」
ぼくは反射的に腰のシミターを抜く。
受け止めようとした石斧はすっぱりと中程で両断され、明後日の方向に飛んでいく。
「ギッ、ギアッ!」
「はあっ?」
どういうことだ。どういうことだ全く理解できない!
なんでぼくはシミターなんて持ってるんだ。なんでぼくはシミターを持ってることを知ってるんだ。
混乱に次ぐ混乱。
頭の中で焦燥と警鐘が入り乱れて動悸が早まる。
「ギッ!」
立ち尽くしていると、緑色の化け物は茂みの奥へと消えていった。
ぼくはその場で思わずへたり込む。
しばらくそのまま、落ち着いてから一つずつ状態を飲み込もうとした。
ここはどこか。鬱蒼とした森林。それしか分からない。ここがどこで、どうやって来たのか全くの謎だ。
大体、なんだこの剣は。
手に持っていたシミターをじっくりと注視していると、頭の中に文字が浮かぶ。
銘:フェンリルレガシー
攻撃力:1800
防御力:0
品質:SSS
MAG-90%、STR+30%、AGI+30%、回避補正+15%、命中補正+15%、近接攻撃威力+25%、防御無視、出血付与
「……ほえ?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。ぼくはこれを知っているからだ。
立ち上がり、自分の全身を見下ろしてみた。
手には黒い籠手。体はレザーの軽鎧。背中には燃え盛るように揺らめく紅蓮のマント。
全部知っている。見たことがある。あの時はポリゴンの浮く、荒いCGモデルだったけど。
「なんで、これじゃあまるで……」
声も違っていた。この深いバリトンボイスは彼にこそ似合いそうだった。
声も声なら、それ以外も。170cm程度しか無かった筈の中背中肉は2mに迫るのではという丈姿。
「ケルビン……? 俺はケルビンになってるのか?」
事実は無情にも、ただただ現実をぼくに突きつける。
ぼくは呆然とするしかなかった。
四百八十手:こないね
いとわろし:どうしたんでしょうね(・・;)
四百八十手:なんかトラブったのかな
†鯛†茶漬け:あ、来たじゃん
メートル:すみません、お待たせしました(^人^)