2.記憶と記録と置かれた窮状
少年に手枷で拘束され、正統派なる軍の宿営地に連れて行かれることになった。
近辺には彼らの仲間が散らばっていたようだ。
少年の鳥の鳴き声を模した笛の音に、3人の僧衣の男たちが集まってきた。
れっきとした大人の男たちである。
少年の身分が高いのは、男たちの少年に対する振る舞いで確信が持てた。
ただどうやら立場、僧としてのものだろうが、それは大人たちの方が上であるらしい。こちらは少年の言動からの推測だ。
童女はといえば、集まる彼らに頭を垂れるのみ。
黙したまま声を発さず、当然の責務であるかのように、辺りに気を配っていた。
歩き始めてからはずっと、集団の最後尾を粛々とついてくる。
目を覚ました戦場から宿営地までは、それなりの距離があるようだ。
道中、馬車に乗ることになった。
相変わらず体は鈍く重く、助かると内心で喜んだものだが、そんな感情が続いたのも、最初のほんのわずかな時間だけだった。
馬車というのは、なんとも不快な乗り物なのだと知った。
あれは木の箱に車輪を付けただけの代物だ。
サスペンションなんて気の利いたものがあるわけでもない。
そんなもので不整地を走ればどうなるか。
ああ、クソ。尻が痛い。
付け加えると、馬車をひいていたのは馬ではなかった。
恐鳥と言うのだったか。
某国民的RPGに出てくる黄色い鳥によく似た、大型の鳥類だった。
こちらは黄色ではなく暗灰色だが。
馬車から眺めた辺りの景色は、どこもかしこも自然に溢れていた。
というか、草原と森と山しかなかった。
馬車が進むのは、土を踏み固めただけの道。
宿営地に至るまでの道中では、ついに文明の痕跡を見つけることができなかった。
辿り着いた宿営地では、辺りに目をやる余裕があまりなかった。
至る所で篝火が焚かれ、闇に赤く浮かび上がる大小の天幕の群れは、関心を引くには十分なものだ。
けれどすぐ後ろを歩く小柄な影は、それに増して俺の意識を縛り付けて離さない。
この童女の不興を買わないようにと、もうそればっかりよ。
背を丸め肩をすくめ視線を地に落とし、無力で無害な凡百を演じ続ける。
それでも、視界に映る情報の断片を組み合わせることには余念がない。
情報を制する者はより多くを制する。
こればっかりは、万世界共通なのではないかね。
とりあえずざっくりと生活水準を見るなら、西洋史で言うところの中世から近世にかけて。近代ということはまずない。
武具に関して言えば近世だろう。ただ、銃は見つけられなかった。
終点は宿営地の隅にある天幕。その中にある簡易の牢だった。
牢というより檻?
ぎりぎり立つことができる程度の、木製の狭い檻だ。
これが俺の新しいハウスですか。
いや入りますよ。
入りますとも。
喜んで入らせていただきます。
こうして俺の虜囚生活が始まった。
◇◇◇
待遇は、特別に悪いというわけではないのだろう。
食事は貧相だが日に2度出る。
いや、本当に貧相なのだが。
石みたいに硬いパンに、具があるのかないのか分からないスープ、燻製肉は臭いだけで肉の味がしない。
だがまあ、この世界の技術は地球に遥かに劣る。
未熟な保存技術では、この程度の食い物しか作ることができないというのも、知識としては知っている。
だから俺は、不満のひとつも面に出さず、これを食えている。
寝具は毛布とも言えない襤褸切れ1枚、掛けるのではなく包まるようにして寝る。
季節はよくわからないが、日本で言えば初夏ないし初秋。
冷え込みはそれほどではないから、これでもなんとか耐えられた。
必要最低限のものは与えられている。
不当な暴力も今のところない。
ないといえば、便所もない。
代わりに檻の中には桶が置いてある。
中々に屈辱的だぞ、これは。
というか今の子供って、こういうので用をたせるのかね。
和式はもう随分と減ってきているが。
ああこれ、下手なタイミングで使うと、長々とその臭いに苦しめられるので注意が必要だ。
日に3回、宗教の人の話を聞く。
宗教と聞くとアレルギー反応を起こす人は多いだろう。俺だってそうだ。
が、ここは未知の世界。
地球の歴史では、宗教が価値観の根幹をなしていた時代も多い。
だから真剣に聞いた。
そして努めて理解しようとしたのだが……。
あの、できれば入門みたいなところから話してくれませんか?
虜囚生活も3日目ともなると、これが現実であることに諦めもついてくる。
となれば、腹を括るしかない。
考えるべきは、どう身を処すか。
指針になるかは不明だが、気になるものがある。
記憶、というよりも記録。
名も知らぬ、なんて言っては語弊があるかもしれないが、誰かさんの生涯が頭の中にはある。
戦地の後方から始まり、両親と共に戦場を転々とする子供の一生だ。
戦のない時には、同胞の戦士たちに可愛がられていた。
歩けるようになるや否や武器を与えられ、鍛錬を遊びとして育つ。
師には事欠かず、読み書きも算術も基本的なところはできる。
世情や身上も、戦地を基本とするものではあるが、多少は知っていた。
普通であれば記憶と考えるだろう。
だがこれは映画をスクリーン越しに見る、あるいは書物に記された物語を思い出す様な、己のものという実感がまるで伴われないもの。
共感性の隔絶とでも言おうか。
おまけに人物の顔と名が一致せず、そもそもその顔すら朧げ。
学生時代に頭に叩き込んだ歴史上の人物を、今頃になって思い出そうとしているかのような感覚。
自然と脳裏に浮かぶ類のものではない。
気づくのが遅くなったのもそのためだ。
そうであれば、これはやはり知識に過ぎず、記録と呼ぶべきだろう。
なぜ他人の人生が頭の中にあるのか。
拘束された時に気が付いたのだが、俺の体はどうも大人のものではないらしい。
立ち上がってみれば、童女とさして変わらない背丈。
つまるところ、子供のものだった。
身に着けている物を確かめれば、なんとも粗末で古めかしい作り。
ついでに言うなら、子供の記録はあの戦場で途切れている。
生死の境を彷徨ったことで、前世の記憶が戻る。
物語に限らず、聞く話ではある。真実かどうかは別として。
ただ、どうかね。
記憶が戻ったという感じはない。
目を覚ました。それだけだ。
愉快な話ではない。
だってそうだろう。
それはつまるところ、地球での俺は死んじまったってことだ。
まるで覚えがないが。
話を戻そう。
こちらの感情はどうあれ、この情報は非常に役に立つ。
地球との決定的な違いは2つ。
神サマが実在すること。魔法が実在すること。
付随する変化は膨大すぎて、いちいち取り上げていられない。
ひとつ例を挙げるなら、この世界では俺も天動説の信奉者になれる、といったところか。
物理学も化学も、持っている知識の大半が当てにならない。
目に見える現象は似通っているが、過程が同じかどうかは怪しいものだ。
微生物ではなく妖精さんが畑を肥やしているのだと言われて、納得する日が来るかもしれない。
カルチャーショックで眩暈がしそうだった。
文化というよりも文明? より正確には原理かもしれない。
地球の神々が体現し得なかった奇跡を、いとも容易く成し遂げてくれる。
まさしく異世界!
だが。子供の記録を垣間見た俺は思う。
そこに闊歩するのは、人に似た姿を持ち、人に似た情動を示し、人に似た思考で言葉を口にするイキモノ。
それはもはや人間ではないか。
皮肉と怨嗟を込めて叫びたい。『神をほめたたえよ』と。
人間原理――宇宙が斯く在るのは、人間が存在するからだ――という考え方がある。
あれは信仰だと俺は馬鹿にしていたが、訂正しよう。
頭を垂れ謝罪しよう。俺が間違いだった、とね。
むしろ新しい仮説を立ててもいいな。
人間というイキモノは、どんな世界にあっても、根本の部分は同じであるという仮説を。
そうであるならまだやりやすくなる。
まだ、である。
相手が人間だからと安堵できる奴は、頭がどうかしている。
人間なのだ。地球では数千年と続く、血で血を洗う泥沼の歴史を築いた。
生まれ育った日本は平和だった。平和過ぎるほどに平和だった。
だがそれは、歴史においてはほんの一時混じった異常。
そんな異常な国・時代にあっても、人同士の諍いは絶えない。
人とは暴力そのものであると俺は考える。
げに恐ろしきは人の情念。
人が人であるというだけで恐怖なのだ。
そして、人は異物を認めない。
俺はこの世界にあっては紛れもない異物。
で、あるはず。
これといって尋問のようなものがないのが、妙ではある。
建前通り傷病兵、傷は傷でも心のだが、として扱われている気がする。
子供の記録に気づいてからは、なるべくそこにある振る舞いを模倣するよう心掛けている。
はたから見れば、いい具合に混乱から立ち直っているように見えるだろう。
意味を成すかは怪しいところだが。
あの童女を欺けるなどという思い上がりは、生憎と持ち合わせていない。
目下の悩みはこれだった。
俺をここへ押し込めた意図が読めない。
殺されかけた、いや、殺す気はなかったと言っていたが。あれの意味も定かではない。
脅しが理由ではない。それは確かだろう。
垣間見せた笑みが脳裏をチラつく。
見間違いではなかった。今ならそう言える。
相手は子供と思うかもしれない、だがあれはまともな子供ではない。
記録の中にもあのような子供はいなかった。
可能性があるとすれば、この世界の信仰の根幹をなす思想のひとつ、輪廻だろうか。
神がいて魔法があるのだ。輪廻だろうが転生だろうが、さして驚きはしない。
前世の記憶を引き継いでいるとすれば、あの大人顔負けの立ち居振る舞いにも納得がいく。
納得したところで、だからどうしたという話ではあるのだが。
あれを見た目通りと思ってはならないのは、輪廻云々がなくとも決まっていること。
問題はこれからどうなるのか。
どう振る舞うのが最良なのか。
宗教関係の人間であることは考慮すべきだ。
ただなあ、もうどう考慮したらいいのやら。
『私は闇の月女神が十戒の僕です。見ての通り鬼族で奴隷の身ですが、十戒の僕である証はこの聖章が示しています』
あの時はなにを言っているのかよく分からなかったので、流してしまったが。
今は分かる。
あれはマズかった。大失態どころの騒ぎではない。
記録の子供もその家族も黒の民と呼ばれる、黒の月に縁ある民族であった。
そしてその例に洩れず、黒の月女神の敬虔な信徒である。
だがこの黒の月女神、実は異端の信仰なのだ。
思想的な偏りが激しくて、おまけに子供相手だからか教義が断片的なため、この世界の信仰を論じるにはいささか不都合が多い。
拙い知識を披露すると、闇の月と黒の月は同じものを意味している。
月とは天上に浮かぶ月のことで、神とほぼ同一のものとして語られる。
曰く、月は神の根源が形を成したものであり、神は月を司るとかなんとか。
この世界には5つの月があるのだが、その話は今は置いておこう。
闇の月はかつては黒の月の名で呼ばれていたが、戦に敗れて名を奪われ、闇の月という忌名が与えられたのだとか。
だから黒の月の信徒は、表向き闇の月の信徒を名乗ってはいるが、その名を屈辱の象徴として嫌悪している。
だがこの世界には、正しく闇の月の信徒と呼べる者達が居た。
忌名を受け入れた、真ならざる黒の月の信徒。
黒の月を奉じる者達は、彼らを激しく憎悪していた。
それこそ、名を貶めた他の月の信徒以上に。
で、だ。なにがマズいって、あの童女が正式な闇の月の信徒、それも十戒の僕を名乗ったことだ。
この十戒の僕というのは、地球で言えば修道士や沙弥に近いもので、宗教組織に属する立場である。
立場の証である聖章、階級付きのロザリオとでも言うべきか、まで持ち出している。
その時、俺はなにをしていた。
あろうことか、童女の角を見て思索に耽っていたのだ。
笑うしかない。
親の仇を前に、女の尻を目で追うがごとき蛮行。正気を疑う。
直後の童女の反応も……、いやさっぱり理解できんな。
あれが反応を見せたのはもっと後のことだ。
そこまでは訝しむ素振りなど欠片も見せなかった。
俺の奇妙な行動をさらりと、流していた?
やられた。
子供だと思って完全に油断していた。
日本人が海外でカモにされるわけだ、クソッ!
どれだけ意識して警戒しようと、長年に渡って刷り込まれた価値観は顔を覗かせる。
薄いのだ、危機意識が。日本で安穏と暮らしていた俺には。
まして、これが現実であると覚悟を固める前のこと。
失態だったことは間違いない。
しかし、いくら後悔したところで過去は覆らない。
そう言えば、あの童女は下婢ということだが。
下婢。召使のことだ。下女とも言うな。本人は奴隷と言っていたか。
加えて若様、御屋形様。
鬼族というのが、黒の月に縁のある魔法種であることは分かった。
魔法種というのは読んで字のごとく、魔法に長けた種族の総称だ。
一騎当千の化け物らしい。
銀月の長耳族、黒月の鬼族である夜叉族と吸血族は特別危険らしく、戦場で出会ったらまともにやり合うなと、記録の子供は教えられていた。
兄は人間のように見えたが、種族まわりの知識は戦場についてしかない。
教養はある、戦いの心得も。
かなりの水準の教育を施されている。転生者でないとすれば、だが。
兄妹の仲は良好であるように見えた。
それでいて下婢だ。おまけに闇の月女神の十戒の僕である。
妙な身の上だ。
妙ではあるが、権力に関わるには都合のよさそうな身の上ではある。
権力と言う点では少年も当てはまるが、こちらが動く可能性は低いだろう。
そのつもりなら、未だなんの動きもないのは不可解に過ぎる。
やはり、そうだな。
俺の処遇はあの童女の考えひとつで決まると思ってよさそうだ。
こればかりは諦める他はない。
肝要なのは、事態が動いた時に少しでも足掻ける用意をしておくこと。
童女以外に自分が異物であることを悟らせてはいけない。
幸いにして俺の体は幼い子供の姿。
あの童女ではないが油断を誘える可能性がある。
もちろん、内面を表に出さないことが前提になる。
そのためにはやはり、この世界の人に擬態しなければならない。
多数派を模倣するのは存外難しい。容易に比較できるからだ。
いずれ目指すのはそこになるだろうが、今は少数派。そうした人も居ると思わせることができれば十分だ。
狙い目は小心で臆病な愚者辺りになるか。侮りや嘲りを向けられるのは望むところ。そうした感情は人の目を曇らせる。
信仰や尊厳は擬態する上での大きな壁だ。それを少しでも誤魔化せるのであれば、俺の自尊心など餌としてくれてやる。
こうして演じる人物像を組み上げている間に、更に数日が過ぎていった。