おとぎ話とひめの行方
『ボクをよんだんでしょう?』
出会ったとき泣いていたはずの少女は崩れた塔の中でお茶を飲んでいた。レースのひかれたテーブルにクッションの置かれた椅子、茶器に描かれた絵からして300年以上前のものだろう。それにしては部屋を飾る家具も小物もあまりにもきれいだけれど。
「そうよ、ヴァルト。だってヴァルトがいつまでたっても会いにきてくれないから、だから、しかたがなかったの」
穏やかな空気、それがこれほど恐ろしいと思うのは普通じゃないからだとヴェルジュは知っている。
まともに話したところで今の彼女には通じないだろうと判断して、先程見たヴァルトという王子の微笑みを真似て笑う。こんなものはただの真似事、おままごとにすらならない。それでも情報をひきだすためなら心を欺き知らぬふりだってできる。なぜならヴェルジュは愛子で、エグランテリアを背負う王子だから。それと同時に絵本のなかの王子様に憧れる無邪気な子供でもあるのだけど、と考えて言葉遣いだけは真似ないことにした。
『さっきのはなに?』
「……ヴァルトが、忘れてしまっているみたいだったから」
忘れるも何もない。あれはボクのことではない。そう言うのは簡単だ。でも、ヴァルトではないなら、彼女はボクをどうするのだろう。
『わすれるってなんのこと?あれだけじゃわからないよ』
「イーリスのこと、忘れてしまったみたいだったから。わたし怒ってるのよ、忘れないって約束したのに」
ひどいわ、と伏せた瞳をうるませて、けれど涙をこぼすこともなく笑う少女は痛ましい。
なんだかすごく、嫌な気分だ。
『…それはボクじゃないよ』
これじゃあんまりだ。こんなの、そんな王子のマネなんてしたくない。
『あの王子様はボクじゃない。ボクはヴェルジュ、ヴェルジュ・ラゼル・エグランテリア』
「ヴェルジュ…?ちがうわ、ちがう、ちがうわよ、ちがう、そんなわけない、ねえどうしてそんな嘘を言うの?どうして…、まだ、怒ってるの?」
少女の周囲に黒く靄がかかり、それはあっという間に少女のからだごと椅子やテーブルをのみこんで棘がとぐろを巻く。トゲが少女の皮膚を突き刺し血がその太い茎を伝って床まで落ち、古いレースのラグに染みを作っている。あきらかに様子のおかしい少女に対して、正直なところボクは困っていた。嘘をつくなと言われても、嘘などついていない。
少女を刺激しないように気をつけながら、巻き込まれないように壁際まで移動して、ポケットからとりだしたリボンで髪を結び身につけていたドレスを裂いた。いくら少女が人間にはみえなくとも、目の前で傷をつくりそれを放置しているなんてありえない。だいたい、そういう平気そうな顔で怪我を放置するやつが嫌いなのだ。痛いものは痛いと言え!と怒鳴りたくなるから。
言葉を飲み込むな、我慢するな、ほんとうはずっと、そう言いたくて仕方がないのに勇気が出ないから。だから嫌になる。
『嘘はついてないよ』
何も持ってないし何もしないよ、という意味を込めて手をひらいてみせる。そのまま裂いたドレスの布をひらひらと振ってみせ、『手当だけでも』と声をかける。少女はそれを目で追って、コクリと頷いた。
棘を避けながら近寄る。皮膚に刺さったそれは動かせば余計に怪我をしそうだった。これじゃあ手当も何もない。そっと息を吐きだして、両方の耳飾りを外す。これに使われた宝石は怪我をしてもなんてことない顔で笑う婚約者のためにかけた保険だったのだけど、と思いながら一言『砕け』と精霊語を呟けば小さな宝石は粉となりぱらぱらと降ってくる。続いて『役目を果たせ』と命令すれば粉はそのまま、役目を果たし片方は棘を、もう片方は少女の傷を癒やして消えた。
ぱちりと少女は瞬いて、ボクからふっと目をそらす。
「……ほんとうに、ヴァルトさまじゃ、ないのね」
ぽつりとそうこぼして、お茶を口に含む。それから茶菓子へ手を伸ばし、彼女はボクヘ向かい側の席に座るよう促してきた。ボクが席につく頃には黒い霧は消え、壁の石はすっかりきれいになっていた。それはとてもおかしなことのはずなのに、なぜだかあまり驚けない。
『そのクッキーやらなにやらはいったい…』
いったいどこから出てきたのだろう。
「あなた、愛子なのに全くなってないわ」
こちらの話を聞かず断ち切って、言いたいことだけ言って黙る。それってないんじゃない?酷くない?
「力の使い方も発音もダメね」
『は?』
「よくみたら顔も全然違うし」
ヴァルトさまはもっとかっこよくてかわいかったとあからさまな落胆の声とため息。
とてもムカついたので返事はしないままボクはクッキーにてを伸ばした。ついでにスコーンとシュークリームも貰っていく。
「ちょっと!わたしのシュークリーム!」
「もうボクのだよ」
「はぁ!?返しなさいよ!」
取り返そうとしてくる手をさけ、ぱくりと口に放り込む。流石に一口は無理があった。溢れたクリームが指につく。
「あーー!!!!」
そのままもぐもぐと口を動かしてのみこんだ。とても美味しかった。口溶けの良いクリームとふわふわなシュー、それでいて表面がすこしカリッとしていて食感も楽しいとかいいシュークリームだったな。どうやって作るんだろ。
「ひどい!さいてい!あんたなんて全然ヴァルトさまに似てないわよ!イーリスの勘違いだったわ、こんなやつが一瞬でもヴァルトさまにみえたなんてさいあく!」
「じゃあ返してくれる」
あんなに元気いっぱい騒いでいたのに少女は視線を彷徨わせ、泣き出しそうな顔をする。それでもやっぱり、泣いたりしない。きっとボクより年上だけど、こんなふうに言葉を紡げないところ。本当の言葉がわからないって呑み込んでしまうところ。なのに誤魔化そうとするところ。
ボクのおひめさまにそっくりだ。指についたクリームをお行儀悪く舐め取って布巾で拭う。
カップにはちみつを落としてくるくるかき混ぜ飲むとほのかに甘くなった紅茶が喉に張り付いた気がした。これじゃ言葉も出なくなるだろう。しかたがない、しかたがないのかも、そう納得していたら、な、な、な、と壊れたオルゴールみたいな音声がした。
「な、ちょ、はぁ!?はれんち、はれんち、じゃない!?」
「…………なにが」
「あんた色気だけならヴァルトさまに勝てるわよ、誇っていいわ!というかなに、どういうこと、そんな甘ったるい子どもの顔して、そんなあどけなさそうな見た目で口が悪いのもどうかと思うとこだけどいまのはなに!今何歳!」
「えーと、言わなきゃだめ?」
「だめ!!」
「9歳」
「その色気で!?まだ二桁にもなってないの!」
マカロンを掴んた少女が身を乗り出してくる。
もうじき10歳になるよというのは教えるべきか、言わないでおくべきか、面倒なので適当に流しておこうと「そうそう、すごいでしょー」とかえしておく。ついでにボクもマカロンを掴んだ。ほろほろしてて美味しい。色もたくさんあって、緑に黄色、ピンクとオレンジ、白に茶色に――――あお。
どこか懐かしくて見覚えのある、その色のお菓子は。
「あら」
ボクのみているものに気がついて、少女は目を瞑った。
「愛子はみーんな、それが好きよね。でも、ふふ、やっぱり血も関係するのかしら?」
愛子と血。そんな話、どこかで。
「ヴァルト、ってひとも?」
「わたしも、それにユリアーナさまも」
「さっきの黒い髪の人も関係あるの」
「私より遠い血、だけど正統性がわたしより高くて、程よい濃さの、」
ためらいがちに。悪夢をのみこむみたいに。
「おとぎ話の王子様とめでたしめでたしをむかえるお姫様」
少女は言い切った、それにほっとしたように息をつく。
そして少女は自分をこう評した。
「わたしはそのおとぎ話の悪役ね。二人の仲を引き裂こうとする、恋に溺れて狂った愚かな女、もがいてもがいて、最期まで諦めず」
「そうはみえないけど」
「もうそんな女いないのよ。遠い昔に終わったおとぎ話なんだもの」
「絵本のように言うね」
まるで"棘塔の精霊"みたい。
「絵本?ああ、たしかに、歴史としてはしるせなくても童話ならありよね。そうね、たしかに。だからおとぎ話にしたいのかも…めでたしめでたしで終わらせなきゃ、困るもの」
誰かに聞かせるつもりなんてない、独り言のようなものだった。
「優しい王子様、眠りの王子、王子様が眠りを解くまで、あとは―――君のキスで目覚めさせて」
「は?きもちわるいわ」
「しつれーすぎなのはお互いだね?絵本の題だよ」
どこか覚えのある話だ。そう、どこか、似通った、それでいて解釈の異なる。
「…そんなに、あるのね」
「どれもこれも、棘の塔、それから、湖の前で王子が女の子をみかけるっていう物語のはじまりだけは同じ」
どれもこれも、幸せなだけの終わりではない。めでたしめでたしの先はきっと、幸せなだけではない。そんな終わりが綴られている。原典に近ければ近いほど、離れれば離れるほど、内容は異なっていき、いま出版される子供向けのそれの終わりではもはや、呪われることがない。それは果たしてもとの話と同じものだと言えるのだろうか。
「そう。ねえ、あなたが一番、納得できる終わりはどれだったの」
「納得?どれもできるわけがない、けど」
けれど、強いてゆうならば。
どれかを選ばなければならないなら。
「優しい王子様、かな。こんな王子、嫌いだけど」
「……▲○■□▲△▶○」
少女が指をふる。なんだかよくわからない言葉を繋いで頭上に円を描いた。そのままくるくると3回。そしてその手をテーブルの上で大きく振った。ぽんっと光が舞う。
革の表紙に草花の模様と金の箔押しで王子と、婚約者にも精霊にもみえる女の子の姿がきれいな分厚い絵本。それがどこからか現れて、少女の手に収まった。ぱらぱらとページをめくる音がする。後ろへ後ろへと伸びていく手をとめることもできず、なにか言うこともできないまま。
絵本の半分はいったころ、少女が手を止め本を差し出してきた。
「精霊と王子は湖の前で出会ってしまう。王子は最初、精霊を人だと思っていて会うたび少しづつお互いに惹かれ合うけれど、少女だと思っていた愛しい人が精霊であることに気づいてしまい、おなじ時を歩めないことに悩む。そうして何も決められないまま、時だけが過ぎていき王子は婚約者をつくらなければいけなくなった。
婚約者の少女は美しく聡明で、精霊とも妖精とも仲のいい心優しい娘。
王子は精霊と婚約者の間で揺れる。精霊とともにゆくのなら人としての生を捨てなければならず、婚約者と国を守ってゆくなら精霊に二度と会うことはできない。
最終的に王子は国を選び、婚約者を選んで精霊に別れを告げる。精霊は王子の気持ちを受け入れゆるしたけれど、かなしくてかなしくて泣いて暮らしていたのでそれを可哀想に思った妖精たちが王子様に呪いをかけた―――――なるほどね、別に、そう外れたものじゃない。これならまぁ残したって消されたりしないわ」
「ほんとうの出来事とは違う?」
「偽りというわけじゃない」
そこまできけばなんとなく何が言いたいのかわかる。
王族の呪いと、それに反転する祝福。
絵本はそれを示唆しているもので、ボクが知っている呪いの話と事実は、たぶん、どこかで曲がっている。絵本がほんとうの出来事から離れていくように、王族に伝わる話もまたどこかで。
じゃあそれはどこで?
いや、今それは気にすることじゃない。呪いが異なるのはどういうことなのか、ここにきっとなにかある。
絵本の呪いは男子が生まれないように、でもボクの呪いはそれじゃない。でも確かに昔の記録を見る限りでは――。
「ねぇ愛子。知りたいんでしょう?絵本のほんとう、その続き、そして終わりへと導くためのなにか」
ころころと笑う少女は空色のマカロンを手に立ち上がった。ミルクたっぷりの紅茶を少しだけ残して窓へ目を向ける。そこに寂しさや不快感はない。
開いた窓から飛び込む風がカーテンを膨らませる。既視感。
だけどそれはボクではわかるはずのない、はずは、ない?
左右に分かれるカーテンをひとつに繋げるリボンを少女が解く。空が見えたその瞬間、ほんの瞬きの間にかき消えたけれど、確かに厭わしさが滲んだ。
「―――イーナ」
思わず。
無意識のうちに、ふいに、声が。
「わたし、あなたに名前、」
「しらない、きいてない。それでも、イーナイーリス。だいじょうぶなの?」
苦しいなら、苦しいと。悲しいならかなしいと。痛いならいたいと、言って欲しくなる。ボクがそうしたいのは婚約者にだけなのに。
「伸ばした手を掴めもしないくせにそうやって優しくするのは酷いことなのよ、愛子。あなたはわかっているみたいだからこれ以上は言わないけれど」
それでも、名をよんだ瞬間の見開かれた目には懐かしさとかすかに残る恋情があった。今も、言葉だけでは責めているようなのに、表情はどこか愛おしげだ。
「手をだして」
差し伸べられた手に、戸惑いながらもボクは重ね――ようとした。それでもあと少し、肌が触れるところでぴたりと手が止まってしまう。
なんだか、この手を取ってはいけない気がする。
「愛子」
優しげな微笑み。それでも、そこには咎めるような色が宿っている。暗く重く、棘だらけの。
棘の塔、棘を操る少女、絵本のほんとう、悪役。
誰にでも優しい王子とその王子に恋した少女、そしてどちらからも好かれていた王子の婚約者。
登場人物は愛子と精霊。棘の塔の少女だけが特別。
それってなんだか、巫女と似ているんじゃない?巫女は愛子のなかでも特殊で、籠の鳥。イーナイーリス。
「いくわよ」
後ずさるボクに少女がわらう。偽ることをやめた笑みは光をとおさない。ズルズルと棘がとぐろを巻く。どこまでも伸びていく。カーテンを割いて窓を塞ぎ、格子の隙間から外へと伸びていく。
ボクの周りを棘が囲む。棘に刺されないのは少女が制御しているからだろう。脅しだ。
「知りたいでしょう?愛子。いいえ、知らなければならないわ」
暗闇の中、少女の声だけがして、ボクは闇へと落ちていった。
「君がイーナイーリス?」
「……?」
「僕はヴァルト・アルク・エグランテリア。君とは再従兄妹の関係になるのかな」
「なぁに、それ」
「お祖母様の大姪にあたるのが君で、僕は君から見るとお祖母様の大甥にあたる、というか」
「……わたしのお母さんはお父さん以外に家族はいないって、いってたわ」
王族の家系図から消された男と精霊、その娘が産んだ子供がイーナイーリスだ。巫女の記録にも残されてはいないが、祭事資料のいくつかに名前がある。いないものとした存在の破片が精霊に選ばれ巫女となって王城へ戻ってきたというのは、ヴァルトのお祖母様に大きな衝撃を与えたようだった。
王城に来る前のことを調べても彼女の親より上のことはでてこなかった。ヴァルトは深く調べるべきか迷ったすえ、お祖母様に直接聞くことにした。
「お祖母様」
「――あれは精霊を選んだ。ヴァルト、私達の血にそれを混ぜるわけにはいかないのよ。ユゼもエグランテリアも、精霊との婚姻をまたするわけにはいかないの」
「また?」
けれどお祖母様はもう話すことがないとヴァルトを追い出した。あとはすべて調べたことを元にした推測でしかない。
首をふる少女にヴァルトはお菓子を差し出した。空色のころんとしたマカロン。
「いらない」
「おいしいよ」
「…あおばらは、だめよ」
「どうしてか、きいてもいいかな?」
「あおばらは、お母さんがだめだって。近づくのも、触れるのも、よくないって」
青薔薇、とくに空色のものは精霊の気を強く帯びたもの。ヴァルトが知る限り危険なものではない。精霊も妖精も好む大切な国の花。素朴なようでいて華やかで、美しく寂しい花。
「そっか。それじゃあ今度は違うものを持ってくるよ」
少女と青薔薇はなんだか似ている。美しくさびしげで、棘で心をまもる弱さと目を合わせる強さが、ヴァルトには眩しかった。
目を細めて少女をみる金髪の青年。目の色はわからないけど、きっと自分と同じ森を詰め込んだ色をしているんだろう。
自分にないものをもつから、壊さないようにしなきゃとでも思ったんだ。
「だから優しくしたんでしょ」
緑の混ざった金糸を目で追う青年がこちらを振り向くことはない。本来みることすらできないはずの時にボクはいる。少女――イーナイーリスが何らかの方法でボクにこれをみせているのだ。
「イーリス」
「…おうじさま」
「今日はね、君にあわせたい人がいるんだ」
「なに」
呼ばれて現れたのは黒髪の、青年。だけどやわらかさが男じゃない。女装歴の長いボクにはわかる、あれは女だ。うちの婚約者のほうが完成度が高い。けど、こちらのほうが親しみやすさはあるかも。
「はじめまして、ユリアーナだよ。ヴァルトってばこんなにかわいいこを隠していたなんて酷いなぁ」
「ウーリャにあわせたらすぐ僕より仲良くなってしまいそうじゃないか」
「ヴァルトは近寄りがたいから」
「イーリスは僕の妹みたいなものなんだよ、ウーリャ。イーリス、ウーリャには気をつけるんだよ、何かあったらすぐに僕に話してね」
掛け合いによって場がすっかり二人の空気になっている。それでもイーナイーリスへと話をふって彼女の話も聞く。そんなことが何度かあって、3人はずいぶんと仲良しになったようだった。イーナイーリスがヴァルトを「にいさま」とユリアーナを「ねえさま」と呼ぶようになって、そのときはよかったのだろう。穏やかな時間だった。
でも、それはヴァルトの婚約者選びが始まって崩壊し始めたのだ。
「なんでにいさまもねえさまもイーリスのところに来てくれないの?」
「あの人は誰?なんでにいさまと手を組んで歩くの?」
「なんで?なんでイーリスからにいさまとねえさまを奪うの?イーリスにはもう、にいさまとねえさましかいないのに」
「ちゃんと、イーリス、みこのおしごと、してるのに」
ぐらぐらとイーナイーリスの足元が揺れる。精霊が彼女の感情に呼び起こされて共鳴している。それは怒りと悲しみ。
「なんで、なん、」
出てこない言葉はなんなのだろう。それを知っているはずの王子も、王子の婚約者候補の筆頭も、ここにはいない。
「やだ、やだやだ、イーリスがんばったもん。ちゃんと、ちゃんと」
揺れがおさまった。自力で感情をしずめたのだ。ひび割れた地を蹴ってなおしていく。ついでに集まってきた妖精や精霊を散らしてイーナイーリスは神殿へ歩き始めた。
「だいじょうぶ、イーナイーリスならできるもの」
そうして何事もなかったかのように表面上はいつも通りに取り繕えていた。だけど、タイミングの悪いことにヴァルトの婚約者選びの茶会をイーナイーリスは目撃してしまった。完璧な王子様なのに、優しいのに、見定めるような目をしたヴァルトのことを。
「………」
媚びを売るだけの令嬢たちには優しく微笑んで、その裏では婚約者候補から外していく。ヴァルトに構わず茶菓子を囲んで話す令嬢たちには申し訳無さそうに、そのどちらでもない者にはヴァルトとして、そして王子として向き合って。でも、ユリアーナにだけはそのどれでもない、ヴァルトの姿。
「……イーリスには、できないわ」
「好きになっちゃったんだね」
途方に暮れた少女のてを掴んであげたかった。
誰からも何からも見つからないように隠してあげたかった。
だって気がついてしまったんだ。「にいさま」なんかじゃなかったって。「おうじさま」は「おうじさま」でも、「とくべつ」なことに。
それがもうかなわないもののたぐいであることにも。
「だいじょうぶよ、ちゃんと、できるわ」
震えるからだを抱いて、ぎゅっと目を閉じたまま、少女は祈るように呟く。ここに誰もいなくてよかった、妖精も精霊も散らしておいて良かったというイーナイーリスの心が伝わってくる。ざわめく木々に混ざる小さな声をきくものはいなかった。
しゃがみ込むイーナイーリスの背中に自分の背中をつけて座り込んでからどれくらいたったのか。泣きつかれて眠ってしまった背後の気配にボクは触れた。慰めたりはできない。
「みなかったことにもできないんだ」
地面に手をつく。柔らかな草の感触、土のにおい、ゆるく吹く風。ボクもイーナイーリスも誰も何もいない草の上で森から流れてくる風と光を浴びるのが一番心安らぐ。だからボクはそれをあげようと思った。光に反射してきらめく胸元のネックレス。川の色をした石にはすでに誰かの気配がする。でもその誰かは彼女を選ばないから、同じように選べないボクの文句は言えないはずだ。
責任のない優しさほど酷いものはない。その通りだ、否定できない。だからこれはとても酷いことだ。彼女を選ばない誰かさんの術はボクよりもっと酷くて、残酷。でも宿る心に嘘がなくて、思う気持はまっすぐあたたかいから拒否することもできなかったんだろう。
「きみにあげる。これだけは、ボクときみだけのないしょ話だから」
ほんとうは民がこわい。
ほんとうは人や精霊や妖精の気配がない、静寂な森の空気こそが唯一、安らげる場所。
そのことは、きみとボクだけのもの。
ざぁーっと草木がざわめく。その空気を石へ流し込めば一瞬、金と翠の光が散った。金と緑に混ざって、もとの川の色へ落ち着く。それを見届けてボクは立ちあがった。そろそろ彼女のおねえさまが来てしまう。
ボクや彼と違って優しさに責任をとれる人。そんな相手が視線の先にいるだなんてすごく、いたい。いたくてさびしいのをさらけ出したりできないだろう。受け入れて、考えないようにして、のぞまないようにして。それって簡単なことじゃない。
「緑、か」
だから物語の悪役になるだけのなにかがなくちゃ、おかしい。それを確かめなければここから出られないのだろう。
今いる場所からみえる塔の先、きらきらと空から光が降りる場所。よばれている。
ボクは後ろからやってくる足音に掻き立てられるようにして湖を目指して走り出した。