ひめの婚約者
エグランテリアの国内では、いたるところに精霊や妖精たちの気配がある。もっともその気配が色濃いのは神殿と城内、それからヴィーコナーという森だ。
城内は気配が色濃くあるが、しかし他国から来た方を招く場である客間などにはあえて、その気配を薄くさせるために術式を施している。
婚約者さんと僕がいまこうして向き合っているのはそんな客間の一つ。
さらりと揺れる白銀は後ろで結ばれていて、深く、けれど晴れやかな空を思わせる青い瞳は真っ直ぐに、けれど口元は含みをもった笑みの形をとっている。
なんていうか、見ちゃいけないものを見たような気持ちになった。
「あ、あああああの!?」
「はい、なんでしょうか」
目の前の彼女は、絵本から飛び出しましたと言われても納得するような王子様らしい姿で、いたずら妖精と同じ表情で僕に笑いかけるのだ。
僕はおとぎ話が大好きなので現実にはいないだろうとよく言われるし、夢みがちかもしれないけれど、絵本のようなおうじさまが大好きだったりする。つまり僕はいまここに、理想を見つけてしまったわけで…あわわわわ。
「はぅ」
さだまらない僕の視線をからめとって、にこり。
それに僕もなんとかにっこり返して、互いの自己紹介を済ませたと思えば、あっという間に手を取られキスを落とされていた。なんてことだろう、こんな文化うちの国にはありませんが??おうじさまでは??恥ずかしいし照れてしまうしで頭が真っ白になってしまう。とにかくあたりさわりないような言葉を返して、次は庭園を案内しなきゃと立ち上がり――よろめいた。
さっとお腹のあたりに腕が差し込まれ、気がつけば抱きとめられているではないですか。
「あ、ありがとうござ―」
ぱっと顔をあげると至近距離に麗しすぎる王子様のお顔がある。「危ないですね、これでは目が離せません」と微笑みかけてくれる王子様のお顔が。
僕はひめだ。たしかに、我ながらどこをどうみたって女の子にしかみえないのだ。だけどそんな僕をおいておいたとしても、彼女はどこからどうみたって王子様だった。
あまりに自然な行動すぎて混乱してくる。
それに。
それに何より目の前のおうじさまが麗しすぎる…!!
「…、…きれい」
「え?」と目を見開いてすこし幼い顔をした婚約者さんは、それでも僕をさっとたたせてくれて、ふ、と花がほころんだ。
そこでようやく僕も自分の口から思わず溢れた言葉に気がついて、びっくりしながら慌てて口元をおさえる。
だけどやっぱりおさえきれなくて、もうひとつ、溢れた。
「精霊さまみたい」
「そ、れは、ありがとうございます。でも、私にとってはひめが全てですよ。何よりも美しいひめ、あなたをたたえる言葉を並べようと思っても、私にはあなたよりも心動かせるものがないのです。あなたの美しさや優しさ、その高潔な御心を表す言葉をもたぬ私をお許しください」
くらりと言ってしまいそうな甘い声と切なく訴えるような瞳でみられては、僕にはすこし、いやかなり、刺激が強い。
思わずここでしゃがみこんでしまいたい気持ちになりながら、僕はなんとか絞り出す。
「あ、あの、庭園、庭園をご案内いたします」
「ありがとうございます。こんなにかわいらしいひめに案内していただけるなんて私はいま、世界で一番幸せですね」
もう何も言えなかった。僕はこんな言葉の装飾品を持たないし、僕が出す言葉はこんなにきらめいたりしないだろう。
なんでこんなにこの婚約者は余裕があるのか。なんだか悔しい気持ちになりながら僕はメルヴィア様を庭園へと案内するために歩き出す。
そこでふと、思いついたことがあって、側で控えていた侍女にうさぎのぬいぐるみを渡して、指示を出した。
だから僕にはメルヴィア様のお顔を覗く余裕はなくて、だからこのときメルヴィア様がどんな表情をしていたのかなんて、僕にはわからないのだ。
* * *
さぁさぁと光が降り注ぐ。
手を広げて光をすくい取ると、それは吸い込まれるように消えていってしまう。
神秘的といえばなんだか美しいもののように思えるけれど、その実雑多なだけだったりするこの庭園は、それでもエグランテリアの国花たる青薔薇が植えてある一角だけは大変きれいにととのえられているわけで、さっきもつい、口から飛び出てしまったけれど。
青薔薇に囲まれたメルヴィア様は精霊さまのように思える。なんだか消えてしまいそうな淡さを持っていて、だけどそれが神々しくもあって、ふと、気づいてしまった。というか、思い出した。
「天使様を僕はまだ見たことがないのですが、」
さぁーっとメルヴィア様の髪を風がさらっていく。それを軽く抑えて眩しげに目を細め、「どうしましたか」と口だけを動かしたその人に、僕はどこかさびしさを覚えながら続きの言葉をはく。
「きっと僕がはじめて見た天使はあなたなのでしょうね」
忘却の向こう。
きっと、僕の記憶に焼き付いて離れない天使は、あなたなんだろう。
これから先、天使ときいて思い出すのは全て。
「ずるいなぁ」
なんでも受け入れてしまいそうな優しい眼差しにあわない、切ない響きはどこか、諦めのようなものが滲んでいる。
さっと伸びてきた手は、僕の髪を触れるだけの軽さで捕まえて、逃してくれる。そこから、距離は詰められない。
僕のほうが赤くなってしまってもおかしくないのに、吹風に持っていかれる髪の合間からみえたメルヴィア様は、真っ赤なお顔で、もう一度、「ずるいなぁ」と呟く。
「きっとこれから、私は何度もヴェルジュ様に恋をするのでしょうね」
「……どうして、」
僕を選んでしまったのですか、と続けようとして、できなかった。
僕は僕をないがしろにしがちだから、この言葉は、まだ、彼女のほんとうを知らない僕が言ってしまったら失礼かもしれない。
それがわかっていても僕は僕を選ぶ気持ちがわからなくて、僕に望まれるだけの何かがあるとは思わなくて、僕などやめたほうがいいですよと言ってしまいたくなるのだ。
「私はひめより美しいものを知りません。でも、これからさき、何をみても、何があっても、ひめが一番だと思います。他の誰かが美しいというものを、私は美しいと思えなくて」
だけど、ひめが映る世界は美しいと思えます。そこにひめがいるから私にとっては何より素晴らしいものなんですよ。
また、花が解ける。
なんてことを言うのだろう。
この人は僕にどれほど心を傾けているのか。
どれほど、僕は僕の周りを傷つけるのだろう。
僕はエグランテリアの王族で、この血には精霊の血と精霊に好かれやすい性質が流れている。うちの王族は真っ直ぐすぎる好意に大変弱い。
嘘がわかってしまう性質をもつ僕はそれがより顕著だから、こんなふうに言われると。
明確に僕だけを望む言葉と心を降り注がれて、僕を選び続けられたなら、恋に落ちるなという方が無理なのだ。
だからもう、転がるように落ちていく心にブレーキなんてきかなくて。
「ぁ」
どうしてが溢れるのをとめることはできない。
* * *
後半何を話したのか覚えていないものの、どうにか顔合わせを終えた僕は、自室でメルヴィア様のことを考えては悶ている。
麗しすぎて記憶が曖昧だ。緊張もあいまって、お星さまに塗りつぶされてしまった。いったい何を話したんだろうか?
「はぁ」
ため息をはいてしまう。
手にキスされたこととか、転びそうになって抱きとめられたこととか、いろいろ…いろいろ…。
数刻前の顔合わせを思い出しては、ふふふと笑いながらクッションを抱えてカウチでじたばたと暴れる。それと同時にあまりにもはずかしい失態を思い出してどうにも落ち着かない気持ちになるのだ。
「はぁ〜」
メルヴィア様が、婚約者。
ぼくの、婚約者。
「ふふ」
ふふふ、と笑いながら今度はクッションに顔を埋める。
「あー、ひめ、そのー、ちょっと落ち着け」
離れたところから聞こえた声にがばっと身を起こす。扉の近くに待機している幼馴染で護衛騎士のテレンスが、しかたがないなぁと言うように笑っている。
「テレンス!だだだって、ぼく、王子様!はじめてみたよ!」
どこかの国の王子様とか、それこそリュミアージュの王子様は前に見たことがあった。だけどそれとは違くて、なんていうか、メルヴィア様は絵本から出てきたような、そんな感じだったのだ。
「かっこよくて、お姫様が困っていたら助けにきてくれる勇敢な、だけどとっても麗しい王子様!そんな感じだった!きっとどんなお姫様も一目で恋に落ちちゃうよ…!」
「じゃあひめさまも?」
そう問われて、うん?と首をかしげる。
その問いに答えを出すには問題が多すぎて、だけどなかったことにできるほどの淡さではない。
それならと、口を開く。
「ぼく…?ん〜〜〜と、僕は、メルヴィア様はあのお姿も麗しくてかっこよくて素敵だし、僕のための男装だっておっしゃっていたから、とっても嬉しいなって思うよ。でも、みんなが知ってるメルヴィア様のかわいらしいお姿を一度しか見たことないのは、なんだかさびしいかな」
僕はメルヴィア様のドレス姿をまだ、一度しか見たことがない。
あれは確か3年ほど前の聖花祭だったはずだ。リュミアージュの国花が咲く年にだけ行われる特別なお祭りの日、リュミアージュ王宮で開かれた舞踏会で、みかけた。
深い青の瞳が、僕と目があったとき、揺れたように見えたから。
挨拶のとき、その微笑みになんだか悲しくなったから。
すこしだけ交わしたお話が楽しくて、だけど不安になって、酷い喪失感を覚えたから、彼女のことはよく覚えていた。
「ねぇ、テレンス」
「なんだよ」
「僕はなにを失ったんだろう」
この幼馴染は、僕が10歳のときに連れてきてしまった忘却の話をすると、眉をぎゅっとよせて、迷子の子供のような顔をする。
それが僕には傷ついたオオカミさんのようにみえて、つい、僕より年上の彼の頭を撫でてしまいたくなるのだ。
てまねいて彼を側へ呼べば、彼はお兄ちゃんの顔に戻って、また笑う。だけどそれだけでは安心できないから、結局僕は背伸びをすると彼の茶色い髪を触り、頭を撫でてしまう。
「テレンスと仲良くなったきっかけとか、君と過ごしたであろう日々とか、そのほとんどを覚えていないなんてもったいないなぁ」
「まだ、これから重ねる年月のほうが長いですよ」
お兄ちゃんの顔は騎士様の顔になっていて、ああ心を隠されてしまったなぁ、と思いながら、僕はぐいーっと伸びをする。これ以上は踏み込めない。
僕のことなのに、僕には持ち得ない。
それはいくつもいくつもあって、どれも確かに、かつての僕は持ち得ていたものなのだ。それがいまはわからない。持っていないわけじゃないけど、どれがそうなのかわからなくて、この手からこぼれ落ちるそれらを拾えずにいる。
仲良しだったといわれても、僕にはそれがわからない。
仲良しだったのだという確信をもつことはできても、自分の中にそれを見いだせない。
違和感と既視感。それにも満たないわずかな寂しさと埋まることのないなにかが、僕に忘却を教えてくれる。
「僕は騎士様に憧れていて、絵本の中の王子様が好きで、この国の歴史が好き?」
「え」
ぽかんとした顔で「なにが」と聞き返してくるテレンスがかわいくて、くすくす笑ってしまう。
教えてよ、僕の幼馴染さん。僕はどんな人だった?なにが、好きだったの。
「忘れちゃった僕のこと。好きだった?王子様とか、絵本とか」
それは、僕と変わらないの?
「…好きだったよ、お前はおとぎ話を誰よりも信じてた。誰よりも、おとぎ話のほんとうを知りたがった。おかげでいろんなところに連れ回されて、よく二人で叱られたし」
「妖精や精霊たちと話をして、いっしょに遊んだことは?僕とテレンスはどんな遊びをいっしょにした?かくれんぼ、追いかけっこ、カードゲーム、お人形遊びにお絵かき」
たくさん遊んだ。だれかと、遊んだような気がする。
僕がその遊びを知っていて、転んだなとか手が汚れたなとか、そういうことを思い出すのだから、確かにだれかと僕は遊んでいて。
だれかと笑ったはずなの。
「あー」
困った顔をさせたいわけじゃなかった。
うーとかあーとか、言葉にならない声で言いよどんで。
しばらくして、テレンスがぽそりといった。
「言えない」
「またそれかぁー」
他にもたくさん、テレンスたちが言えないことはある。
忘却はどうやらテレンスたちにもずいぶん影響しているらしい。
「こんな些細なことでもだめか」
「些細なことだからダメなんだろ」
それじゃあなんにも、聞けやしないね。
「テレンス」
「ん」
「どうしたら、メルヴィア様は僕のことを嫌いになってくれるかな」
どうしたら、あの麗しい人は僕の婚約者になるだなんていうおとぎ話を作らなくてすむのかな。
僕より2つ年上で、僕を望んでくれる人。
僕をわざわざ選んでくれる人。
だけどこのおとぎ話は、ハッピーエンドじゃ終われない。
どうしたら、
「僕の婚約者をやめたいっておもうかな」
「…………俺はひめが頑なになる理由がわかんないから、無責任なことを言うぞ」
ぽん、ぽん、お兄ちゃんの手付きで頭を撫でられて、昔、僕が同じような話で困って泣いたときもこんなふうに側にいて、話をきいてくれたことを思い出す。
それなのに肝心の話したことや言ってもらった言葉は出てこない。
忘れているなぁ。
「そんな簡単にひめの隣を諦めるやつなんて俺は認めない。いいか、どんな事情があろうと、ひめが何を抱えていようと、俺が女だったらお前の隣は誰が相手でも譲らない。簡単に諦めて、他の誰かでいいと思う相手にひめは任せられない」
まっすぐに、僕を見つめてそんなことを話すテレンスの表情が真剣で、僕は、
「あは、ふふ、熱烈な告白だね」
茶化してしまう。だって困るじゃないか。これはハッピーエンドじゃないのだから。
「俺はお前の騎士で、幼馴染で、親友だと思ってるから言うんだよ。ひめ相手に恥ずかしがって言葉を曲げたりするとぜんっぜん伝わらないってわかってるから。あー、だから、あのお姫様がそう簡単に諦めてくれるような相手には思えないけどってこと!」
「そっか、ならテレンスはメルヴィア様のことを認めてるんだ」
「認めるとか認めないとか俺にはおこがましいことだけどな」
眉を下げて、柔らかく笑うと幼く見えるんだな、と僕は思った。
こんな表情めったにみられないな、とも。
だからテレンス、「君はメルヴィア様と僕の関係をしってるんじゃない?」とは聞けなくなったんだよ。
君が認めているんだもの、きっと僕はメルヴィア様に好かれるだけの関係を持っていたんだろうね。それだけの日々が、かつてあったのだろうね。
――あなたはどうして僕にそうまで言ってくださるのでしょうか?
―――そう、ですね。一目惚れ、のようなものですよ
メルヴィア様があまりに僕を褒めてくれるから、あまりにも真っ直ぐに好意を示してくださるから、のみこんだはずの言葉をうまく沈められなくて、形を変えてきいてしまった。
答えはゆっくりと、戸惑いと儚さを伴ってあらわれる。
その言葉に嘘は見当たらない。だけどほんとうには足りなくて、だから確信した。してしまった。
僕はあの優しく麗しい、ひだまりのようでいて、夜闇に沈むような婚約者のことを、忘れている。
明るいことも、一生懸命なことも覚えている。
微笑むとひだまりのようで、僕はそれが心地よくて、そう、おぼえている。
だけど思い出せないのだから、正しく僕は呪われているんだ。