第10話・エノク
「なんだ羽山、今からパーティにでも向かうつもりか?」
俺は露骨に挑発してみるも、
彼女がそれに乗る素振りは見られなかった。
彼女は病室で見せたものとは違い、
男性を品定めするような笑みを浮かべ、
カツカツとヒールを鳴らしながら近づいてくる。
そして、バケモノに偏して対峙したときのように、
ツメを立てて腹をなじってくる。
まるで猫がマーキングでもするように、
俺の腹に血がにじむほどにツメを立てる。
「ほら、神崎くん。あなたの血を見て、きれいな紫色でしょ?」
俺は自分の腹から出てくる血の色を確認する。
その血の色は確かに紫色で、
俺の色彩能力が変化していない限り、
この血は間違いなく変色し、
俺の身体から出ているものだ。
変身前と後で変わるわけでもないようだ、
俺は身体の内側から変わってしまったと、
はじめてここで認識してしまった。
「ねぇ、どうしてこんな色に
なったか知りたくない?」
別に聞きたくもないが、
羽山は俺の返答がどうであろうと
話すつもりだったのだろう。
俺はあえて黙っておき、
色々と足りない情報について
喋ってもらうことにした。
「あなたに処方したヤドリギ、
あれは人間の体細胞を
一気に変質させてしまう薬なの。
身体を構成する細胞すべてを
変質させるほど強力な薬で、
主な成分は名前にある通り植物そのもの。
そのため、体内に流れる液体にも変化が生じ、
その影響で血液も青色に変色するというわけ。
そして、ヤドリギの薬は処方する人によっては
効果に耐え切れず死に絶え、
またある人は完全に人の形を失ってしまう。
あなたを襲った植物人間のようにね……」
「じゃあ、俺も一歩間違えれば、
あのみすぼらしいバケモノになってたってことか」
「ええ。残念ながら、その場合は
エノクの導きが無かったということね」
「そのエノクというのは、一体何なんだ?」
「知らない、そう。どこから話をすればいいか」
羽山は俺の質問を受けて
手をわざとらしく頬に当て、
唸ってみせる。
そして、自分の中で
合点がいったのか俺に視線を戻した。
「エノクとは『創世記』にも記述されている人物で、
メトセラを設けたとされている。
それ以外の書物にも
エノクは多く登場していて、
『ヨベル書』では『創世記』と
同じようにメトセラを設けるも、
こちらは天使と関連する
一族として記述されているわ。
さらに、『エノク書』では
天使メタトロンになったとされていて、
各書物にエノクは存在しているの』
「……くだんねぇ」
俺は羽山の言葉を聞いて、
思わずツバを吐き捨てた。
「そんなもの、サンタクロースと
何ら変わらないじゃないか。
サンタクロースという記号を聞けば
人が赤い服を着た優しい人物を浮かべる。
それと同じく、エノクというキーワードを
聞けばさも神聖な人間を連想させようとしている。
くだらねぇな、神様や聖人様が
やろうとしていることなんて。
詐欺師とやってることが変わらねぇ奴が、
俺に何をしてくれるっていうんだ」
羽山は高々と演説していたのを止め、
俺に近づいたかと思うと腹部を拳で殴って来た。
とても女が繰り出せる威力ではなく、
俺は思わず声を漏らしてしまった。
「あまりエノク様については、
冒涜しないほうがよろしくてよ」
「……へっ、妄信して頭が狂うよりはいいぜ」
「強がっているのも今の内よ。
その記号であるエノクに、
あなたにはなってもらう予定なんだから」
「俺が、エノクに?」
俺の質問に答えるように、
羽山は部屋にある大きな液晶ビジョンに電源を入れる。
その画面に出てきたのは、
羽のある人間だった。
天使にも見えたが、
クチバシこそないものの
顔全体は毛に覆われて鳥に近く、
髪の毛も逆立って、
後ろに長く
伸びた二本の髪の毛はツノのようだ。
腕は太くツメも伸び、
足も人間よりも鳥に近い構造をしていた。
「これは過去に掛かれたエノク様。どう?」
羽山は俺に質問を投げ返す。
だが、俺は認めたくなかった。
こんなファンタジーな話、あってたまるものか。
「この絵なんだけど、あなたが変身した姿に似ていると思わない?」




