第三十一幕 建国祭の季節(7)
コーデリアの想像以上にクリスティーナの足は速かった。
(もう少し背があれば……!)
小さい身体を本気で恨めしいと思ったのは初めてかもしれない。
懸命に走ったところで一歩の長さが違う。このままでは青年を追いかけるクリスティーナに追いつくのは難しいかもしれない。そう判断したコーデリアはエミーナを見た。先に行って。そう言おうとしたがエミーナの判断は違っていた。
「お嬢様、速度が上がりますのでお気を付け下さい」
そう言うや否やエミーナが小さく言葉を唱えると、コーデリアの足には地面に弾かれるような感覚が生まれた。
(エミーナの魔術?)
何に干渉したのかは分からない。けれど身体が先程よりも軽く感じるし、エミーナの言う通り速度も早まっている。だが驚いてばかりもいられず、コーデリアはすぐにクリスティーナの背に集中した。
青年は細い道を走ったらしく、クリスティーナも細い路地へと走って行く。
(あまり大きな通りからは離れないで欲しいけど……!)
大通りから一本外れるだけでも雰囲気は変わる。もちろん道を決めているのは青年だ。クリスティーナが選んでいる訳ではない。不安は大きい。
「大丈夫です、お嬢様。このままいけば――行き止まりです」
エミーナが言った通り、しばらく細い道を抜けてゆくとクリスティーナと青年に追いついた。クリスティーナは息を切らしていたが、それでも進退窮まった青年の焦りの方が強かった。そんな彼が再度クリスティーナを突き飛ばして逃走する可能性もあったが、その可能性はエミーナが消し去った。エミーナは追いつくと同時に路地を塞ぐ土壁を一瞬で自らの背後に作り上げた。容易には飛び越えられない高さだ。
(……エミーナは大地に干渉する魔術が使えるのね)
おそらく先程の加速も同じなのだろう。彼女が元貴族であることを考えれば使えてもおかしくはない。エミーナが作り上げた壁を見た青年の表情は更に固まった。
「コーデリア様、エミーナさん。勝手に飛び出して申し訳ありませんでした」
「それより、こちらの方は……?」
息を切らせたクリスティーナはコーデリア達に背を向けたままだ。だから表情は分からない。しかし緊張は伝わって来た。
「フローラ・シルク組合幹部の息子で、フローラ・シルクの生産者です。……どういうことなのですか、テッド」
テッドと呼ばれた青年は顔をゆがめた。決まりが悪い様子で……叱られた子供のようにも見える。もちろん偽装事件に関与しているならそんな可愛い話では無い。口を引き結んでいた彼はしばらく沈黙を続けたが、やがて言葉を発し目を吊り上げた。
「……だ。俺は何も悪くない……悪いのはッ……!」
その目をみたコーデリアがまずいと思うと同時、テッドが懐に手を入れ、そして地面を蹴りクリスティーナに向かった。
コーデリアは咄嗟に右の袖口から隠し持っていた種を青年とクリスティーナの間に投げた。同時に魔術を発動させ、植物を急激に成長させる。植物は青年の腕を絡め取った。ナイフが青年の足元に転がった。
「混乱していたから仕方がない……とは言えない行動ですよ」
コーデリアは右手を前に突き出したまま言葉を吐き捨てた。
コーデリアの言葉に顔をゆがめたテッドは、しかしクリスティーナを見て僅かにその表情を変えた。その表情にはどこか安堵を交じっているように見え、コーデリアは眉をひそめながらも不思議だと感じた。だが、それは尋ねなかった。コーデリアが言葉を続けるより先にクリスティーナが口を開いた。
「貴方が偽装に関与しているの?」
「……」
「どういうことなの? 言いなさい、テッド・ドネリー。貴方が関わると言う事は、貴方と……貴方の家族も不正を働いたということなの? 間違いなら否定して」
クリスティーナの声はわずかに震えていたが、芯のある声だった。色々混じる感情を抑え平静を保とうとしている……そんな印象だとコーデリアは思った。
「……俺だって、貴族に生まれてればこんなことをしなくて済んだんだ」
「何を……」
テッドの言葉は小さな声だが、決して聞き取れない程の音ではない。
眉を寄せたクリスティーナが問い返すと、テッドは歪んだ笑みを浮かべた。
「交ぜ織りのフローラ・シルクを卸したのは俺です。お金が欲しかったんですよ」
「お金?」
「ええ。もちろんフローラ・シルクのお蔭で俺たちの収入は王都の庶民よりも裕福だと思う。でも、俺にはそれじゃ足りなかったんです。……金持ちにしか買えない薬が欲しいんだ」
「「金持ちにしか買えない薬?」」
クリスティーナとコーデリアの声が重なった。そんな二人をあざ笑うようにテッドは言葉を続けた。
「金持ちなら買えるんでしょう? 暗熱病の後遺症を癒す薬が」
「え?」
「でも、俺が買うには多少危ない橋でも渡らなきゃならなかったんだ。俺たちが金持ちじゃないから……!」
その病の名はコーデリアも知っていた。
それはコーデリアも三歳の時に罹った『闇の冬』の原因になった病だ。闇の冬の年は世界規模の流行だったが、それ以降も病が無くなったわけでは無い。決して治癒しない病気ではないが、症状次第で死者が出ることもあるし、部分的な麻痺をはじめとした後遺症が残るケースもある。もちろん研究が進められ薬も改良され続けているが、わずかながらも毎年症状に差がでるため未だ特効薬といえるものは完成していない。
(でも、どこからそんな話を聞いたの?)
彼の様子から、恐らく彼に近しい大事な人が病に罹ったこと、そして後遺症を残したことは想像できる。けれど彼がそう言い切る根拠が分からなかった。クリスティーナも戸惑った声を出した。
「そんな薬、聞いたことがないわ」
「嘘だ。本気で言ってるならお嬢様が無知なだけでしょう」
「クリスティーナ様だけじゃない、私も知らないわ。私もその病にかかったことがある。だから注視しているけど……知らないわ。王都の薬師に聞いてもらっても、答えは変わらないはずよ」
クリスティーナの言葉を信じないテッドにコーデリアも言葉をつづけた。
もちろんテッドは即座に「そんなことは」と否定しようとしたが、コーデリアはその言葉を続けさせなかった。
「それにそんな薬が本当に存在するなら、裕福な貴族は暗熱病で死なないはずよね。けれど実際にはそんなことはない。魔力を多く持つ子供はより重大な病にかかりやすい。 今も亡くなる例もあれば後遺症が残すこともある」
コーデリアの言葉にもテッドは更に首を振った。そして「うそだ」と再度呟く。コーデリアはテッドの様子を見つつも淡々と言葉を続けた。
「もちろん貴族が治療のためにより良い環境を整えることは否定しない。最新の薬だって試そうとするわ。けれど、貴方が望んでいる薬はまだ存在しない。もしそんな話を聞いたのなら、だまされています」
「うそだ!! ……あの人たちは、たくさんの金を、前金だっていって……質の一つもなく渡してくれて……」
「それが、人を欺くことを指示した人間の言ったことでも?」
その言葉にテッドはヒュッと息が抜けるような声を出した。
コーデリアは自分が厳しい視線を相手に向けている自覚はあった。状況に同情はある。けれど見なかったことにもできない。騙された人がいるし、相手方が産業スパイだとも感じられる。そうなれば表情に力を入れざるにはいられなかった。
「だって、本当に……薬でよくなったという子も、話をしてくれて……」
「おかしいと思うところは、ひとつもなかったの?」
「…………」
コーデリアの問いにテッドは黙り込んだ。そんなテッドに言葉をかけたのはクリスティーナだ。
「あなたは、一芝居打たれてしまったのね」
「……ッ」
彼女の感情はコーデリアと違い同情的だった。それはテッドの良心を揺さぶり、元々持っていただろう罪悪感も強く引き出したようだった。
「じゃあ……俺、なんで……人、だまし……意味……でも、だから」
混乱するように言葉を紡ぐのは感情の波にのまれたからか。希望が潰れたこと、罪悪感、信じられない思い、いろいろな感情なのかもしれない。テッドはただただ意味をなさない単語を繰り返している。
(……良い話にはならないと予想していたけど、この結果は本当に嫌な気分だわ)
そう感じながらもコーデリアは事務的にテッドに尋ねた。
「あなたはどれほどの規模で流通させたのかしら。クリスティーナ様がこの件に気付かれたのは今年が初めてよ。それ以前も行っていたの?」
「……して、いない」
「本当に?」
「本当だ! 前金は三年前に受け取ったし、計画をしていたのは確かだ。けれどそう簡単に組合の目を誤魔化すことはできなかった。この話は親父にも言っていない、だから……作ってはいたが、売れる程の量はなかった。今もあの店以外には卸していない」
「それが本当だとすると被害は最小限というところね。……貴方が卸していた店は、まがい物だと知ってるの?」
「それは分からない。けれど……話してる限りは知らないと思う。卸すルート開拓自体は話をくれた人がつけてくれていた。直接聞かれたことがないから、俺からは……」
我に返ったように返答していたテッドは最後には唇を噛みしめていた。
その様子を見るに、詳細は本当に調べないと分からないが、少なくとも今の彼は嘘をついていないんだろうなとコーデリアは思った。だからこそ、不思議に思う。
「その話が本当だと、おかしいわね」
「……人を騙した俺の話は嘘に聞こえる、と」
「違うわ。……詐欺を働くには小規模すぎて意味が分からないと言っているの」
コーデリアの言葉にテッドは目を見開いた。一方でクリスティーナも「確かにそうね」と頷いていた。一人戸惑うテッドにコーデリアは説明した。
「一店舗に卸したところで……こんな言い方は変だけど、面倒な準備をしている割にリスクに見合う額にならないわ。仮に『王都でどれだけ偽物が通じるか』と試した……なんてことだったとしても不自然だわ。それなら貴方みたいに正直に話してしまう人より、貴方を騙した詐欺師の方が適任よ」
「……」
「……といっても、ここでする話ではないわね。一旦、場所を――」
変えよう。そうコーデリアは言い切れなかった。強い悪寒が背中を駆け抜け、言葉を続けることができなかった。それはテッドの方角だが、彼より後ろで、高い位置からで……
「意外だね。気配は消していたはずなんだけど、見つかっちゃった」
いつからだろう。
少なくとも到着した時にはいなかったはずの人間が建物の上からコーデリアたちを見下ろしていた。声から推察するに青年だろうが、フードを深く被っている以外に相手の姿はよくわからない。
しかし距離があるにも関わらず青年の……決して張っているわけではない声がはっきりと届くことに胸騒ぎを覚えた。
「貴方は、誰?」
返した声は決して大きくない。しかし青年にはしっかりと届いたようだった。
「残念ながら覚えてもらう程の名は持っていないよ。ただ、僕がどういう立場の人間なのかはテッドくんの顔を見たらわかるんじゃないかな?」
ほらほらと急かされ、コーデリアは相手を警戒しつつもテッドの表情を見た。テッドには彼が見えていない。けれどその声を聞きテッドは顔を青くしていた。
「……貴方がテッドをそそのかした犯人かしら?」
声が出ないテッドに代わってコーデリアが言った。
この会話を盗み聞きしていたのだ。ほぼ間違いないとは思っている。けれどそうなら余計に訳が分からない。わざわざ出てこなくていい場面で出てくる黒幕の意図が全く読めない。単純な馬鹿ならそれも良いが、冷や汗を感じる自分の状況がそうだと言い切らせなかった。
しかしその問いを男性は否定した。
「彼をそそのかしたのは僕ではないよ。彼をそそのかした人たちはみんな捕まっちゃってるしね。僕はその続きを引き継いだ人」
「……どういうこと?」
「んー……あっさり言っちゃうと面白みに欠けるけど、まぁ、いいか。その子を唆したのは貴女の元に小さな子を送り込んだあげく返り討ちに遭った阿呆たちだよ。わかるでしょう?」
そう言った青年は楽しそうに続けた。
もちろんコーデリアにはその言葉の意味がすぐに分かった。ララのことだ。そして彼の言う通りなら、テッドをそそのかしたのはあの闇ギルドの人間たちだ。
コーデリアが察したと感じたのだろう、男性はより楽しそうに話を続ける。
「理解したって顔をしているね、パメラディア家のお嬢さん。やっぱりあの一件は貴女の指示だったってわけだ。伯爵様や騎士様たちならあんなに怪しい子を屋敷に招くことを許さないはずだよ。だから普通ならあり得ないと思うけど……本当にあたりだったんだ」
「それを知っている貴方は……あの人たちの同類なのね」
「同類と言われるのはいささか屈辱だけど、まぁ、同じ穴の狢だということは認めるかな。……ああ、でもあの子に危害を加えるという心配ならいらないよ。別にあの子に興味がある訳じゃないし、あの子は組織をよく知らない。無理に連れ戻しても使えなさそうだし」
そう言うと青年は建物から飛び降りた。高さがあったにも関わらず、その着地はほぼ衝撃を感じさせなかった。青年はゆっくり一歩ずつ歩を進めた。
「テッド君にはちゃんと自己紹介してなかったね。僕、裏稼業の人間だよ。君に仕事を紹介した人たちもね。君がわたってた危ない橋っていうのはそういう話だったんだ」
「な……」
「そんな危ないとこだとは思わなかった? ま、ほとんどお嬢さんたちが言ってしまってたから、今更だけどさ。薬なんてないし、テッド君は騙されただけ。フローラ・シルクの技術を盗むためにね。もちろんあの人たちは試作品の交ぜ織りで小銭稼ぎもするつもりだったんだろうけど」
そうして青年はテッドの真後ろで足を止めた。
「だから本当なら『あの人たち』がつかまった時点で、本当はテッドくんが偽物を作るのは無駄働きになってたんだ。こんな割りの悪いこと、引き継ぎたい人なんていなかったし」
「………」
「僕も本来ならこんな計画どうでも良かったんだけど……パメラディア家とつながりがあるオルコットのお嬢さんが偽物を嗅ぎつけたと聞いたんで、ちょっと遊んでみようかなと思ったんだよ」
「……遊ぶ?」
やけに似合わない単語にコーデリアは眉を寄せた。青年は口元を吊り上げた。
「そう。誇りを捨てて自らの手を汚した人間が絶望する顔と、下っ端の阿呆とはいえ闇ギルドの人間を葬った子供。うまくセットでみれたら面白いかも、って。こちらの思惑通りに遭遇してくれて本当に良かったよ。チープだけど、悪くない劇だった」
まるで本当に観客のように青年は両手を叩いて楽しんでいた。
そんな青年に対し一歩踏み出そうとするクリスティーナをコーデリアは制した。その様子に青年は「うん、やっぱり良い判断だね」と、妙に納得していた。
「ここまで下劣な相手にも関わらず飛び込んで来ないとは気に入ったよ」
「……気に入ってほしいわけじゃないわ。でも、貴方に下劣だという自覚があることに驚いたわ」
「自覚があるというより、世間からみたらそうなるのかなって思う程度だけどね」
コーデリアも強気で言い返すが、余裕がある訳では無い。
気持ちだけで言えば踏み込みたいと思う。ただ相手の力量が全く読めない。余裕を見せているのに隙が無い。踏み込むどころか逃げ出すタイミングすらつかめない。
コーデリアが相手の様子をうかがう中、青年はゆっくりとテッドに歩み寄り、右手をテッドの肩に置いた。
「テッド君も怯えなくてもいいんだよ。言ったでしょう? 僕は君の絶望する顔が見たかったと。もちろん君が大事にしている妹さんを葬ってしまえば、もっと絶望に染まってくれると思うけど……そういう顔はもう散々他の人で見てきているから、興味はあまり沸かないんだ。僕が言った『大変なこと』もせいぜい君が詐欺で訴えられるくらいだから予想の範囲内でしょう?」
そう言った男性はそのまま左手で少しフードを押し上げた。
そこにはほっそりとした目があったが、間をおかずにゆっくりと開かれた。
現れたのは真っ赤な狐目だった。
(赤目……?)
珍しいとはいえ、自分たち以外にも赤目が存在しない訳では無い。
けれど特徴的であるのは確かだ。コーデリアは息を飲んだ。
「パメラディアのお嬢さん。いや、コーデリアさんと呼ぼうかな? 貴女はなかなか面白そうだ。良ければ一緒に遊んでみない? 歓迎するよ」
「「ふざけないで」」
コーデリアの反論に被った声はクリスティーナのものだった。あまりに強い語気にコーデリアは息を飲んだ。クリスティーナは顔を真っ赤にしていた。クリスティーナは彼女らしからぬ様子で声を荒げた。
「貴方が言っていることが全部わかるわけじゃない、けど、貴方がとんでもない人だってことは私にもわかるわ。何? 人を悲しませておいて……確かにテッドは悪いことをしたわ。けれど、その顔が見たかったって何なの? それに、その絹で騙された人もいるのよ!?」
しかしクリスティーナの言葉は青年を楽しませただけだった。
「なんだ、オルコットのお嬢さんも分かっているじゃないか。彼の自業自得の行いを私は楽しんだだけだし、絹を見破れなかったのも買い手の責任だよ。だいたい交ぜ織りを買った人だって、本当に欲しているものをまがい物と間違える? そもそも凄い安価なら疑問を持つよね?」
「ふざけないで!」
「別にふざけてなんかいないさ。でも、ご希望ならちょっとふざけてみようか?」
そう言った青年は腰から剣を抜いた。彼から殺気は感じない。けれど傷つけることにためらいもないだろう。彼の言う『ふざける』がどこまでのことかコーデリアにはわからないが、状況が悪化したことだけは確かだ。
コーデリアもテッドに投げた草花の種と同様のものはまだ隠し持っている。だから青年の剣を防ぐ手段がないわけではない。それに土壁を作り出したエミーナも防御の魔術は使えるのだと思う。……それでも事足りるは分からない。相手は本当の裏稼業の人間だ。
(でも、弱音ばかり吐いているわけにはいかないか)
不安はある。けれど何もしないわけにはいかない。それに青年もこちらの手の内をしっているわけではないだろうし、本気でないのなら活路が開けるかもしれない。そう思いながらコーデリアも構えをとった。
そもそも、彼のことは気に食わないのだ。立ち向かうための言い訳ができたと考えれば開き直れるというものだ。
だが、男性がそれを振るうことはなかった。
「……非常に残念だけど、ふざけてる時間はなくなったみたいだね」
そう言うや否や男性の目は細められ、そのまま後ろに飛び退いた。それとほぼ同時、コーデリアは真横に風が通るのを感じた。後ろにはエミーナが作った壁がある。だから本来風なんて感じられない。だがそう思った時にはすでにコーデリアの前には大きな背中が立ちふさがっていた。
「サイラス様!」
「お兄様!」
どうしてここに? その疑問はサイラスの口から「エミーナ、ご苦労だ」という言葉が出たことで解決した。方法は想像がつかないが、恐らくエミーナが何らかの方法……魔術で兄を呼んだのだろう。
コーデリアは正面の警戒を行いつつも背後を見やった。エミーナが作っていた壁は消え去っており、代わりに数人の騎士の姿があった。恐らくサイラスと共にやって来たようだ。
サイラスの広い背からは事態に動じた様子はない。
彼はただ淡々と青年に言い放った。
「他人に対する加害行為は禁止されている」
「うん、知っているよ。ただ、守る気がないだけなんだ」
あっさりと白状する男性は剣を納めることなく、しかし「君こそ知っているかい?」と逆にサイラスに問い掛けた。
「法は別に守らなければならないものじゃない。単に『破れば捕まえますよ』って国が宣言してる基準だよ。つまり捕まらない僕には関係ない」
「逃げるのか?」
「当たり前でしょ。君とやりあうメリットはないからね」
そう言うとあっさりと青年は壁を伝い一瞬で建物の頂上まで駆け上がった。それは常人ができる動きでは無かった。
サイラスは後ろの騎士に「城壁を越える気だ、伝令、急げ」と静かに指示を出す。そして同時に青年の後を追い始めた。後ろの騎士達が動く気配もあった。
その時、一瞬サイラスが振り返り、小さく口を動かしたようにも見えた。しかし問い返す暇はなかった。サイラスの姿も青年姿も、すでにその場から消えていた。
二人の姿がなくなったところで、テッドとクリスティーナの足からは力が抜けたようだった。
「クリスティーナ様!」
「ごめんなさい……少し、緊張が解けてしまったわ」
「無理もありませんわ」
店を出た時にここまでの事態を想像できていたはずもないのだから、腰が抜けてもおかしくはない。しかしコーデリアにはかける言葉が上手く見つからない。
そんな中で「失礼いたします」という声が割って入った。女性の騎士だった。
「お怪我はございませんか?」
「え、ええ」
「申し遅れました、私は副隊長と共に参りましたクラリス・キースリーと申します」
戸惑うクリスティーナに女性は柔らかく笑み、一礼した。
そのままクラリスはクリスティーナとコーデリアを交互に見た。
「よろしければ先ほどの男について、お話をお伺いできませんか? 情報提供のご協力を願いたいのです」
「もちろんお話させていただきます。ただ、あちらの……私の連れも、一緒にお願いできますでしょうか?」
そうしてクリスティーナはテッドに視線を映した。クラリスは「もちろん、こちらからお願い致したく存じます」と言う。コーデリアは返答するタイミングを失ったが、一緒に行くということで問題ないだろうと認識した。だからあえて尋ねなかったが……
「あの、」
「いかがいたしましたか?」
「先ほどの……」
青年といったほうがいいのか、それとも逃走者と呼んだ方が良いのか。あの者は何者なのだろう? それをどう伝えていいか迷ったコーデリアにクラリスは微笑んだ。
「それも、城でお話させていただきます」
「……承知いたしました」
確かにここで話すことではないかもしれない。そう理解し、頷いたが……コーデリアははっとした。城?!
サイラスが公務として出てくるほどの騒ぎだ。当然といえば当然かもしれないが、コーデリアの頬は引き攣った。失礼な話ではあるが、随分縁起が悪い場所に思える。
(……本当に何事もありませんように。王子様とか、すれ違いませんように)
先程青年と対峙した時とは違う汗が流れそうになる感覚に、コーデリアの肝は冷える思いだった。