第二幕 令嬢の外出計画
コーデリアの手紙に対する思い出は、前世で『ヨウチエン』の時に流行った『オテガミコウカン』が最後の記憶だ。
元々筆まめな方ではなかったし、手紙でなければ連絡がとれないような相手はいなかった。だから良い記憶も悪い記憶も持っていない。
だが、今、コーデリアは受け取った手紙に非常に感動していた。
(ハーブ、本当にたくさんある――)
コーデリアは高揚する気持ちを抑えるため一呼吸おき、再び料理長から受け取った手紙――もとい報告書――に目を落とした。そこには『香りが高い野草の一覧』、つまりハーブの生息地の一覧が記されている。その中でもミントやセージ、カモミールにラベンダーというなじみ深い品種は比較的邸宅のある首都から近い山に多く植わっているとの記載がある。コーデリアは口の端を上げた。
(上等だわ……)
記憶の中の自分が得意とするハーブがいくつも記されているその手紙はまるで宝石箱だ。喜びしか感じられない。これらの薬草を手に入れることができたなら、きっと上々の滑り出しも可能だろう。だとすればどうやって研究を始めるかが肝心だ――コーデリアは思ったが、次の瞬間最初の難関にぶつかった。
そう……ハーブの生息地は、山なのだ。
「……貴族の令嬢が山に野草摘みなんて……行けるの、かしら?」
そう、近いといえども魔力が豊富な山の中。魔力が溢れているお陰で植物がよく育つのだが、同時に魔物の出現も考えられる。だからいくら娘を可愛がっている父親でも――いや、むしろ娘を可愛がってくれる父親だからこそ危険だと許してもらえない気がする。使用人に命じればいくつかの株を持ちかえらせる事は出来るだろう。しかしコーデリアはどうしても自分で足を運び、野生の状態を確認したかった。現地に足を運ぶことでここに記されている以外のハーブも発見できるかもしれない。
だがそれ以上に単純に屋敷の外に出て見たいと言う好奇心もあった。
コーデリアは生まれてこのかた殆ど外の世界に出た事が無い。
直接外出禁止だと言い渡されている訳ではない。だがそれはそもそも『普通は出歩かない』からだろう。もしそうでなければコーデリアも世話役の侍女から何らかの提案を受けることもあっただろう。しかしそんな事は今まで一度も言われた事が無い。そもそも例え建国祭で大きなパレードがあっても「今日はお祭りですので、授業は無しです。バルコニーから外を眺めましょう」と言われる程なのだから、恐らく外に出ないのが普通なのだろう。(ちなみにバルコニーからは良い景色は眺めれたが祭りの様子はさっぱりわからなかった。)
もちろん子供の外出が全面的に否定されている訳でもないのだろうが……書庫で読んだ本の中にはいくつか婚約者に会いに行く子供(但し保護者付き)という話があったので、もしかするとそういう目的があれば認められているという事なのかもしれない。
(……婚約者ではないけれど私の運命の草花に会いたい……なんて、無理があるわね)
さて、どうしようか。
コーデリアは困ったとは思う反面、諦めるつもりは全くなかった。
前世の自由に街中を歩き、自由に研究した記憶が『屋敷に閉じこもっていてはダメ』と言っている。自分はこの世界の常識外の事を行おうとしている。ならば人に頼るだけでは良い結果が出せるとは思わなかった。前世と現世で状況が全然違うのは分かっている。だが実験の成功と好奇心を満たす為にもそんなつまらない理由で目的を妨げられる訳にはいかないのだ。
だがつまらない常識でも立派な令嬢を目指すならば単に無視する事も出来ない。それならば考えるのは決して令嬢としての振舞いから逸脱することなく、しかし外に出るという目的をきっちりと叶える方法を考えなければいけない。
身辺警護もおろそかにならず、父親も納得させられる方法――……。
「あ」
コーデリアはそこまで考え、たった一つの可能性を思いついた。
「イシュマ兄様の遠乗りに御一緒させてもらえれば……」
パメラディア家第三子にして次男、イシュマ・パメラディア。
その人を思い浮かべ、コーデリアはその可能性に賭ける事にした。
コーデリアの兄姉には14歳年上の長兄、そして既に公爵家の次男に嫁いでしまった長兄の双子の妹である姉、そして12歳年上の次兄の三人がいる。
長兄と次兄はそれぞれ15歳で国軍騎士団の任用試験を通過した騎士である。二人共入団後は騎士団の見習隊である若獅子隊に属し、18歳で近衛隊に入隊したと聞いている。そんな兄達の出世速度は『疑うまでも無く早い』らしい。
コーデリアの教養の師いわく兄達がかつて属した若獅子隊は通常の訓練部隊とは違い、一定以上の身分有る者ばかり集められているという。このような言葉だけを聞くとエコヒイキに聞こえるのだが、若獅子隊の訓練が通常の見習い部隊より厳しい事は騎士の中では常識だ。通常の体術や教養に加え、通常部隊では基本的に行われない魔術応用の演習まで行うなど、不眠不休の鍛錬で2年間みっちりと修練と実務訓練を行う。そのように二年間の課程を終えると一年間、自然が猛威を振るう国境警備隊へと出向し、その後復命した際に若獅子隊員としての総合評価を受ける。その評価によってようやく配属が決定する。
もちろん厳しかろうが身分制度を色濃く反映していることで非貴族階級出身の騎士……主に訓練部隊養成課程所属の騎士から不満を抱かれる事もある。だが高濃度の魔力を秘める高位貴族の出身者を通常の訓練部隊に留めるのは実力の上でも無理が有る。例えば下手に混同させ魔術の演習等しようものなら怪我人が出かねない。故に現状が最適だとされている。もちろん高位貴族が皆一様に高い魔力持ちと言う訳ではない。しかし高位貴族で騎士になろうとする者の家系はほぼ確実に高い魔力を秘めているのだ。それに最終的に実務部隊で若獅子隊出身者と手合わせをした者は、制度そのものに反感を持っていようとも大概認識を改めざるを得ない状況に追い込まれる。実力に差がありすぎるのだ。だから本格的に制度改革が叫ばれたことはこれまで一度もなかった。
しかしそんな特殊部隊養成所の若獅子隊出身でも、若獅子隊から隊員が近衛にそのまま入隊する事は稀であるらしい。普通は早くても1,2年別の部隊に所属するそうな。だがその“稀”を兄弟共に遂げて見せた第一近衛部隊副隊長の長兄、そして第二部隊所属の次兄はそれ程に強い、歴代上位の実力者……ということらしい。
話は少し逸れてしまったが、その第二部隊所属の次兄、イシュマは現在10日に2日の非番が有る。兄は二人共通常宿舎生活を送っているのだが、その日ばかりは実家に帰宅する。そして帰宅するとイシュマは必ず遠乗りに出かけるのだ。彼にとって過酷な勤務を一番癒してくれるのは馬らしい。
当然実力が実力なので護衛は必要なく――とはいえ一人で行かせる事も屋敷の者としては出来ないらしく、いつも誰かが後を追っているのだが――山深い所へもしばしば赴く。
そんなイシュマは以前戯れのようにコーデリアに尋ねた事が有る。
「お前もついてくるか?」
その時のコーデリアは突然の事に驚いて返事が出来なかったが、言われた事はよく覚えている。
恐らくイシュマもその事を覚えているだろう。兄達の記憶能力は非常に高い。例え冗談で言っていたとしても、行かないと答えるのが前提の誘いで有ったとしても、一度誘った手前コーデリアが行きたいと希望すれば付いていけないことはないはずだ。
そう判断したコーデリアは早速便箋を取り出し、可能な限り丁寧な文字で文を綴った。
字は得意ではないのだが、検閲を受け他人の目に触れる手紙なのだからパメラディアの娘としても美しい文字をしたためなければならない。例え見た人が口外することが無くても、何人にも隙を見せないのが理想と言うもの。
そもそも兄に対する初めてのお願い事なのだから荒い文字なんてとんでもない。
(さて、お兄様のお返事はどうなるかしら)
期待を込めて綴った苦手な文字も、今日ばかりは少し生き生きとしてのびやかだった。
だが、そんなコーデリアの手紙に兄からの返事は来なかった。
一応近衛の最年少隊員であるイシュマは雑務も多く忙しいらしいと聞いている。だから返事が来ない事もコーデリアには想定出来ていた。そう、承諾はもらえないが返事が無いからと言って断られている訳ではない。結果は兄の帰宅と共にもたらされる事になるのだろう。
だからコーデリアはイシュマの非番日をひたすら待ち望んだ。ようやくその日が来ると朝から彼の帰宅が待ち遠しくて仕方が無く、エントランスで外を眺めながらジッと待機していた。
本当ならこの時間はレッスンや勉学に励んでいる。しかし手紙を出した翌日からコーデリアは返答が無い中でも頑張ってペースを上げた。そのお陰で今日と明日の二日間は授業を免除されている。
父親に関しては作戦を思いついたその日から三日をかけて説得した。
お兄様の遠乗りについて行きたい。コーデリアがそう初めて言った時、父親は非常に渋る様子を見せたが「馬に乗れるのか」という疑問を呟いた程度でそれ以外は了承も却下もされなかった。だからコーデリアは諦めずに許可が下りるまで父親にお願いを続けた。
そしてそのお願いに父親であるエルヴィスは非常に頭を悩ませていた。
山は危ない。魔物が出現してもコーデリアでは上手く逃げる手段を持たないだろう。しかしイシュマが同行するのであれば問題は起こらない。実力は知っている。流石にコーデリアが行動範囲を誤れば危険はあるが、娘が聞き訳の無い子供でない事はエルヴィスも把握している。それにイシュマが幼い妹から目を離す程、警戒を怠るとも思えない。イシュマの視野の広さと魔力感知は熟練者を圧倒する程だ。魔物の気配はかなり離れたところからでも気づけるはずなのだ。だから――そのように懸念が無い状況で有るのなら、むしろエルヴィスもこれはチャンスではないかと思うのだ。
そう、エルヴィスはコーデリアに乗馬を習わせるきっかけを作りたいという考えていた。遠乗りをしたいと言う自発的な発言をエルヴィスは「馬に興味がある」という意味に受け取っていた。
この世界では馬は基本的に男性の乗り物であるが、極僅かな騎士の女性以外の貴族女性でも馬に乗る事は許容されている。特別に推奨されている訳ではないが、高貴な趣味の一つとして見なされているのだ。実はこの趣味は年頃になると役立つ。そう、男性と会話をする上で話のきっかけになることだ。男性貴族の場合は女性と違い乗馬スキルが必須とされている。これは馬に乗れて一人前と見なされていた時代の名残である。女性同士で有れば化粧や服飾、観劇や刺繍の話が出来るだろうが、男性相手だと同じようにはなかなかいかない。共通すると言えば食事の話くらいだろうか。もちろん外交や政治の話も悪くはないが、肩の力を抜く事が出来る話も大切だ。きっかけが作りやすい。顔を広めるためにも会話の引き出しは大いに越したことは無い。
しかしこのように利益があるスキルである反面、この特技は早めに会得させなければなかなか身に付くものではない。
単に上達までに年数がかかると言うだけの話では無い。もちろんそれもあるが、貴族女性は往々にしてお淑やかな教育を受けている。だから有る程度成長してから初めて馬の背に乗ると、慣れない視界の高さに恐怖を覚え恐れおののき全く技術が向上しないことが多いのだ。だから一人で乗るのではなく例えイシュマに乗せて貰う形をとろうとも、コーデリアをその高さに慣れさせる事が出来るのであればそれに越した事は無い。
まだまだ早いとは思っていたが、いつかは覚えさせようと思っていたその技術。本人が自発的に望むのであれば、それに越した事は無いだろう。もしも乗馬の技術を会得する事が出来れば、それは間違いなくコーデリアの将来にも役に立つ。それをエルヴィスは確信している。それは、いつかコーデリアが為政者となることを想定しているからだ。
エルヴィスとしては当初は……いや、今もコーデリアを王太子の妃にと考えている。だが今は想定通り行かなかった場合は妻の姉、つまりコーデリアの伯母に養子へ出す事も考えている。彼女の伯母であるニルパマ・ウェルトリア女伯は代々女領主が治める領地を持つ伯爵家の現当主。彼女は夫との間に子は居らず、近い血縁関係で言えばコーデリアか公爵家の次男へ嫁いだ長女かの二人しかいない。だからコーデリアが王太子に嫁がなかった場合、女伯が迎える養子としてはコーデリアが最有力だ。コーデリアの姉の夫は次男とはいえ、多く爵位を持つ公爵の息子。公爵とはいかずとも何らかの爵位は継承する事になるだろう。もちろん例え夫が爵位を賜ろうともその妻が爵位を継承できないという事はない。だがコーデリアを王家に嫁がせないのであれば、彼女に継承させ婿をとらせれる流れが一番スムーズだ。
無意識のうちに自身が「どうすればコーデリアが正当な理由で手元に残るか」という事を計算していることを考えず、エルヴィスはただ彼女の将来の為に情報を得る術を与えておきたいと考える。
……だが前提としてこのエルヴィスの考えは一般的な貴族の思考から少し外れている。そもそも女性が伯爵を継ぐのは稀なケースなので、一般的に『年頃に役立つ』といわれている所以は結婚を考えたときに相手と会話を弾ませることが出来るようになるからである。そしてそれは単に『結婚相手の候補と弾む会話を楽しむ』ためだけではなく、『デートの口実に遠乗りを提案する』『親密になれる』など色々な特典が付いてくるからなのだが、エルヴィスはまだその事は考慮していなかった。それこそコーデリアにはまだ早過ぎるという事が無意識のうちにそのような思考を妨げていたのだが、そもそもエルヴィスは乗馬が出来ようが出来まいが、互いに馬が好きであろうが埋まらない溝が有ると言う事を知っている。だから例え知っていたとしても考えることもなかったのだ。もしもそれが本当に心通わせる原因となるのであれば、現在パメラディア夫妻がこれほど距離を置くはずがなかたのだろうから。
だから例え乗馬を覚えたとしても打算的な付き合いの、それも表面上のきっかけ程度にしかならないだろうという事はエルヴィスも理解している。だが、それで良い。きっかけさえ作ることが出来れば、その後どう繋がりを持つかという判断を下す事が出来る。後は交流を持つにふさわしい、信用有る発言をする相手かを見極めるのは当人の力量次第だ。きっかけすらなければ繋がりを持つか、完全に切るかを判断する事も出来ないのだから。
もちろん純粋に馬を好むエルヴィスとしては娘が同じく馬を好むとなればそれも悪くないと思うのだが、やはり少々危険性についても不安がある。『やはりまだコーデリアは幼い。考え直すべきか』等色々思う事はあるのだが、自身が馬に初めて乗った時の年齢を考えれば問題無いとも思う。自分よりも利口であろうコーデリアなら尚更問題はないだろう……そう、エルヴィスは多少の親馬鹿を含めつつ最終的に結論付けた。こうしてエルヴィスはついに折れ『イシュマが良いと言えばかまわない』という答えをコーデリアに与えた。
もっとも此処までエルヴィスが考えていようともコーデリアはそんな父の胸の内なんて知った事ではなかったのだが。
ちなみにエルヴィスはコーデリアに答えを与えると同時に、要約すると『連れて行くのであればくれぐれも危険の無いよう』との手紙をすぐにイシュマ送ったのだが、その事はコーデリアには伝えられていない。手紙を受け取ったイシュマが半ば脅迫じみた手紙に見えたと思った事も、コーデリアには知らされていない。
何がともあれエルヴィスがその判断を委ねた事により、コーデリアが外出できるか否かは全てイシュマ次第ということになった。
(早くご帰宅なさって下さらないかしら)
いつも通りならイシュマが午前中に帰宅するという事はまず無いのだが『もしかしたら早めに帰ってくるかもしれない』と言う期待からコーデリアはただただ動かずイシュマを待ち続けた。珍しくエントランスから動こうとしないコーデリアに使用人達は『お嬢様が子供らしい行動をされるのは珍しい』と微笑ましく思ったのだが、彼らは何も言わなかった。コーデリアがその様子を知っていれば話し相手になって欲しいと思ったかもしれないが、生憎パメラディアの使用人は基本的に使用人の鏡であり、例え相手が子供でも無駄口を叩かない主義である。だからコーデリアはイシュマの帰宅を今か今かと時が長いと感じながら待ちわびていた。
結局イシュマがその日帰宅したのは何時も通り、昼を少し過ぎてからの事だった。
当直明けに書類を片付けてきたらしいイシュマはただでさえも赤い目を更に赤くしているようにコーデリアには見えた。
イシュマは瞳以外の見目は長兄とは違い父に似ず、優しげな目をしており、栗毛の髪と相まって優しい印象を与える。背丈は高いものの着痩せをする為やや線の細い印象を受ける。そして前世の記憶に頼る言い方をするなら『チャラい』ようにも見える。きっちりと騎士服を着こなし、髪を後ろに撫で固めている正真正銘の騎士様なのだが、何故か空気が必要以上に柔らかく見える。その様子からコーデリアはもしも城下町にイシュマにファンクラブなるものが出来ていても何ら不思議ではないと思う。
だが流石にイシュマもパメラディア家の者である。浮ついた噂は今のところひとつもない。
心配するほどに、ない。
それはさておき、そんなイシュマも体力は十分すぎる程にあり、今はこれほどに疲れた様子を見せていても二刻程眠れば十分に体力を戻し動き回る。見かけによらず実に頑丈な兄である。
「随分首を長くして待っていたみたいだね。コーデリア」
「お勤めお疲れ様です、イシュマお兄様」
どうやらコーデリアの出迎えの意味を察したイシュマは苦笑いを隠さなかった。
「手紙の件は本気かい?」
背の低い妹に合わせ片膝を折るイシュマは唯一そっくりな赤い目でコーデリアの真意を探る。
少し細められた目にコーデリアは思わず息を詰めそうになるが、
「ええ、もちろんですわっ!」
負けじと大きな兄の右手を両手で持ち上げるとそのままコーデリアも勢いを落とさない。
「ねえ、お兄様。私も連れて行って下さいませ。シーヴェルフの森に行ってみたいのです」
「書庫と父上にべったりの妹が俺を指名してくれるとは。しかも森とは……母上に影響を受けたのかい?」
「母上?……お兄様はお母様にお会いされていますの?」
想像もしていなかった問いかけにコーデリアは驚きイシュマに尋ね返してしまった。
滅多に会うことは無いが、もちろんコーデリアは母親を知らない訳ではない。母親はイシュマや姉と同じ柔らかな栗毛の髪を持つ美しい人だ。歩く動作ひとつだけでも気品が漂っておりその存在感は凄まじい。コーデリアの行儀作法の先生も美しい動作を教えてくれるが、先生と比べても……いや、比べられない程に洗練された美しさを携えている。何処がと口に出す事は難しいが、いうなればその存在そのものがという所だろうか。
コーデリアが美しさを追求するというのなら、彼女のような“お手本”が身近に存在する事はどんなレッスンを受けるよりも本来ならば意味があるだろう。だがその『本来ならば』と言葉が付いてしまう事が問題である。コーデリアは自らの母親とほとんど話をした事が無い。
コーデリアと母親の関係は極めて希薄で、屋敷で稀にすれ違う程度の関係だ。3歳の大病を患った時でさえ見舞われた事もない。すれ違ってもコーデリアが礼をとる程度で、母親から声を掛けられた事は無い。
だがそんな母親に対しコーデリアは幾度も接触しようと試み続けて来た。その第一の理由は恐ろしい未来を回避するためだ。パメラディア伯爵夫人となればパメラディア家で第二位の発言権を持つはずである。もしも彼女が父親と同じようにコーデリアに対し未来の王妃の座を求めるのならば、あるいは当然の事項として考えているのであればコーデリアとしても接触しない訳にはいかなかった。
だがそんな思いとは裏腹にコーデリアは未だ彼女への接触を成功させていない。アポイントメントをとろうとしても、いつも母親の侍女が断りの伝言を持ってくるだけだった。結局そんな事をしているうちにコーデリアも母親との接触を諦めてしまった。
しかし諦めたのは決して自分の未来を諦めるからではない。その逆だ。
コーデリアは自身の未来に母親の存在は何ら影響しない事に気付いてしまたのだ。
コーデリアは彼女との接触成功の為に子供らしく侍女に母親の話をせがんだりもした。だが少しずつ得た情報をまとめると、どうやら母親は『根本的にパメラディアの家に興味が無い』ことが分かったのだ。愛も憎悪も全て父親が対象、という具合で、家には興味がないようなのだ。
侍女から聞いた言葉は非常に遠まわしで、そして大分遠慮がちではあったが、要約すると『母は騎士だった父に惚れて母の父に頼みこむ形で自身を売り込み、婚姻を成立させた』『しかし父は物語の騎士のようには女性に対して優しくレディファーストな訳ではなかった』『おまけに騎士も辞してしまった』『騎士を辞めても父親は相変わらず夫婦らいし様子を見せようとしない為ツンとした態度をとっている』というのだ。むしろ『何か困ったことでも起きればいいんだわ』といった調子で夫人としての務めはしないらしい。
だから四歳になる前にコーデリアは母親と接触することを諦めたのだが、どこかで『あのコーデリアの我儘な振舞いは母親譲りなのか』と妙に納得してしまった。……いや、父親にも『お前は王太子に嫁ぐ』と言われ続けていたから『私がなって当然』と思っていたのかもしれないけれど。ただ、厳しく言い続けたとしても父親はヒロインを陰湿に苛めろとは言わないだろうとコーデリアは思った。
しかし母親も気に食わないのならばいっそ離縁したほうが良いのではないか。少なくとも父親は気にしないだろうとコーデリアも思ったが、それは母親のプライドが許さないのだとも推測される。恐らく父親が妻に逃げられたと周囲に見られることは無く、逆に母親が離縁されたと映る可能性の方が高い事は想像に難くない。対外的に父親はデキる人なのだ。社交界に一切姿を見せない母親の方が奇特に映っても不思議ではない。
母親は幼稚な行動をしているが、考え方は貴族そのものだ。だから周囲にそのようにみられるのを嫌うだろう。例え式典であっても『病欠』する有様だが、家の中……例えば廊下であろうとも絶対に高貴な空気だけは外さない。プライドが高いのだろう。だから現状維持に努めている。そうとしか考えられなかった。そう考えるとコーデリアが生まれたのは奇跡に近いのではないか。……まぁ、『父親に興味を示されない事に拗ねている母親』であれば父に声をかけられればそれだけで機嫌が幾分マシになるのかもしれないが……そんな事はコーデリアには分からない事であるし、あまり分かりたいとも思えなかった。
そんなに気になるなら、自分から話しかけるように努めれば良いのに。そう思ってしまうからだ。自分が母親に会えれば橋渡しにもなれるだろうが、あって貰えないのだからどうしようもない。幸か不幸か父親に気にした様子がないのでそれ以上気を遣うつもりもないのだが。
とにかくコーデリアは前述の理由故に接触ミッションを一時中断させた。ひたすら拒否される状況下で打開策が見当たらなかったし、自分の不利益になり得無いと分かった以上、嫌がる相手に無理やり会おうとすることも気が引けた。もしも自分が会いたくないと言っている相手にしつこく面会要求をされるのは気分が良くない。
もしもコーデリアが本当に純粋な三歳児なのであればどう考えていたのかは分からない。だが前世の記憶のあるコーデリアはある程度人付き合いの雰囲気を感覚で覚えている。嫌がる相手に突進を続けた所で良い方向に転ぶことはまずないだろう。
ちなみにコーデリアの記憶は全てハッキリを覚えているという訳では無い。特に家族や友人に至る人間関係及び人物像……それから自分がどのように前世を終えたのか、ヴェールをかぶったようにハッキリ見えない。ゲームの登場人物を覚えていたのに、学校での様子や何をしていたかは覚えているのに、何故なのだろうと思う。しかしそのような事も深くは考えないようにしている。前世の記憶で使えるものは遠慮なく使うつもりだが、知らない記憶を無理に掘り起こすのは気が進まない。現在はこの世界が自分の生きる世界だ。仮に前世の人間関係を思い出しても……何も出来ることは無いだろう。思い出したことを後悔するようなことになる可能性だってある。
(前世は前世。仕方がないことだわ)
そもそも思い出した記憶事態に自分が『死んだ』記憶がない。そう思えば思い出したいとも思えなかった。
(……って、今はそうじゃなくて)
今は兄から聞いた母のことが意外な情報だったのだ。
まるでイシュマはコーデリアと母親が充分にコミュニケーションをとれる関係にあると思っている風である。それは少なくともイシュマが母親と会話をしている故の見解なのだろう。しかしイシュマが母親に会っているとなれば、コーデリアの考えは『母親はパメラディア家に興味が無い』という事自体が間違っていると言うことになる。
その驚きのままにコーデリアはイシュマに尋ね返したのだが、イシュマはそんな妹を見て表情を硬くした。
「……お兄様?」
「いや、何でも無い。遠乗りへは明日行こう。朝露のきらめく森は綺麗だから、出発は早い時間だよ」
「え、ええ」
「悪いが少し寝てくる。コーデリアも部屋に戻りなさい」
コーデリアの期待とは対照的に言葉を濁したイシュマはコーデリアの頭を一撫ですると立ちあがり、屋敷の奥へと消えて行った。
(……やはり聞いてはいけない事だったのかしら)
明らかに子供相手の誤魔化しに走ったイシュマを見送りつつ、コーデリアはこっそりとため息をついた。
……まぁ、幼い妹に『あなたを避けているんだよ』という系統の話をするのは躊躇われるだろう。更に理由を説明するとなれば尚更だ。母親のことを聞きたがる子供に母親を非難するようなことは言えないし、尚且つコーデリアが悪いと思わない言い回しをするのは難しい。
コーデリアは自室に戻りながら、自分がどこか落胆している事に気がついた。母親を非難するわけにもいかないし、コーデリアが悪いと思わない言い回しでなければいけない。
コーデリアは自室に戻りながら、自分がどこか落胆している事に気がついた。
自分がというよりは、『本当に3歳のコーデリアが』というような……身体の、心の一部が痛むような不思議な感覚で有った。そして驚いた。顔を合わすだけの限りなく他人に近い相手だと自分で思っていたはずなのに、落胆する自分が……自分では無い自分が身体の中に存在することに。コーデリアは口を引き結んだ。
「“貴族たるもの、時に感情を押し殺す事も必要です”だったっけ」
そしてパタンとドアを閉めながら、何度も言われて来た心得の一つを小さく呟いた。動揺は顔に出してはダメだと、駆け引きも負けるし相手に見下げられる原因になると言われていたのに、今はそれが出来ている自信がなかった。むしろ恐らく全て表情に出てしまっているだろう。完璧な令嬢になるにはまだまだ道は険しそうだ。そう思いつつ、コーデリアは先ほどとは違い深くため息をついた。
(今日はレッスンが何も無くて良かったな)
もし見つかっていたら恰好がつかないところだった。そう思いながらゆっくりと部屋の中を進み窓に寄ると、薄いレースのカーテンをすっと閉めた。
今日は朝からはしゃぎ過ぎ、少し疲れてしまっただけだ。そんな時に母親の事を兄に出されたから、少し動揺してしまっただけだ。深く気にしている訳ではない。そう思いながらゆっくりと、それでも貴族の令嬢としては非常に行儀悪くベッドに倒れ込んだ。
(大丈夫、眠って起きたら頭はきっとすっきりする――)
だがそんなコーデリアの思いを邪魔するかのように、瞑った目の奥の暗い世界から小さな声がコーデリアに語り始める。
ねえ、お母様は家に興味がないんじゃなくて、貴女の事が嫌いなだけじゃない?
――うるさいなぁ。
あなたのお母さんでしょう?お兄様には会ってるっていうのに、寂しくないの?
――だったらどうしろっていうのよ?
煩い思考を振り払うかのようにコーデリアは一度寝返りを打ち、うっすらと目を開いた。たなびくカーテンが何かを訴えているようにも見えた。
「………」
ばさり、ばさり。窓を閉じずに閉めたカーテンは声を立てていないのに、何かを強く訴えようとしている。
(……そうよ、何も思わないわ。寂しいような感情は嘘、私は彼女を一番反面教師にしなければならないのだから。自分の思い通りにならないからと意地を張る女性になんてならない。自分で障害を取り除く女性になる。それが例えこの世界の普通でなくとも――私は私の手で幸せを掴みとる)
ようやくやって来た眠気にコーデリアは身を任せた。
(……はやく立派な令嬢になろう。感情に惑わされることなく、前を見据えられる令嬢に――)
薄れゆく意識の中でそう小さく決意しながら。