第十一幕 領地にて (上)
王都から馬車で三日と約半日。
ひたすら揺られるという状況下、エルヴィスより経済学の講義――主にパメラディア領内での経済状況――などについて講義を受けることとなった。どうやら以前軽く兄が触れていた領内格差というものは思った以上に大きく、その解消の一番の問題は山間に暮らしている領民や、小麦栽培で有名な土地の領民が今の暮らしに問題点を感じていないという事だった。
「人はまず、不満を持たねば成長が認められない。彼らは、領内での生活水準に気づかず、満足を覚えてしまい経済的な成長を望んでいない」
「それは……でも、街を見れば、村を改善したいと思うことは無いのでしょうか」
「彼らにはプライドがある。山間の人間には街の人間には作れない森を作るというプライドが。木々を育てるというプライドが。また耕作地帯の人間には街の人間にはこれほどの作物を作ることができないという自負もある」
だから字を覚えるという事を時間の無駄だと嫌うし、望むこともしない。
村長やその候補が読めればそれでいいと思っている。
そう続ける父親に、コーデリアは言葉を詰まらせた。
(……確かに、不要だと思っているものを必要だと思わせる手段……難しいわ)
強制することなら出来るだろう。だが、それでは不満を抱かせる。
不満を抱かせても利益があることであると示せればよいが、彼らの望むものが何か――コーデリアにはすぐに思いつくことができなかった。
「いずれはと考えているが、望まぬ者に手を焼くより、先に成さねばならないことがある。例えばば耕作地帯の河川や井戸の整備。こちらの方が領民も喜ぶ」
窓の外を見ながらエルヴィスは続けた。
「その日の暮らしが彼らにはある。いつかはとは思うが、容易なことではないだろう」
父親の横顔を見ながら、コーデリアはふと気づいた。
(お父様も、放置するつもりではない……けれど、手が回らないんだわ)
国政に力を尽くしながら領内を治める。それは体一つでは足りないことなのだ。
(……私が、お父様の力にならなければ)
兄や姉たちと違い、自分にあるのは自分の研究だけだ。
コーデリアは今回の視察のうちに、そのヒントを見つけたい――そう心から願った。
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パメラディアの本邸は王都の邸宅よりもずっと広かった。
白い邸宅に花が咲き乱れる庭、巨大な木々。
そして腰を折り、主の帰還を迎える使用人たちの数も違う。
その使用人たちの列の一番奥、屋敷のすぐ前にエルヴィスと同じ年代の男性が立っていた。
彼はエルヴィスを見るやいなや深く礼をとる。
「ようこそお帰り下さいました、エルヴィス様。そして初めまして、コーデリア様。私はエルヴィス様より領地の管理代行を任せられております、ジーク・ガルガッタと申します」
「堅苦しい挨拶はよせ、ジーク」
心底嫌そうな声で言うエルヴィスは、その具合からどうやらフラントヘイム侯爵と同じくらい仲が良い(?)のだろうと想像した。
「コーデリア・エナ・パメラディアです」
コーデリアはそんな父親の隣で同じく深く礼をとった。
「ジークは私が騎士団に属していたころの部下だ。今は私の不在時の代行をしてもらっている」
「代行っていっても団長……じゃない、伯爵が仰ってる通りにしてるだけですけどね。おかげで路頭に迷わなくて済んで、娘にも安心してもらっています」
すこしおどけた様子のジークは「一応士爵です」と自分の身分を名乗った。
士爵とは、一代貴族の名称だ。
つまり彼は元々貴族ではなかったのだろう。しかし何らかの功績があり、退任時に受勲したようだ。その功績は恐らく彼の左足に関係しているのだろうとコーデリアは思う。彼は左手に杖を持ち、左足を庇っていた。父と同じように”名誉の負傷”を負ったのだろう。
士爵は退任時に恩給が出るが、領地が与えられるわけではない。つまり次の職を見つけなければならない。きっとその時に父親がジークを誘ったのだろうとコーデリアは推測した。
「昼食の準備は出来ていますよ。いつも通り私の分も一緒にご用意させていただきましたが」
「ああ。……そういえば、アイシャはどうした」
「いつも通り街の子供の読み聞かせに出かけております。もうすぐ戻ると思いますが」
旦那様の御戻りまでには戻るよう、言っていたのですがね。そう苦笑するジークも、おそらく間に合わないだろうという事は想像していたらしい。
その時だった。
「ああ、ちょうど戻ってきたようですね」
ジークの視線をたどり、コーデリアも振り返った。するとそこには栗毛で琥珀色の目の、可愛らしい少女が門の辺りで様子をうかがっていた。
「遅刻だ、アイシャ」
「ご、ごめんなさい……」
俯き加減で、小走りに少女はジークに駆け寄り、そしてすぐにエルヴィスに深く謝罪にお礼をとった。しかしエルヴィスは特段気にした様子もなかった。
「昼食が冷める前にいただこう」
それだけ言うとさっさと屋敷に入ってしまう。
それは怒っているわけでもなさそうで、いつもの事であると言わんばかりの状態である。
コーデリアはそんなエルヴィスについていくのにワンテンポ遅れてしまった。
なので、アイシャを見上げて一礼した。
「初めまして、コーデリアと申します。以後お見知りおきを」
コーデリアが声をかけると、アイシャは「わ…、可愛い……」と小さく漏らした。
それからはっとしたように「私はアイシャ・ガルガッタと申します。ここにいる間、コーデリア様の案内を務めるように申し受けております」と慌てて口にした。
コーデリアはそれを聞き、アイシャを再び正面から見る。
くりっとした丸い目に、白い肌。お人形様みたいと思うと同時、一つお願いしたいことが浮かんでしまった。
「アイシャ様」
「アイシャで結構ですよ、コーデリア様」
「あの……アイシャお姉さまと呼ばせていただいても、よろしいでしょうか」
コーデリアにも姉は居る。だが早くに結婚した姉と交流する機会は今でも少ない。
だから恐らく十五歳前後だろうアイシャを見、思わずその希望が口をついた。
アイシャは目を丸くしていた。
「わ、私は構いませんが……コーデリア様には素敵なお姉さまがいらっしゃいますよね?」
「でも、ここにいる間はアイシャ様のこともお姉さまとお呼びしたいのです。私はまだまだ不勉強で、お姉さまにいろいろと教えていただけたら……と思うのです」
そうコーデリアが言う間にも、アイシャは顔を真っ赤にさせていた。
「私などがそのように言っていただいて良いものか分かりませんが、私はコーデリア様にお呼び頂く分には何ら問題ございませんよ」
「ではよろしくお願いいたします、お姉さま」
「……緊張しますね」
少し照れながら笑うアイシャは、「さあ、参りましょう。お食事が冷めてしまいます」とコーデリアを促した。やはりお姉さんのような人だとコーデリアは感じた。
昼食は領内の特産品ともいえるホウロ鳥がメインになっていた。野菜も新鮮で、王都のものよりもおいしく感じるのは旅の疲れか、それとも本当に美味しいのかは判別がつかなかったが、これから一週間滞在するのだからどちらが正解かはきっとすぐにわかるだろう。そう思うと次の食事も楽しみになった。
午後からはエルヴィスは執務室にこもるという事だったので、コーデリアはアイシャとともに屋敷の一室……コーデリアが使う私室にいた。食後のお茶を楽しみながら、コーデリアはアイシャにいくつかの質問を投げかけていた。
「お姉さまは領内のどのあたりまで、普段は行かれるのですか?」
「私はほとんどをこの街で過ごしていますが、時折父の使いとして北の小麦の村と呼ばれるカイナ村に参ります。ここで収穫される小麦は国内でも有数の秀逸な品として王家に献上されることもあるのです」
一応名目上は父の使いではなく、伯爵の使いということになっていますが。
そう、ゆったりと返すアイシャにコーデリアは重ねて質問した。カイナ村という名前に覚えはないが、きっと父と話した地方の村の一つだと判断したからだ。
「逆にカイナ村の方がこの街にいらっしゃることはあるのですか?」
「ええ。納品の際にお越しになることがありますわ。その時に子供を連れて来られる方もいらして、私が絵本の読み聞かせをさせていただくこともあります」
今日もそれで遅れてしまって、と、少しバツの悪そうなアイシャは、それでも後悔はないようだった。どうやら、本当に面倒見が良いらしい。アイシャは続けた。
「私、本が大好きなんです。だから子供たちに読み聞かせるのはとても楽しくて。……本当は、彼ら、彼女らが自分で読めるようになればいいのですが……」
「やはり難しいことなのですか」
「彼らは賢い。だから時間さえあれば……きっと、すぐに覚えてくれると思うのですが」
目を伏せたその先の言葉は、きっと馬車の中で聞いたエルヴィスの言葉と同じなのだろう。
「誰かが読めればそれでいい、という具合なのですね」
「端的にいえば、そうですね。……難しく、悲しいことです。ですがそれは私たちの価値観だと言われてしまえば、それ以上は私にも言葉がありません」
アイシャの言葉に空気は重くなる。コーデリアは少し話題を変えようと辺りを見回した。そしてふと王都ではできなかった――そのためにここに来た、大事なことを思い出した。
「お姉さま、私に街を案内して下さいませんか?」
「え?ええ」
「よかった。私、王都では殆ど外に出たことが無いのです。楽しみにして参りました」
エルヴィスには視察と言われていたし、彼女も案内役と言っていた。
だから屋敷の外に出るのはここでは可能なことなのだろう。案の定アイシャはあっさりと了承を示した。
「コーデリア様は見たいものはございますか?」
「友人のお土産を買いたい……という事もありますが、何より人々の生活を見てみたいと思います」
「では、まず市場に参りましょう。大丈夫です、この街はパメラディア家の方々に危害を加えようとする者などいませんから危険はございませんよ」
先ほどの暗い表情は一転して楽しげな様子のアイシャに、コーデリアは「どうして?」と首を傾けた。アイシャはにっこりと笑いながら言い放った。
「ここではパメラディアの方々の方が王家よりも人気なくらいですから、危害を加えようものなら住民に針の筵にされますから」
今日は元々旅の装いだったコーデリアは、そのままでも外を歩ける状態だった。
アイシャも外から帰ってきたときの装いだったので、二人は行くと決めたらすぐに屋敷を出発した。アイシャはずいぶん外を歩きなれているらしく、細い裏路地をもまるで庭のように進んでいく。近道なんですよ、と、まるでその動きは子猫のようだった。
「コーデリア様は苦手な食べ物などはございますか?」
「食べ物?……いいえ、特には」
「では、まずは腹ごしらえと致しましょう」
流石に食べ歩きは良くないと判断したのだろう、アイシャはまず市場の一番端にある店をコーデリアに案内した。そしてイートインコーナーに導いた。その店は列ができていたのだが、コーデリアの姿を見るなりさっと列を開け、あっという間に一番前までたどり着いてしまった。
『パメラディアのお嬢様だわ』
『王都にいらっしゃる二人目のお嬢様よね、やっぱりお綺麗ね』
そんな声が聞こえて来、少しだけ気恥ずかしかった。美少女であるという自覚はあるが、人から聞こえるように言われるのは初めてである。若干恥かしい。だが、そのような素振りを見せるわけには行けない。
(将来はこれよりずっと大きな舞台にも出るはずよ――舞踏会に比べればこのくらいはまだまだ序の口のはず……っ)
そう気合いを入れようとして、ようやく気付いた。
あまりにも自然に道をあけられてしまったのであっという間に席に案内されてしまったのだが、これは果たしてよかったのだろうか。権力を振りかざしているように見えはしまいか。別に並ぶことに対してコーデリアは抵抗を持つわけではない。そのことを掻い摘んでアイシャに相談すると、彼女は「大丈夫ですよ、皆の親切心ですし、そもそもご領主様のお嬢様を待たせていてはゆっくり飲食できないと思われますでしょうから」と笑っていた。そして「だからここは先にいただくのが正解です」と。まるでマナーの先生のようだった。
アイシャはその間にも手際よく注文を済ませていた。そして程なくして運ばれてきたのは焼きたてで少し焦げ目がついた美味しそうなスコーンとジャム、それから紅茶だった。
「あら、おいしそう」
考えるより先にコーデリアの口からはそんな言葉がこぼれた。
「こちら、先ほど話していたカイナ村の小麦粉で作ったスコーンなのです」
「本当に美味しそうですね」
「本当に美味しいですよ。では、いただきましょう」
元々コーデリアはスコーンがあまり得意ではなかった。
けれど口に入れた瞬間、ほろりと崩れるスコーンがいつもと違う味だという事に気が付いた。これが国一番と呼ばれる小麦なのかと驚いた。
「本当に……美味しい」
「カイナ村の小麦は一定量は国が買い上げております。また、パメラディア家も相当量買い付け、輸出入の事業に使っております。あまり考えたくはないですが、余剰分全てを買い上げてしまえば、万が一の時に困りますからね」
ジャムを塗りながら言うアイシャに、コーデリアも相槌を打った。
「けれど……その他に売っている分に問題がございます。この店のように適正な値段で直接購入される場合は望ましいのです。けれど、中には計算ができない、文字が読めないという事をいいことに大きく価格を下げて買収する輩もカイナ村には群がります」
コーデリアはそこでいったん手を止めた。
「彼らの中には計算が出来るものもいますが、けっして乗算が得意なわけでない。圧倒的な小麦を売り、大金を目にしたように見えても実際は安い単価で叩き買われているケースがあるのです」
「それは……本当なの?」
「ええ。カイナ村への使いで通っているうちに気づきました。けれど彼らが了承してしまうと、私では口をはさんだところで……そもそも、不適正な値段だという事に納得してもらえませんから」
少し悲しそうなアイシャは、やはりカイナ村のことが引っ掛かっているのだろう。
「文字や計算を覚える事は大変なことです。文字のない文化もありますし、否定はしません。ですが、彼らが騙されないようになるためには教育を受けるべきだと思うのです」
ああ、だからアイシャは読み聞かせをしているのか。
コーデリアはそう感じた。元々面倒見がいいこともあるだろうが、文字に興味を持ってほしいという思いからそうしているのだろう。けれど、歯がゆいという状態から動けないのだろう。事を起こすには判断力に加え大きな力が必要となる。自分の力ではないが、コーデリアには大きな後ろ盾がある。
「このスコーン、本当に美味しいですね」
「え?ええ、そうですね」
「やはり立派な作物にはしっかりした対価が必要になりますね」
自分の力だけではないことは百も承知だ。けれど、父も気にしていた、それでも手が回らない事柄だ。判断力――それさえあれば、可能かもしれない。そうコーデリアは考えた。
「アイシャお姉さま。私も考えたいです。きっと、カイナ村だけじゃない。他の村も……領内の識字率が上がり、皆の意思がより伝わるように、私も努めたい」
出来るか出来ないかじゃない。やるんだ。そう、コーデリアは強い目でまっすぐアイシャを見た。アイシャは息を飲んだ。これが子供の目なのか、と。
「私にもご助力できることがあれば何でも仰ってください。微力ではありますが、何かをしたいという思いは本物です」
「ええ。お姉さまがいらっしゃらなかったら、私も「美味しいスコーンですね」で終わっていましたから」
少し冗談めかしに言えば、アイシャとコーデリアは同時に笑った。
店を出た後はバザーを少し見て回った。
パメラディアの令嬢だという事はすぐにわかるようで、あちらからこちらから声がかかる。お安くしておきますよ!と宝石だの貴金属だのを勧められたが、その辺りは保護者のアイシャに「お嬢様はそれなりにお持ちですし、まだ沢山そろえるにはご年齢が足りません」とぴしゃっとシャットアウトしていた。
代わりにコーデリアは手触りの良いペーパーナイフに興味が沸いた。パメラディアの特産の木の一つで、高級家具にも使われるタレンの木を使用しているらしい。
「お嬢様、ペーパーナイフにご興味がおありで?」
「え、ええ」
店主に話しかけられ、コーデリアは控えめに笑って返した。
すると店主は嬉しそうに「いいものに目を付けてくださいますねぇ」と言う。
「こいつは紙を切ることに関しては金属にも全く負けませんし、手触りもいい。持ってみてください。軽いうえに傷もつきにくい。おすすめの逸品ですよ」
そう言って差し出されたペーパーナイフをコーデリアは手に取り、その心地よさに驚いた。
「名入れも可能ですので、土産にも喜ばれているんですよ」
「では……これを、二本いただけますか。あの、文字は何文字くらい入りますか?」
「文字数ですか?……そう長くなければ短文くらいならはいりますけど」
「では、一本には「ジル様 いつもありがとうございます」と入れていただけますか」
いつも手紙のやり取りをしている相手に持ち帰る土産として、ペーパーナイフは一番しっくりするような気がした。父親にアドバイスを聞いたところで、いい返事はもらえなかったし。すると店主は「ジル様というのはお嬢様のナイト様ですか?」などと楽しそうに軽口をたたきながら作業に入った。そして掘られた文字は快活な店主からは少し想像しづらい、とても丁寧な文字だった。
(……ヴェルノー様が手紙を書く姿は想像できないから、ヴェルノー様にはお菓子でも買って帰ろう)
差別ではないが、彼は花より団子だろう。そう思っていたが、飲み心地が良さそうな木のマグカップを見つけ、それを購入することにした。帰り道にも三日半かかり、更にその後いつ会うかわからないのに食品を持ち帰るのは危険と判断した結果である。
大小三つの紙袋を持っていてもまだまだ他のものにコーデリアの目は移っていく。
両親に手を引かれ屋台の揚げ菓子を食べる子供、夕飯になるだろう肉の加工品を買う主婦、怪しそうなツボを間に置いてやり取りする大人たち。コーデリアは活気あふれる市場を見て、どうしても心が浮ついてしまった。この世界での初めての人だかり。
「コーデリア様、今日はそろそろ帰りましょう。まだ日は落ちていませんが、沈み始めると早いですし」
「え、ええ。そうね」
「ふふ、大丈夫ですよ。またこちらにも来ますから」
まだまだ居たいという事がアイシャにも伝わったのだろう。
コーデリアは少し恥ずかしくなりながらも屋敷へ足を向けた。
その時にふと子供の声が聞こえた。
「なあ、村みたいに小麦の風がないのは落ち着かないなぁ」
「でも村の小麦がここまで美味しいパンを作ってるんだよ。やっぱり小麦すごいね」
そう、カイナ村の少年少女と思わしき子供の声を聞き、コーデリアは軽く目を伏せた。
(初めての、勝負になるかもしれない)
そう思い、まっすぐ前を見た。




