第九十三幕 禍根と断つ者
頭が痛いのか腹が痛いのかよくわからないが、とにかく気持ちが悪い。
そのような感覚を抱きながら開いた目に木の床が映ったところで、コーデリアは意識を一気に覚醒させた。暗い部屋の中はどこなのかわからない。だが、後ろ手で縛られているあたり、状況は充分に理解できた。
「目、覚めたんだ。気分はどう?」
「最悪ね」
思ったよりもしっかりと出た声にコーデリアはほっとした。意識を失う前のことは覚えており、状況が著しく悪いことはわかっている。だが、怯えていても事態が好転するとは思えない。
「泣いてくれてもいいのに、気丈だね」
「泣いたら解放してくれるの? そうでないなら、貴方を喜ばせる理由なんてないわ」
「余計な体力は使いたくないって? 面白くないね」
幽霊は気さくな風にコーデリアに話しかけるが、一切の油断は感じられない。むしろ、警戒されているとさえ感じてしまった。
(室内に植物はない。森と言っていたから外にはあるでしょうけど、私が遠隔で魔術を発動させるより幽霊に止められるほうが先でしょうね。だいたい窓も木製の横すべり出しの形である上に閉まっているから、魔力を飛ばすにも狙いが定まらない)
体を起こし壁に背を預けながら、コーデリアは考えた。
手を縛っているのはおそらく麻縄なのだろう。ちくちくと手に刺さるのが痛いし容赦なく締め上げられているが、昔から苦手にしている解析魔術のおかげで縄を切り刻むことは可能だろう。解析も得意であればよかったと思うことが多々あったが、苦手であったことに感謝することになるとはと、心の中で少しだけ苦笑した。
だが、安堵ばかりしていられる場合ではない。
(魔術を発動させれば幽霊だって魔力を検知する。なら、縄を切って逃げるまでの時間に余裕はない。タイミングを見計らわないと……)
一度失敗すれば、確実に警戒レベルは上がるはずだ。コーデリアも相手と自分の戦闘能力の違いは理解できる。だが、そうして静かにしていたためか、幽霊の気分はよりよくなったようだった。
「日付がかわるまでにはまだ少しだけ時間があるよ。暇だし、話でもしてあげようか? 気分転換になると思うし、それに、個人的には君の反応も見てみたい。ああ、あのあとちょっとルフィナには気絶してもらったけど、そう長く気を失ってはいないだろうから、無事に君の状況は伝わっているはずだよ」
「……」
コーデリアはできるだけ表情を悟られまいと顔を伏せた。幽霊に話を請うのは望んでいないが、隙が生まれるかもしれないと思えば断る理由もない。その結果返事はしなかったのだが、幽霊はそれでもコーデリアが話を聞くと思ったのだろう、特に気にした様子もなく語り始めた。
「そうだね、赤目の姫君、ルフィナのお話ならコーデリアさんも興味あるかな?」
「……」
「ルフィナって口は悪いし、この国の言葉だからなまってるって言ってるけど、大体ドゥラウズ語でもあんな感じだからね。でも、ああやって偉そうに言ってるくせに実は玉座なんて狙ってない、ただのお人好しな姫様なんだよね」
その言葉にコーデリアは思わず反応しかけたが、ぐっとそれを押しとどめた。
幽霊はコーデリアの反応を見ている。話の続きを求めれば、逆に言葉を切ってしまう可能性も考えられた。
沈黙を保つコーデリアの前で、幽霊は言葉を続けた。
「ルフィナは僕に攫われることを望んでた。浚われることでドゥラウズ王室が幽霊と協力関係にないとアピールできれば、もう邪魔されないって思ったんじゃないかな。仮に自分が死んでもルフィナの兄がシルヴェスターと条約を結べるよう、手筈は整えているはずだ。表向きは仲が悪いけど、彼女は兄とだって別に仲が悪いわけじゃない。全部、彼女の計算だ」
それはまだほんの少ししか一緒にいなかったコーデリアには気付くことができるようなことではない。そして、幽霊の言葉が嘘か真かを判定することもできない話だ。ただ、幽霊がこの話で嘘をついても何の得にもならないことはコーデリアにも理解できる。
むしろ、ルフィナの絶望を幽霊が楽しみにしていたと思えば、真実味はそれなりに感じれる。
「っていっても、ルフィナのことなんてたいして興味もないか。コーデリアさんは僕に聞きたいことはないかい? もう二度とないチャンスかもしれないから、答えてあげるよ」
幽霊の言葉にコーデリアはゆっくりと顔を上げた。ルフィナの話をしているときも、幽霊には一切の気の緩みは見られなかった。だが、ここで話を途切れさせ沈黙を生むとなると、更に隙ができる可能性は減ってしまう。それは避けたいことであるし、聞きたいことがないわけでもない。きっと自分は悪い目つきで睨んでいるのだろうと思いながらも、コーデリアはゆっくりと口を開いた。
「……赤目だから狙っているのは、本当の話なの?」
「ああ、それ、ルフィナが言っていたね。正直、言った記憶はなかったけど――祖を同じくする赤目が苦しめば愉快だって思うよ」
思いのほかあっさりと認めた幽霊は楽しそうに続けた。
「だって僕が今の立場にいるのは数世代前の先祖が王家から裏切者として扱われたからでしょう。おかげで僕は力をつけるまでの間に何度も死にかけて明日もわからぬ生活を送っていたのに、ルフィナなんて自分の毒見係が一人死んだくらいで飯も一人で食べれないとか、甘ったれたことを言うし」
自分のことであるのに他人事のように、そして対して悪いとも思ってない風に白状する幽霊の機嫌はますますよくなるようだった。
「あ、パメラディア家に関しては最初は本当に偶然だったんだよ。でも、僕の先祖も君の先祖みたいにうまくやってくれればよかったのに、っていう思ったら八つ当たりもしたくなったし、ルフィナほどじゃないけど君が苦労するのを見るのも楽しかったし、君に成敗される悪人が滑稽で面白くて一石三鳥っていうもあったし」
そこまで言った幽霊は立ち上がり、そしてコーデリアのすぐ目の前まで歩みを進めた。
そして身をかがめて、コーデリアと視線の高さを合わせた。
「君もルフィナも色々やってるけど、結局はそこに生まれられたからでしょう。君たちが苦しんだり、僕を憎むような表情を見るのが僕はとても楽しかった。それは最大の憂さ晴らしになっていたからなのかもしれない。もっとも、最近一番楽しかったのは君でもルフィナでもなく、シェリーだったけどね」
「え?」
思いがけない言葉に、コーデリアも短く問い返した。
幽霊はそれに気をよくしたらしく、口角を上げた。
「気に食わなかったんだよね。寝て夢を見るだけで成りあがるなんて、都合がよすぎるでしょ? だから世の中の厳しさを教えてあげることにしたよ」
「あなた……それで、シェリーを騙したの」
「人聞きが悪いなぁ。どんな手段でも構わないから人の本性を暴く術がないかと真剣に考えていたみたいだから、一つ楽しい術を教えてあげただけだ。死にそうになったら本音を吐く人間も多いから嘘じゃないし、彼女も命まで落としたわけじゃない。いい薬になったんじゃないか?」
悪びれることのない幽霊の言葉が予想通りであっても、コーデリアにとってうれしい情報など何一つなかった。ただ、冷静に対処しなければいけないと思う反面、ふつふつと怒りも強くなってくる。
ゲームの中の幽霊が『コーデリア』を陥れた理由は目の前の幽霊が『シェリー』に近づいた理由と同じかどうか、そんなことはわからない。
「貴方が人に何かを教える? ふざけないで、暴走を助長し、崩れゆくさまを楽しもうとしただけでしょう」
「どうしてコーデリアさんが怒るんだい? 君も彼女を気に入っていたわけじゃないでしょう。コーデリアさんも死ななかったんだし、悪いご令嬢退治にもなったし、結果的には感謝してもらっていいくらいだと思うんだけど」
「貴方は気付いていないの? 貴方、シェリーにそっくりよ。自分の気に食わない者ならどうなってもいいっていうのなら、同類じゃない。もっとも、最終的に理解はできなくなったけど、当初は目的があったはずの彼女のほうがまだ理解ができるわ」
「……この状況で言うに事欠いて僕に啖呵を切るなんて、よほど助けが来る自信があるんだね。シルヴェスターが一人で来ると、本気で思っているんだ。囚われのお姫様?」
負け惜しみの言葉だととらえたのか、幽霊はおかしそうにコーデリアを見ていた。そして、コーデリアも満面の笑みを返した。
「来るわけがないでしょう」
「え?」
コーデリアは幽霊に想定外だと思わせられたことに少し溜飲が下がるような気持になり、同時に冷静にもなった。二の句を続けられなくなった幽霊に、コーデリアは言葉を続けた。
「殿下が御身を危険にさらして誘拐犯の要求に応えるなんてことをなされば、私は殴り飛ばさなければいけないわね。パメラディア家も貴方が思っているより冷静よ。たとえ私に何があっても、貴方の予想通りにはならない。あまり見くびらないほうがいいわ」
「へえ、それでも余裕の態度って……君は馬鹿なの?」
「貴方よりは賢くありたいものね」
そうして余裕を取り戻したコーデリアに、幽霊は目を見開いた後、くつくつと笑った。
「やっぱりやめようかな、日付がかわるまで待つっていうの。シルヴェスターが来ないっていうなら、待っていても無駄だし。仮に本当に来たとしても、すでに君が無事じゃなくても面白いものが見れるかもしれないし」
「あら、嘘はつかない主義ではなかったの?」
「たまにはいいでしょう? 君がこれ以上喋ると、間違って殺しちゃうかもしれないよ」
言葉とは裏腹に、まだ幽霊がすぐにコーデリアをどうこうする様子は見せなかった。ぎりぎりのところで挑発に乗ってしまいそうになるのを我慢している、そのような様子にも見える。しかし圧倒的に有利な場面で話を打ち切ろうとする様子は今までの幽霊らしからぬ行動だ。
(でも、それなら私にも勝機がある。いまの幽霊は怒りが先走って魔力も荒れているし、冷静さも欠いている)
幽霊がいつもより気を散らしているなら、間合いを見極めることが出来さえすればこの場から逃げられる可能性も上がることだろう。ドアを走り抜けることさえできれば、ここは森の中。コーデリアの魔術行使には最も有利な場所であるはずだ。
(殿下がいらっしゃるとは、本当に思っていないし、いらっしゃってはいけないと思ってる。でも――誰かが来てくれることは、信じてる)
ならば、それまでに自分が人質の状態を脱しておくのが、今のコーデリアにできる最大の反撃だ。幽霊は日付が変わるまでもう少しだと言っていた。つまりは、何があっても助けがくるのであれば、もうすぐ限界の時間になるのだろう。
もしも帰れずとも、幽霊が望む展開などあり得ないことはわかっている。だが、見捨てられるとも思っていない。そして――帰らなければ悲しませるものが多くいることも理解しているし、来なかったことをシルヴェスターに後悔させることも予想できる。
たとえ人質状態から脱しても森を抜けて逃げることは、おそらく体力差から考えても不可能だ。だが、この場所なら、ただ凌ぐだけなら望みもつながる。
それでもまだ今の幽霊には隙がない。ここまで苛立っておきながら敵としても厄介だと思うが、しかし本当に助けがきた瞬間に幽霊が一瞬でもそちらに気をとられることは予想ができる。コーデリアは確実に一度のチャンスをものにしようと、神経をとがらせた。
そしてその時、古びた蝶番がきしむ音を立て、ゆっくりと入口の扉が開いた。
だが、その場所に人の気配は全くなかった。




