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第8話

 あれから月日は流れ、僕たちは気づけば中学三年になっていた。卒業まで、もう指折り数えるほどしか残っていない。

 けれどあの日以来、美咲の姿を校舎で見た者はいなかった。


 事故から今日まで、一度も。

 彼女の机は空っぽのまま、時折、風に揺れるカーテンがそこを撫でるように揺らすだけだった。


 まぁ、正直に言えば、僕にとってはどうでもいいことだった。

 だって美咲は、ずっと僕を嘲り、弄び、傷つけ続けてきた相手だ。

 そんな人間がいなくなったからといって、胸を痛める理由なんて、どこにある?


 クラスの空席を見て寂しげな顔をする奴らもいたけれど、僕には理解できなかった。

 むしろ心のどこかで「当然の報いだ」とすら思っていた。

 だから僕は、彼女が来ない日々を特別に数えることもなく、気に留めることすらしなかったのだ。


 僕は、高校に入ったらすぐに家を出るつもりでいた。

 この家にいても、得られるものなんて何ひとつない。


 親父は学費すら払おうとせず、むしろ僕のわずかな小遣いや貯金を奪っていった。

 殴られることは日常茶飯事で、家に帰ってきても安らげる場所なんてなかった。

 ここに居続けても、僕の未来が潰れていくだけだ。


 だから決めたんだ。高校に入ったら必ず出ていく、と。


 親父は「好きにしろ」と吐き捨てるように言った。

 ただし――育ててやった代償として、定期的に金を送れ、と。

 その言葉を聞いた瞬間、心の底から反吐が出た。

 もう二度と、あの男に僕の人生を搾り取らせるわけにはいかないから。



 それからの日々は不思議なほど静かだった。

 学校ではあの日までの虐めが嘘のように消え、誰も俺にちょっかいを出さなくなった。陰口も、悪意の視線も、すべて霧散した。あの出来事自体が幻だったみたいに。


 そうして中学は幕を閉じる。多分だけど……虐めてた奴を片っ端から殴り倒していた影響だろうか、やはり力は正義だ。


 卒業式の日、美咲の席は最後まで空っぽだった。彼女は一度も学校に来なかった。笑い声も、皮肉も、泣き顔すらも、もう思い出の中にしか存在しない。だが、そのことに涙は出なかった。俺にとっては、ただひとつの「終わったこと」でしかなかった。







 あっという間に高校生活が始まった。

 入ったのは、そんなに偏差値の高くない学校。正直、勉強で勝負できるような頭は持っていなかった。――いや、正しく言えば「鍛えられなかった」と言うべきか。


 親父が俺に叩き込んできたのは、学問じゃない。株の知識と格闘の訓練ばかりだった。数字の読み方やチャートの癖、売り時と買い時の勘、勝負勘を養う方法……。机に向かうより先に、拳で殴られるか、株価の動きを読み切れなければ罵倒される。そんな毎日だった。


 親父は元経営者という肩書を持っていた。たしかにセンスはあった。俺が多少なりとも理解できるくらいには。自分で株を動かせば儲けられるのに――そう思ったことも一度や二度じゃない。


 でも、親父はやらなかった。

「面倒だ」「もう興味がない」とか言いながら、結局は酒とタバコに逃げ込む。

 多分、勝負を続けて勝ち切る胆力が、もうあいつには残ってなかったんだろう。


 ……そのくせ、俺には叩き込む。俺には押しつける。「自分ができなかったことを息子にやらせてる」みたいに。


 ある時、俺がこっそりと積み上げていた貯金が親父に見つかった。

 封筒を乱暴に振り回しながら、親父は顔を真っ赤にして怒鳴る。


「なんでこんなもん隠してた!? 俺に黙って金を貯めるなんざ、親不孝もいいところだろうが!」


 酒臭い息と一緒に浴びせられる罵声。殴りつけるような言葉の一つひとつに、胃の奥が冷たくなる。俺は適当に「別に」とか「大したことじゃない」とか、耳を塞ぎたくなるような返事をした。


 その瞬間、親父の目がギラついた。

「ふざけんなッ!」と叫ぶや否や、拳を振り上げて殴りかかってきた。


 酒とタバコで蝕まれた身体。荒い呼吸、震える手。けれど言葉だけはいつも通り強気で、殴る気配は本物だった。

 だが――もう負けるつもりはなかった。


 胸の奥に溜め込んでいた苛立ちと屈辱が、一気に噴き出す。

 拳を握った瞬間、全身に熱が駆け巡った。殴られてきた記憶が、今度は逆に殴るための力に変わる。


 ――俺は、もう黙って殴られる子どもじゃない。


 拳を振り上げた時、初めて「親父と対等に立てる」と思った。


 俺はためらわずに一撃を叩き込んだ。手応えと同時に、親父の顔が歪み、床に崩れ落ちる。

 続けて何発も、今までの鬱憤を晴らすかのように、思い切り殴った。呼吸は荒く、血の匂いと酒の匂いが混ざり合い、世界が少しだけ鮮やかになった気がした。



「親不幸が!」


 怒鳴り声が背中に突き刺さる。だけど、もう振り返るつもりはなかった。


「じゃあな。……お世話になった」


 皮肉とも本音ともつかない言葉を吐き捨てて、俺は玄関を出た。ドアが乱暴に閉まる音が響き、心臓が一度だけ跳ねる。けれど足は止まらなかった。


 普段よりもずっと早い、予定より早すぎる家出だ。けれど不思議と恐怖はなかった。親父に無理やりやらされた株。そしてそのおかげで配当金がある。

 あれが今では救いになっている。数ヶ月くらいなら生きていける。ギリギリでも、自分の足で立ってみせることができる。


「……貯めてて、良かった」


 吐き出した声は、街の雑踏にかき消された。




 いつからだろう、自分を「俺」と呼ぶようになったのは。

 正直、はっきりとは思い出せない。前までは「僕」だったはずだ。子どもっぽくて、守られる側の言葉。無理に背伸びしなくてもいい、そんな柔らかい響きだった。


 でも、気づけば俺は「俺」になっていた。

 自然と口をついて出るようになっていた。まるで、弱々しい「僕」を地面に押し込めて、見せないように覆い隠すかのように。


「俺」なら強く見える気がした。

「俺」なら殴られても泣かない気がした。

「俺」なら、誰かに頼らなくても立っていられる気がした。


 だけど、本当はどうなんだろう。

 本当に強くなったのか、それとも弱い自分を必死に隠すために「俺」と名乗ってるだけなのか。答えは分からない。



 配当金は、結局俺の酒やタバコに消えていった。

 煙とアルコールになり、空っぽになった封筒だけが机に残る。

 ストレスから逃れるためだったのかもしれない。自分でも歪んでしまったのかもしれない。

 親父に殴られ、言葉を浴びせられ、クラスメイトからは陰で虐められた。痛みは体だけじゃなく、心にも刻まれた。


 俺は、あの頃どこで歯車を狂わせてしまったんだろう。

 あの瞬間、あの選択、あの言葉――どれか一つが違っていれば、今とは違う道を歩けていたのだろうか。


 でも答えは分からない。

 振り返れば後悔ばかりが増えていく。


「すみません、これお金です」


 俺の通う高校は荒れていた。校門をくぐれば、カツアゲや恐喝が日常の一部のように行われている。金がなければ食らいつかれ、弱ければ踏みにじられる――そんな世界だった。


 だから俺も、選択肢は一つだった。金が必要だ。配当金ももうすぐ底をつきそうだし、自分の力で生き抜くしかない。


 目の前にいるのは、かつて俺を虐めていた秋山たちだ。

 あの頃は、千夏という女王のような存在に守られ、秋山は絶対的な権力を振るっていた。俺はただ耐えるしかなかった。


 だが今は違う。千夏とは別れ、もう秋山に従う理由は何もない。前のような権力は消え、捨てられた彼は弱々しく、周囲の目を気にしている。


「足りないな……」


 俺の低い声に、秋山は思わずビクッと身体を震わせた。


「あ、す、すみません……」

「もっと持ってこいよ!」


 言葉に力を込めると同時に、俺の拳が秋山の腹に飛んだ。

 別に罪悪感なんて湧かなかった。

 こいつだって、かつて俺を殴り、蹴り、クラスの皆の前でズボンまで脱がせたことがある。


 今、これが因果応報だとしか思えなかった。

 拳の衝撃とともに、過去の屈辱が一瞬にして弾ける。

 秋山がうずくまる姿を見下ろしながら、冷たい笑みが口元に浮かぶ。


「……覚えてろよ、俺をナメる奴は誰であれ、こうなるんだ」


 荒れた高校の現実。俺はそこで、弱かった自分を覆い隠す力と、復讐の正当性を同時に手に入れていた。










 僕は僕を守る為に俺という人格を生み出した。

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