第6話
秋山を殴ったことが瞬く間に広まり、僕は「暴力男」と呼ばれるようになった。
噂のせいで、教室の視線が冷たく、耳障りな囁きが絶えない。
そう、先に手を出したのは向こうだ。僕は防衛のために動いただけ、それでも、外から見れば一方的な加害者に見える。
教室のざわめき、クラスメイトの冷たい目線、全部が刺さる。説明しても、きっと誰も信じないだろう。
トイレをしていると、水をかけられた。
声から察するに、男子生徒の仕業だろう。こんなことをしている暇があるなら、勉強でもしてろよ、と心の中で呟く。
「お前、お風呂入ってないだろ?ありがたく思えよ。」
冷たい水が体に張り付く。頭の奥で、怒りと苛立ちが渦巻く。だけど、僕は何も言わず、ただ静かに立ち上がった。
服がびしょ濡れになって重くのしかかる。理不尽なことに、いちいち反応するのも疲れる。水滴がポタポタと落ちる音だけが、静かなトイレに響いた。
くだらない……勉強でもしてろよ、ほんとに。
廊下を歩いていると、背中に「ドン」と衝撃が走った。転びそうになり、慌てて振り向く。
そこに立っていたのは、美咲だった。
「な、なに……急に……」
息を切らしながら、笑っている美咲が目の前にいた。
「あぁ、ごめん。そこにいたんだ」
その周りには美咲と無数の女子が集まっている。
親友の千夏も、相変わらず楽しそうに顔を覗かせていた。
「美咲、酷すぎ〜」
「あんたさ、それで私に何か言うことないの?今なら許すけど?」
「ある」
その言葉に、美咲の顔が一瞬明るくなる。
だが、僕は感情を抑えきれず、低く吐き捨てるように言った。
「消えろ……」
「ちょっと!待ちなよ!!もっと酷い事になるよ」
俺は美咲の声を振り切った。
学校でのいじめは、日に日にエスカレートしていく。時には殴られ、殴り返したこともあった。
机や持ち物を隠されるのは日常茶飯事。
「あれ〜、童貞くん〜、何してるの?」
「あんたって本当、何も取り柄ないよね」
「先生!山本が私の方にヤラシイ目で見てきますぅ!」
「邪魔、消えて!」
「はぁ〜、まじムカつくわ」
今日も美咲は、僕を足で踏みつける。美咲の通り巻きには数人の男や女達が居た。
「ねぇこいつたってるよ」
「はぁ?キモ!!これで興奮するとか!」
美咲は僕の表情を嘲るように見下ろし、クスクスと笑った。
「マジで信じらんない……こんなの、恥ずかしすぎ!」
美咲の目は、いたずらっ子そのもので輝いていた。どこか楽しそうに、僕をからかうように笑っている。
「ね、美咲。もうちょい攻めれば?」
千夏が何やら美咲に呟いた。
「え、攻めるって?」
美咲が思わず声を漏らすと、千夏は悪戯っぽく笑った。
「だから、胸触らせてあげれば?」
「え、は……?」
「脅すのよ……それで、胸を触った事実があれば、こいつはもう、あんたの下僕よ。逆らえない。もし逆らったら、わかるでしょ?」
美咲は、笑いながらも冷徹な目で僕を見下ろす。千夏も同じく、悪意と遊び心が混じった表情。
「確かに……ありかも。そうすればこいつは」
千夏の言葉を受けて、美咲は小さく笑みを浮かべる。
「確実にあんたのものよ……」
その言葉を残すと、美咲はニヤニヤとしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
千夏はこの場を離れた、残されたのは僕と美咲だ。
「ね、いっくん、目を閉じて手出して?」
僕は言われるがまま手を差し出した。その瞬間、柔らかい感触が手に伝わる。
思わず目を開けると、そこには美咲の胸があった。柔らかく、そしてしっかりと手に収まる感覚――。
「えっちぃ……」
その言葉とともに、彼女は悪魔的な笑みを浮かべる。
僕の心臓が早鐘のように鳴り、同時に背筋が凍る。
僕の学校生活は、ここからさらに転落していく。
あれの日から僕は完全に美咲に逆らえない、逆らえば胸を触った事実がある、それにお母さんだって、もう僕は美咲には逆らえないだろう。
「遅い、早くしろよ。昼休み終わるだろ」
秋山が小声で呟く。その声に美咲は一瞥もくれず、堂々と足を組んで椅子に座る。まさに学園の女王だ。
周囲の生徒たちは皆、彼女の顔色をうかがう。美咲の家は学内でも権力を持つ存在で、媚びるしかない。嫌われれば、そこで立場は終わる。
今日も美咲は笑っている。誰も逆らえない女王の笑みだ。
「ごめんなさい……」
最初は逆らおうとした僕も、もう逆らえなかった。新塚が時折こちらを見ているが、介入はしない。僕も介入を求めなかった。彼にまで矛先を向けたくなかったからだ。
「ふふ、ほら、聞こえるようにいつもの敗北宣言よろしく〜」
美咲は悪魔のように笑いながら、僕を見下ろす。
「美咲様の奴隷である、僕が美咲様の手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございませんでした……これからは、美咲様を一瞬たりとも不快にさせぬよう、全力で努めます……ど、どうか、この僕をお許しください」
もう、周りの全てが敵に見える。笑い声、嘲笑、軽蔑の視線……逃げ場なんてどこにもない。
秋元やクラスの奴らに金を巻き上げられ、女子に靴や服を投げつけられるたび、胸が締め付けられるような屈辱が積み重なる。
──もう、消えてしまいたい。存在ごと消えれば、こんな苦しみも、恥ずかしさも終わるのに。
そうだ、逃げるわけにはいかない。負けたくないんだ、こいつらに、あいつらに──絶対に負けたくない。
だから筋トレを続ける。拳だけじゃなく、自分自身を鍛えて、誰にも馬鹿にされない自分になるために。
だから株もやる。お金も力だ。力がなければ尊敬も得られない、認められない。見返してやるんだ、必ず。
今日の屈辱は、明日の強さに変えてやる。
「絶対に……俺は強くなる。」
「いっくん、1発芸よろしく」
「う、ウッキキー……!」
猿のモノマネをする。自分でも恥ずかしいのは分かっている、でも笑い声が教室に響くたび、心がチクリとする。ギャハハと笑うクラスの声。美咲も笑っている──あぁ、これで喜んでくれるのか。
先生の視線も、助けてくれる気配もない。
当たり前だ。最初から、誰も僕を守ってくれない。見ないふり──いや、見えないふりをしているだけ。
教室の空気は重く、ざわつきの中で笑い声が渦巻いている。
僕が席に戻ると、靴が脱がされて机の上に放り投げられていた。
「おい、これで歩けるかよ、陰キャ君!」
秋元が嘲笑を浮かべながら言う。僕は何も言えず、ただ黙って靴を拾う。
女子の一人が、教科書のページに落書きをしたノートを僕の机に押し付ける。
「見ろよ、こいつの字、汚すぎ!」
「ギャハハ、まじで笑える!」
美咲はいつも通りクラスの中心で笑っている。だけど、僕を見てニヤリと笑うとき、その瞳には何か冷たい光が宿っていた。
僕は心の中で、自分を奮い立たせる。
「……負けるもんか。絶対、見返してやる……」
しかしその思いも、次の瞬間に足元をすくわれる。教室の後ろから誰かが僕のカバンを蹴り上げ、机にぶつける音が響く。
「わー、こいつ机にぶつけられたぞ!」
「マジで、もっとやれや!」
帰り道、僕はいつも通り美咲の後ろを歩いていた。荷物を持つのも、こうして並んで歩くのも、いつものことだ。今日も美咲は楽しそうに僕を見下している。
「ねぇ、いっくん。なんでそんな顔してるの?ずっとふさぎ込んでさ、見てるこっちまで暗くなるわよ?」
その声は高く、少し挑発的で、僕の心臓をざわつかせる。僕は無言でうつむくしかなかった。
「ねぇ、いっくん、今日もさ、荷物持ちとかさ、ほんと情けないよね〜。私のために走り回って、汗だくになって、顔赤くしてさ……あぁ、もう、見てるだけで面白い〜。ねぇ、ほんとになんでそんなに役立たずなの?勉強もできない、運動もできない、猿のモノマネでクラスの笑いを取ったつもり?ウケる〜、必死すぎて見てられない」
美咲は腕を組み、鼻で笑う。千夏たちのこともちらっと思い浮かぶ。僕をバカにするために集まったあの笑い声が、まだ耳に残っている。
「ねぇ、いっくん、今日もあの件で山本くんたちに文句言われたでしょ?あー、見たかったなー。あんた、顔真っ青にしてさ、必死に言い訳してるの。うん、絶対面白い。」
「ねぇ、あんたさ、ほんと自分で自分を惨めにしてるって分かってる?その目、震えてるし、歩き方もヨロヨロで……あぁ、もー、笑える。私がこんなに大人で賢くて、クラスの人気者で、みんな私の顔色伺ってるのに、あんたったら、ほんとその情けない姿で比べられるの、可哀想すぎる〜」
「明日もクラスの前で恥ずかしい姿見せてよ。あんたが必死に何かやってるとこ、もう私の娯楽の一部だし〜。もー、ほんと情けない。ねぇ、いっくん、あんたさ、いつになったら私を楽しませる存在じゃなくて、自分の価値を考えられるの?いや、無理だね〜。あんた、ほんとただの私の笑い物で、クラスのみんなも私のこと見てるのに、あんた、誰も助けてくれないし、自分でも何もできないし、最高に面白い
ねぇ、いっくん、今日はもう疲れたでしょ?荷物も持ったし、私に従ったし、ほんとよく頑張ったよね〜。でもさ、明日も同じことしてもらうから覚悟しててね。逃げたって無駄だよ?だってあんた、私の下僕なんだから。ふふっ、もう顔赤くして必死になってるの見るの、楽しみすぎ〜。」
家に帰る途中、頭の中で何度も繰り返される美咲の声今日も聞き飽きた言葉だ。体は疲れ切っているのに、心は休まらない。
玄関を開けると、いつも通りの静けさがあった。だが、親父の険しい顔がその空気を一変させる。
「……今日、美咲が交通事故にあったらしいぞ」
♢♢♢
遅くなってすみません!!




