第2話
頭が痛い。目の前がゆがんで、世界が薄い膜越しに見えるみたいだ。
ふらふらと歩きながら、また今日も美咲たちの荷物を持っている――それが僕の役割になってしまっていた。
断ったら怒るだろう。別れを口にされるかもしれない。だから、断れない。
肩に食い込む中学のバックの重みが、胸の重さと同じくらい現実的にのしかかる。
周りの声が遠ざかり、ただ自分の呼吸と靴底が地面を叩く音だけが鮮明になる。
頭の中にはいつものループが回っていた。親父の怒号、殴られるときの鈍い音、美咲の笑顔、秋山くんの歓声――どれもが交錯して、整理のつかない重さを作る。
でも、ふと、喉の奥で小さな声がひっそりと鳴る。
「チョコレート1個、幸せ1個」
美咲と約束した魔法の言葉。
心の中でそっと唱えると、少しだけ安心できる気がした。
「何ブツブツ言ってんの、気持ち悪い」
僕の少し前を歩いていた千夏が、眉をひそめて声をかける。
「なんだ、呪いの言葉か?」
「いっくん、やめてよ。一応私の彼氏なんだから、恥をかかせないで」
軽口に見えても、美咲は笑いながら僕を見ている。
「お前も早く別れればいいのによ」
「私もそう思う〜」
遠い、どんどんと遠くなる。美咲は変わっていた──違う、僕が、僕だけがあの時間に取り残されているんだ。
「また、辛気臭い顔してんな」
声の主は僕の唯一の友達、新塚だ。
筋肉質な体格に、親父はボディビルダー。新塚自身も中学生にしてかなりの筋肉を誇っている。同じクラスでよくこうして喋っている。
「お前も筋トレするか?筋トレいいぞ。スッキリするし、自分に自信もつく。そして何より――モテる!」
「で、彼女いたことは?」
「居ない、って何言わせてるんだよ。だいたいな、俺の彼女は筋肉だ。今は大胸筋と付き合ってる。こないだまで間はふくらはぎちゃんと付き合ってたけどな」
彼は、筋肉の“彼女”の頭を愛でるようにすりすりと触る。その様子は、なんというか……僕には一生理解できそうにない感覚だった。
でも新塚の目は真剣で、声には熱がある。
「お前もやればわかるって!筋トレってのはさ、ただの運動じゃねぇ、自分との戦いなんだ!」
「筋トレか……やってみよかな……」
そんなことを考えていると、朝のチャイムが教室に鳴り響く。
確かに、僕だって筋トレはしている。毎晩、親父に強制されているあの時間――スパーリングも筋トレも、逃げ場のない戦いだった。
でも、僕の身体を誰にも見せられない理由がある。
腕も脚も、背中も、痣だらけだ。
親父の手が残した傷跡は、筋肉の上にも皮膚の下にも刻まれていて、笑顔でいるときも心の奥ではひりつく。
あっという間に放課後がやってきた。
「あんたさ、また成績落としたの?」
「ごめん……」
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん!口癖なの?謝られてると本当ウザイ。そもそもさ、だいたいなんであんたは変わったんだよ」
ぎゅっと拳を握った。
変わったのは、お前だ。
昔の美咲なら、こんな風に責めたりしなかった。
二人で笑いながら、本の話やくだらないことで盛り上がっていたあの頃――あの時間は、もう戻らないのだろうか。
「ごめん……」
「だからそれよ、はぁ〜ムカつく。あんたも宗介君みたいな人ならいいのに。あの人はサッカー全国大会出て、学年トップの成績。それに比べて……はぁ〜」
言葉が、僕の胸に重くのしかかる。
蓄積される、ストレス。
ムカつく、ムカつく……。
だったら、あいつと付き合えばいいだろ。
僕なんか振ればいいだろ。
拳を握る手に力が入る。
「何よ、その目、やる気?」
美咲は僕の心情に気付いたのか、くすりと笑った。
本当に……こいつは、僕のことを弱いとしか思ってないのだろう。どうせ勝てるから、余裕でからかっている――そんな顔をして。
僕は拳を握りしめたまま、視線を逸らせない。
悔しさと苛立ちが入り混じり、胸の奥でぐつぐつと煮えたぎる。
「私、これから千夏と宗介くんサッカー見に行くから。あんたも来てね、荷物持ちよろぴく」
あぁ、もう限界だ。
ずっと我慢してきた、僕なりに耐えてきた。
もう、いいだろう……。
胸の奥で何かが音を立てて崩れる。
もうこれ以上、笑顔の裏で自分を押し殺す必要はない。
「行かない……」
♢♢♢
すみません投稿遅れてしまいました!




